編集者と建築家について語る 記録 01   文責と作成2021年8月佐藤敏宏
2021年8月4日 13:30より ZOOM開催 タイム・キーパー岸祐さん

井口勝文さんの講話 (いのくち よしふみ)

佐藤:井口さんのことを紹介します。井口さんには2010年に会いました。私が大阪で若い建築家たちの聞き取り活動(ことば悦覧)をしておりましたら、井口さんの話が出たので押しかけて行き、お会いました。で、その場で井口さんの家に長期滞在、飯付き寝床を提供していただきました。井口さんの家を基地に聞き取り活動しました。同時に井口さんご夫妻の人生を聞き取り動画も公開しております(右欄動画)。311の震災時には家族の方々からも、たくさんの義援金もいだくことになりました。

井口さんが面白なーと思う点は、竹中工務店に勤務されていたんです。けれども大阪で始まった「都住創」、その前身になった研究会「みんなで建てる会」に参加していました。コーポラティブハウスという共同住宅建設のための手法、考え方とその実践活動があり、自分たちで土地を購入して、設計して、自分たちで工事を発注し、造って住む。そういう活動ですね。井口さんは初期に実践されました。8人で建てたので「八賢邸」という名称の共同住宅です。自分の家を造ってからは一切そういうことはしない切れ味もいいです。

共同で家を造るプロセスは面白いのですが、もっと面白くって興味深いのは「こんにちは!TERAUCHI」という新聞をつくり長年発行し続けたことです。寺内は住んでいる場所の名です。その新聞を武器に奥さまや仲間と一緒に寺内の地域づくりを激しくやっておりました。新聞を自らつくり地域をつくり改善していくのは建築家としても稀に見る、刮目すべき活動です。それらを実践していた人です。それを知ってからも井口さん以外に新聞を出し続け地域づくりのため、そのような行動をしている建築家には会ったことがありません。これからも出会うとはないと思い、今日はお招きいたしました。


 絵:1987年8月25日創刊号 新聞の題字

イタリアにも古い町家を改修した家を所有してらして、年の半分ずつ行き来しているのだと思います。つい最近はイタリアでの活動の様子を本に仕立て刊行されました。建築家でありながら自ら本も新聞も刊行する、そういうことをなさっています。これからの建築家像として魁の数少ない人であると思います。



井口:画面共有したいのですが、ホストは画面共有を無効にしましたとあります。
佐藤:ZOOM初心者なので、またiPad古いのでその機能が表示されません。済みませんが、画像共有なしでお願いいたします。

井口:なければ無いでいけます。みなさんどうも。

布野:どういう画面見ているのか分らないんですけれども参加者のところのホストは佐藤さんですよね。参加者のところクリックしてもダメ。共有ホストの前に画面の共有のところを「他者に共有できる」というボタンがあるんですけど。
佐藤:私のiPadにはそれが表示されないんで。 布野さんごめんなさい使っているiPad古すぎるんだと思います。
布野:誰かを共同ホストにしてもらって。
中村:共同ホストにも成らなかったんですよ。

佐藤:ということで画面無、共有なしで話てもらいます。


井口:はい分りました。今、佐藤さんが紹介してくれました井口です。紹介していただきました順番で話を進めたいと思います。

今この場所はご覧いただきますようにイタリアのメルカテッロという、英語で言うとメルカートに近いですかね。そういう名前の町なんです。ここに今は年に半部ぐらい住んでまして、「この町でいろいろ興味あることをまとめて本にした」ということは先ほど佐藤さんの話にもありました。その前に何でここまで来たか、あんまり理由は無いんです。

その前に私の若い頃からの話をした方がいいと思うので、先ほどの佐藤さんの話に合わせて、そうしたいと思います。私は1965年に大学を出まして、出稼ぎですね。私は福岡県の出身なんです。それで大阪の竹中工務店に就職しました。35年間、建築の設計と都市設計、どっちかと言うと僕は都市設計の方がメインでした。で、都市設計、都市開発をやってきました。先ほど佐藤さんが俺は建築家と思ったのは随分後の方だ、という話をされました。僕もそうです。その当時、今でもそうですが、ゼネコンで働いていると建築家とは認められないんですよね。

誰が「建築家」と認めているかと言うと、建築家の間でしか自分は建築家であると認められていない。一級建築士、これは認められています。僕は肩書は一級建築士ということにしてます。それで、35年勤めたあと、2000年から竹中を早期退所して京都の造形芸術大学で教えるようになって、自分でも都市デザインの事務所をやったりしました。イタリアに居ると、「建築家という肩書を入れた方が通り易いな」みたいなこともあって、日本でも「建築家」の呼び名が普及して、今はたいていの場合、「建築家」と言うことにしています。最近、出している本には肩書は建築家としてまして、そういう半端な建築家です






動画: 井口勝文父を語る




2010年8月の八賢邸

八賢邸 事業経過

1975年10月
 土地
さがし メンバー拡大開始
1976年9月
 
組合「八賢邸を建てる会」結成
 
土地購入不動産売買契約
1977年2月
工事請負契約 着工
  9月 竣工、入居

事業費 一戸当たり平均
 土地代 経費込
 7、500千円
 建築費 屋外工事とも
 9、200千円
 経費(設計料とも)
   500千円
 金利
   300千円
計 17、500千円














イタリアの小さな町 暮らしと風景




65年に大学を出て、大阪に勤め始めたんですけども。丁度、マンションがようやく一般的になりつつある頃でして、ずいぶんマンションの設計なんかもやりました。
ところが、自分で買うのはなかなかお金が足りないくってですね。これはもー、自分たちで造るしかないなー、というのでコーポラティブハウスというのを始めまして。仲間でやってたんですけれども、今そこに住んでいるんです。1977年に8人で八軒のコーポラティブハウス、八軒集まったマンションですね、それを造りました。今も住んでいます。

家を造った(豊中市内)その町が区画整理で出来た新しい町だったので、道路もまだちゃんと通されていない。ほとんど町の体裁を成していなかったのですね。いろいろ問題もあるというのも分ってきた。そこに住み始めて半年ちょっとぐらいして「これはミニコミ紙を作ってみんなで色々ワイワイやらんといかんなー」という思いになりまして。
前に住んでいた所。今は市会議員している人ですけれども、彼も町に関心のある人で『こんにちは!』というミニコミ誌を出していたんです。その人に「今度、こんにちは!というタイトルなかなか好いので使わしてくれませんか」と。「ああいいですよ」ということでで『こんにちは!TERAUCHI』というミニコミ紙を始めました。ミニコミ紙でいろいろなことをやりましたね。一番大きいのは道路問題です。その町が、御堂筋をご存知だと思いますが、大阪市のメーンストリートで、それが真っすぐ北へ伸びていって新大阪を通って千里ニュータウンに通じる。郊外の非常に重要な道、メーインの通りですね。その通りに面したもんですから区画整理をやった。当然そこは商業地区になる。オフィスビルも建つだろう、というような考えで造ってたんですね。


1978年8月 寺内町図 世帯数1817戸 男2582人女2783人(創刊号より




1978年8月25日発行

こんにちは!TERAUCHI 創刊号トップ頁




2010年8月2日
井口さんご夫妻と「八賢邸」にて

1週間ほど泊めていただくことになった


ミニコミ紙を積み上げ
ワインをいただきならが
井口ご夫妻に聞き取り (居間にて)


ところが、そこに住み始めた。その頃はマンションがたくさん建っていたんです。だから先住民が住宅所有者になったんですね。要するに住宅地になってきたわけです。僕らもそのつもりでそこに住んだもんですから「これ商業地になったら困るなー」と。で、その幹線の新御堂筋にいつも大きな開口部が、そこから出入りする道路がすでに区画整理で出来ていて。ただまだオープンにはなっていなかったんですね。「これオープンしてもらったら、市が考えているような商業地になってしまって、住宅地が壊れてしまう」、というので反対運動を始めまして。そのミニコミ紙でも「みんなどう思う?」みたいなことをやりながら。その当時は道路問題が大きなミニコミ紙のテーマ。

そのうちにそこが皆さん記憶があるかどうか分りませんが、ワンルームマンションというのがその頃、出始めました。今のワンルームマンションと違いまして、はっきり言ってセックス産業なんですね。そういうのにワンルームマンションを使うようなのが、その界隈に非常に多かったもんですから。「ワンルームマンションもここの町で造ってもらっては困る」と。ワンルームマンション反対運動ですね。自治会活動はもちろんやりますけれども、そうやってみんなの集会場を造る、定番のお祭り、運動会、そういう事をいろいろやりまして、ミニコミ紙は3,4年やりましたかね。それが先ほど佐藤さんから紹介していただきました『こんにちは!TERAUCHI』です。

30年以上前の古い話なんですけども、最近自分の町を歩いて思うことは、道路も結局開放されずに純然たる住宅地になり、あのミニコミ紙で我々がああやって騒いだ、空騒ぎしたようなもんだったんですよ。結局、我々が言っていたことが、言っただけのことはあったなー、みたいな感じを今持ってます。ちょっと満足しています。



2010年8月 井口家の庭 



奥様 画家:井口純子さん

そういうことがあるうちに、僕は1970年にイタリアに留学したことがあるのです。その繋がりでずーっとイタリアとの関係があるわけです。それで、ちょくちょくイタリアに来てたんです。けれども、いろんな経緯があるです。今住んでいるこの町で、小さな廃屋を見つけまして。そこが、「なんとか買えるぜ!」みたいな値段だったんで。人口1400人の町なんです。山奥で、最寄りの鉄道駅まで行こうと思うと車で2時間ぐらいは掛ります。日本で言えば完全に廃村、限界集落になるような所なんです。そういう所で、廃屋寸前の建物を買って。それを修復しまして、今、そこに年の半分住んでいる、という状態であります。

そんな田舎町ですけれども、イタリア人は外人に慣れている、といいます。まったく隔てなしにやってくれて、僕も良い性格してんだろうなー、と思んですけれども。受け入れてもらって、仲良くしています。僕もそうやって町づくりとか都市整備やっていましたので、その興味はずーっと持ち続けていたので、町の都市計画やそれを支える住民の暮らし、地域経済を見聞きして、それを本にした。『メルカテッロの暮らし - イタリアの小さな町で考える、日本の都市の可能性』という壮大なテーマの本です(京都造形芸術大学出版局・藝術学舎)。
で、これはイタリア語版なんです。「イタリア語版にしたらどう」と、薦めてくれる人が居て、翻訳してこの春にローマで出版しました。「外国人が自分たちのことをどう見ているか」なんか、日本人と違って、イタリアの人は興味ないと思っていたんですが、出してみると意外にそうでもないことが分ってきました。今年(2021年)初めに日本語版の、これ前著の改訂版ですけれども『イタリアの小さな町 暮らしと風景 - 地方が元気になるまちづくり』というタイトルで水曜社から刊行しました。「こんなもん絶対売れませんよ」と言われながら、なんとかお願いして出してもらったんです。

1960年代ぐらいの撲が建築を勉強しはじめた頃は、イタリアというのは一つの聖地と言いますかね。都市デザインする時には欠かせない所で、コルビュジェもそうだけど、槇さんもそうです。その当時の建築家はみんなイタリアを訪れ、手本にして、「一度はイタリアに行かなくちゃー」みたいなところがあったんです。メディアでもイタリアの特集があった。『SD』とういう雑誌があります。創刊号はイタリア特集ですね、そんなだったんです。今やイタリアなんか、ただ食べ物が美味しい、というだけのことで。景色はいいという観光地というだけで、建築家は誰も振り向きもしませんけど。僕は人生の大半を、イタリアとの関わりでいろんなことを考えてきたんですが、何の役にも立たないという状況になってしまいました。そういうなかでイタリアの本をまとめて出したわけです。

やっぱりあんまり売れない。(町の鐘楼がカン、か〜ん鳴っている)陣内秀信さんは撲よりちょっと後にイタリアに行った人なんですけども、陣内さんの本はよく売れるようです。僕のは売れませんね、アカデミックではないし、かといって大衆向きでもない真面目な本、そういう事です。
それからもう一つ話さなければいけないの、ミニコミ紙、イタリアの話、もう一つ佐藤さんいわれなかったですか

佐藤:またあとでお願いします(建築家、槇さんの事)

井口:とりあえずここで

佐藤:井口さんありがとうございました 





 中村謙太郎さんの講話へ  









井口さんが改修された町家外観


広場を活かし楽しむイタリアの人々





イタリアでの井口さんの日常