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2025年8月の日記 ![]() ![]() ![]() ![]() |
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![]() 8月27日 ![]() ■お別れ会の記録作りを1日していた。渡辺菊眞さんの挨拶を文字にし終え、聞き直して、文字ベースはほぼできた。あしたから加工しweb記録を整えていく。 ■FB投稿 「渡辺豊和さんお別れ会に参加して」 というweb記録を作成し始めた。3時間ほどの間に、メモや記憶、写真、などを元に記録を作成しておくことにしたのは、お別れ会で語られた多くの言葉を受けて湧き出す言葉は「渡辺豊和さん」を知らない、理解していないのでんじゃん」「なぜそういう言葉になるのか・・?」と思ったからだ。お別れ会は静かに話を聞く場だと思って参加したが賑やか はしゃぎすぎてた、点も記録しておきたかった。 ●渡辺さんの建築を見始めたのは1991年、自邸(餓鬼舎)に逗留させていただいてからだ。場所を渡辺さんに教えていただいた「初期建築はほどんど観た、体験した」で「一番いい建築作品は西脇古窯陶芸館で、なぜ学会賞を受賞できなかったのか?」と聞いた。渡辺さんはお猪口を手に苦笑いしていた。「まあな・・」とは言ったかもしれない。 たしかに龍神村民体育館は建築基準法を変え高層木造建築の道を拓たのは渡辺さんだし法律を変えた建築家は唯一だ。 西脇の建築は建築と環境の応答の詩型に無駄が無い。(後にできる無駄の多い建築とは全く違う)用途は古代の窯業の姿を保つための合理的建築であるけれど、現在の西脇市民がそこで、薄明りの場で、でろくろを回して陶芸を制作している、それの点を見てしまうと、古代の時間と共振し合い、幻想的な佇まいを、夢じゃないかと思える体験することができる。ほとんど体験の無い建築詩型だ。地形によって建築が歪むし、ないてのも幻想を生み出す源でもある。 あの建築は建築学会関係者の目が節穴だったことを逆照射してて痛快でもある、そういう建築が今も生きて存在している。(渡辺さんは学会員だったので、苦笑いするしか手がなかった、と知っていたけれど。泊めてもらっているので返礼は言葉しかない俺だから遠慮はしないで感想は伝えていた) |
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![]() 6月26日 ![]() ■渡辺豊和さんのお別れ会の記録をつくろうと思い作業を始める。音どり部のほとんどは文字にした、渡辺菊眞さんのお礼の挨拶はあした文字にまとめよう。 ■FB投稿 渡辺豊和さんお別れ会、web記録を作成し始める。 23日大阪倶楽部で開催されたお別れ会のweb記録を作成しはじめる。会場音も了解を得て採取した。聞いてみると雑音がすごいうえに老人たちの発声の悪さと発話者の思い込みが重なり、他者につたえるには意味不明な内容が多いと思った。(内輪や仲間の思い込み語り、伝える距離が短いようだ)でも、概略でもいいとして、自分に必要な記録作りは可能だと判断、作成しはじめた。(作り過ぎないようにしよう)「俺の思っていたやわらかな渡辺豊和さんという事実とは距離があった。他者の中にあるはずの彼の事実は本当はどこにあるのか?」疑問は以前より多くなって参加してよかった。で記録しがいはある。(右:大阪?楽部外観) ![]() |
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![]() 8月25日 ![]() ■昨夜は久しぶりに竹内泰先生とweb電話でワイワイする。 ■午前中は辻さんからいただいた建築雑誌を見て、感想などをメッセージを繰り返す。建築雑誌にたいする幻想の有無を確認できてよかった。 ■午後、お別れ会の記録をつくろうか、考えていたら昼寝してしまった。疲れがまだ残っているようだ。 ■FB投稿 辻琢磨さんが7年間住みながら改修した自邸ができた!かな。 掲載誌『住宅特集』9月号を送っていただいた。数年前1泊させていただいたときは台所や工房、2階へ至る外階段が未完成だった。完成し雑誌掲載され、全体像など一覧できる。下記@〜Aに該当するだろう方にも参考になるのではないでしょうか。 @地方都市A住宅を遺産などで受け継いだB自邸兼事務所として改修する。(Cどのように引き継ぎ家族史を継承し積み重ねているのかも要点ですが・詳細略)これら三点に合致しないと、何のことだかわからないかもしれないので、ぴパピカの建築を求める方には理解できないかもしれません。ご注意ください。 〇辻さん送っていただきありがとうございます!感想などはメッセージで瞬時にやりとりできるので、便利な世でなので活用しワイワイやっています。(ご縁が無ければメッセージ発信できないです。縁のない世界があることはなんとなくわかりますがそのほとんどを佐藤は知らないです。) |
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![]() 8月24日 ![]() ■昨日、大阪倶楽部でひらかれた「渡辺豊和さんお別れ会」に参加するため、始発新幹線にのって最終新幹線で福島駅に着いた、大阪倶楽部での滞在時間5時間だった。 渡辺さんのパーキンソン病下の暮らし方と残された作品について、知ることになってよかった。また旧知に昔若者だった老人たちも多数参加していたので、久しぶりに雑談したりしながら情報交換をすることができた。大阪暑くって、人が多すぎて、魅力的には思えなかった。 今日は昨日のことをランダムに写真など投稿したり昼寝をしたりした。 ■FB投稿 渡辺豊和さんお別れ会に参加して 渡辺さんは著書も多数あり、それらも会場に展示していた。 佐藤は渡辺さんの弟子でもない、また元所員でもない、強いて言うなら東北人同士の交流関係で親しく語り合うことになった一人だ。具体的には長期間、自邸に泊めてもらって「人間・渡辺豊和さん」を観察し、論じられていた言葉と建築の激しい断絶(逆さSFの映画監督なら伝えられるかもしれない世界)が魅力的なのだ。(夫婦愛は他ではみることがない有様でもあった、とても仲良しなんだな) 書き表された文章も、科学的手法では他者は辿りつき理解できない。なにから手を付けて論じたり、語り合い共有すればいいのか、わからない。世俗的な言い方をすれば、現在の社会建築動機、作られるプロセスなどからすべて逸脱していて、ちょっとやそっとでは渡辺的夢幻の豊かさは理解できない。 運悪く、 日本のバブル経済が渡辺さんの夢幻の世界を実現化させ続けた。目の前の建築を見ると渡辺建築の社会性に手がかりがあるように誤解しやすい。現在の建築は資本主義かの合理性で成り立っているので、渡辺建築には手がかりはない。そこから渡辺建築を理解しようとすると二重にお手上げになる。何しろ入眠の世界や夢幻の領域に暮らしていた(事実かどうかは分からない)夢幻の世界があり、お金で夢幻建築を手に入れることは可能なのか、たぶん不可能だろう。現実になってしまう世もあった。(これもバブル経済の馬鹿力の一例だろう。もっとひどい金融バブルもあったが) それが存在しているんだから他者とどう共有すべきか、手法はあるのか?、ないから他者との言葉の連続が生まれていない。共有されないままで大きな建築物だけが社会に残された。そこが渡辺さんの特異な魅力であるし、建築はどんな思想が投影されていようが使えてしまう、使ってしまえ!それが最大の魅力なのだ。 夢幻建築も時々使えず、困り改修の手を加えていた。が、渡辺さんは現世の人間どものことも、無いことにしていた。そこも夢幻界の人らしくってよかった。現実のずれや不都合のなかに夢幻建築の個性を理解できる入り口があるように思う。でも本当のことを書くと佐藤はその入り口は用をなさないとも思っていた。「ただ口をあいて「また、できましたな!」と言っているだけで現世に生きる人はいい、そして語り合うことで唯一夢幻をうむ力を継続する者になれる。 |
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![]() 8月22日 ![]() ■午前中は画像処理をこつこつする。GINP新バージョンを手に入れてみた。何が変わったのか分からない(笑 ■午後、明日大阪での渡辺豊和さんお別れ会にさんかするため、試着してみる。持っていくものを整理する。 ・夕飯はお蒸かしにした、あすの昼飯ように弁当にも詰めてみた。新幹線は空調もきいているので腐らないだろう。氷水を詰めた水筒も持参しよう。帽子はなやみまだ決まらない。 ■FB投稿 時々GIMPおじいさんしてる 今日は手引書片手に、my子たちの753祝いのネガ劣化を修正。へんなアイコンさわって初期設定に戻すの手間取る。手引書の印刷薄すぎる、というより俺の視力の劣化だな。年はとりたくないけど(白内障手術もしている)見えにくい手引書にやつあたりしても、しょうがないね。30分かかって初期にもどした(笑 |
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![]() 8月21日 ![]() ■23日大阪でひらかれる「お別れ会」にさんかするための準備をする。まずはネクタイしめて町を歩いた記憶がないので、そんなサラリーマンみたいな格好で体力がもつのか?その格好で町に出て試してみた。上着なしで汗だくだった。対策をたてねば。 ・妻の依頼で笹かまぼこを10枚ほど買ってくる。1枚330円で、思ったより高価だった。老人のたんぱく質補給に好いかもしれない蒲鉾。 ■FB投稿 猛暑の大都会で「お別れ会」参加のためネクタイ外歩き、の練習。 ネクタイをする暮らしはしてないので、葬式用・黒タイいがいは無い。50年前に妻が作ったネクタイを締めて(忘れている)福島の町を歩いた。首を絞めて歩く予行練習は風があって涼し・・かったが家に戻ると汗だくになってる。大都会の会場は「気温36℃+台風影響あり」の予報だ。当日は黒タイと白シャツに上着、あつそう・・。今世紀に入って葬式のような会合に参加した記憶がない。友人たちは20世紀にそうそう亡くなった。(すまん早死にした友たち、俺はまだ生きているよ。) ◆落ち武者髪型はきらになったので、頭髪は自刈りにて久しい─最近は薄毛になったので自狩り時間10分切ってしまった。 今朝なにか聞いていたら東京はインドの夏より暑いとインドの方がこぼしていたそうだ。ビルがあんだけ、ぶち立っていて放熱しつづければ東京の空気は沸騰するだろう・・それでも人は大都会がだいすきなようだ。田舎者は一日行くだけで予行練習する軟弱さです。 ●1970年代後半は千葉市郊外の住宅団地に住む(イベントの様子) ◆自分たちの力で新たに生まれた地域の記憶と歴史をつくりはじめた郊外住宅地に4年ほど暮らしたことがある。住人の皆さんの地域づくりの熱意はすごかった。場所は家から渋谷区恵比寿の設計部まで2時間、ひどく道が混むときは2.5時間ほどの通勤時間かかる。都心からはエライ遠いような気がするが、千葉から都心に通勤して人も多かった。 ◆住んでいた住宅団地は「川崎製鉄所」に勤めている人たちが集まって、(会社が斡旋したのかも)まとめ買いしていたのだろうか、製鉄所に勤めている人集していた。だから何かあっても社内のような結束力がこの郊外住宅地にももちこまれ、自らの出で新たにここの歴史をつくろう、と明確に表明していた。で、俺のような新参者にもすぐ声がかかった。(町づくりにも声掛け重要ですね)若いから下働きが回ってきた。いい人たちだったので一生懸命参加した世話になった。行政を介さないで地域の人々との町づくりも面白かったよ。 時折、野球をやったりソフトボールをやったり、なにでも盛んに活動していた当時の記憶が蘇る。(歴史も何にもなければ、地域づくりは掃除をして声を掛け合うのが第一歩だね) ◆現在暮らす・福島市の我が家周りには「東北電力」の方が土地を購入し家を建て3代目になっている市内でも変わった企業団地のような所だ。で近所に東北電力の社宅や独身寮もあり「東北電力町」と名前を変えたほうが分かりやすかっただろう・・と思ことがある。 ◆絵は郊外住宅に確保した公園内での夏祭りの一コマで、関取を呼んで子供たちに力士に触れさせてい様子。川崎製鉄の人々は畑の真ん中にできた住宅団地には歴史が無いのを自覚してて、無いなら子供たちのために自分たちで祭りやイベントの記憶を創っていこう!としていた。地域での活動がすごく多かった。建築会社の社員はおれだけで、他には大手証券会社とメガバンク社員に取り囲まれていた。声がかかれば眠くても参加するものですね(笑 |
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![]() 8月20日 ![]() ■半地下でmy長女の画像整理とweb版個人史(写真付きの年譜のようなもの)をコツコツ作成している。40数年前の画像を整理していると、生を丹念にいきるには、暮らすことと同時に記録することが肝要だ、と思い知らされる。記録手法はいろいろあるけれど、短いコメントでも記憶を再生するにはいい手がかりになる、それも再確認することになっている。 ■FB投稿 外は暑そうなので、半地下でmy長女の画像整理している。 子育て世代にとって暮らす各都市には豊かな公園は不可欠。駅前にも緑豊かな公園があると旅人も便利なのだが・・・福島市は山に囲まれた盆地だからか都市公園への意識は低い、あっても豊かなものではない。子育て世代の支援にとって最適な豊かな都市公園の数がすくないと思う。(河川敷はあるあれは公園じゃなくバッファーゾンだ)。 ◆娘が生まれた地、調布市の木造平屋建の2K賃貸に6畳ほどの庭と庭から続く1ヘクタールほどの平たんな空き地があった。そこで子供を遊ばせる。最適な子育て住環境だった。3年ほどして千葉市にある郊外建売住宅に引っ越した。そこで3.5年ほど暮らしたが、豊かな都市公園と目の前には野球もできる運動場があったので、子供と両方を使い分けて遊んだ。 福島市に越してきてからは荒川の河川敷がその役割を果たした。放射能が沈着公園は除染された河川敷は近づかないようにしている。が、都市生活には子育て支援のために公園を育てる必要あるかも。最近の若い世代の子育てはどうしてるのかしらないんだけど。余計なことかな。公園で遊んでいる福島市老人ほとんど見かけないのも謎の一つだ。家でTVのまえの椅子に縛りつけられているのかな?工業高校の先生の夢はパチンコ屋に入り浸るだったけど、ゲームセンターに行っているのかも、知らんけど。 ◆いよいよ栄養士の道へ(笑)飯炊き爺さんの下に健康系本6冊届く。 原因は放射線治療によるダメージだと推測中。胆管や尿路に結石ができやすくなていて、昨年ぶっ倒れて1週間強制入院に陥った。「運動もしてないようだし、1年経った、あの痛みと入院を忘れるころだろう・・・」と親思いのmy長女がネットで発注したようだ。チラ見したけど簡単には覚えられない。めんどうだから栄養士になってしまおうか・・(笑 ご飯はどうもいかんらしい、パンに小豆と牛乳とサラダに朝飯にかえてみようか・・・小豆を炊く。(通風痛いよ!) |
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![]() 8月18日 ![]() 猛暑は戻ってきたので、半地下で作業をする。my長女版web個人史をすこし作り始める。子供が増えると手が回らず、写真の枚数も減っているような気がするが長男と同置写真も多くなるので、枚数も数えてないので詳しくはわかっていない。 ■FB投稿 ◆猛暑は戻った福島市 長期予報が出たが今年は10月暑さが残るって聞こえたような気がした。やけくそが似合うほど暑さが長引くのね・・天候がそうなら食い物で対応「辛い辛い、猛暑ぶっ飛ばせカレー」を作る。作りながら食べながら球の汗を流す、夏はやっぱりこれか・・。カボチャじゃなく薩摩芋がほしかったけれど見つからず、北海道産カボチャの代役。茄子、ジャガイモ焼いたり茹でたりするだけ、簡単だけど美味い。カレーは炒める、これが肝だと飯炊き爺さんは思い込んでいる。通風防止に米の量はすくなくしてみたけど効果のほどはしらんがな・・。追加盛で二杯たべそうになる・・我慢。 ◆今日からmy長女のweb版個人史にとりかかる ネガ劣化(変色と傷)が甚だし画像データだな。修正できるかな・・それは思案しよう。作業していると当時のことが浮かんできて家族それぞれの個人史をつくることは、小さなことだしな・・・と思って始めた。しかし想像していた当時の社会(世)と俺の関係が浮かんできて興味深い。このあたりは設計部員在籍6年ぐらいになっていたので、実施設計と営業用プランづくり、設計施工の現場監督との打ち合わせ、よその設計事務所へ数か月製図要員として応援派遣されたりなど、幾つもの物件を抱えていたうえに、夜なべバイト設計も受けて施活費をかせぎまくっていた。で、目まいしそうに忙しかったし、電車に揺られるとすぐ眠ってしまい目的駅を通りすぎて失態したり(笑)など泣き笑いするほど、「人生で一番忙しかい時期だった」と振り返ることになった。(独立系建築家はらくちん)20代は体力があったので仕事をいくつも抱えてもこなしていた。設計部員は発注者の接待を負わないので、その点は独立系建築家よりは営業仕事ないのでかなり楽だぜ。 (創造性は求められない設計部員、独創的なプランを提出すると担当営業マン発の雷が落ちる、だから修行にはいい場所だが長いするのはどうかな、俺は石の上にも10年と決めて働いて10年で退職した) ◆台所南テラスの日よけ葡萄、甘い香りをふりまき始め秋ちかし 日よけ機能だけお願いしている葡萄なのだが、肥料も農薬も施さない。日よけは満足だ、でも今年も房をつけた。もうじき口に放り込めそうな姿になってきてた。房を見ていると、人と人との関係も、この葡萄と俺の関係のようにそれぞれの速度で成熟し合うのがよさそうだ、とどうしたわけかそう思った。たぶん福島市にも今日から猛暑再来なのでmy頭蓋骨内も暑くなっているからだろう、そうしておこう。 |
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![]() 8月18日 ![]() my長男のweb版個人史をこつこつ作る、誕生から2年間ほぼおえた。 my長男かぞくから笹かまぼ届く、ありがたし、さっそく夕飯にて食べました。 my長女よりカロリーなどに関する本5冊届く。勉強して食のバランスよくし、尿酸値さげて通風予防にいそしもう。 ■FB投稿 web版「my長男個人史」誕生から2歳までまとまったかも・・。 ◆余談だが、俺は結婚主義者ではないので子供たちに「結婚せよ」と言ったことがない。結婚なんてしなくて済むならそれでいい。建築家になるなら結婚しないと暮らしを理解できないので早々にすべきだろう。建築家界にはいると仕事はたくさんあるのでアルバイトでもなんでも稼ぎまくり子供を育てることは、サラリーマンなんかより容易だから。(金持の子息じゃないと、アトリエ系に踏み込んでしまうと生活さえできないんじゃないかな、知らんけど) ◆早々に結婚し、代々木に住んでいたが子育てできる環境じゃないので引っ越した。1976年当時は京王線沿線の調布市にある柴ア駅から徒歩7分ほどの民間賃貸木造平屋だて、浴室、台所、汲み取りトイレ、庭付き。家の前は1ヘクタールほどの空き地があるところに住んでいた。室内にはスポーツ雑誌の付録だった長嶋茂雄選手のポスターを引退試合のチェットとともにパネル貼りにし飾っていた。(引退後長嶋への興味はなくり現在に至る) 子供が身に付けているものは妻の手編み、誕生ケーキも焼いていたように思う。この頃からか、強制したわけではないが、2才すぎからひらがな文字を読み始め数年後には漢字もおぼえてしまい、小学前には新聞を読んで学校に行くような変な小学生・子供だった。(ニクソンショック、2度のオイルショックなど大騒ぎの世だったけれど、我が家はトイレットペーパーを買いに走ることなどせず暮らした) ◆web版「個人史」を作成していると、疎遠になった方々、亡くなった方々、この世から消えた品々などを思い出してしまい、あいつには酷い目に遭わされたな、別れた因が立ち現れたりし心が痛かったり、ああすればよかったな・・と反省したり、彼らは今、生きているのだろうか?と懐かしんだり、多様な感情が湧き上がって面白いものだ。 ◆だれかが作った歴史的情報を浴びてあの当時を見誤らないためにも、デジタルweb版、個人史は簡単に作成できるので推し(手間はたくさん要りますのでご注意を) ◆先輩建築家の家を訪ねあるくようになると、一貫校を経て有名大学で学び、子供たちに教育を強いるかのようなパパが多いのには驚いた!当然かもしれない、この業界は頭が悪いと生き延びられないからだ、しかし子供に過度な教育プレッシャーを掛けても、効果があるとは思えない。俺は子供の教育にはまったく関心がなかく放置しでた、いろんな人間がいたほうがいいし、漱石が言うように専門家は針で井戸を掘るようなもので世にやくだたないと、漱石に同意する。馬鹿はばかなりに、楽しく生きる術を教え合えばいいんじゃないかな・・ |
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![]() 8月16日 ![]() ■my長男のweb版個人史を作成しつつける。画像処理がてまどりさほど進まないがようやく2才の写真までまとめる。たくさんある写真から選んで並べてながめる。 ■FB投稿 my長男の高校までのweb個人史(年譜)作成はじめる。 〇記録作りしていると「人と人は努めて会って語りあい食い合え」という天空の声がきこえてくるので面白い。昭和は手抜きしてても人と人の縁が豊だった、現在は手抜きしていると人に会うことも縁もうまれない、そんな気がする老人は少なく動いて濃い交流を開発中。 〇1974年、子供が生まれた前後に届いた「お祝いメッセージ」は葉書、エアメール、手書きのカードなどだ。それらを見ていると文字が、それぞれが各人の息づかいと人格を表しているし、文面はまま関係性をのぞかせるので読み込んでしまう。50年後の現在、webメッセージ瞬時に地球上に伝えてくれる。発信者の情報は、機械文字の羅列から心境を読み込むしかない、淡泊さ交換になっている。食べ物同様、利便性と引き換えに省略し淡泊な関係だけになるかもしれない、その大きなベクトルを感じて面白い。 白川静さんは「文字の無い世界から文字が生まれ、人間が文字を手に入れた、そのときに宇宙の神々は嘆き悲しんだ」ということまでさかのぼるのもいいのかもという気もする。利便性を嘆かわしいと思うか、人間は時と共に激しく変化し続け、どのぐらいの時間の人間と対話が可能なのか?それを想うのも楽しい。老人の俺は実験的に対話や聞き取りの旅にでて想ってみる。現場に立つと情報が多くて目まいする。そのことで情報の変容の快楽を教えてもらえる。 〇日本人ファーストを訴える政党が参議院選で多数当選した その流れは世界共通のようで現在の政治も世情も対立分断をあおってしまうのだそうだ。俺の身近に外国人はいないので、my長女の書棚から『東京外国人』を見つけ読んでみた。 都心でくらす23人の外国人に投光し取材していて、読み込んでしまう。登場する誰一人として排斥すべき人間とは思わない。「外国人に富を奪われている」と言い張るなら米国債を売り払い車などの輸出もやめたり、国内で食材も含め必要な品々を生産しまかなうしかない。鎖国するのは錯誤もはなはだしいんだが日本人ファーストは何を言っているのだろう、日本人の取り分が少なくなったという被害妄想の源を外国人に当てて気分を紛らわし源を追求しない怠慢に乗じた政党のような気がする。 〇my長女西欧で暮らし、西欧の人々にお世話になり交流もし、税金も納め、平凡なユーロ市民としての地位を得て、外国人として暮らしている。同時にその地域で起きている、移民問題、外国人の排斥運動も横目でみていろいろ考えて教えてもらえる。 政治家に任せておけばいいという、発想だとますます自分の暮らしの息の根を止められるのではないか・・、自分で解決する努力と外国人との交流に努めてから排斥すべき人なのか・・と考えることが先だろう。政治家のキャッチーな言葉に引っ張られ |
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![]() 8月15日 ![]() 1日中画像処理してmy長男のweb版個人年譜をすこし作り始める ■FB投稿 今年も8月15日 敗戦から80年。─ ミズリー号にて降伏文書に調印したの9月2日なので敗戦の日は9月2日するのが正式かも─ 多くの人々は8月15日を終戦記念日という。お盆と重なり忘れない。 戦場に立って戦地でしでかした事を詳細にかたる親戚のおじさんたちは、既に亡くなった。彼らのを聞いて感じたのは、だれも戦場になどいきたくなかったし、外国人を殺害したくはなかった。殺害状況を語る彼らは後悔の念と誇りが入り混じったような感情で目が血走って語り聞かせることは多かった。社会人になってからは戦地では食い物が無く、女性にも飢えた兵士たちは外国人の家に徴用し押し入り強姦したあと娘を殺害した、と語り聞かされた。確かめようもないし本人が嘘をいうってるかもしれないので本当かどうかは知らない。聞かされても応じ方にきゅうするものだ。(子供が聞いているには怖いかな) 戦場へ立ったおじさんたちからは戦争の話を聞いたが、義務教育の現場では近現代史は意図して教えない。だから、なぜ無謀な戦争を始め、降伏へ至ったが、その責任はだれがとるべきなのか?それらは自習するしかない。複雑だけどしかたがないので自習(自国の近現代史を知らないで、外国に行くと恥かく) ●日本史総体を見渡しても靖国神社はかなり特異な場所と歴史的背景をもっている、(国民国家と言うフィクションを支えるためのシステム)なので、できることなら「人生一度でいいから8月15日に靖国神社境内に立ち入り1日じゅう観察することをおすすめします。」(隣の遊就館をも見学すること) 福島県内は右傾のひとは多い。俺は右翼ではないが靖国に行くと多数のコスプレーヤーと対話もできるよ、所狭しとばかり次から次にあらわれる彼らを見ているだけでも日本の姿の一端が分かるので貴重なはす。 (会津藩の人々末裔にはおすすめしない)帝国主義の波が押し寄せるなか脱植民地を企て近代の国民国家を急造し帝国日本のため会津藩などが犠牲になった、ことも知ってから立ち入ること。 |
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![]() 8月14日 ![]() スキャンしたネガデータを年代順にまとめたので、次は使う絵を選び、フィルムの劣化でひび割れや傷がたくさんついている。AIで綺麗な画像になると近頃さかんに宣伝しているので、試しに無料版をダウンロードして使ってみた。さほど綺麗にならないので、使う絵を選び出して手作業で修正するのがよい、と判断し即アンインストールしてしまった。どうも高価な道へ誘導されるような気配を感じてしまったので、それはそうだよ、お試し版で使えるほど綺麗に修正できたら、だれもお金を払ってAI修正機能を使わなくなるだろう。 テック封建領主たちはお金を集めるために、美味しい広告垂れ流しているんだろう。勘繰りすぎかもしれないが、俺は時間をかけて使うものだけ手修理で傷をとることにした。 ![]() ■FB投稿 50年前のネガの傷などをギンプで修正してみた。 画像の傷はすっかり消えるのか?・・「AIなら傷の修正もパッチーと仕上がる」・・と華々しく宣伝されネットを埋め尽くしているのだが、ほんまかいな?と無料お試し版を使って修正させたが芳しくない!。見本は逆作りしているのかも?と勘繰りたくなるほどだ。あのように綺麗には仕上がらないけど修正点絞って、1ピクセルごとじゃなく修正しみた。 AI修正機能は綺麗に仕上げたければとドンドン高価なソフトへ導ごれる気配あり。商魂たくましい「テック封建制を仕切る経営者たちの魂胆」は見え見え「お試しツール」。 金が無いけど時間はあるので、家族それぞれの個人史に使用する絵だけを選んで、ひび割れなどは手で修正して使うことが財布にもPCにもよさそう。PCで傷修正していると、絵を修正描くみたいな気分になって面白い。(顔だけ修正してみたが背景のひび割れは気にならない) |
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![]() 8月13日 ![]() ■夏季休暇のmy長女 スイスにいっているようで写真が届いた。イベリア半島は40℃でアルプスには雪!電車が走っているそうで日本では体験できない気温の落差。富士山の頂上に雪は残っていないだろう。 ![]() 西欧からの便り イベリア半島は40℃、フランス37℃など西欧のこの夏は猛暑の地域が多いという。 避暑はこんな場所も選ばれるそうだ。高地まで電車で行き愛犬とともに雪道を歩く避暑、が高山病にもなるそうだ。北極の氷が溶けて航路が開かれるような風聞もある。地上はこの夏も様々。こう猛暑が続けば富士山には雪はないだろう ■昼をはさんで映画を見に行く 詳細はFB投稿のようなもの。 ■FB投稿 『それでも私は』を観た。 30年間に撮りためた写真用ネガスキャンデータは一節ついたので、いつもの映画館に出かける。『それでも私は Though I'm His Daughter』を観る。松本麗華さんを撮り編集したドキュメンタリーだ。彼女の12才から41歳までの証言や現在の暮らしぶりに投光し分かりやすく心境と揺らぎ、そして死にたい衝動を抑える姿をまとめた内容だった。(長野の松本サリン事件や地下鉄サリン事件のことを覚えている人はいるかもしれない。12才の少女は41才の女性になっている) 昨年長崎旅行録を書いて、「被害者の声は記録され残るのが歴史だけでは、片手落ちではないか?」と加害者とその周囲の関係者たちの肉声やその後生きざまをえがいた記録ほとんど無いので、歴史上の殺戮行為は理解できなことが多すぎる。 地下鉄サリン事件は教団が日本人を殺害する行為に走ったのは時代錯誤も甚だしい蛮行なのだが、あの当時だって意見の違いを対話によって合意形成をなし、存在を認め合いつつ共に地上に生きていこうという、「人間の安全保障論」を唱えた緒方貞子の活動は広く受け入れていた。だから、サリンをまいて同朋を殺した人々は理解し記憶していたい。 地下鉄サリン事件の加害者たちはどう掘り起されて記録されているのだろうか?、マスコミが垂れ流す被害者や政府関係者の声は取り上げられ配信されているのだが、加害者たちの声は森達也監督の『A』の中に存在しているぐいかもしれない。被害者たちの声をあつめた村上隆著『アンダーグランド』を今も読んでいる。読むほどに加害者の声も知りたいと思ってしまうものだ。敗戦後の高度成長期という同時代を生きていた同じ日本人として興味はある。サリンをまいた彼らはどういう動機や心境でサリンをまいたのか、それは知りたい、加害者の家族はどう思って生き続けているのか、それも知りたいとは思う。『それでも私は Though I'm His Daughter』が1週間上映されていると知ったので観た。 感想は後日書くかもしれない。今日は入りと仕舞を簡単に書いておこう。入りは都心を上空からとらえた絵で、仕舞は東京都下にある登山道を姉と三女が下る姿を上空から撮影しててお仕舞となっていた。どちも空撮であった。 |
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![]() 8月12日 ![]() ■1日中 スキャンしたデータを年代順に並べつづける。1週間ほどかかったがようやく使いやすくなった気がする。 ■FB投稿 1970年からのネガ、スキャンデータを年代順に並べ終えた。 ようやく使いやすくなったかも。 頭の中が写真だらけ(笑)いまわの際に走馬灯のように絵が現れるという民間信仰があるが、たった30年分のネガをすべて見たけど、走馬灯回り過ぎて生き返っちゃいそう(笑、というより、俺この絵自分で撮ってるけど、全部覚えてないもの・・。民間信仰は嘘だと分かった。 残るは、スライドだが手を付ける気なし。(一部の1992年3月メキシコの旅で撮ったものはweb公開したけど、何カットは数えず) メキシコの旅の絵には渡辺豊和さんの旅行記がついている(了解を得ている)興味のあるかたは一読ください。http://fullchin.jp/00hairo/01iseki/mexico01.html |
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![]() 8月11日 ![]() ■1970年代からのネガデータを名前をふりつけ、年別に並べ直す作業で1日終える、量が多いので数日かかりそう。 ■FB投稿 福島市内のデパート屋上に遊園地があった日 1970年代のネガ整理後、1980年代ネガ整理スタートしたらいきなりデパートの屋上遊園地の子供たち絵カットいろい2025年現在駅傍にはデパートすら無い状況に陥って、みながわくわくしない!と中心市街地の男たちは頭を抱える。理由は単純明快、自業自得の結果だ。 東京での10年間の間、義理の姉たちのmy子育て支援各種いただきて、3人の子供はすくすく成長し福島に戻った。今は毎月一人あたり子供支援金支給されているようだ。義姉たちの支援はお金では得られない後方支援行為の数々で、妹のために世話をすることが大好きな姉妹だった、と分かる。おかげで俺は子育て期間中の記憶がほとんどない・・(アルバムネガを見て分かった)出産に立ち会うこともできない、育メンという言葉もない世の中だった。 ●子供をもつなら姉妹がいい、と思うけど、産み分けられないので、運に任せた。娘に支援してもらいことを魂胆にしてはいけないは当然だが、姉妹のほうが仲がいいのはなぜか?今は女性でもコスパとか言うような気がする・「コスパ悪い爺さんは早く死んで」と言われないよう、影口ただかれないよう、飯炊きするのがよさそうかも。 |
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![]() 8月10日 ![]() ■家族史、my長男篇の個人史web版を作り始める。おもったより手法が定まっていないので思ったよ行錯誤しながら画像を貼り付けてみた。 ■FB投稿 web版「家族の個人史・my長男篇」作成開始 ネガデータ発掘したのでweb版個人史、長男篇を作成しはじめる。聞き取りしてどのようにweb版をまとめればいいのか、思案しているより、具体的に作ってみたらいい。そう思いいろいろデータ整理して「妻篇、高卒まで篇」は作成した。 ■家族のアルバムを全部通して見る機会がなかったので、観たら発見多い。で相対化もしやすい。web版の形式も編み出せる。 ■なぜ福島市出身の俺と妻は結婚を選択したのか・・その理由も彼女のアルバム=成長の記録を見て、「なるほどそういうことか」と腑に落ちた。のちに更年期障害発による心の病に陥る・・とは本人も俺もまったく予想はしてないのは当然だが、個人史は後知恵でしか成せないことも分かった。 ■22才半で初めて我が子を育てる義務を負った。昭和・東京の妻家族の暖かい団結と世話好きな兄や姉たちによって、東京人の子育て手法の影響を大きく受け、3人の子供を育てることができた。福島昭和の子育て文化との違いも明確に意識できて、単なる個人史作成なのだが、人間が成長し生き続けるというのはなんと不思議なことだろうか・・と思うことになった。 ■あのような家族のつながりは今、周囲にも見ることができなくなって、個人はばらばらと心が離れ砂状になった社会の中で暮らしていると言われることが多くなった。人は生まれた時代以降の影響下に育つ、努力ではどうにも越えられないことも多い。 |
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![]() 8月09日 ![]() 10年前にネガをスキャンしたデータの保存PCが分からず。一台ずつ動かしてみる。予想外にタワー型のヒューレットパッカード社のwin7のPCに綺麗に保存してあった。24時間かかってようやく発掘できた。だいぶ家族それぞれの個人史作成作業は軌道にのりそう。 データをどう修正加工して使うかは、個人史を作りながら適材適所で対応していこう。 古いPCとソフトの方が老人の俺には使いやすい、何でもwebから得るのは好きになれないほど、俺は老人なのだ。PC使っているだけよしとしておきたい。 ■FB投稿 練習 51年前のネガデータの傷を修正してみる。 暇なら即「それぞれ各人の家族史」web版作成予定なので、10年前採取したネガデータを修正してみる。デジタルデータは劣化しないので一度作ってしまえば使いまわせるので便利(ホルダ管理は予想より煩雑─日頃いい加減だからだ) ●ネガの傷は、顔のみ修正するだけでいいかも。 ●色はAI使えばいいのだろうが変色は味としてままがよさそう。 ●何にどのぐらいの大きい画面、ピクセル数で使うのか、によって修正手間は格段に違うのを確認。 ●顔の傷のみ修正し、モノクロで使うのもいいよさそう。 24時間かかって発掘(10年前に古いネガリスト+データ)作成していた。 ●PC内のホルダ名とデータ28GBほど。暇をみつけてはコツコツ、ネガをデータ化していた、そのデータ。リストだけあってデータはPC内と書き込みだけある。「どのPCなの?・・不明で探し出すのに24時間かかった。古いPCありすぎ一発で発掘できない。古いタワー型ヒューレットパッカー win7に保存してい。そんな古いwinを使っている訳はネガ・スキャナーが古く最新のPCでは動かないからだ。 ●PCソフトを更新しつづけるけど性能が良くなっても、老人には使い勝手が悪くなり不便になることも多いニューソフト。老人は新しいソフトを使いこなさないとい・・・。古いPCはアプリをCDで読み込む、物のような良さもある。最近のアプリはwebからダウンロードして期限付きで再度入力できなくなる。で、何度でもお金を巻き上げられることになってしまう。とほほ老人なんだな。 ●AIが進化し続けても個人の50年〜70年前の脳内のネガをスキャンし提示してくれるようには成らない。人は忘れる特技を持っている、そのことに気づいたほうがいいんじゃないかな。大歩危のすすめ。 ![]() ●8月9日だ 原子爆弾よる最後の被爆地へ 長崎 原子力事故による最後の被爆地へ 福島 (福島は一致団結し事故の記憶を継承する姿勢は弱弱し過ぎる) |
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![]() 8月8日 曇り一時陽射しあり すこしやすい30℃ぐらいだったかも ■1日中ネガを並べて整理していた。ちっとも作業できず。 |
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![]() 8月7日 ほぼ ![]() ■web家族史を作成しているけど、今日からmy長男の写真など整理しはじめる。ネガやアルバムの保管が下手で変色や傷あり紙焼き写真多い。デジタルの世になるとは想像してなかったので、しかたがない。 ■FB投稿 『家族史』作成と家族+自我・写真あるといいので・・。 ●写真があると記憶を掘り起すには便利だ。俺が好きな明治維新前後のプロカメラマンは長崎にくらした上野彦馬だ。彼は何でも撮っている。近所、家族、友達、芸者さん、偉人も風景も。家族や仲間の写真は当時の暮らし着物に食い物に男女関係などが分かって面白い。『写真の歴史』p43によると、1827年書斎から風景写真を最初に撮ったのはJ.N.ニエブスだという(単なるぼんやりした屋根。 ●時代は下って AIによると「 戦後の日本でカメラブームが起きたのは、主に19500年代のことです。終戦後の復興ムードの中で、人々の生活に余裕が生まれ、写真を楽しむ人が増えたことが背景にあります・・・。」確かに1951年生まれの俺の家にも上からパカンと蓋を開け覗く二眼レフのカメラがあり親父が撮影しては写真館に走っていたことを思い出す。 my妻は兄弟がカメラ好き、アルバムづくり好きの影響下にあり、姉からオリンパス一眼(?)レフカメラをプレゼントされ、中学時分から撮影しアルバムづくりをしている。結婚後もアルバムづくりは続き、デジカメが現れるまで続いた。紙にプリントされた写真と文章は相性がいいように思う、アルバムにちょっとしたコメントを書き残すと記憶が起動する仕掛けになる。俺が最初に買ったカメラは結婚した時でミノルタ一眼レフだから、写真もアルバムも少なすぎるんだ。 ●デジカメ時代になって25年ほどだけれど、たくさん撮り過ぎてどうも扱いに困る。今はAIが加工してくれて、フェーク写真データも自在につくることができる。人なら好きな記憶ってやつはとことん痛めつけられる価値の無きような扱いの世になった。そんなことで写真を整理して物としての写真とアルバムと文章でなる『家族史』を作り保存する、タイミングだと思う。紙写真とデジカメのどちらの良さも知っているから作る気になるのだが・・。 俺が子供たちに一眼レフカメラを買ったのは彼らが大学生になってからだった、遅すぎたかもしれない。生まれてから大学入学までは母親がジャガスカ撮っていたのでそうでもないかな・・。 |
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![]() 8月6日 曇り、広島原爆投下80年の日。31℃ほどで助かる。 ■妻の高校卒業までのweb記録に聞き取りした文字を加える作業をする。家の住所が変わっていてweb地図で探せず添付しないことにした。転売してしまったのかもしれないが・・。 渡辺豊和さんの家を訪ねた日の動画記録などを発掘しつづけて、ようやく見つけた。 ■FB投稿 渡辺豊和さんとのラスト2ショット(2013・5月17日)発掘 呑みへろへろに酔いながら10分の動画聞き取りした、デターも発掘、吉本隆明の評論の面白さや秋田体育館についても語っている。若い時分の怒りはきえ、晩年は世俗を超越して、穏やかに暮らしていて興味深い。(最後に語り合ったのは2019年12月3日渡辺菊眞展@高知市) |
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![]() 8月5日 曇ったり晴れたり 猛暑にはならなかった福島市 ■町に用事があって出かける、紫外線が強いだろうか、目が熱いきがする 冷やすと気持ちいい。網膜焼けているのかもしれない。暑い日は俺のような老人は外に出ないのがよさそう。 ■帰りに県美術館に立ち寄り、ジブリ展を通る。たくさんの親子連れで大賑わいだった。 ■FB投稿 町に出た首タオル爺さん 帰路「ジブリ展」に迷い込んでみた! 夏休みとあって大混雑だ。予約し来館しないと入れないそうだが、俺は美術館おすみつきの優待者なので予約なしで入れる特権者だ。(何度でも入れるけどジブリ好きじゃないので行かない)来館者に聞いてみると仙台などの近県からと市内の子供より周囲の市町村からの親子連れ多し。安近短で夏休みの思い出づくりには、館内も涼しいのでよいだろう。車椅子の老女は大変感激したそうだ・・・目が泳いでいたので、「どういう点に感動したか?」は聞かず。 〇フィクション発のテーマパーク行って、稼いだ金を思い切って豪遊した気分になるのが2025年資本主義への貢献する若者世代は大流行なのだ。受付の方によると今日は(福島市開催だからだろうか)、平日だからだろうか、入りは少ない、と目を輝かせて伝えてくれた。こんだけ人が入れば受付嬢だって感激するだろう。土日は超満員らしい(小さな子供は!パパ抱っこしてあげないと何も見えないだろう。) 〇10代仕舞の方はコスプレして行くと思い出はさらに分厚くなっちゃうので推し! 〇めも)伊勢崎参議院議員とうとう質問に立った日 日米地位協定が改正され 日本の米軍基地から他国へ攻撃機が日本政府が拒否すれば できなくなる(自由なき駐留)日が早く来るように願っている。 〇今年度から天婦羅に挑戦している飯炊き爺さん 近所の天婦羅屋から持ち帰って眺める。色がいまいちなのは油が古いのかな・・分からんけど。 爽やかに揚げたい爺さん 衣はこんな感じで付けばいいのか?福島市内に天婦羅屋専門店は蒸発しちゃったも・・・探して食いに行ってみたい。 |
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![]() 8月4日 ![]() ■家族の年譜づくりの準備作業をしている。今日は文集のありかと内容を調べる。大量にあるのでmy子の文章を探すのは何年組を知らないので、コツコツ探しすしかない。 ■FB投稿 my子たちが1980年代から90年代初めに制作した文集掘り起す。 校正待ちの間に、今日も猛暑だから半地下に籠って文集や子供たちの資料を読む。子供を持てばどこの家庭にも有るはずの小学校や中学校の文集と原稿用紙に書いたおりおりの文章の数々。さらに絵の数々。それを並べてmy年譜づくりのための予備知識をえようと発掘作業中。世の景気を反映するかのように製本が豪華になっていく。見た目はよいのだけれど、手作りの文章の味にはとうてい敵わない。世の景気を反映している製本のさま。子供たちの文集の変化する様もおもしろいもんだね。(全部読んでないだけどmy長男が10才、小学4年生のときに書いた体験談は、抜群の臨場感と飾らない文面で単刀直入だけど内容と書き方が合っていて、説得力を持ち、古くならない!時を越えて伝わっていくと思う。素直に自分を語るのは大人でも難しいはずだからだ・・。) 二度目の備蓄米 買ってみる。 税別2000円 前回は焚き方工夫したので不味くはなかった。今回の備蓄米はどうか、炊き込み飯にすれば問題ないだろうと飯炊き爺さんは思うのだが、はたしてどうか今週末試してみよう。 (金融資本主義誘導日本の現状ではインフレ加速させたい政府や財務省なのだろうが、一気に米の倍値はやりすぎでしょう。年2%ずつあげるのは理解できるけど。) |
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![]() 8月3日 ![]() ■今日から自分の18才までの年譜作りにとりかかる、資料を見ていつだけで1日が終わる。 ■FB投稿 18才までのmyワイフ(非公開)年譜できた。(最初の絵) 人には過ぎ去った時間と今しかない。次の自分を知り得る人は存在しない。だから今を知るためには年譜など過去の記録を手に入れないと今においても何も語れない。長年聞き取りしていて四半世紀分のweb記録ができた。それらは全て「過去の今」が文字になっている。それらに目を通しながら個々人の年譜などを作成しようと思いはじめている。出来上がると今世紀に出会った人々の、my彼ら評伝のような内容になり、web記録化しはじめている。まだ、まとまった記録はなにもない。 〇ひな型や年譜づくりの困難を知るために、初めに家族5人分の年譜を作成してみよう。で、始めた。今後も暇があれば加えつづける。記録の内容は「聞き取り文字」に「アルバムの写真」を合成しweb記録の体裁。で、家族それぞれは何歳で亡くなるのか分からないけど、それまで、あるいは俺が死ぬまで作業は継続し年譜を作り続ける予定。 〇年譜をつくり始めたのは、昨年長崎の長崎の旅で「トーマス・グラバーの人生」を調べて旅行記のようなものを作った。(2番目の絵)だがトーマスには自筆の原稿や記録が無い、後に評論家のような方々の記録はあり、それが積み重なって幻のようなトーマス像になってしまっている。 いろいろ本に目を通したけれど、俺は「自然人トーマス像」に迫れてない、との決論に至った。さて自然人としての年譜をどうしたら作成したり手に入れることができるのだろうか? 3年ほど前から過去に出会った人に、お願いしその方の「人生を語っていただき」記録をつくりはじめた。人生を語ることは本人だって至極困難なことだ。メディアが作りあげる彼らの情報は作られた手垢のついた物語であり、自然人の彼の生=今と過去ではない。だから論破好きな者は既存媒体のネタを読みふけってクッチャべり知った気になればよいだろう。本人だってメディアの手法に沿って語っている場合は多いから自然人の彼に近づく方法はできていない。 そんなことで現在から語り過去と今の自分=自然人を知る方法は一つしかないように思う。彼の肉声、つまり呼吸を記録することだろう(加えれば自筆の文章と写真)。 〇TI革命によって30年、マスコミを信じる人はほとんどいない。先の衆議院の18〜30代の政党別投票割合をみると、IT革命下の彼らの心の栄養が何であったかわかる。本や机上の空論や同様親の教えなど蒸発してないも、今だけにぶら下がる動物になっている(。ゼロ年代から指摘されていたことだが・・) (〇)夏休みの旅に「長崎市観光」推します。原爆資料館も推しです。 2024年にはじめて行きました。見応えありすぎたので、web記録をつくり公開しました。 三菱の城下町の長崎でもあるが、空港について最初に手に取ったマップにはトマスグラバーの絵??なんでだろうか・・調べながら記録にしたもものです。スペインやポルトガルの植民地にならずの日本のことも探ってみた。現在は軍事から見てもアメリカの属国以下といわれる(地位協定)状況にあるので、明治維新に遭遇した日本人々と外交人の商交流に学ぶべき点は腐っていない。(2025年現在の排外主義者たちに反対しますです!) http://fullchin.jp/202405naga/02-3/nkikou-10.html (〇)生きていれば100才の父よりの手紙 1970年4月9日。 何通も発掘したので目を通す。最初の手紙は父親らしいやさしさと人格を読み取りかのうだ。菜園や花や果樹を楽しでいたが発病した。(精神疾患は優しい人が患い易いのだろうか?) 〇父は三島由紀夫と同年で20歳で終戦となり二等兵への夢はかなわなかった一人。先人には後ろめたく生き続けたのだが、割腹自殺はせず、激変した敗戦後の世を生きた。俺が社会人になって直後、・・・原因は不明・・・この手紙を発送し半年もしないうちに「心配することはない」と手紙に書いた後、45歳で「躁鬱病」を患う。23年間、服用した抗鬱剤による薬害で68才で心臓が止まり亡くなった。発病した当時も亡くなった当時も、強い抗うつ剤は1種類しかなかった。現在のように細かな量が分類されて患者に配られることはなかったよだ。で、自律神経系に素晴らしく効いてしまうのだ。精神疾患が社会の中で暮らす世になればいいと思う者の一人です。 |
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![]() 8月2日 台風の影響で曇り、雨 晴れ間曇り強い陽射しが断続的に入り乱れた日 高等学校文化祭の記録集をweb頁に変換していた。途中で古い手紙も出てきて、読んだり、この手紙たちをどう記録化するのがいいのか、考えてみた。まずはデータにしてしまえば、web加工はどのようにもなるので迷わずデータにしてみよう。といっても空いた時間があればだが。 ■FB投稿 古い手紙を発掘。今日の天気は雨、晴れ、強雨が入り乱れて通過中。 1971年前後は渋谷区恵比寿の駅前に住んでいたこともあり、まだ縁が途絶えていない両親や友人、よく遊んでもらった福島大学の友達などとの手紙が昨日着信したかのように読めてたのしい。福大の彼は宮城県築館で教員になったと伝えきいた。工業高等学校時代の友達の手紙もあるが、彼とは今音信不通。 〇my家族は何かあればショートメッセージを出し合うので、いろいろ残っている。独立系建築士になったときの文面もかなり効いたね。数年後子供たちからこんな内容もあった。「ぱぱ、がんばってね はやくおうちをたててね」なんて・・・持ち家制度が残っていた1982年後の、幼稚園生だろう、子の文面。32歳で設計していたから思ったより早く家を建て5人で住みはじめた(予想外だったな・・)。 〇my長女は1990年に首都圏の高校に入学し、一人暮らしを始めたので、たくさんの手紙が残っている。簡潔でわかりやすく明解な文面。英語の手紙は兄への宛てたものだろうが同封されている。 デジタル間近の往復書簡。今はライン、メッセージだ。手紙の交換はしなくなっている。手紙でもラインでも要は内容が明解であればいいのではないか。デジタルは誰かが見ているという前提は家族では共有している。手紙では書いたが他者に分かっては困る内容はラインやメッセージには書かない。その分味が薄まるもんだね。 |
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![]() 8月1日 台風の影響で ![]() 昭和38年前後の高等学校の行事をweb化する。残り少しでお仕舞になりそう。現在の高校生はどんな暮らしをしているのか、データ化していると、今どきの学園祭があれば見学に行ってみようと思う。 ■FB投稿 1960代のキャンプと運動会の記録 男女共学の高等学校での行事の記録をweb化している。キャンプ場では飯づくりは女性と性差による役割分担がある点は興味深い。夜は男はテント外で焚火で夜通し。育メンは当り前世になるまで半世紀かかったような気がする。男女が集まるとフォークダンスしている。今はいつ男女が手をつないで踊る機会が設定されるのだろうか、「フォークダンス史」を調べてみよう。 運動会は女子はなぜかズボンではなく、キャベツ型のブルマ姿。いつからなのかは記憶にないが、近頃の校庭は盗撮防止のためフェンス越に見えないように工夫しているだろう。 〇小学生によるマイムマイム動画おちていたのでメモ投稿しておこう。 |
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