佐藤敏宏
 HOME  
2023年10月の日記          




10月31日  

家人の誕生日と放射線治療の完了祝いをかけて、my長男長女が集まって、呑み語る。長女と駅に出向き刺身、チョコケーキを買う。

■ FB投稿

家族5人猫1匹で家族会議+?みわいわい
放射線治療完成おしあいへしあい祝い(我が家は集まると、賑やかすぎて、毎度くたびれるのである俺老人)my長女ドイツから帰国に合わせてmy長男も駆けつけてくれたのでお正月仕様で呑む・・・と言っても些細な食い物。コロナ以前のような盛り上がりとなる。呑みすぎてシャッタ、ブレブレじゃないか。てんこ盛りのウニウニウニ 美味い。酒は長男持参の宮城さん日高見それにしても、いろいろ人生あるものだと。


10月30日 

my長女帰国したので、家人と3人で1日中駄弁って過ごす。刺身づきというか、ドイツに暮らしていて唯一生海産物は無いということで、連日刺身飯とする。たは駄弁る。

■FB投稿
魚屋で鮪を買い込み、手巻き寿司
帰国したら鮪で寿司と蕎麦を真っ先に食いたいとのこと・・・塩竃の市場まで買いに走らず、駅の魚屋ですます。電車賃で2柵買える。生マグロはさほど量なく養殖ものだけど美味い。年に一度の正月飯みたいになった。我が家は各自、大食いじゃないので、さほど量はいらない。。
・ドイツなどでも寿司ブームらしい。2つの戦争によって、暖房費と物価は高くなり、再エネや原発など議論、避難移民も医療現場には特にウクライナの人々が多くなり、議論活発となりイギリスも去りEUの中心はドイツになったので、意気盛んな空気が伝わる。二つの戦争が東に並んで発生しているので、当然のことだが食料需給率は日本は目を覆いたくなるほど外国に依存しているけれど、外交努力が見えないが、したたかな外交交渉と地位確保と、他国の人の知恵と新技術も活かしいつつ議論が沸騰してい、ように思える。休みはデモに参加する人々が多いとのこと。
・生蛸、味今一だったな・・蛸好き俺はずっと蛸の値が上がり質が落ちているは気になる





10月29日  
my長女ドイツより帰国したので握り寿司ワイワイを開いた。日本の刺身がたべられないのが寂しいだけで、他はほぼ満足の生活という。
夜。現況について語り合うことができた。

■FB投稿
my長女ドイツより18ヶ月ぶりに帰国(絵:チョコ土産、酒なし)
 放射線治療が完了し様子・見舞いにmy長女帰国。放射線科や泌尿器科専門医でもないが、医師なのでそれらのあらましと治療後の副作用などは細かく知っているので、俺が治療中医師に聞くことが出来ない疑問点などを具体的・詳細に教えてもらった。(このところ俺は夕方、怠くなる原因も分かった・・・なるほど)
 娘のドイツでの暮らしぶや知人との交流の豊かさと、かの国の人々の人情の噺なども聞いて、島国にそだった日本人気質とは違う外国人や隣人との関係の仕方を聞いて、中東、東欧やボードピープルも含め様々な国から難民、そして医療現場の医師や学生が暮らしているドイツ国において多様性を生きるその実態を知った気分になった。日本のいままでの閉鎖性を保ちつづけるのは今後むずしく、国際批判に遭うように想えた。
 専門職の話も実に豊な教えがある、ドイツで医療現場で新型コロナ治療に専念から開放され従来の現場と研究に専念できるようになり、定年まで働く権利が与えられたそうで、組織と医師、医療関係者と研究関係者の連携と困難、各国から押し寄せる医学の教育なども多様な能力と判断力と統率力が入り、医師のプロ性を身に付けていななければ務まらないのは当然なのだが、そこで日本人らしさを発揮し各人の手法を認められ現場での地位を確定し、定年まで働く権利を得ることの困難は、日本の医療現場で働く事態とはかなり違っているように思えた。日本医師たちの医術の平均レベルの高さも分って来るなど・・・。
 娘は自由診療(治療費の天井が無い)の場にこの数年所属しているので、患者も中東はじめ近隣諸国の富豪たちがやってくるし注文も多様な治療の現場での出来事も豊かで多様なのには、皆保険性の日本の病院の様子とはかなり違っているし、完全な男女平等同一賃金のなか、女性たちの男性への意見主張は日本人女性のそれとはまるで違って激烈で、男性も鍛えられ、誰もが認める平等な競争を勝ち抜いた、能力のある者しかボスにはなれないことが分る。教授に胡麻をすり小判サメ型の医師は振り落とされてしまう様子はプロたちの場所だな・・・という思いがシミジミする。日本に生きる女性はまだまだ気の毒だなと思うのだった。



■28日は終日わき目もふらず小林明日香さんの肉声記録作り。
























10月27日 いちじ晴れ

 居間の通気口が壊れてしまったので保修し始める。他はmy長女の頼まれ用事にて支所にいく。残りは全て文字起こし。

■ FB投稿
10年超ぶり「家族会議」開催準備中
自分の葬式をどうするか?その問題は生きている人にお願いするしかないので、死に至る前に会議を開いて相談してまとめておこう。で、市役所に行って資料を頂戴する。火葬費なのかな?5万円は国保だったかから支給される骨にはしてもらえるのだが誰が火葬場まで運ぶのか?俺は棺桶いるのか、要らんけどな。共同墓地の場所と費用を丁寧に教授いただく。
他人の葬式を主催したことがないので細部は分っていない。地域の葬式の世話もしたことがないので、家の周辺に葬式世話役がいるのか?それも知らない。で調べ始める。(葬儀屋丸投げなのかもしれんな)葬儀は生きている人々の問題なので、どうしてほしいなどという要望は何一つない俺。

・7月、大阪ワイワイしてたら、30代半ばの方が「生前葬」に興味があり、「老い呆け死」をテーマにした演劇をしている劇団の支援をされているとのこと、その劇団は主演男優が90才超男性あとのこと。東京などでも公演してる・・・と教えてもらった。
葬式演劇で鑑賞費用が木戸銭なわけだろうな、で何度も葬儀を演じるって、おもろよいアイディアだな。

・生前葬か、呼びつけるのも迷惑千万なきもするので、葬式も墓も無しでいいと家族に伝えておくためには家族会議を開くしかない。

・保育園の子供たちがぞろぞろ火の用心ととなえて通っていく秋すすむ




26日FB投稿 
ドットアーキテクツの方々の聞き取り肉声を文字化開始
俺と50才も離れたいるよ。なるほど若い人の悩みを知る機会でもあったし、遠く離れた関西建築界の一端を知った気分にもなっていいか?それは分からんけど。
7月4日大阪の家成俊勝さんの事務所をお借りして、森純平さん岡田栄造さんドットアーキテクツの皆さんと「建築あそび」三昧しちゃった。その日の肉声9時間ちょいの肉声が文字になりつつあり、面白い。今日から後半事務所の方々の肉声4時間を聞きはじめたが、端から腹を抱えて笑って文字起こし進まない。あの日のインターン生からはじめたがメンバー全員を聞き取ることになってい望外の出来事がおきたのだった。で東京から来ていただいた森さんに夕飯も差し上げられず、京都駅着の終電のぎりぎりに駆け足でやっとこさ・乗るありさまだった、そんなに喋ってどうするんや?・・おもろいので尽きないわけだ。



10月25日 のち崩れだして夕方から雨ふり

午前中家人と食材を買いにスーパーにいく。生きかえりはいい天気できもちよし。
午後、記録づくりする。

一部修正も連絡が入ったので修正した。残り4時間ほどの肉声を文字にする予定。来月末までに校正よう記録ができればよしとしよう。

10月24日 快晴のいい天気 

寝坊し体力確保につとめているので、かなり効いてきて元気になってきた気がする。
10時半から午後3時まで風呂のガムテープ剥がしをする。溶剤であたまがクラクラきみだ。気温さがっているのだが、揮発性が高いのかもしれない。

夕方から文字起こしをする、20分ほどの内容が文字に。

■今日のFB投稿
ガムテープ絵画@我が家風呂の壁のそれを剥がす
いい天気だ、近所の100円ショップで枝豆を買い、休憩のおやつは枝豆だ、美味い。
10年前家の周りに放射能沈着に怯え一心不乱に内壁をガムテープ貼りとなった。今日は天気がいいので風呂場のガムテープをはがしている。(俺の意見はそのまま、多数決で剥がし液を買ってきて俺がはがすことになった)






10月23日  吾妻小富士に初冠雪してるので、寒くなったのでセーターを着る

午前中、7月4日の家成、森、岡田さんとワイワイ記録に絵を付ける。
午後、DIYに行って建材、ガムテ^プ剥がし液、などを買う。風呂に貼り付けてあるガムテープを剥がし液を塗りはがしてみた、少し接着剤が残るが、紙は取れる。

夕方午前中の記録をつくり、チャック用に配信する。

■ FB投稿

7月4日9時間ワイワイ記録こつこつつくり始める。
家成俊勝さん、森純平さん岡田栄造さん、ドットアーキテクツ所員の方々と9時間ワイワイ記録。投稿絵は2008年ドットアーキテクツ開所とうじの3人と「NO.00」の模型を手に記念写真。
独立から15年経ってギャラ間で展覧会、済、本を一冊刊行、さらに、外国のベネチアビエンナーレにも参加したぞうだ・・・などアート支援も実建築もするする集団となっている。関西圏、大阪らしいと思うが、独自スタイルで生きつづけているので、各地の若い方々は大いに参照すべきだでしょう(何を参照するのかは省略)老人の俺は推してます。「西の家成俊勝、東の森純平」を合流させワイワイ。分裂増殖して面白い記録になってきてかも(自画自賛)

日記間が空きすぎたのでFB拾って記録しておこう

10月22日
次男に支援してもらって、薪ストーブの煙突掃除をする、高所作業なので、梯子や脚立の設置と、それらの上り下りでへろへろ気味だった

■FB投稿


10月 21日 FBも投稿せず 記録をつくっていた。
今後は手描きメモだけでも残して置こう。







10月17日  天高く飛行機雲が行き交う日だった

事が終わるごとに寝ていた。午前中、食材を買出しに家人と近所のスーパーに行く、往復90分かかった。買出しはいい運動になる、秋から冬になると寒いので手袋や帽子など準備したほうがいい季節かも、まずは煙ストーブの突掃除からだな。


■FB投稿
猫にならい寝る・ネル・ねる
我が家には飼い猫4匹がくらしていて、かれら・かのじょの暮らしぶりに習って、寝てばかりいる秋晴れの一日
 先週末から放射線治療の副作用が現れ夜のトイレ回数が増えてしまった。それで疲れが一晩で抜けないのかもしれない眠れる。秋晴れで穏やか・・・ぽかぽかの空模様のため眠いのかも?・・・眠る、寝る、ネル、ねていた。
 高齢者に認定されてから我が身体は小さな部位から壊れだしている。目玉には人口瞳を詰め込んで、鼻腔は切り裂き削り取り、前立腺は放射線で焼く(?)など50年前ならとっくに廃人の役立たずであり、家族が持て余していたことだろう。でも今は、医療技術の進展は凄まじいものがあり、治療室にはモニターがたくさん並び、治療の部位を即座に可視化して患者と医師が見つめることができる。胃袋の中だろうが、肛門からカメラを突っ込んで大腸の中だろうが、鼻腔の内部だろうが、モニターに即座に現れる。モニターで俺体の内部を克明に見ながら治療が出来てしまう不思議さだ。
このまま医療・技術開発が進めば人も動物も身体に小さな検査機器が埋め込まれて、病に至るまえに「完全ケア」が行われるような気がする。だから人が死ぬことが叶わない世が来ちゃうだろうか?情報化によって、自分がキーボードや自撮り動画を発信し残している各デジタルデーターをAIが集めては、俺風な他者人々とコミュニメーションは可能になているだろう。身体は滅び朽ちても、肉声や言葉は生き続けることだろう、サイボーグに置き換わる、AI化した俺は人に迷惑をがられることだろう。猫を見て思うことだがAIの俺は言葉や肉声は持つことなく猫のような振る舞いをし続ける生き・・・物になっていればよろしいのだと。まだ人間の俺は思う秋晴れの黄昏時。

10月17日  すこし風があるも快晴

9月22日から始まった放射線治療、全20回終える。駅で寿司をかって昼飯として家人と二人で祝う。心配疲れがとれたような表情なので安心した。
トイレの間隔が短くなり、鈍感になっているようで、排尿もよおすと即トイレに行かないと漏れ出てしまうのではないかと気をやむ。夜も何度もトイレに立つのやいやなので、夜中まで起きてトイレ通いをするが、寝入ると2時間弱でトイレに目覚めてしまう。副作用だと聞かされていて、これも数週間で消えるとは言うことだが・・気長でのんびり暮らすことにしよう。

■FB投稿

my癌放射線照射治療全20回(計60グレイ)済んだ
同時に福島医大病院に公共交通機関に乗り、我が家から20往復の福島市を体験したことで、確認できたのは「俺は福島市という町の今を・・何もしらなんだな!という事だった。
 自分の体にある癌なのに見えない感じない俺の臓器がどうなっているのか?老人なので、壊れていくのだろうぐらいは分るけど、今後、癌様はどのように変化するのか?知識もないので心配のしようがない、対応のしようは医者任せしかない。ガンとはいえ福島産の地酒が飲めちゃう癌なで、いつものように酒は飲めるし何も起きていないだろう・・それさえ分からない。加えて自分の命は子供の時分より他人が亡くなって埋葬さいれるのを見ていたので、やがて俺も死ぬだろうと思うだけだ。死、その原因が何であれ、死に至るので気に病んでもしよがないことだ。
それよりは、たった20日間午前中を要しただけの病院通いなのだが、福島市は毎日違うのだった。岩代清水駅を乗り降りする飯坂線の乗客は毎日違う人々で、知った人はだれにも合わなかった。同様に医大までのバスに乗っても、医大病院に入場してからでも知り合いには会ことは無かった。竜宮城が我が家なら、城からでた瞬間に玉手箱を開けた白い煙にからまれてしまい目を開けたら見知らぬ人が暮らす福島しという台地だったと言う面持ちがした。
大村三良先生はmy中学校で歴史を教え、市史編纂などにかかわり福島の町に関する『ふくしまわが町』を1987年に刊行されているので、所蔵されている方も多いことだろう。大村先生の息子は俺と同じ学級ではなかったが同学年でひょろりとした印象の男だった。大村先生の家は市内のとある和菓子屋さんの前面道路を挟んだ南側にあり、木造2階建て土蔵1棟の屋敷があったので、和菓子を買いながら傷んでいく屋敷を見続けてはいたが、、近年解体されすっかり更地になってしまった。驚いた一因は福島市にとって貴重な知識を持つ先生の家がなくなってしまったのに、資料を助け出したという情報が福島市に暮らしている、歴史家たちから流れてこなかったことだ。大村三良先生は存在が福島市の記憶なので、先生の家族の皆さんにとっては大変失礼な考え方なのだが、福島市の記憶その一部が何の音沙汰もなくどこともなく消えて、ショックを受けたぜ。
紹介した大村先生の著書26頁には「福島城江戸口の図」がモノクロで紹介されている。元の絵はは文久3年大石源太郎さんが描いたもので、カラーである 。大石の絵は福島市の西部にある土湯温泉の方から流れ下りる荒川に簡素な橋が2つ架り、馬や人や、籠が入場している賑わい、背景には荒川が阿武隈川の流れとぶつかり、そのさらに奥に弁天山が雲から女性的に突きだして描かれている、日本人の抒情性をたっぷり効かせる福島を説明的に定着させたものである。この絵の実物を見たことがある人も福島市民なら多いことだろう。
医大病院へ20往復していると、その絵柄と目の前の旧4号線の絵が重なりとてもいい気分になることができる。弁天山は阿武隈山地の気を一気に福島盆地に突き刺したような地形をしているので、福島市のパワースポットの一つだと想って、バスが弁天山裾を通り抜ける度にいい形状だ、弁天様のお尻はいいお尻だな・・などと地球のエロスとして感じてしまうのだ。医大病院は福島市を代表するタナトスの場でもあるから、生と死が当たり前のように混在する通院上の現代のパワースポットとも言えるだろう。
医大のスタッフは駐車場のお爺さんたちと医師の一部は男性だが8割こえて女性だろう。受付と案内、多くの看護士、各種検査技師、各科の受付、全体の会計、売店の方々、病院内を掃除する人々、それらは全て女性だろう。そしてその女性たちは俺より当然40歳以上若いわけで、俺は竜宮城に紛れ込んだのではないか、?と想ってしまい、竜宮城地下街の様をていしている病院1階の迷路を彷徨うことも覚えた。
治療を終えて帰りに乗るバスから見える、スタッフたちの駐車場の無惨さや、食材を買う場所も満足に提供して無さそうに見える福島の医大都市は、治療最優先の目的合理が酷く歪められてしまってなる病んだ都市だと言っておこう。病院関係者とその生活がかなり犠牲にされた都市であることを学ぶこともできた。
医学生たちは福島市の豊かさを経験せず、医師として大学を卒業するのだろうが、人間が成長する時に田圃と山と溜池と駐車場しかみえない景観はある種の貧しさを若者にも押し付けて見えてしまう。だれだ医大都市の全体計画している奴は・・たぶん人として家庭生活も満足に営めない、パターナルな人々なのだろうと邪推してしまうのだ。
変わって、バスの運転手各位は男性がほとんどで女性の運転手には二人しか会うことがなかったけれど、彼らは日々医大と福島駅を往復し駅前の路面の粗雑や大仏橋を渡り終えたあたりの路面の悪さも熟知していて、悪路面を通過するたびに発する運転手たち肉声からは彼ら運転手の心、つまり福島交通の運転手社員教育 の現在も知ることが出来、そこから福島市という街の性格を推しはかることがでるようになった。
通院時に会う人人は俺は誰もしらなかった。当然、会話したこともなかった人々と行き交いならが福島を知るためになった通院も、生きる体験としてはたいへん面白い出来事の一つ一つなのだと思う。
治療していただいた関係者の皆さんに心より感謝申し上げます、そして、全て忘れてしまうことにします。お元気で活躍くださいませ!





10月16日 のち曇りがち

■放射線治療最終週となる、残り二回照射しに医大に行く。排尿時痛さましているように感じるのは気のせいかな、痛いのかな、間隔は日中は1時間、夜は水を飲まないようにしていても、2.5時間から4時間ほどでトイレ。

■治療から帰ってきて、森さん、家成さん、岡田先生の語り合い記録に絵をつけつづけて夜となる。

■FB投稿


放射線治療計57グレイ照射し明日でお仕舞の予定
放射線治療が効くのか?効果ありってなに?は専門の医師にお任せしてしまい調べる気にもならない。だが1ヶ月の間に医大へ飯坂線とバスを乗り継ぐこと18往復して、知らない町=福島市を自覚しつつ、そのほんの一部を観察し面白かった。(まだ終わってない)今日の岩代清水駅駅は放置自転車を福島交通の作業員4名が車に積んで運び出そうとしていた。「勝手に放置しているんだからもらってもいいですか?」と聞くと「関係するところから許可手続きを経て年に一度片付けている」との応答だった。岩代清水駅に誰がどのような事情で放置して、処分されてしまうのだろう?興味がそそられた。
福島駅発医大行きのバスは、秋祭りの飾りが取り外された、平和通りをすこし東に向けてすすむと、路線バスがメディアの記者などが、いいもの見つけた!!という格好で歩道に縁石に乗り上げていてバスをぐるぐりし・・・警察や牽引車やTVカメラマンなどがあつまって作業をしていた。
平凡な平和通りの縁石にはバスしか乗り上げていないので、原因は分からず、も・・休みの翌日、あそび疲れなのか?要注意を怠ったのか、よそ見運転してしまったのか、大型特殊免許をもっている運転手にしては、いただけない事態だろう。
治療を受けて通い続けていると少子高齢化の世を示すかのように老男女が多く行き交っているのだが、先週からは廊下の天井に頭がつくほどにデカイ外国人オヤジが子供を連れたて治療しにきている。健康保険は外国籍者は国同士が連携し有効になるよう国家間で協定書を交わしているのだろうが、俺は二割の負担金だが彼の負担割合はどうなっているのだろう?
治療を受け済まし、今日の帰路のバスは蓬莱団地を通過。バイパスを通り阿武隈川に架る橋二本を渡り福島駅に着く、途中で阿武隈川越しにバスの窓から市街を見ていると、福島市の町は元住人を追い出し続け、機能だけの建物の群れに作り替えてしまったと気づく。駅周辺を流動する過する人はそこそこいるのだろうが、駅傍や町中に住んで暮らしを営むんでいる人が居ない、追い出されてしまったような「町の顔」そういう表情をいかんなく散らしている街だと分る。
1968年、世界を吹き荒れた学生運動の荒波をうけて、政治家や管理者たちは土地ころがしに重ね臆病に対応し学生を福島市街から追い出した。その後、中心市街の人たちも地上げされ、例えば蓬莱団地に似たような郊外に移り住むことになったのだろう。そうして少しずつ町中に活気がなくなり、そこからどのような都市機能の一部を追加したところで、個性をもち暮らしやすく、魅力的で人が住ん生き続けられる中心市街地にはなりそうもない。今世紀の町は機能など不要なのでも、ビジネスのための建物だらけでにしていて、夜人が居なくなるように設計されて造られ続けたのだろう。敗戦後は平和通りという元空襲疎開空地や引揚者のための防火帯建築などを作りはしたが、その人たちでさえも町中から地上げ攻勢によって付け火もあったりして追い出されてしまった。このようなた街づくりの全体計画だれが主導したのか?知りたくもなる。(どこにでも星座型に建物を使いつつ住んできた俺には町のようなものは・・いるのか?今後も要らんな!と思うので引き籠りつつ暮せばいいので、過去の街づくり経過などは調べない)
 駅についてパン屋で昼飯用のパンをすこちかった。売り子のお姉さんがぼきげん斜めで手荒に扱うので、ここは俺の知らん街だと思うのであった。



10月15日 一雨ごとに冬に近づくような気温になりました。冬至まで日も短くなるので、この時期は毎年引き籠りがちになる。

昨夜は遅くまで起きていて、トイレの困難を解消しようと夜水もさほど飲まずいいて、2度しかトイレに立たなかった。排尿時の痛みむずさはすこし和らいでいるきがする、
明日と明後日放射線治療はお仕舞だ、毎日通うのはやはり拘束されているような気分がして、いけない。

■朝から森さん、家成さん、岡田先生とのワイワイ、記録を作り続けて、絵も少し付けた。
明日配信できそうなきがしてきた。

■15日は居間の奥まで陽射しが届き温かので布団を乾したりした。やはり陽射しがあると気持ちもはれるもんだ。













10月13日  いい秋晴れつづいている。昼もどり布団を乾す

午後 7月4日、家成、森、岡田さんとワイワイ記録に絵を付ける。

■今日のFB投稿

今週最後の放射線治療をうける。合計54グレイ照射となる。
今日も快晴の福島市のお天気で正午ごろは汗ばむ感じで、バスの運転手半袖一枚で運転していた。
朝の飯坂線は笹谷小学校の2年生が70人ほどだろうか?福島県立美術館を見学に行くとのことで3車輛は美術館図書館駅までは満席だった。子供達が降りた駅は単線の飯坂線が上り下りの車輛が行き交う数少ない駅であるから、下車した子供達はで南北に並んだ二つの車両に挟まれ鮨詰めなのだが、朝日に照らされ輝いていた。一つ前の岩代清水駅で俺は乗車したのだが、赤や白の運動帽子をかぶり、美術館の芝生で昼飯でもくうのだろうか背負ったバックは破裂しそうに膨らんでいる。子供がワイワイガヤガヤ電車に乗っているので若い気につつまれて、健康促進されたような想いだった。
岩代清水駅舎は見所満載なので待ち時間の間写真を撮りまくっているから、車掌に不審者だと思われている。あと2日で乗車しなくなるので許してもらいバシバシシャッターを切っている。岩代清水駅舎はとても興味深い駅舎だと、他の駅舎はほとんど知らずも確信してしまうのだ。100年ほどの時を経ずにはこの味は、生物的になって生き物のようなマテリアルのぶつかり合いはないのだ。駅傍からは吾妻小富士も一切経の裾から立ち上る噴煙も見えるし、信夫山の北面のほぼ全貌も見え愉快な駅だ。
■今日はあと残り二回照射となった放射線治療、いよいよ最終に近づいてきた。そこで、9月5日撮影のCT画像を見、粗雑な俺の前立腺や膀胱周りの断面を粗雑にスケッチしたので、それをみながら俺の放射治療の現況を様を少し記しておこう。
このスケッチは上がお腹で、下が治療台だ。赤く腫れあがっているかのような部位が前立腺で水色の部分が膀胱だ。大腸が診察台に載ると2つの臓器に潰されたような形状になり、それを背骨が受けとめ、尻の肉が治療台の間にクッション材となる。
放射線治療の機器については具体的に知らないのだが、治療は寝て行うので寝姿の前立腺を一回転するような形で弱い放射線を上下左右から当てながら膀胱には1日に3グレイ照射されるようだ。
56グレイもの放射線を浴び続けているので、前立腺と膀胱の出口や尿道周り、そして出したり閉じたりするための括約筋は少し被曝しているようで、昨夜から排尿すると熱いような痛いような・・・気持ち悪くてイキんで一気に出してしまいたい!という思いに襲われるのだが、被曝しているはずの括約筋の復元再生に悪影響を与えるので、いきむことなく排尿はたらたらと垂れ流れるに任せ気長に全てを放流するのが良さそうだ。無理に弱った括約筋をこき使うのは、やがてダダ洩れお爺さんに近づくのが早まるのではないかと想う。
■放射線治療の前準備は膀胱に尿を7〜80%蓄えて膀胱の無用な被曝を防止することと、前立腺の位置が動き不安定になり正確に放射線するため、直腸から大腸あたりにガスや糞を無くしておかなければ成らない。この辺りの泣き笑い話は後日に前立腺癌放射線体験記にまとめて記録しておくので、今日は省略。ここで書いた内容は誰にでも共通することではないので、個人差はあるから、ああ、そんなこともあるのか・・と忘れ、医師と看護婦の指導にまませればいいだけなのだ。余計なことを書いているようにも思うけど、俺の身体に何がおきているのか自分で知り記録するのは面白い。自身が生きていないとこのような記録は書けないので面白過ぎるし、それでようやく生ききている実感と証にもなってしまうように思う。














10月12日  快晴の秋晴れ

午前は医大病院にいき放射線治療をうける。残すところ3回となる。

■午後、森純平さんの生い立ちをきくWEB頁に絵をつけつづける。

■今日のFB投稿

放射線治療の残り3回の照射まで辿り着いた秋晴れの日
朝、いつもの時間に飯坂線に乗る。乗客は4人と少ない。高度成長期に東北電力福島支店の社員の乗客で混雑しただろう。それを示すように今となっては、岩代清水の長いプラットホームは電車が持て余している、黄色点字ブロックも福島駅を目指し逆光に輝くている。我が家の辺りには私の一世代上の東北電力社員方々の住宅、社宅、寮があちこちにあるから当時を想ってしまうのだ。我が家の周りの方々はこの10年間で亡くなってしまった人が多い。
プラットホーム民家越しに見える頂きは、信夫山の西に鎮座する修験者たちが肝試しに格好の場所であっただろう烏ヶ崎のシルエットはクックと美しいく一切経という峯と共振しているように思える。奥羽山脈にある吾妻小富士も美しい。小富士の北にそびえる一切経の麓からは火山性ガスの白い噴煙が立ち上っていて、山の本性を露わに見せている。登山者は硫化水素中毒死するので、浄土平あたりには立ち入らないのが安全ではないか?と飯坂線の車内から思った。
久しぶりの快晴につられたように蓬莱団地の入口付近にある幼稚園では園児たちは庭にとびだし日除けのついた帽子を被り走り回ってきゃーぎゃー遊んでいる。女装をして粋に歩くいているつもりの老人男性は見当らなかったが、学習センターからはバックを背負った老男女たち12名ほどが先導者に連れられ散策のためかバス路を横断していく。帰路に見えた福島警察前には小学生たちが先生に連れられて警察署見学のためだろうか、いつもはほどんど人の姿をみない警察署の入口が子供達で混雑していた活気づいているように見えた。子供の居る風景は老人には目の保養になる一つだ。
医大に着いて、あまりの天気良さに丘にのぼり、奥羽の山並みにも負けない程巨大な福島県立医大と病院群を数カットで撮る。
医大付近のバス路にある中央分離帯の欅も紅葉しはじめ、福島市街との高度差が2百メートルほどだろうが、ここは高いことをおしえてくれる。冬場の医大辺りは風除けの地形でではないので、空っ風も吹き抜け、酷く寒だろうと想像するのだが冬場に通院したことがないので冬の医大周辺の外気温がマイナス何度になるのかは分からない。
■福島交通バス路線は男性のみの運転手を雇っているのだろうと毎日思ってバスに揺られていたが、往復路どちらも女性の運転手だった。オヤジだけの会社じゃないんだと知った。彼女たちの一人は無口で案内はまったくしない、医大に着いてだれもブザーを推さないので「おりんのかい!?」という感じ、威勢よく苛立っていたことを伝えていた。復路の小太り女性運転手は、黒い帽子に黒チョッキとズボンを身にまとい、ヒールが5pほどの黒いスエード靴を履いていた。彼女は小さ肉声なのか?音量を絞ってしまっていたのか不明だが、ガタガタバスが揺れる音の方がデカく肉声マイク案内は用をなさなかった。
医大・放射線科は空いていて20分ほど前倒しでの治療だった。治療を終えて待合に戻ると患者は俺一人なのね!17回目に現れた珍しい待合の風景だった。自動会計機械の前も人が並んでいず、スムーズに終えたことで家から医大往復の最短時間を記録することになった。
■放射線の身体への影響は少し出きているようで前立腺癌が腫れているようのだろう排尿時にやや違和感が強くなって痛い感じがするようになった。意思は治療が終わると2週間ほどで元に戻るという言うのだが、残り三回の照射で癌様はどんな振る舞いをしてくれるのか、注視していよう。放射線治療泣き笑話はたくさん記録してきたのでいずれWEB記録も残しておきたい、そんな気がする放射線治療17回目。


10月11日  

■五十嵐太郎先生よりシラスでワイワイのお誘いがあり受ける。建築のシラス視聴者などいるのが不思議だ。学生さんがターゲット視聴者なのかな・・。老人が出ても観る人はすくないのではないか・・気に成った
■医大へ飯坂線9時2分にのり9時50分に着く 快晴 
■戻って午後1時家近くのスーパーに買出しに行く。道中いろいろ話していると風呂のガムテープ剥がしのことが話題になる。今月中に綺麗にしよう。

■FB投稿

放射線治療58グレイ照射済む!@福島県立医大病院
ぴんと立った俗称・乳首山(安達太良山)から家型山まで、奥羽の山々が快晴の下に姿を現し一望がかなう天気に恵まれて飯坂線の車窓から眺める。米沢よりには風車、少し南に太陽光発電所を設置するための禿山なども見え311以前の風景よりは山裾のそれはガタリと質が落ちてしまっている。政治となりふり構わず銭に走る人間がひそめて持つ欲望が現れただけだから驚きもしない。福島市から見えるスキー場の傷跡はスキ愛好者だったし温泉街の人々が生きくぬため冬場の客寄せ施設とはいえさほど美しいものではなかったように思う。(しぜんエネルギー施設って美しくないと思うのは正解を手に入れてないからだと推測中)紅葉しはじめた枝の間からぼんやり西山の蒼い山並みをを眺めいると福島駅に到着してしまう。
■福島駅は奥羽本線、東北本線、それらの新幹線路線、阿武隈急行線そして飯坂線路線が集まる特異地なので各線路の交差ぐあいが興味深い様を晒している。奥羽新幹線上り鉄路の着か替え工事が盛んにおこなわれている曾根田駅あたりまでふくめ毎日みていても見飽きないほど工事進捗の様とそこに関わる人々の姿は今しか見ることができないと自覚して観るといろいろな事に気付くし気になる。
■(飯坂線駅の土地は誰の者?)
今日は飯坂線の福島駅の土地は誰の所有物か?の物証を見つけて面白がってしまった。2024年3月31日まで福島交通(株)が借地しているのだった。駅舎には様々な文字や材料が溢れていて、それらを時代別に仕分けして年表をつくると飯坂線福島駅の歴史が立ち現れるし、6本ある路線位置と交差の様子を見ただけでもその時の人々の苦心の跡がそこかしこに現れていて、俺の苦労を見てくれよと迫って来るように思うのだ。
JR福島駅舎と飯坂線福島駅舎の施設と表示物などを比較して見ていると、飯坂線のそれらは乗客数と利益の少なさだけではなく、福島らしさがにじみ出てくるから面白い。詳細は差し障りがあるので記さないが、とにかく福島人がつくる構築物と施設管理の様生々しさを示している。それはローカルという言葉にあらわされてしまうのだろうが、そういう言葉で括れない面白さと質がそこかしこにある。めんどうだからローカル福島と記し置くが違い、それらを示すための必要な要素が緻密にありいたるところに観ることが出来て、日々うろちょろして所在の無き俺には大変参考になっている。いわゆるローカル臭質でも福島ならではの味をこうすると創り出せるというヒントがびっりし並べてあって感心しきりだ。 通院では通らないのだがJR駅舎の殺菌剤撒きちらし脱色している、消毒してしまうかのような内部のつまらなさとは比較にならないほどの濃さで、福島の駅舎を味わうことが可能な幸せがここにだけ在る。俺は毎日思って観ている楽しく過ごしている。来週早々で治療が終わり、通院時に出会う福島らしさの技の数々に触れることがなくなるのは寂しい気さえする。そうそう











10月10日 いまにも降りそう、だが光も刺したりする

通院の合間は7月4日の記録作り、絵を貼りつけつづけて、チェック用ができたので、連絡してみてもらう、反応はないかもしれない。


FB投稿

放射線治療15日目@福島県立医大病院
昨日の雨があがり全天秋晴れにならず分厚い綿の塊のような雲が方々に浮かんでいて、西に連なる奥羽の山々は唯一雲間から吾妻小富士のいただきのみが突き出していた。
飯坂線の岩代清水駅から通院時は同じ時刻の車輛に乗っているのだが毎日乗客は異なる。今朝の乗客は男性2人女性6人で、原宿辺りにはごちゃごししゃいるだろう化粧に時間と小遣いを投資しすぎていそうな若いコスプレ女性が、俺の次の改札を通った人間だった。
彼女の姿は全体は黒なのだが、足下から順に観ると、厚底の網紐ぐつ、ストッキングはスカートのすそまでの半分で左足の外側が金属にでも引っ掛けたのだろうか、破れてデンセンばらばら糸の間から素足と、やや気張って取り換えて乗車しないのが面白い、スカートは黒地に紫の大柄格子、フリル付きの上着やバックもキラキラ黒で統一されている。髪の毛は付け毛だろうが、右左長さ1m程のものを頭の両サイドに猫耳ふうのリボンと白いひらひらの紐で地毛に結んでありょうだ。黒いデコレーションケーキに長い髪を付けたような具合。極めつけは両手のマニュキアであるが色は黒をベースにキラキラタワーのようなデコレーションが全ての爪にくっ付けてあって、家事や部屋の掃除などには大変に邪魔になるだろうし、指1本仕上げるのに3〜5千円ぐらいかかっていそうで、そこは気合が入っているなと呆れ気味に見た。
隣に乗った人は白髪はないので、40才前後の小太りの男性。髪の毛をシャンプーしてないことが明らかに分かるような油髪だが、バックから写真を出して見せるかのように2ショットを拡げていた。チラ見できてしまうので見えたがアイドルとの2ショットのようだ(笑)握手券でも買って2ショットしたのだろうか?アイドル女に憧れたことが無い俺には電車で開いて2ショット写真を見せるようと思ったことがないので、男性の心持が理解できそうになかった。そんな時間があるなら風呂に入ってシャワーを毎日していれば人生は確実に変わると思うのはリアリスト過ぎる俺の余計な思いかもしれない。
■通院の往復路は同じ1980年代に造られたようなゴツイとしかいいようがない合理的一点張りのバイパス4車線だった。福島から伊達地方をひとくくりしたような「信達盆地」を囲むのは東は阿武隈山地でその最西の岬のような格好の場所に弁天山が突き出していいて、バイパスだろうが阿武隈川だろうが湾曲せざるを得ない地形の勝利を見てしまうのは面白い。信夫山の裏を地上げるため、新幹線を走らせるためにトンネル抜いた馬鹿と双璧な奴もいるんだけど・・・地形と人の歴史は切り離せず重ねてみると味わいが増す。
阿武隈山地の山間地で生まれ育った俺はここが俺の突端・先端だなと子供ながらに思った。子供の脚でも実家から歩いて2時間ほどで弁天山の頂きに立つことができるように思う。弁天山の西裾は那須山あたりから流れくだってくる阿武隈川と西にある奥羽の山々から流れ下る荒川が合流する土地で、阿武隈川は荒川の流れに押されまくり戸惑いながら少しくだると東へと蛇行する箇所でもある。バス停は神殿渡の停留場があるぐらい地球や地形の力が結集してしまい、弁天とか天神渡しとか神頼みし抑えようとした先人たちの想いがつたわってきくるし、東に拡がる渡利地区を阿武隈川と荒川の流れの大水が何度も台地を流していたことを想わせる。
阿武隈川には江戸期、この辺りに架る橋はなく渡し舟が行き来したのだろう。幼児の頃もうすこし下った辺りに渡し舟が運行していてので、乗ったことがある。ゆったりと流れる阿武隈川は川村瑞賢が改修して江戸に城米を運んだから渡し舟も快適に町の岸に着くのだった。
弁天山から少し北上すると味わいぶかく可愛らしいく見えてしまう松齢橋が架っている。福島市ができた初代二の宮市長が架けたリベット打ちの蒲鉾型のアーチ橋が見えてくる。高度成長期後半に架った大仏橋の影に隠れてはいる実に残念なことだ。大仏橋は優雅さがない単にデカイいだけであり、物を運ぶ道にしか見えなず橋梁を架けた人々の意気さがない。現在の視線でみるとだが、松齢橋は幅も狭くていかにも細やかではあるが、明治期の人々は以前には船をつないだ船橋を架け換えて、鉄骨リベット打ちという形も橋に対する人々よいとの想いで、まま熱い形状のまま残っていて福島の歴史を思うのは大変に生きた構築物だと思う。羽織袴姿で松齢橋を行き来した当時の人々の気が立ち上がっているようで、見るたびに熱い想像を掻き立て当時の人の思いが湧きあがる気がする橋の一つだ。金沢の犀川にも古い橋が残っているのを歩くと同じような想いになるし、隅田川の橋たちも同様な感慨になる。川を渡ることに熱情が持てなくなったのは高度成長期にできてしまった蓬莱団地どように何かがあの当時は欠けてしまっていたのだろうな・・・とバスに揺られながら想像するのも愉快なのだ。やり過ぎたことを増えすぎた人の数を100年掛けてもとに戻すのが今世紀なのだろう。

福島は秋祭りだというのに雨だったり曇りだったりしてお化け屋敷も出店も数年ぶりで出たらしいが観に行かず。

2日間こつこつ7月4日の記録作り

■FB投稿

森純平さん、家成俊勝さん岡田栄造先生、所員のみんさんとの記録作成中
資料に俺がスマフォで撮った、家成さんの2012年2月6日の一日の活動をを追ったYouTube動画を思い出したので観た。いろいろ思い出してしまう。動画記録もど素人なんだけど、素人ならではなのでオモロイと自賛する 
11年半前の家成さん! その後大学の先生に就任し多彩に活躍中し海外でも展覧会に参戦とのこと ギャラ間でも今年、展覧会がありました







10月07日  

■はやおのFBに関するFB開こうとしたら、ロシアのハッカーにPCが乗っ取られていると表示され、電話したまいくろソフトの研究員と名乗る男・外人が拙い日本語でセキュリティ契約を迫って1年契約で3万円、2年で 永久で5万円だから直ぐコンビニ現金あるいはアップルギフトカードを買ってすぐ支払いせよと言う。妖しいので切った。

FBの釣り投稿に引っかかってしまった。どうもあやしい。ロシアのハッカーがなぜ俺のような老人のPCに入り込むのか?単なる詐欺だろうとおもったので、少し電話し応じて5分ほどで切った。電話代が請求されるかもしれないが、それは仕方ないだろう。

■今日のFB投稿

この日の森純平さんとの肉声を文字にしている
2032年7月4日午後から夜中までドットアーキテクツの事務所にあつまった、家成俊勝さん森純平さん、岡田栄造さん、所員の加藤翼さん小林明日香さ、勝部涼亮さん、宮地啓子さん、土井亘さんの肉声による対話8時間超を文字化の内「森純平さんの肉声」
どうしてこのように多くの人々の肉声を同時に文字にする機会を得たのか?とても不思議な巡り合わせなのだ。人生やってみないと分からん。俺が超老人で、岡田・家成さんは油の乗った大人、他は1980年以降に生まれた若い建築系の人々一番若い加藤さんと俺は50才の歳のさがあるだろう。だがワイワイしてて面白くって時間が少なすぎたなと思う。
文字起こしの速度が遅くなってるが、気長に記録をつくりはじめてる。
■我が家に残された肉声「俺の家はお前の家」という建築あそびで得たもの。「お前の家は俺の家」という「ことば悦覧=他者の家や事務所など開いた「建築あそび」そこで得た肉声。その2種類の肉声は質が異なっている。
その日まで知らなかった人・人の肉声を文字に変換するような単純なことしかできない俺は目の前に現れたその方々の肉声を文字にし続けて四半世紀が経った。ほらを吹いてしまうとそのことで俺の知らなかった地球上のことを教えてもらっている。ダイアローグは色々に効く。人間の息が音声に聞こえるだけなので、文字化した記録は生き生きした場の空気の振動を何とかして他者に見せたり示したいと悪あがきなのかもしれない。だが人の気と気の交わりは奥深いし不思議なので興味が尽きない。

10月06日  風強し

倒木のため東北本線止まっていたようだ、夕方弱い地震もあり。
このところ家人が疲れているのだと思うが被害妄想のような話を真顔でするので、すこし心配である。ぐっすりよく寝る身体と脳の疲れが取れてしまえば回復するようなきもする。疲れをためないような工夫を何か考えよう。

■今週最後の放射線治療のため県立医大病院に行く。若い先生の診察を受ける。トイレが近くなった事、と出にくさを感じるようになったことを伝える。

■駅でフランスパンを買い昼飯にする。午後は森純平さんの肉声を文字にし続ける。長い語り合いだったので、気長に記録作るつもり。


■今日のFB

放射線治療総計42グレイ照射済む(さほど変わらぬトイレが近くなったぐらい)
福島駅前の通りには秋祭りの縄飾りがまわされ稲荷神社のお祭りが始まることをしらせている。幣束が強い風に吹き飛ばされず細い縄にしがみついていてかわいらしい。季節の変わり目気圧の激しい変化によって風が強いので心乱れる人も多い季節、平安であれと思うばかり。
■県立医大病院へ通院のため毎日乗り降りしている飯坂線の「岩代清水」について)
福島駅から飯坂線に乗り走りだすと曾根田駅、美術館図書館前駅、岩代清水駅で、3駅目の古い駅舎だが福島駅からは7分ほどしか時間は要しない。福島駅前に駐輪場が接続されていたときは自転車をこいで福島駅まで行っていた。で、飯坂線にはめったに乗らなかった。放射線治療を始めてから乗っている飯坂線とバス。「ノルカパス65」という高齢者に割り安で乗り放題月額6000円の券があるよ」と癌発見直後、友達から教えてもらっていたので、そのパスを買って福島交通の路線に乗っている。
で、我が家から徒歩10分弱の「岩代清水駅」毎日2度も見ているのだが、何処から見てもどこをみても実に味わい深い発見ができる駅なのだ。この駅舎を回り舞台に載せて回転させながら、世の回転劇を一作公演したら・・・現在の人間や政治、エネルぎー、新型コロナ、実質賃金目減りがつづく庶民の暮らしぶり、そして失われた30年と呼ばれる不況の中で消費させようと躍起になって広告をつくる人々とその依頼主の心情が浮き上がってしまい、面白そうなのだ。
駅舎そのものだって、時々の要請によって切り貼りしたかのように多様な格闘の痕跡や、そこで使われた多数のマテリアルの混在を一目でみることができる。そんな駅舎は日本列島にはさほど無さそうに思える。
駅舎を綺麗に使い続けようとする意志と、綺麗につくり恰好をつけようとする持ち主の側の意思が無いとは思えないのだが、要請があった時々の最善種と最善のマテリアルの集合がとてつもなく味わい深いのである。
1人の人間がこのような演出をもった舞台を制作することは可能なのか?と毎日乗り降りするときに思いデジカメのシャッタを何十回も切ってしまうほど、全体も詳細も面白いと俺は思ってしまった。
このような気分で飯坂線の駅舎をことこまかに調査し語ると鉄道が敷設され始めた福島明治維新以降とフクシマの人々の心根史とか鉄道史とか融合したmyブックが一冊の本が編纂されてしまうだろうと妄想してしまって笑っている俺。だんだんボケ老人の域にはってきたようだ。



10月5日 雨降りそうなそらだったけど県立医大に往復なんとか雨にあわずよかった

丹波篠山市の大橋力さんから丹波栗をおくっていただいたので、栗飯と茹で栗をつくり食べる。美味しい。

■FB投稿
見事な「丹波栗」を送っていただいたよ!
兵庫県篠山市で手作り椅子を制作している大橋力さんが送り主です。あまりに巨大なので三角スケールを当ててしまうと、幅5センチほどもあるよ。今夜の飯は栗飯だ〜!!大き過ぎて栗飯12人分ほどなので、煮て焼いて栗飯2回するするよ。秋まっさかりな気分、ありがとうございました。

栗飯を炊いた!
小さなチラシに栗飯の作り方が印刷されていたので、見ながら炊いてみた。米はもち米にした。
もち米のしっとりした柔らかさと4つに割った栗の塩味がポリフォニーとなる、美味い秋食べた(栗飯わすれていた秋の味はお勧めです─福島産栗が流通解禁されたのかは不明、茸は食べないほうがいいでしょう)

■ 05日の投稿
日に3グレイmy癌・放射線被ばく計39GYとなる

奥羽の山に曇天雲かかりいまにも降り出しそうな空のなか、60グレイ照射する。俺様癌様の程度は専門的にどうなのか?それは気にならない。大きな文字で「治療と仕事が両立できる」とポスターがはっていある(空見かも)放射線治療が始まって土日を除く毎日福島駅を通過しバスに乗り県立医大病院までの往復をしている。それまでは、ほとんど知らなかった(興味が無いのだろう)福島市町中の様やバイパス道と旧4号線の舗装の凸凹、交通機関から見える各種工事中のようす(中でも奥羽新幹線上り線路の付け替え工事の進捗状況はすごいよ、設計も工事もどちらも難しいさ満点だ)さらに雨が降ると水溜まりができてしまう場所、例えば駅ビル前歩道の埋め戻しが下手くそなことで出来る水溜まり、あれは福島交通、駅前ビル管理者、広場管理者の境界にできていて、誰も何んともしそうにないのが面白い。・・など水溜まりができる場所やその原因を事細かに観察し、いい加減な作業のあれこを知ることになり、福島の町ってこうことに気配りできてないのね・・と分かった気になっている。

今日のように今にも雨がふりそうな、強くい風にのって雨が降って来るとさらに分かる。駅ビル周りにある庇の途切れ具合が中途半端で濡れる。飯坂線からバス停まで濡れずに歩くことは叶わない、駅前庇計画のずさんさなども観察できちゃって面白い。観察して知ってしまった土木や設計屋や工事屋たちのいい加減振りを見て得た記憶を蒸発させるのが難しいほど気になるほど多数ありすぎる。
道路の中央分離帯の植生や医大の施設周りにある植生も計画に手入れ(管理)良いとはいえない。医大玄関周りはすこし恰好つけているのだが、病棟間、法面の植物の管理はここに合っていないだろう植物とその後の管理の手抜きとしか言えない様をたくさんみてしまうのは辛い。精神病院のように患者のケアを兼ねて花の咲く植物植えて手入れをみなでしたら、いい感じになるだろうに・・・・と思うほどにそれをしようとする姿勢は茫々の様からは見えない。業者任せなのだろうか。?わからんなそんな多数な分からんがあり過ぎて、俺の住んでいる福島のことは何も分からんということを確認している日々でもある。明日はバスの運転手の面白さを記録してしまおうか・・などと思っている
























10月4日  午後あがる 気温上昇せず

■医大放射線治療12日目 雨の日は空いていて最も往復時間が要らず。

■大室さんの車内におとした携帯電話が戻って来たので、烏賊の塩辛を手づくりし乾杯した。烏賊いっぱい1620円で人生最高高値の烏賊様だったが美味い

■FB投稿

放射線治療12日目
雨模様のなかうつすら見える奥羽の山並みと雨雲が美しいのでぼんやり眺めながら、放射線36グレー目を照射してもらいに福島県立医大病院に行く。雨が降るといろいろ空いているのは町の賑わい同様、院の待合室も空いていて予定より早く治療は終わってしまう。治療は後半に入ったが対応になれたので生活するには何も支障はなく仕事と放射線治療は両立できることを実感すするのみ。
雨が降り気温が下がったので、女性ようの一成三宅のコートを羽織って出かけた。男性もののそれだと外国人や若い者に合う寸法に仕立ててあるので、俺には大き過ぎてブカブカ、女性ものがちょうどいい。女性ものは量産品でも生地が多様だが、これはててかてかしているも陰気になりがたちな雨空の下を歩くにはいいのでお気に入りだ。今ではとても買えるような値段ではないのだが、俺がガンガン稼ぎまくっていた35年前に男女用を買っていてたから有るのだ。生地とデザインがいいから時を経ても質が落ちないのは磯崎新さんデザインのモンローチェアーにも通じ同じだ。
■福島交通バスの運転手いろいろな方がいて、今日の医大からの帰路は運転操作が荒っぽく、ガタガタキーキー乗り心地がわるかった。帰路の旧4号線を福島駅に向かって進む道は路幅狭く、掘り起こしては配管工事などで舗装工事をし直たようなパッチワークのためか?路面が平坦じゃないのかもしれない走行中はのべつガタガタうるさい。
悪路でバスは揺れても大平寺(停留所)あたりから信夫橋までの道は一直線にのびる奥羽街道をなぞった舗装路だ。ここいらは放射線治療路でのお気に入りの一つ、ビューポイントが多い箇所だ。起伏を伴いながら真っすぐ北極星を目印にすすむかのようだし(実際は東にぶれている)、信夫山裾に拡がる福島市街の凸凹したビル群を信夫山製の屏風が受け止めている様でいいのだ。
旧4号線ロードサイドは木造二階建てが多くても自動車展示場も軒を連ねてあったり、突然デカイ工場が左右に見えたりして、すっかり時代遅れになった昭和感が溢れてて面白い。町の建物は時代を的確に表象してるから面白くていい歴史てき具物証となっている。そういのが物と看板が詰まっている道の一つだ。
■駅で焼き立てのフランスパンを買って、残り物の具をつめこんで食らいつく。昼飯にするんのも定番となった通院効果の暮らし方の一つになった。

2023年7月4日@ドットアーキテクツ
文字化しはじめたよ 驚く事ばかりでした。一例を紹介します。森純平さんの生い立ちを聞き始めたら、ドットアーキテクツの会場が振動し騒然となり、家成さんはカーンの本探しをしてしまい、一時聞き取りが止まってしまうほど。・・そういう小学生、森さんの姿を記録を見てしると、建築教育に要るのは何かと知ってしまいかもしれないよ

森さんと会うとこの国の教育制度がいかに糞か?を思い知ることになる、それでいいのだ7月4日。この国の政治家達やパタ-なるrougaiたちは若い才能を芽吹かせない。老人は若者に学ぶことでしか現代を生き続けられないのではないかとさえ思う。

■ 烏賊様いっぱい1620円@我が家傍の魚屋の売値
医大の待合室にいくと毎日ニュースの時間にドンピシャ。日々テレビを持ってないのでニュースなどみたことないだが、為替相場を聞いて見ているけどとうとう150円!阿保のミックス来ちゃっているよ!さらに法人税減税ともいう、またまだ10月からはインボウスという税のごまかしまで重なり、阿保のミックス3階建だなわが国の惨状だ。俺の生活にかなり響いて質素を強いられるているのが日常だ。働けっていうか?
烏賊様のお値段だって烏賊船の重油値上がり、老齢化漁師たちの人件費は押さえても、魚屋まで運んで売るので燃料運賃値上がり円安は効くよ。輸入性食材で食って生活を成り立たせる庶民は阿保のミックス多重攻撃に襲われるのは従来通りだ、酷い政治になったもんだと貧乏老人は烏賊を手に取り思うのだ。だが、それにしても手作り塩辛に仕立てて美味いよ、で早速携帯も戻って来たので乾杯した。食ってみると(高価なせいではないのだが)手作り塩辛だけ食っても美味いんだよ!日本の魚食文化がオイルの値上がりに影響を受けたり、温暖化の影響受けたりして250円ほどの烏賊様が1620円は策政府でしかないだろう!と無知のおれは思うのだ。






10月03日  奥羽の山々くっきりした姿だった。

■大室佑介さんの自家用車の中に形態電話を落としてしまい、写真も撮らずの日となり。
■放射線治療、11日めとなり全照射20回なので今日から後半へ
■戻って、7月4日家成俊勝さんの事務所で森純平さん、岡田栄造さん所員の方々とワイワイしたのだが、文字にできていないので、今日は森さんの生い立ち編を少し文字にした。

■FB投稿 

デザインイースト00などによる波紋は関西の若い人達にどんな影響を与えたのか?
myスマフォ三重県内を旅している(大室さんの自家用車の中に忘れた)
そろそろ、年譜など記録つくるのがいいのではないかな、そしてだれがどのように意思を引き継ぎ、あるいは継がずその後の活動について聞き取りするのもいい時期かもしれない・・と今朝おもった。
2009年9月18日(金)、19日(土)、20日(日)会 場:Nakanoshima Banks[EAST棟] 大阪市北区中之島5丁目(堂島川左岸)

10月1日の夜から三重県にくらしている大室佑介さんが泊りに来た。三重県の地酒と福島県の地酒を呑み比べてはわいわいした。
10月2日早朝に出かけ、千万家で30分ほどわいわい、医大までOBX4などを車中から見ながら送ってもらう。

うっかり大室佑介さんの車にスマフォを落としてしまい、アチ子と探すはめに陥った、よる大室さんの車中にあることが確認できた。

■FB投稿

大室佑介さん一泊2日し「建築あそび」三重県で活動してフクシマ体験
昨年亡くなった磯崎新さんの弟子さんなので筑波を観て、フクシマの「俺たち伝承館」を見て、我が家でモンローチェアーに座り「建築あそび」した。(わいわいの内容は省略))
大室さんは東京練馬で生れ多摩美術大学に在学中に仙台卒制第三回目の日本一者。だから、今世紀になって建築を始めた若者なら非東大系の建築兼アーテスト兼活動家だから知る人は多いかもしれない。
■今年から我が家で観客のいない「建築あそび」を始めた。体力もなくなっているので「お前の家は俺の家」=他者の所有する住宅などに泊まり込んで他者を集めてワイワイ「建築あそび」は今年の7月に大阪と京都で実践したことで〆にしようか・・・そう考えて我が家での「建築あそび」再開を模索中だ。
「建築あそび」=「俺の家はお前の家」建築物(例えば住宅)を所有者が他者にいかに開くことが可能なのか?それ問い実践し続けることでその時々の「建築」が見えてくる、ので、俺の人生の中にある「建築」と人の関係は俺にとってはそういう事態だなのだ。我が家という意識も少ないし、敗戦後は住宅不足もありmyホームというセコイ所有意識が人間関係を貧しくしているな?・・・というmy仮説をもっていて、我が家を造ったときから子育てと「建築あそび」おっぱじめた。これを実践すると止まらなくなってしまった、変な人生になった、先例が無いので試行錯誤と事態がドンドン変化してしまい、結論を語るのは酷く困難になっている。
それは俺にとっては子供たちも他者の一人であり成長すると外で暮らしたまた戻ったり出て行ったちとこちらも激しい。だからたった一つの小さな建築でさえ他者が成長するごとに我が家の使われ方が激しく変化して面白かった、また「建築あそび」を開き他者との交流を通じて小さな建築が持つ力のようなものを実感もしたし、俺の晩年の面白く楽しい人生が成り立っていた。そんなに面白い「建築あそび」はなぜ試験中かというと、俺の体力がなくなったことと、酒や食材の買出しをし肴や飯を作を支援してもらっていた裏方女性陣が亡くなってしまった!他者は死ぬ!そのことが主な理由だ。
外や居酒屋で飲むのは商業に俺の活動が吸い取られるので極端に面白味が減少してしまう。俺が飯や肴を作るなら2人分ぐらいだろう。でコツコツ始めてみている。濃い建築あそびになるのが興味深いと感じている。
暇と興味のある人は我が家で1人建築あそび・・・いかがかな(笑))





10月01日 のち午後から陽射し有

■ドットアーキテクツでワイワイしたWEB録に絵を付ける
■家人と買出しに近所のスーパーに行く。

■FB投稿

まだ45分分だけだけど3ヶ月(笑)要した1web頁に絵を付けたぜ!
7月4日大阪市住之江区にあるコーポ北加賀谷に家成俊勝さんのドットアーキテクツに森純平さん、岡田栄造先生に集まって頂き10時間弱のワイワイした。そのweb記録まだ第一頁しかできていないんだけど、必要な絵を付け終えたかな・・。絵は300年ほど前の大和川付け替え付図という地図がお気に入りだ。だけど上町台地の詳細を見る古地図が残念ながら無いので、大阪に行ったら探してみたい。
また、俺の文字起こしが一段を遅くなっている、雑用が多い、音源がいろいろあって、あちこちweb記録を作ってしまうなど・・いろいろな要因で、記録公開は遅れている。
10月からは治療以外に無さそうな気がするでこつこつあの日の記録を作り続けたいのだが・・。

2008年5月15日ドットアーキテクツは豊中にあり総勢3人だった 絵はその時の記録より。家成さんとはそれ以前から会っていいたのかもしれないが忘れた、記録がないと記憶だけにたよると出鱈目で記録にならないんだな・・・と分かる。15年後、森純平さん、岡田栄造先生と共に家成さんの事務所で所員の方々と大勢でワイワイし10時間じゃく駄弁るなんてことは、この時は夢にも思えない俺だった。人生やってみないと誰に出会うか分からんぜ?