大室佑介入門 「蒲生氏郷の故郷、日野町篇」 2025年5月16日午後 作成:佐藤敏宏

蒲生氏郷(がもううじさと)の故郷日野町をめざす

荒神山を下りながら、「日野町に行きたいので寄ってほしい・・・」と大室佑介さんにお願いした。大室さんは、「日野町をテーマに学生と設計課題に取り組んでいるんです」、とほほ笑みながら答えてくれました。幸運にも大室さんは以前から日野町に関心をよせ、学びながら、敷地を定め、学生に課題をあたえ、調査や討議を繰り返していたようで日野町を熟知していたようです。

福島市にある家を発つときは、「会津若松の城下・都市構造を造った蒲生氏郷の故郷をたずね空気を吸うだけでもいい・・・」、と考えていたので大室さんの言葉はおおいに嬉しかった。学生さんとワイワイしていた町が日野町だなんて!運がいい。日野町に関心を持たない人に、自宅から遠く離れた場所へ寄り道させたのでは悪い、と想っていたので、その心配は無用になった。

福島市内の奥州道であるメイン路は、敗戦後に物流が激変し続けたことで、小商いの店はほぼ蒸発しました。近世末期からあった奥州道沿いの商店街に人の姿を見るのは難しいのです。以前は「近江商人が町を興した」、と嫉妬をふくむ人の語りを多く聞くことができたので賑わいが消えた通りの現状は寂しい限りです。

日野町を訪ねその地に立ち、近江商人の資料館も体験し、現在の日野人と対話したい、・・と想っておりました。わずか1時間ほど寄り道で日野町を歩き尽くすことはできませんけれど、日野町の2人のかたと対話がかないました。日野町民の肉声を受け止める貴重な体験でした。

津市白山町にある、大室さんの自宅に遅くならず辿り着かなければいけないので、日野町をノンビリ漫遊している時間はなく、そわそわし落ち着きませんでした。しかし大室さんの案内は的確で私的に重要な場所を絞り漫遊することができ、幸運でした。

会津若松にある日野町)

福島県内では歴史愛好家をのぞくと、蒲生氏郷はさほと有名ではなく、彼に関する情報も県内の図書館や県立博物館でしか観ることができません。氏郷を知るため日野町を体験し、会津若松市内にあるはずの日野町の現在を、歩き報告したいと思うようになりました。
調べると会津若松市
日野町は甲賀町と名前をかえ現存しています。甲賀町から鶴ヶ城めざし、郭内に入るための城門の石垣が唯一のこっています。遺跡があるのは蒲生氏郷の念力でしょうか、幸運なことです。


 東西にながい町日野町 (看板・日野観光マップ中央部撮影)


 東海道53次(国道1号)と日野町






蒲生氏郷の史料

谷徹也編著『蒲生氏郷(2021年刊行)にざっと目をとおしておきます。滋賀県立安土城考古博物館の高木叙子さんは「・・・確かなことが調べれば調べると分からなくなるのだ。どうもだだ者ではなさそうだが、どこがただ者ではないのか明言できないから、不思議きわまりない(p52)。・・・結局は氏郷の人物像を考える鍵は、歴史が残した結果しかないというのも口惜しいことである。しかし本展を機に、脚色されていない、氏郷という人物をもう一度考えてもらえるようになれば嬉しいかぎりである(p60)。」と表明している。
この本で総論をのべた谷徹也さんも、氏郷の研究の課題と展望のなかで「氏郷や蒲生氏の研究は右に見たように、残存する一次資料がすくなく二次資料に頼る部分が多い。そのことが氏郷の重要性の高さに比べ、専論や研究が少ない現状をつくっているといえよう・・・(P25)」と著されている。

滋賀県・地元に暮らすプロの歴史研究家にとっても、氏郷があらわした一次史料の古文書は少ない、と確認できる。また筆者より400才ほど年は離れ、古い世を生きた氏郷の書状は少ないのだろう。原因は幼少期(2才)に織田(信長)の人質となり、元服後は信長とともに25年ほど、第一線で乱戦・戦国の世を戦にあけくれ、戦果をあげ勝者となったことで何度も移封(いほう)と称する国替えが氏郷自身にふりかかっている。とどめを刺すのは氏郷の最晩年に朝鮮出兵のため佐賀県の名護屋城に参戦し、病状が悪化し京都に戻り40才で亡くなっている。(毒殺の噂がながれたそうだ)

氏郷の和歌がのこされていて公園の碑に顕彰されている。氏郷の詠んだ歌にふれると文芸に秀で、筆まめな壮年・氏郷ではあったと思う。が、自身の活動記録を残すため専任の記録係を任命同伴し行動しなかった事で、後の研究者を混迷させてしまっている。氏郷は、記録をつくり保存継承させる意欲が弱い戦国武将だったとも言える。
だから後世の者は彼の実像に迫りたければ、まず術はない、と知り氏郷に関する書籍を手の取る場合も、その点に留意しすべきだろう。過剰な賞賛や過度な酷評は真に受けないようにし、注意深く史料を読み込んで語ることが肝心のようだ。このことは、古の者の語りだけではなく現在の人の語りも、同様な受け止めは要ると考える。

地形や街路は史料がなくっても、読み込むことは可能なので現場に立つことを推したい。次に日野町の地形などに移ろう。


2021年刊行『蒲生氏郷』表紙

参照: 『会津宰相 蒲生氏郷 会津中将 保科正之』(1993年刊行)P57に、『蒲生軍記』について記載がある。内容は明智光秀の叛乱にあい、安土城内の織田一族を日野城へ引移し救った様子などが書いてある。

■ 日野町の地形と城と街路

日野町に入り、大室さんに初めに案内されたのは近江日野商人館だった、受付で「蒲生氏郷の史料はありますか、と訪ねると「ありません」と館内から現れた女性がこたえたので、失礼した。次に近江日野商人ふるさと館・旧山中正吉邸に向かった。これまでの道中(日野商人街道)ぞいに何ヶ所も、外壁に縦格子などが設えてある窓にであうたびに、「これが建築系の人々に注目されている、桟敷窓です」と大室さんは注視するようにうながした。祭りの際に稚児行列や曳山をこの桟敷席から眺めるのだろうと桟敷窓をさがしていた。東西に伸びた日野商人街道そのものが蛇行する様には注意を払わずに、旧・日野正吉邸の駐車場に着いてしまった。

蒲生氏郷の祖先が築いた日野町の骨格は、日野の地形を防御の手法とし活用している。東西に流れる出雲川日野川を防御用掘りとし、東西の大地に城と町を構えていた。中世の山城から平山城そして平城へいたる中間の構造もことが日野町街路の特徴のようだ。京都方面の武人たちにだろうが、彼らから攻撃された場合、見通しが利き難くすることで攻撃もしやすくなるので緩やかに蛇行させたり 行き止まりだったり、かぎ型やT型の行き止まり路を、城下町造りに採用している。
この日は街路のそれらを散策し確かめる、その時間はなかったので、下のweb地図を眺めた。現在は国道477号線を日野町の北につくり、古い町並みを解体せず車社会の襲来に対応したことが分かる。

蒲生氏郷は故郷日野の「城と街路のありかた」を原型とし、松坂城は扇型発展させ、ひらがなの「く」のように街路が折れ曲がりつつ町は城の足元を囲んでいる。平城の完成形としては、会津若松の場合は鶴ヶ城を中心におき同心円状に町づくりを完成させる。町は士族だけではなく商人や職人などのために、城下の特定の地を彼らに割り当て集め、商業や工業を一層大きく発展させる。日野町の反映した点は商売だけではなく文化的な祭り、能、茶の湯や和歌なども、各地に移植した武人でもある点も注目しておくのがよさそうだ。
3つの城に共通しているのは川を防御のための天然の要塞とし町づくりに活かしている点だ。


旧・山中正吉邸にて

旧・山中正吉邸に入館し、受付の御婦人に「蒲生氏郷に関する資料はないでしょうか」と訪ねると『ふるさと日野の歴史』(2016年、日野町発行)を差しだした。頁をめくるとオールカラーで充実した内容で、日野町の歴史について概観できる日野町入門書には最適な史料だと思った。「売ってもらえないか」と訪ねると、「住所氏名を記載していただければ差し上げます」と返事がきた。

佐藤と、大室さんは与えられた書式にそれらを記入し、159頁もある美しい本をいただいてしまった。強いてこの本の不足をあげれば、出典と著者名が抜け落ちていることだ。読後に関係史料を追うてがかりが記載されていな。これだけ予算をかけ刊行されたのだから、再版されるときには参考文献なども加えていただければ嬉しい。そうすることで一次資料を辿ることも可能となり、史料の価値として存在も大きくなると考える。日野町の方と関係者の方々にはそこまで気張っていただきたい、と要望しておこう。






 綿向神社から 日野川ダム断面図 国土地院サイトより




桟敷窓の様子 日野町HPより









 断面位置図

馬見岡綿向神社あたりの杜へ

大室さんと佐藤は旧中山正吉邸をでて、馬見岡綿向神社の杜を漫遊することにした。最初に出会うのは蒲生氏郷が会津移封になり、会津に若松を加え会津若松の地名が生まれる切っ掛けとなったと伝えられている、若松の森跡を観た。

中世期には合戦があればこの境内に武士たちにかぎらず日野の人々が集合したのであろう。現在も木々が鬱蒼として景観も地形もまま保存継承されているように思える。街路全体のややまがった配置構成や絵馬殿の額をながめても、この町の人々の知恵と文芸や信仰への意識の高さ、この地に生きる精神性が継承されているのは分かった。背筋を正しあたりの空気を吸い込むことにした。

駆け足ぎみに杜を抜け若松の松を再度確認。参道左手には曳山蔵があるのに気づいた。日野町の山車の特徴は曳山の上の意匠が毎年更新され工夫を凝らすことだそうだ。京都の祇園祭の影響下にあるのだろう、写真で観る限りでは曳山も絢爛豪華で、日野町の人々が日野に生きる誇りさえ感ずる造りになっている。

大室さんは、この場所を学生に課題として与えている。で町の地形を理解するために歩きだした。馬見岡綿向神社を背に日野商人街道のT字路を右折し、左手に落差10mほどの崖の突端まで案内してくれた。足元には水田が見える場所だ。そこから引き返し、参道の西側にある小川の付いた左右にうねった道を歩く。若松の森跡まで一周するように散策した。途中老人が庭先を掃いていたので、「この小川の水質はどうですか」、と聞くと、「生活排水が流れ込んで汚い・・」、と愛想をつかしたように、ぶっきらぼうに答え、庭掃きの手をとめなかった。
老人の家の東側には福島原発事故御、各地に雨後の筍のようにできた、太陽光発電パネルが並んでいた。古い町に愛想をつかし屋敷を太陽光発電会社に売り払ったのか、自身が太陽光発電会社の経営者になり替わったのかは分からない。日本列島は福島の原発事故後、太陽光パネルによって蚕食されつづけている、そのことを日野町でも確認することになった。福島市は景観を乱す、太陽光発電パネルがこれ以上並ばないように、と条例を成立させ防止しだした。





ひばり野公園にたつ蒲生氏郷像に会う

大室さんと佐藤は旧中山正吉邸の駐車場に戻った。日野商人街道を1kmほど戻り、蒲生氏郷像が立っている「ひばり野公園」に立ち寄った。大室さんはこの地の要所を的確に案内する人だと知った。

氏郷像は戦前、鉄不足のおり供出したので溶かされてしまったそうだ。二代目氏郷像が立ってた。鋳物の碑が埋め込まれていて、氏郷を簡潔に紹介している。2首の句は氏郷の心象を的確にあらわしていて、現在の者にも共感を誘うと思うので掲げておく。戦国の世にいきた享年40歳、氏郷の辞世の句

「限りあれば 吹かぬど花は散るものを 心短き春の山嵐

氏郷は会津若松に移封された直後、九戸氏を平定し、秀吉の天下統一への貢献を果たす。その後、秀吉は朝鮮半島へ兵を送り、ポルトガルやスペインの宣教師たちと中国植民地化を推し進める(参照:平川新著・『戦国大名と大航海時代』)。蒲生氏郷は席を温めるまもなく福島県会津若松から佐賀県の名護屋城の警護に就くことになった。毒殺説の噂も流れたほどの不可解な死をもって40才で人生を閉じた。

会津若松から佐賀県の名護屋城へでむくおり、(滋賀県)武佐の当たりから綿向山を望み詠んだ一句も、戦国武将の無念と根無し草てき武人の深層をあらわし、権力の座を得ても権力争いをし殺し合う者は不憫でもある。現在の人にも武人の背景を知れば、哀れみと感情だけ想像しても,、共感を理解できる句なので掲げておく。

「思いきや 人のゆくえぞ定めなき わがふる里を よそに見んとは





 ひばり野公園に立つ氏郷像

滋賀県日野町での滞在時間は1時間ほどであったが、氏郷が故郷とこころに刻む、日野町の文化の高さと民度の高さに触れることになっていた。大室さんに案内いただき移動活動することによってしか出会わない望外の幸せを得ることができた。

以下、参照として蒲生氏郷の城下町づくりの意識の変遷を知るために、日野町、松坂城と城下、鶴ヶ城と会津若松城下の町割りなどを粗くしめしておく。興味のある方は目を通していただければと思います。

 ようやく津市白山町の大室さんの家に向かうため大室さんの自家用車に乗った
 (つづく)


蒲生氏郷の城下町づくりに関し
(城に堀を巡らし町割りの中心にすえられるように変化する、そのことが分かる)


続いて、先にも少し紹介したが、谷徹也編著『蒲生氏郷』より「近世城下町の成立─蒲生氏郷の場合」、助野健太郎さんの章を手掛かりに氏郷が構想し造営した2つの城下町(松坂、会津若松)を概観しておきたい。

(松坂城と城下町) 

鉄砲伝来し(1543年)戦闘に使用される世に変わった。信長が長篠の合戦(1575年氏郷19才) で戦果をおさめたことは教科書にものっているできごとだ。

氏郷は5ヶ月ほどで松坂城(1588年氏郷32才)を竣工させた、(蒲生氏郷p150)とある。城は坂内川を背に 松坂町を取り囲むかのようにくの字型の街路が曲がり始めたことが分かる。日野町をつくり蒲生氏郷を慕い松坂に移転してきた町人をまとめて居住させたそうだ。氏郷を慕う日野町人たちは続々と移転し、町は衰退の一途をたどったことで、秀吉は日野の人心の安定に努めなければならなかった、そうだ。(『蒲生氏郷』 P148)







『蒲生氏郷』P104
この図は『伊勢国松坂古城之図─正保城絵図』を元にし作成したとある
氏郷が松坂に入ってから200年後になってできたものだそうだ。松坂の町は9に分かれていて、殿町、本町、中町、日野町、湊町、新町、魚町、町廻

左は上図の地名をweb地図に佐藤が落としたものである日野町はうねり道だけれど、東西に平行に町が並んでいるが 松坂城に至ると城を中心にくの字型に変形し街路が並んでいることが分かる。鉄砲が戦場で使われることに伴い宣教師などのアドバイスがあったのだろうか。・・・それを調査していないので課題とする。

■ 会津移封と町割り図

天下統一をめざす秀吉は最後の仕上げとし伊達政宗を抑えつつ東北の要衝会津を定め、蒲生氏郷を会津に移封(いほう)した。(1590年氏郷35才)世に言う奥州仕置の結果。

氏郷は黒川(現会津)の地を故郷にある若松の森に因み地名を若松とあらためる。(現在も会津若松)「それまでは城郭も小さく、土着民との雑居し小規模だったが、1592年6月から城郭改修と城下町の整備を志し、曽根内匠等に命じ城郭を築き、天守閣を建て、櫓、多門、馬出などを設けて近世的城郭を整えると同時に、城郭も郭内もある馬場町、西の諸町を郭外に移して、その跡を武家町となし、日野町(後に甲賀町と改名)より東の町々を拡張して町人町とする等、城下町の一大拡張をおこなった(蒲生氏郷P150)。」


 『会津宰相・蒲生氏郷 会津中将 保科正之』付図文字と色彩を加えた


 現在の会津若松市web地図に日野町辺りをしめしておく。

氏郷が会津若松に1592年発した掟。

1,郭内町割り左の如く定め候事
1,郭内大通は東西三里、南北二里の十字街となすべき事
1,便宜次第小路々々を設ける事
1,郭の四方は豪を深くし、塁を高くし要所々々には城戸を建てて警戒の武士を置く事
1,売買諸商人並に諸蔵職人は町々を分かちて棟を列ね、侍屋敷と混雑すべからざる事
1,町外に宿を列ねて
遊女屋を置く事
1,魚塩交易の利を通ずるため、左の日割り町割りにより
市場を開くべき事

正月10日 年始の市
 18の日 馬場町
 27の日 本郷町
 3々の日 三日町
 49の日 桂林寺町
 50の日 大町
 6々の日 六日町
右のごとく終年1日も間断あるべからざる事
 文禄元年6月

このえは会津若松市 PDFより 採取し手を加えた。日野町は黒■の中の丸ベージュあたりだそうだ

蒲生氏郷は会津若松に移りきても日野の町民を一所に居住させ、日野町と名付ける(後に甲賀町にかわる)。なかでも氏郷に従って松坂に来ていた日野の漆工たちは、そこで松坂塗の起源を開いていたが、会津若松に移ってからも、会津塗の名声を天下に馳せ、いわゆる会津椀は若松の名産として需要大いに開けたという。(『蒲生氏郷』P157〜8)
なお、若松においても城下町の最北端に特殊部落を置いて、革細工をなさしめたことは、日野・松坂と共通する。(註)『新篇会津風土記』によると、この地域は町分と呼ばれ、穢多町というはつきりした名称が附けられていた(・・・会津、と駿府仙台とを除いて他にはない)


夫婦椀の絵は佐藤が使用している会津塗の椀だ。軽い、断熱性が高い、耐久性も高いなど、400年ほどの長きにわたり名産品として存在するのが分かる椀です。

滋賀県日野町刊行『ふるさと日野の歴史』、86頁には商いの基礎を築いた「日野椀」と「日野合薬」とあり、「日野で室町期から生産された日野椀は、1615〜24年頃から、日野商人が他国へ持ち下るようになりました。安価で使い勝手のよかった日野椀は大変売れ行きがよく、日野商人の主力商品となるとともに、1650年ごろには日野の特産品として広く知られるようになりました。」とある。

我が家の暮らしの中にあり食卓に欠かさず使用している会津椀、発祥の地が日野町だと知ることになった。ここに至ると、大室さんに案内いたただくことで効率のたいへんよい日野町漫遊だった、としみじみ思う。福島市の我が家の食卓と遠く離れた日野町の名産品・日野椀は繋がっている。そのことを知ったのは望外の喜びとなり、こつこつ活動することは未知を耕し発見することでもある、と教えられることになった。