民主主義 表現の自由 根本理念についての講義 2019年10月8日 曇り 作成 佐藤敏宏
 あいちトリエンナーレフォーラム2019年10月5日動画の一部よりメモ
 (註:聞き取りメモなので間違いがあると思われます。予め了承ください)
表現の自由の根本理念について憲法学の立場から

 憲法学の考え方 芸術の自由や美術館のありかたについておおきな話

■歴史を振り返ってみる 憲法で保障される様々な人権の中でもっとも古典的で重要なものの一つ
・1776年アメリカで作成された世界で最初の近代的な人権宣言だとされているヴァージニア権利章典は表現の自由は有力なるもの、制限するものは専制的政府と言わなければならない。
1789年フランス人権宣言 表現の自由を人の最も貴重な権利の一つだと言ってる。欧米近代の思想の歴史のなかで格別の重要性をもつものと考えられてきた。
・1946年に制定された日本国憲法も「一切の表現の自由はこれを保障する」としていて上記の欧米の流れをふまえたものである。日本では戦前表現の自由が厳しく弾圧された苦い経験を持っており、その反省を踏まえて単に表現の自由を保障すると宣言しただけではなく、加えて検閲を禁止することも明示的に定めている。



なぜ表現の自由は重要なのか

ヨーロッパ人権条約
 表現の自由の重要性を裏付けるには様々なものがある。表現の自由の根本理念で重要なこととして、ヨーロッパ人権裁判所の判決を紹介する。

 ヨーロッパ人権裁判所はヨーロッパ人権条約という条約を加盟国が守っているかどうかを監視する裁判所です。日本ではあまり知られていません。ヨーロッパ人権条約はヨーロッパ諸国だけではなく、ロシアやトルコなど周辺諸国も加入する非常に重要な条約です。

 ヨーロッパ人権裁判所が1976年に下した有名な判決の一節。
表現の自由は民主的社会の本質的基礎であり、社会の発展およびすべての人間の発達のための基本的条件である
 表現の自由は好意的に受け止められたり、あるいは害をもたらさない、またはどうでもよい事と見なされる情報や思想だけではなく、国家や一部の人々を傷つけたり、驚かせたり、または混乱させたりするようなものも保障される
 ヨーロッパ人権裁判所によって示された、このような考え方は日本を始めとするほかの民主主義国にも同様に当てはまるものです。今の引用についての説明する
 表現の自由は民主的社会の本質的基礎である点について

 表現の自由と民主主義との関係は様々に語ることができるが、2つの事

1)社会をよりよくするための政策論議には不都合な真実も含めて率直な議論が必要である。
 10月1日から消費税の税率があがりましたが、これ以上に税率を上げる事が必要なのかどうなのか、いずれまた議論になるはずです。もちろん「税率が低い方がいい」という考え方が強いので、メディアでもそのような意見が多く紹介されます。しかし「そのままでよいのか」「税率を上げない事によって何か重大な問題が生じないか」という不都合な真実も国民は知る必要があり、そのような不人気な意見を含めて、あらゆる意見が議論されなければ、適切な政策決定は出来ないでしょう。

2)2点目は権力監視のための表現の自由は不可欠であるということ
 権力は必ず腐敗するという言葉があります。民主的な選挙で選ばれた政権と言えども例外ではありません。権力監視のために特に期待されるのが報道機関です。先に紹介したヨーロッパ人権裁判所も「報道機関は民主的社会の番犬として重要な役割を果たす」ということを繰り返し述べています。
 日本の最高裁も報道の自由は憲法が標榜する民主主義社会の基盤をなすものとして、表現の自由を保障する憲法21条においても枢要な地位を占めるものであると述べております。表現の自由のなかでも報道の自由が重要だとしています。 
 現在の日本では報道機関に対する信頼が低下している印象を受けますが「これは民主主義にとって非常に懸念すべき状況」と言わなければなりません

 以上表現の自由と民主主義との関係について述べてきた。開かれた政策論議のためには、あらゆる意見が認められなければならない。権力監視のためには表現の自由、とりわけ報道の自由が重要だということ。



■ 表現の自由は全ての人間の発達のための基本的条件である
 
次に先ほどのヨーロッパ人権裁判所の判決に言うところでは表現の自由は全ての人間の発達のための基本的条件であるということについて

 表現の自由は他の人権と同様に、人がそれ人らしく生きていくために不可欠な自由です。人は誰しも社会に向けて訴えたいこと、発信したいことが有るはず。特に社会に多数派の常識と異なる考え方を持つ人々はそのように思うと考えられる。しかしこのような少数派の人々は多数派の同調圧力に晒されて、生き辛さを抱えがちで、その表現の自由を尊重する姿勢はとりわけ高い

 例えば50年前の女性の置かれた状況を考えてみてください。今よりもはるかに男性中心的な社会の中で、たとえ大学に行くことが出来ても卒業後は男性の補助的な仕事しか無く、結婚すれば当然のように退職して専業主婦になるという、ライフコースしか無かったわけです。そうした中で、より自立的な生き方を求める女性たちは、社会に向かって発言する切実な要求を持っていたわけで、それは表現の自由として保障されなければなりません。
 こうしたことは社会の多様性を尊重する事にもつながります。また発信された表現に接した人々にとっても、考え視野を広げる切っ掛けとなる、こうした表現の受け手の権利は「知る権利」と呼ばれこれも表現の一部として保障されます。

■ 表現の自由は社会の発展のための基本的な条件だ

 第三に表現の自由は社会の発展のための基本的な条件だ。これは今あげた女性の地位に例からも分かります。少数派であったり自立を求める女性たちの声が最初は当時の常識に反する。そして非難を浴びた事でしょうが、徐々に多くの人々の賛同を得て、少しずつ女性の生き方の多様性を認めるようになって来ています。日本では多くの課題が残っていますが「50年前と比較すれば社会は大きく変わった」と言えるのではないか。表現の自由には人々を説得し社会を動かす力が有るのです。その時々の常識に反するからと言って、少数派の人々から発言の場を奪うのは誤りです

■ どのような表現までが許容されるか

 最後に、表現の自由は好意的に受け止められたり、あるいは害をもたらさない、または、どうでもよいことと見なされる情報や思想だけではなく、国家や一部の人々を傷つけるたり、驚かせたり、または混乱させたりするようなものも保障されるという、先ほどのヨーロッパ人権裁判所の部分です。

 これはこれまでの三つとは違い、表現の自由はなぜ重要かとう議論ではなく、「どのような表現までが許容されるか」という問題についての指摘です。

 これまでの話にも出てきたように、社会の「少数派による表現には多数の定説に真っ向から反する」という意味でショックを与えるようなものがあります。先ほど来言及して来た女性の地位の例で言えば、女性の自立の一環として女性の性的な自由を求める主張は、当時の多数派が持っていた女性の定説(貞操)を重視する道徳感と正面から衝突し、大変な批難を招きました。しかし、このようなショッキングな意見であっても、表現の自由として保障されなければならない。というのが今、紹介した判決が示すところで、日本でもこうした考え方がとられるべきでしょう。

 もちろん表現の自由と言っても限界はあるわけで、例えば名誉やプライバシーといった特定個人の権利を侵害するようなものや、子どもの性的搾取の一環である児童ポルノの製造や流通といったものは、表現の自由を上回る価値があるとものとして、法律によって禁止されることが許されます。しかし「多数派の道徳観や常識に反する」という意味で、ショックを与えるという程度で表現の自由を制限することは、表現の自由の根本理念に反することだ、と言わざるを得ない。

 以上表現の自由の根本的な話で、表現の自由は民主主義社会にとって不可欠であり、個人の人格の発展や社会の発展のための基本的条件になるが故に最大限の保障を必要とする





〔集会、結社及び表現の自由と通信秘密の保護〕
憲法21条
 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。


表現の自由とは何か
(大石泰彦先生 『エンサイクロペディア現代ジャーナリズム』 p210より メモ

・不特定多数に対する情報伝達。日本においては「集会、結社及び言論、出版そのた一切の表現の自由は、これを保障する」憲法21条一項がこの自由を承認している

 18世紀のこと
・1776年〜 米国諸州権利宣言
・1791年 合衆国憲法第一修正
・1789年 フランス人権宣言

 人権というものは本来、「人がただ人間であることのみを理由として有する権利」

 表現の自由は他の人権よりも高い地位を認めるべきである 「優越的地位の理論」が主張されている

■表現の自由の規制手法
・事前抑制禁止法理(問題ある表現物に対して規制、具体的に禁止する方式)気密性、推定性などの点において危険な規制方法
・事後制裁(世の中に出回ってから公表した者に何らかの制裁を加える)


表現の自由の内容

 日本において、表現の自由の名の下に保障される諸権利はその性質上次の3つに分類することができる

第一 「表現行為の自由
 書く自由 話す自由、書く話す行為が不特定者を対象にするものでなければならない、すなわちマスコミュニケーションでなければならない
 表現の自由は名誉棄損、プライバシー侵害、性・暴力表現規制、差別的表現規制、広告規制、大衆行動表現規制などの形で制限を受ける

第二「知る自由
 不特定多数に向けて発信され、社会に流布している情報を聞く・見る・読む自由
一般人が広く行使することのできる自由である

第三「知る権利
 一般の人に未だ明らかにされていない公共的な情報の公開を、そうした情報を保有する者(組織)に対して要求しうる請求的な権利。一つは情報公開制度
 もう一つは、知る権利の実現に不可欠なのが、マス・メディアの「取材・報道の自由

(博多駅TVフイルム提出命令事件:参照)

表現の自由の現在 (2013年4月)

新しいコミュニケーションの手段
既存メディアの産業的な行き詰まり
大災害の発生・予測
これらによって表現の自由も変容、再考の時期を迎えているように思われる

・重要な論点
インターネットで展開されている様々な形式でのコミュニケーション活動を表現の中にどう位置付け、どのような自由を保障をおこなっていくのか

1)インターネットの情報伝達が広く「表現行為」と認定される方向に進むのか否か明らかでない

2)ビラ配布、ビラ貼り付け、集会、デモ、路上パフォーマンスといったいわゆる大衆表現活動の再評価と復権
 戦争・紛争・政治弾圧がやまない国際情勢、貧富の差の拡大、大規模な原発事故の発生。それに加えて、メディアの権力批判力、および少数意見を汲み上げる力の衰弱と顕在化

 
といった状況下で大衆表現活動が活発化しているなか、大衆表現活動の自由全般がどのように保障され、規制されていくことになるのか






■ 表現の自由における今日的課題

今日的にどういうことが表現の自由の問題に、なっているのか。

(権力サイドは機会をじわじわと、奪っていく)

 表現の自由は、少数者とか社会に対して嫌われているような表現、物議を醸すような表現、「そういったものであっても守っていくのが重要だ」という話でした。

 「守っていく」というのは一体どういう意味なのか。
 通常表現の自由が想定しているのは「あの表現をした奴はけしからんから、逮捕しろ」であるとか「政権批判をするような奴は、牢屋にぶち込め」そういった事態を念頭において、表現の自由は考えられ、自由な意見を述べることが出来る。そういう状況をつくりだそう、これが表現の自由の伝統的な理解なわけです。
 しかし、(政府・権力者などが)それをやっては憲法違反になりますし、そんな事をやったらどこまで叩かれるか想像できます。ですから、そんな事をやる事は基本的には今は無いです。
 となると、どういう形で表現の自由に対して、国家は関与して来るかと言うと、まさに今回の展示、不自由展という名前がいみじくも示していますけれども、そういった形の関与になってくる。
 つまり場所を貸さない援助をしない、サポートいう意味での後援をしない、というようなかたちで、不人気な表現が世の中に流通する機会を、じわじわと奪っていく、狭めていく。
 そういったかたちで関与してくる。これが現代型の表現の自由の問題です

 「現代型」といいましたが、昔からこういうことはあったわけです。それに対して、どうやって表現の自由は闘っていくのか、これは表現の自由の教科書などを見ると、だいたい触れられています。

 例えば、道路。国道であるとか、市道において、何で道路を使わせてデモ行進やらせなきゃいけないんですか。国の管理している所でしょう、地方自治体が管理している所なのに、何で貸さなきゃいけないんですか。貸してあげる代わりに、こういうことを言っては駄目だ。貸す代わりに、俺たちの都合の好い事だけ言いなさい。これが許されるか、これは許されない。
 何故かというと、アメリカの判例があります。管理権の問題だと。貸す貸さないは俺たちの自由なんだから、貸すに当たって、どういう条件を付けようが「それは勝手でしょう」という時代があった。しかしそれでは表現の自由は実質的に守られない。そこで本来、「道路というのは国民が表現活動のために使って来た場所なんだ」と。これを難しい言い方をするとパブリック・フォーラムという言い方をします。「道路は公的な場所なんだ」と。だから、道路そういう所での表現活動とは、いくら国や自治体が管理権を有している場所であっても原則自由で、認めなければいけない。
 道路とか公園とは違って文化施設を使った場合どうでしょうか。公民館であるとか、国立劇場でもいい。国や自治体が設置した貸会議室でもいい。「(そのような施設を)今の政権を批判する団体には貸さない」あるいは「現・県政を批判する輩には使わせない」。これも許されない、と考えられる。

 何故か、施設の設置の目的は愛知県であるとか、国の立場を伝えるた、そのめの施設ではない。市民が表現をするための場所を与えているんだから、それは自由にやらせるべきなんだんと。
 言い方を変えますと、そもそもそういう施設を造る、造らないは判断できるけれども、一端造った施設であれば、やって良いこと、悪いことはでてきますよと。
 貸した以上は、基本的には自由に使わせなければいけない。あくまで危機管理上の理由であるとか。100人しか入らない施設に1000人の規模のイベントをやる。そういった場合は別です。原則として使わせなければいけない。

 そういう形で議論が積み重なねられ、判例が生まれて来ている。この間、進んでいる事態になります。

 芸術祭の場合

 芸術祭は国や自治体がお金を出してます。国や自治体にとって都合の悪い表現気に食わない表現に対して「そんなもの出すならお金を出さない」これは許されるでしょうか。

 演劇のイベントをやるのに、パフォーミングアートを、あるいは絵画の為に勝手に金を流用する、というような事があったら、「それはおかしいでしょう」と口を出すことは問題はない。
 口を出すことが全くいけないのではなく、「ある程度まで、どの分野とか、どのジャンルに、我々は補助金を出します。あるいは場所を貸します」というのはある程度までは納得がいく。
 しかし「内容が気に食わない」その理由で「場所を貸さない、補助金を撤回する」ということが許されるか、これが今(あいちトリエンナーレ)問われている問題になります。
 「憲法学ではどういう議論をしているか」と言うと、お金を出す以上口も出したくなる。でもそれを何とか食い留めるために、あいだに専門家専門機関を挟んで、その判断に委ねようと、いうことが言われて来た。

■ 構造が見えてにくくなっている
  プロが育っているのか、専門家は自立的な判断を出来るのか

 トリエンナーレの実行委員会でしょうか、その代表と知事が同じ、ということで政治判断なのか会の判断なのか中立的な判断なのか、見えにくくなっている。あいちトリエンナーレの構造上の問題はあります。基本的には「そこを、分離してやっていこう」というのが、今のところ議論されているような流れです。

 最後に、この議論の前提として、一点指摘しておきます。
 間に専門家を挟んで、そちらにお金を出すと。(行政・国)われわれはそこで展示された作品に賛成しているから、お金を出しているんじゃない、芸術のイベントに、お金をだしているんだと。
 「作品の良し悪しは、プロが決めた事なんだから、口は出しません」。こういうスタンスで臨むべきだと、そこで議論するわけなんです。が、問題は本当にプロが育っているか。(委託されたプロ者が)委縮せずに活動できる状態にあるのか
 専門家が日本においてどれだけ、公権力からの圧力なり、あるいは忖度を跳ね返して、自立的な判断をできるかどうか。これが今回の事態であった。


(下絵ネットより:2019年10月8日 市長展示再開に抗議の座り込み)



 五十嵐太郎先生の指摘
(Twitterより)