佐藤敏宏
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2024年7月の日記       6月の日記へ
 







   
7月26日  時々晴れるも蒸し暑い梅雨模様

■新ホームページ作成ソフトを使い始めて2日目、新人と仕事しているような気分になっている。機能欄はほとんど古いソフトと同じなのだがアイコンが違うので戸惑う。慣れるために作成を多くしエラーを機に新ソフトの能力を覚えることしかなさそう。
■鈴木達次郎先生のマスメディアデビューとなる、朝日新聞の論壇を県立図書館で検索するも、検索されず。仕方なく先生である鈴木篤之先生の記事を検索してみた。家に戻ったら、鈴木先生から記事の日付が1990年8月2日であることを示すPDFが送られてきた、年譜に貼れるのでありがたい。

■午後食材を買い出しにいく。けっこう重いりょうだったかな。昨日徒歩で街中まで行ったので疲れて重くか感じやすいのかな。

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長崎漫遊、今日からグラバー邸
豪商の住宅は建築への知性があふれているわけではない、工夫は凝らされているんだが、豪商の深層が見えてしまい、ほとんど興味は惹かれたった。(明治期のベランダコロニアル建築っておおかた似たりよったりに見える)が、人間模様、特にトーマスさんの息子「倉場富三郎」さんに注目。そうすると、おもな明治維新以降の「幸いと悲劇」は交差しつつ反転しねじれながら富三郎さんをつくる、というか人格と人生を決めていく。彼を通して長崎を観はじめるとズシリと鉛を飲み込んだような重苦しさで理解できる・・そういう気がしたので、コツコツ調べはいめよう。(山勘は大外れするかも)
■my長女に連れられ珍しい旅だったので、漫遊記にして残そう。そう思って気楽に始めた長崎漫遊記だった。書き初めて見ると今日の俺の暮らしと、大航海時代から海洋貿易にて世界の商人や文化と一体に連動していること、それを理解でき始めた。こりゃー大変、俺には歯がたたないかも。だが幸運にも長崎を訪ねたので資料をあさり、図書館に行き、福大から取り寄せてもらうなどして、こつこつ書いている。
■で、難しすぎるので、「ソフトを変えたら楽しくなるかも・・」と、HP猿ソフトを最新版を買ってみた。ネットを介してインストールがやたらに捻じれ面倒、my次男の支援を受けて何とかダウンロードした。では早速開いてみたら、20年前とさほど改良されてない!(まだ使い慣れていないので、断言は早計なのだが。インストールしてしまったからには使い倒してやるよ。

 











   
7月25日  かんかん照りから梅雨に戻ってしまう

■徒歩で福島の街中まで徒歩で行く。途中図書館により返書。また福島大学にある本も借りられるとのことなので、お願いする。届くまで1週間ほどかかるとのこと。『トーマス・グラバーと倉場富三郎』を借りる。

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鈴木達次郎先生 1990年代を語る
広島での会議とマスメディアの番組収録などにて1週間ほどのち、長崎に戻られた昨夜、語っていただいた。
記憶違いもあるが主な点を記すと・・・(近々文字お越しする)
MITを拠点に、世界の科学者とともに論じ合う。家族づれでボストンでの研究生活は95年まで続いた、という。(92〜95年までソビエト連邦が崩壊し直後ロシアにある解体プルトニュームのワークショップに呼ばれる。)
MITでの研究の主なるは「世界のプルトニウム問題」。そのなかでとくに「日本のプルトニウム政策の合理性を欠いた点」や「六ヶ所村の再処理工場問題を指摘する」─高木仁三郎さんとの日米交流と議論も─など、日本の原子力政策が国際批判をうけるなか、日本政府はどのような道を拓けばいいのか提言する。国際ワークショップをする。しかし結果は業界から「国賊」との批判を受けてしまう。
だが、ぶれず柔軟に一貫した姿勢で議論し、論文発表し続けることで、その内容は日本のマスメディアに取り上げられる。当然国内でも大きな反響をよぶことになったという。
1996年に日本にもどり電力中央研究所に席をおき同様の研究をつづけ発表し、鈴木論は各国の科学者に評価され、パグウォッシュ会議に招聘されることを機に世界にトップランナーたちとであうことになった。など40代の論と、科学者としての人間関係の拡張は目覚ましいさまを見せる。
■次回は2000年代を語っていただきます。






7月23日  昨日より猛暑 夕方から曇る

■複雑というか無知だったので時間がかかった、出島漫遊記ほぼおわる。現地では気づかない点が多く書いて面白い、調べて面白い場所だ。

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出島の肉 調理場の絵あり。台所は見逃せない
再現厨房建築があり井戸もあった。トイレ、雨水排水その経路も知りたいが・・(次回長崎行くことがあったら、調べよう、宿題)
豚は出島でも飼育、長崎にも放し飼いかも(昨日投稿写真)長崎のかたは肉くって元気でもりもり商売は無税なのだ



7月22日  朝気温32度今日も暑くなりそうだ

2階の作業場は猛暑になって暑い、で1階に降りてきて作業する。慣れないので腰がいたい。
■午前10時食材を買い出しする。他は出島の講義録を粗まとめしてほぼ終わる。濡れタオル首に巻き扇風機で涼む。夏本番だ。

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江戸期のオランダ船入の出島の様子知らんかったので粗まとめして公開
ついでに唐船のそれも(こちらの方が内容は多い)日本人は人がいい、やさしのかも・・近頃刺々しい奴がめだつ世だけど・・

■今日のは長崎より福島の方が暑いのでは35度ぐらいの気温。こつこち粗まとめした。なるほどの長崎での交易の様おもろいでっせ。暇の方はチラ見ください 間違い多いですが

7月21日  じきに梅雨明けかも

■赤瀬浩さんの講義主要メモにしえおて、絵をつけたり、要約したりする1日。
■家人はクーラをいれて涼んでいる。涼みに来いと言う。

■出島の輸出と輸入と日常の暮らしぶりを調!
唐船は出島に出入りできず、個人貿易による交易だったので荷揚げは輸出は唐人屋敷そばにあったと知る。オランダ人、唐人(上海からは5日できちゃう)ともに、円山のガールフレンドに多量にお土産を持参してモテたい!で、長くてポッケだらけのコートに持ち込み品には税無し。その品々を、あらん限り詰める、自分の体重より重いなどは当たり前。だってさ、たくさん土産を詰め込み、羽織って上陸(笑)。エロとお金と暴力と混じった交易。それらが好奇心が大航海の原動力だ・・なんて面白すぎる。出島の冒険商人たちとグラバーさんの本質的な違いも浮かびあがってきたな、長崎漫遊記後半の半分かな・・。暴力と銭とエロを探して見ようとしないと、その時代のことが理解できないのは普遍のことだね。

出島に沿って流れる中島川の上流に豚発見(笑)、みなさん豚を飼育しくってたのだろう 野放し豚ふとったら食っちゃう














7月20日 時々晴れて夕刻に強い日差しあり、梅雨明け真近かも

■長崎漫遊記、出島篇をこつこつ整える作業をする一日。赤瀬浩さんの講義主要メモもつくりだす。

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my長男と学生たちが町にでて発掘した大手門の金具たち
今日、7月20日から展示されています。仙台城大手門などに興味のある方は金具などを見ていただければ幸いです。トークイベントは8月3日で会期は8月25日まで。

出島に関する古写真(長崎大学コレクションより)みつけた。いろいろ探していたら見つかった。長崎漫遊記に嬉しい絵。上野彦馬さん撮影の水兵と少女たちの集合写真も 。

長崎の地名はこの白い部分、内町からはっすると知る!
大航海の時代世界に名をはせた「長崎」とはこの白い部分を言うと知る。リンスホーテンは一章をつやし「ヤパン島」について案内していた。(ヤパン国の記述資料と出典も)

 







7月19日  時々

■午前中資料読み込みをする。
■午後一番で、穴が開いた給湯器の交換のため設備屋さんに来てもらい現況をチェップ。貯湯タンに穴があいてるので交換をお願いする。30万円弱かかるかもしれない。


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リンスホーテン著『東方案内記』を県立図書館から借りる
オランダ人の書いたものを翻訳し床に立つ800ペイジ大著。県立図書館にあった。大航海時代の1594年10月8日に許可された出版できたそうだ。目を通しみた。イエズス会、ポルトガル人勢のアジア各国でおこなっていた暮らしの奴隷や人身売買などやりたい放題のなんじゃこりゃー実情が書いてある。ペンは強い。

■イエズス会は軍隊組織にちかいものであり、ではなぜ彼らは日本植民地をあきらめたのか・・さがしていたら・・日本人は勇敢なだけでなく、商売のできる能力や資本がある人々であることに気づき、日本征服の野望はすて貿易を目的として日本を目指すようになった・・・。夫婦で金持ち権力もちになると、極まる酷さ、こうなるのね・・カトリック教徒などというが一皮向けばこれが400年前の人間の実態としる。現在は人権観がいちぶの国々と共有されて、権力者もここまでするか?しそうだな・・この本を手にとってしまうと、気弱なひとは人間不信になり、抜け出すことができなくなるかも。







7月18日  のち昼から少し日差しあり、暑くなる。

■午前中、出島についてあれこれ書く。
■午後、近所の胃腸科に書類を届けに行く。そこの足で農協の直販で桃を買う。甘み上がっていず、買うのが早すぎたかも。20日ぐらいか晴れ上がって甘みを獲得してほしい。

■湯沸かし器が壊れたようで、水漏れが激しい。設備やさんに連絡しみてもらうことにする。湯沸かし器交換するしかなさそう。

■図書館に行き、リンスホーテン著『東方案内記』1968年刊行、翻訳を借りる。

伊藤弥さん家で育った野菜を天婦羅にし遅めの昼飯・素麺食!
今日から、長崎漫遊記は[NO8」篇は「出島」まわりへ突入・・時間をも戻すのはふかのうなんで、大げさにかもしれないが突入してしまった。知らないことばかりで、突入な気分。資料を乱読する長崎の盛衰盛はもちろん立ち上がる人々、大航海時代のスペインの没落から宗教改革を切っ掛けに、大航海の覇権は阿蘭陀とイギリスへい移行するなかモンペのようなズボンを履いてる唐人やオランダ人。けったいで快適そうな衣装もおもろい。今の世も移り変わりが激しい。出島のそれも殺し合いふくめて激しいよ。興味が無かった宗教だったが、長崎にあつまった日本人・キリスタンたちと各国の交易(倭寇と言われてもいた)の才覚もすごい、花街の役割など、太夫たちの果たす経済効果と、エロ外人からせしめ長崎を潤す手腕の数々、皆さん肉を食って元気はつらつ、など面白すぎる。アヘンまみれにされず済むあたりは書いてないのでこつこつ探しているが、みつからないかも。










7月17日  午後から夕方に断続的に雨降、よるは上がったかな。梅雨模様。

■長崎漫遊記、出島編を書くために資料を読み出す。歴史的に興味深い江戸幕府の直轄地である。噛むほどに面白い、赤瀬浩著『株式会社長崎出島』読みだす。

■11時過ぎ須賀川岩瀬の伊藤弥さんが採れたての野菜をたくさん持ってきてくれた。映画を見にいたそうだ。ありがたい、最近野菜も値上がりしているし、新鮮や野菜などおめにかかれらにので、たいへんうれしくありがたい。福島の優しさの源は原発事故で失った地域が多いけど、岩瀬はまだまだ豊かだ。

■2ヶ月に一度、家人の通院に付き合う。初めてタクシーで往復した。料金は片道1000円だった。薬代は量が減っているので数百円。たすかる。

■my次男が湯沸かし器の配管につまっているゴミを取り出してくれた。この数日、シャワーの出が悪くなっていがた元に勢いあるシャワーになって、助かる。

■須賀川市の伊藤弥さんに夏野菜たくさんいただいた!
ぷりぷり美味い野菜たち。絵にピーマン入れ忘れて撮った。採れたての野菜、各代表一個ずつ集合写真を撮る。福島の野菜はうまいよ。早速いんげんを茹で食べる、瑞々しくって甘い!。そうめんに合う夏本番。
■午後、家人用病院へ。先生によると「10年経ったねお互い年取ったね・・」微笑んでいた。来年は別の場所に病院ごと移転するという。精神科の医師は人柄によって相性に適不適がありむずかしい。合う人に会うと薬より効く、そう感じる付き添い歴30酢数年の俺。








7月16日  野鳥さえずり盛んな梅雨空

トリニティーで人類初の核兵器起爆が成功した日のち広島、長崎に投下された。
■長崎漫遊、2日目西坂公園編を仕上げる。数日寝かせ、何度も読み直して後webアップしよう。キリスト教史をしらずに書き出したのは無茶だったかもしれない。しらないから自分らしい思いを書くこともできたように思う。バランスが崩れているように感じ、一昨年、訪れた法隆寺についても書いてみたくなる。来年あたりにいどんでみたい気がする。


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人間による「加害の記憶と被害の記憶」ばらんすよい記憶など無なの
偶然だったが行ってよかった長崎漫遊。西坂公園編の粗書きするに1週間掛かってしまった。観光客のかたがた。西坂公園、推し!(加害の記憶がまさることで、現在の日本の状況は軍備費にも大きな影響をあたえ、歪んだ税の使い方になってしまったことは周知のこと)
■長崎市の西坂公園を訪ねると2つの異なる記憶が同時に継承されている、継承しようとしている、稀なる地だった。
■今井兼次建築群にガウディを冠することはおおいに違和感をもったことも書いてしまった。長崎漫遊二日目も濃いこいスタートとなった、明日からは「出島」訪問について粗い感想書き出そう。

7月15日朝から  続いている。

長崎漫遊記 西坂公園編をあいかわらず書いたり削ったりしている

■午後、雨があがったので食材を買いに行く。3連休なので家族連れ多い。家に戻り西坂公園編をこつこつ仕上げにはいる、明日は仕上げたいが・・。





 7月14日 梅雨空にて時々小雨降る

朝から長崎漫遊記、西坂公園編を書いたり削ったりしている。

■嫌なニュース・・元米大統領、大統領候補のトランプ氏狙撃されて右耳から血が吹き飛んでいる絵つきニュースがながれている。(左絵 検索webより採取)米東部ペンシルベニア州バトラーで13日に起きたドナルド・トランプ前大統領の銃撃事件で、米CNNはトランプ氏が選挙集会の会場外から狙撃されたと報じた。 容疑者は、トランプ氏を警護する大統領警護隊(シークレットサービス)に殺害された・・・。

■よるはユーチューブで筒井康隆作品の朗読を聞いた。


7月13日  薄日さしている

昨夜は花田先生におくっていただいた雑誌『地平』を深夜まで読んで、今朝は寝坊。

■重源像、ザビエル像、木食制作の像、船越桂さんの作品についてあれこれ想ってたら半日が過ぎる。昨年7月5日重源像を東大寺で拝顔した。
株式会社 長崎出島』の著者 赤瀬浩さんの講演動画みつけた(この動画の47分ごろから)著書もたいへん興味深く印象にのこる・








7月12日  梅雨空にて晴れたり、曇ったり、ぱらついたりする

1日資料を読み込む。 夕刻花田先生より雑誌『地平』7月創刊号と8月号送っていただく。


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花田達郎先生よりの『地平』7月創刊号と8月号いただきました。
日本でも前世紀てき新聞社などを退社した、「ヤメ記者」たち・彼らが今世紀にふさわしい、そして自身の自由と独立と経済の自立をめざす、新しい媒体が各地に現れはじめています。

花田達郎先生の「第三のジャーナリズム」はそのことについて、地球上のジャーナリストたちの活動を見渡し、日本での「ヤメ記者」たちに投光した具体的で簡明な論考です。マスコミ情報にゲンナリしている貴方にも、女性の方々(←読者多いそうです)にも、推します!
(フクシマや福島県内にも、インベストゲーティブ・ジャーナリズムを骨格とした媒体の誕生を期待したいです)

◯久しぶりに良い雑誌が創刊されましたね!定期購読は年12冊、送料・税込で9800円と破格。雑誌なんも購読してないので俺もそうしようかと思ってしまいました。

■「今井兼次建築と長崎」推します
長崎漫遊2日目を書いている。しょっぱなから西坂公園と今井兼次建築群の意味や造形をみていると頭クラクラ(面白すぎる場所)してしまった。俺の言葉で書くにはたいへんだな・・

26聖人の磔刑の処刑場でもあるから面白すぎはと書くのは不謹慎このうえないのだが、俺・野猿の思いは無礼極まっても許してもらおう。長崎ディープスポット「NO1」だ。近代コロニアル住宅のグラバー邸は問題ではないと言っておこう、長崎市を理解するには近代建築史はもちろんキリスト教史もわからんと意味がわからない出来事多数。ローマ教皇とイエズス会布教の足跡、新教によるオラダンダの台頭、旧教とスペインの衰え、フランシスコ・ザビエル(ミイラで遺体保管あり)と池端弥次郎重尚との関係そしてインド渡航、鹿児島県根占港の隆盛、秀吉の一向一揆一掃とキリスト教弾圧など 貿易の品々と武器(原料も)の輸出入、奴隷によって潤うスペイン人たちなど・・手に負えないかんじもするのだが、簡潔にまとめたい。



















7月11日 今朝も野鳥のさえずり多い梅雨空

■昨夜、1月半ぶりに花田達郎先生とオンラインで、1時間30分ほどワイワイする。『地平』という雑誌は売れ行きよく2度ほど増刷し、読者は女性が多いとのこと。なるほど、政治に関心をもち発言する女性が増えてきたようだ。

■語り合って後寝たので、朝方たくさんの夢を見続け、寝ては夢、夢見ては起きてを繰り返した。退院後すっかり体調は回復し以前より酸素が行き届いているようで、頭がスックリしている。血液検査などで数値で病状を把握し、適切に処置する現代医学は民間信仰的な手当より俺にはあっている。医療費も所得によって高額の限度が設定してあるので、手続きし入院すれば所得がないおれでも、さほどの負担にならない。

■午後一で食材を買い出す。他は長崎漫遊、西坂公園編を書く。

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長崎漫遊記 西坂公園編を書いている
横道それてるかも・・まいいや同じ絵が投稿になってるが削除しらず。
ザビエルさんてどんな顔?画像に木彫、ステンドグラスなどあるのだが・・どれがその人本来の容貌なのか?それを調べ始めた。そしたら、現在も「ザビエルさんの遺体は腐らミーラのまま保存され」インドにある。10年に一度公開され・・・定かでないが、本年は公開の年らしいよ。
CTスキャンし3次元データにて「ザビエルさんの真顔」を再現してほしいと望んでしまう
■西坂公園には磔刑に処された26聖人の碑があり、今井兼次先生のてになる資料館(学会賞受賞)もあり、長崎のディープスポットなので仕舞が見えないことになってきた。西坂公園、推します。
さらりと書くか・・迷う。沖浦和光さんの最後の著作物は『宣教師ザビエルと被差別民』を借りてきた。沖浦さんならの視点と取材・行動力と筆致にあいからわず。ヤジロウさんというのはザビエルさんがであった初日本人。彼は密貿易商人なのは定かでないが、彼に偶然会ったことでザビエルさんは日本に布教することになったそうだ。日本の世は近世に突入したばかりの時代のこと

 7月10日  野鳥が盛んにさえずるも天空一面は梅雨空 断続的に降り続く

my長男仙台城の金具など学生と共に発見し、仙台市と協力し実物であることを確認したとのニュース動画があったので保存するも公開できず。

長崎市西坂公園をたずねたときのことを書き始める。内容がたくさんあって、まずは網羅的に書いて、それから簡略化していこう。県立図書館から借りてきた関連本を読む。















7月9日 ときどき雨ふる梅雨空、

■晴れ間をぬって、県立図書館に長崎漫遊を書くために関連した本を借りてくる。知らなかったことが多くて、漫遊記を書くのも面白い。26聖人殉教資料館やフランシスコ・ザビエルに関連した本を読み出す。手強い。加害の継承、被害の継承がテーマとなる5月29日の長崎漫遊

■すこし食材を買い出しにスーパーに行く、10時ごろだったので主婦多し。


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福島めいぶつ夏の競馬・観戦
遠くに鬼面山や安達太良山が霞みえ足元では夏競馬はじまる。
入院してた病室や廊下から競馬場が見える。1日、椅子に座り眺めている患者、看護師だって競馬談義をはさみお仕事。
小学生時分に夏は競馬場、爺さんが競馬好きだったから、毎夏来ていた。子供にときも今も、馬券を買うと賭けるとか、博打行為より、競馬に集まる人々の様は実に多様で面白かった、ハズレ券が夏空を舞うのも、その足元では落ちてきた当たり券を探す夫婦もいたりして、全体の様は見ていてあきなかった。
この夏競馬は
芝、ダートは交互にコースを使い、競走馬が走る抜ける。それよりレース前後のコースの準備を見ているとあきない。
例えば、競走馬の入退場時のロープのセット、競争前後のコース整備。ダートコースは三台の車列で水をまきながら、凸凹を整備、芝生の修理は自動化できないので人海戦術。凸凹を叩いたり足でふんづけたりしながら整備。
手前の監視塔は競走馬が斜行など不正をしないか監視員が、はしごのような階段を登り降り。スタート前の枠の出し入れは車で押したり引いたり裏方さん。障害物レースになると縦横にコースがセットする必要があり大忙し。

7月8日  競馬場も町も西から東へ流れる、どんより重た雨雲におおわれている。猛暑気温が下がるならいいのだろう

今朝はのんびり、6時15分起床。早くもネットでは福島の早生桃がでてきたとのこと。採血結果問題がなければ、今日中に退院したいと申しでてみる。

■8時回診に入江先生など来る。血液検査結果で問題なければ午後退院させてほしいともう仕込んでみた。問題ないなら退院よしとのこと。シャワー浴びたいのである。

■午後一で退院許可がおりて退院する。my次男が

迎え

に来てくれありがたし。

■、シャワーを浴び洗濯をし干す。

いろいろデータを整理する


7月7日  今日も暑くなりそうな空模様

5時に目覚めたので、福島赤十字病院6階廊下突き当りの南窓から福島競馬場や手前の厩舎を眺めていると、厩務員に引かれ馬が厩舎の周りを散歩している。朝練で駆けっこしているのと想っていたが、今日は夏の福島競馬2日目なので芝コース、ダートコースで朝練はないのだろう。

7時ごろから、競馬場中央で10数名が乗馬の練習する様子が見える。乗馬クラブだろうか。

■入院し6日、目覚めて分かったことだがくっきり見えることだ。入院したときは血圧低下と貧血、胃内の出血、ヘモグロビン不足で酸素が供給されず、だから頭と視覚がぼんやりしていたんだ・・・気がついた。痛みもなくまま日が消えるように生命が消滅していく自己はこんなふうなのかな、と想ったりする、早朝。

■退院したら病院の平面計画の歴史を調べてみたくなる

■8時15分ほどまえから飯が温蔵庫にて運ばれてくる。温かいと冷たいが分けられていて、病院食は快適である。

■町医者の月曜日の判断は一日遅かったと思う。あのばで即日赤へ送られていればなどと思う。
■福島競馬の第一レースは障害物レースだった。スタートは左回りで向正面から斜め横断し4mほどの山を登り下りし、芝コースにはいり右回し向正面まで3つの障害物を乗り越え、3コーナーから4コーナをすぎ、すぐに障害物を越える、そこまで至り、どうしたことが一頭がやる気をなくして障害物のまえで止まってしまい戦線離脱した。馬もいろいろいるね。

■my次男からメッセージあり問題ないようだ。台所と風呂に安価な浄水器をセットしたとのこと。鰻はまだ食べていないようだ。

■ときどき廊下の突き当りから福島競馬2日のレースを眺める。看護師の方々も競馬場でバイトもしていたという。ボーナスまで出たとか若い学生さんには注目度高い競馬場バイトのようだ。

■都知事選、午後8時、そく現職当確、2位広島の安芸市で首長をされていた若い、新自由主義とユーチューバー。3日もと参議院議員。若い20代はSNSとユーチューブの情報の影響をもろに受けるようだ。

7月6日  6時半に目覚める、隣のベットの方は術後嘔吐を続けていて気の毒

■固形物を口から入れるようになったことで腕の血管が浮き上がってきている。看護師さんの言うとおりだ。点滴だけだと血管が沈むのそうだ。

■昨夜 長崎漫遊記をPCに読ませたら脱字などの間違いが数か所見つかったので今日はのんびり修正しよう。
午前中で、修正は済む。続いて辻琢磨さんの生い立ちのまとめをする。文字はほぼ済んだので、退院したら絵をつけて公開したい。

■昼飯は7分粥となる。飯を食うと元気になるものだし、血管も浮き出てきている。

■今日から夏競馬が始まったようで、病棟の廊下から競馬のさまが見えている。スタンドにはさほど人の入りはないが、レース後の芝手入れの人の多さに驚いた。一周を2000mぐらいなのかもしれない。剥がれた芝をもとに戻しているような仕草だ。

■午後3時すぎのんびりしながら、web作業の次の構想を練る。


7月5日 

■今日も日赤の6階にあるベットで目が覚める。点滴の種類が多数あり━、昨日は5種類━時間も要するが、たいがいは水なのだろう、1.5〜2時間間隔だからトイレに頻繁に出向くのでぐっすりと寝たと思いは削がれている。真夜中でも患者が発する呻きなどの音、機材が発するは各種の音色、看護婦などが行き来する人間が発する音、患者と看護師たちが交わす音で満ちているので、思ったよりは賑やかな病室音環境なのだ。

6時前に目覚めたが、頭が重いので1時間ほど横になって7時過ぎに起きる。血圧低下からなのか目がぼんやりしていたが休んだことで視界は良くなり、PC作業をし始める。

■午前中は点滴効果で何度も小便に立った。その間辻琢磨さんの生い立ちを修正しつづけた。

■昼食から五分粥になり飯粒も、肉じゃがのジャガイモも形を表して味もあり美味かった。医師たちは慎重に胃腸の回復をみ続けながら食事を与えていて、助かる。飯粒を食わないと血管が体内に沈んで見えにくくなるとのことで、点滴よう針の位置を右手にかえた。左腕の点滴部位を押すと痛みがあるし、管に血液が流れでていたので、適所ではなかったのだろう。

■午後、1階にあるコンビニでマスクとイアホンを買う。イヤホンを装着し辻琢磨さん生い立ち記を校正している。絵はWi-Fiが機能していないので、退院後に家で貼り付けよう。

■点滴回数が6から2に減り、夜間のトイレ回数が少なくなったことで安眠できた。

7月4日  病院の廊下からは福島競馬場の芝生が輝いて見える朝。奥羽の山々は雨雲に隠れみえないが、信夫山は頂きまで見えている。

■稀なことだが73歳の誕生日を日赤病院でむかえた。

■点滴をし続けているので、夜中に何度もトイレに行ってしまう。すこし鬱陶しいがしかたないんだろう。

■朝、男性6名ほどで回診に来て「今日の昼から米粒がでて、月曜日採血し貧血症状が回復していれば退院とのこと。

■月曜まではだいぶ間があるのでPCに作業をしよう。そう思って午後は辻琢磨ささんの「生い立ち」についてまとめた。ほぼできたような気がする。明日いこうは再度読み込みこれでいいのか検討しよう。

■病室は4人部屋であり、入退院が繰り返され、医師はかわらないが福島県立医大の大学の医学部研修医の教室も兼ねているのだろうが、午前と夕方2度5,6人で回診していく。


7月3日   病院で目覚める 快晴 正午過ぎ信夫山雲に隠れる霧雨あり

病室の机に入院診療計画書が置いて合ったので、見た。担当医師名6名

病名 上部消化管出血 症状 ふらつきなど
治療計画 絶食点滴、内視鏡検査を行います。
適宜採血、レントゲン、内視鏡治療を行います。推定される入院期間は約1週間

とあった。1週間とは予想より長い、PCを持参した。痛みもなにも症状を感じないので、時間の合間にPC作業をすることにしよう、

今日は再度、内視鏡検査と内視鏡治療が計画されている。

■1週間ほどの入院となるようなので、辻琢磨さんの生い立ち編を書こうとしデータを見直し、再読し要点を箇条書きにし始める。

■正午過ぎ、食道、胃、十二指腸まで再検査。10分ぐらいで終わった。数ヶ月前に大腸ポリープを切除してくれたI先生だった。内視鏡検査には2人の看護婦さんが立ち会っていて医師は2人だった、彼女の話だと「内視鏡でうどんを見ていた」と微笑んでいた。
医師からの説明はなかったが、胃壁は少し見えたのだろうが、うどんの影に隠れて全てみることができなかったのだろう。昼にうどんとサラダを食って夕方まで消化し小腸から大腸へ移動してないのは動いていないから胃腸も寝ているのだろう。

再検査は、麻酔無しで口から内視鏡を入れ、治療台に横になっていがそこからモニターが見えた。胃袋内は小さな血管がすこし浮き出ていた。何度か内視鏡検査を受けて見知っているのだが、胃壁の色は肌色でさほど血管は、病片周りなら赤かったり、血が固まるような酷い場合は黒かったりするのだろうが、胃壁はそのようなことだったが十二指腸の壁血管が浮き出ていなかった。鎮痛剤で胃壁がダダれたのだろうと思った。

■再検査前にmy長男から午後2時過ぎに見舞いにくるとメッセージが入った。

my長男は昨夜から我が家に来て、家人とワイワイし、1泊し、家人の活動のさまを見てきてくれた。話によると私が入院しても変化なく、問題は無さそうだと思った。

■午後4時ぐらいから2時間ほどかけて400ccの人生初の輸血をした。熟れたトマトのような液体が体内に流れ込んでくるのは、見た目に爽やかではない。そのご、ビタミン液の点滴と水のようなものを4回ほど点滴する。

点滴しまくっていたので、PC作業するきになれず、ゴロゴロしていた。
真夜中1.5時間間隔ほどでトイレばかりいっていた。何も食べていないので月曜日のうどんがまだ大腸内に残っていて、想像し気分はよくない。

7月02日

朝起きて、掃除をし、朝飯を食いトイレにて排泄。今日も黒い分かった排泄物がいつものような量が出る。(入院して看護婦たちはタール便と言っていた)

近所の内科医から何度も電話があったことを気づかず、昼に気づき昼食後に電話する「心配なので日赤は検査入院するようにとのすすめだった。血液検査の結果がわかって慌てているのかもしれないと思って従うことにした。自転車じゃなく、救急車または他クーシーで移動するようのと念をおされる。

言われるままに日赤に着くと、段取りができていて、コロナ、血圧などの基本を調べて一端終わる。
その後若い研修医なのかもしれない2人が来て、問診を受ける。今日中に内視鏡検査をするのでいろいろ書類を書かされる。
その後主治医がやってきて、少し説明してもらい、まま内視鏡手術室に車椅子で搬送される。
手術室で横になると、麻酔液を投入されたのだろうが、直ぐ眠ってしまった記憶がない。点滴をうけつづける。

ベットで気が付き、子どもたちにメッセージする。次男が水を持って見舞いに来る。麻酔が効いていてぼんやりしてたので、時間は不明だったが夜7時頃だったかもしれない。少し話したが内容は覚えていない。21時消灯なのだがネタ時間は思え出せなかったが、夜はぐっすり眠ってしまった。

看護婦の話だと貧血だともいう。たしょうあたまはぼんやりしているけど、ふらふらした感じはなくなっている。



7月01日  

朝おきてゴミ捨てして、おじやをつくって食べる。
昨日の黒い排泄物は今日も続いていたので、web検索した。食堂から、胃、12腸にかけて出血のあかしだから、直ぐ内科へ行けと書いてあった。

飯食ってしまった、内視鏡検査は食物あるとできないんだな・・

■近く音A内科胃腸科へ行く。大腸ポリープを発見してもたったいいんなので行きやすい。

3日に胃など内視鏡検査をすることになり、胃薬など3種類もらってきた。

昨日の夜のように倒れたり、汗をかいたりするのは危険だから、今日明日と同じことあおきたら救急車を呼ぶように言われた。出血が止まらないと血圧低下して命の危険があるとのこと。それはまずい・・・。整形外科からもらった痛み止めで胃袋が傷んでいるような気もすると言ったら、今日からスップだけにして呑まないようにと指示を受ける。

ドミノ倒しのように次から次に病が現れる。どうも老後ってこんな感じなのかも。明るき生きていこう。