編集者と建築家について語る 記録 01   文責と作成2021年8月佐藤敏宏
2021年8月4日 13:30より ZOOM開催 タイム・キーパー岸祐さん
中村謙太郎さんの講話    中村謙太郎さん略歴

佐藤:次に中村謙太郎さんでし。いますかー。
中村:はい。
佐藤:中村謙太郎さんと僕との出会いは1990代の中頃だったと思います。大阪の若手が主催している「大阪・アーキフォーラム」に呼ばれた会場で会いまし。僕は建築家になる気もなかったので、中村さんが編集者として所属していた『住宅建築』にも特集されたいという欲望は無く、仲間のように呑んだりする間柄でした。ある日、なぜか中村さんは私が設計した建築を取材し、特集してくれました。特集するだけではなくって表紙にもしくれた、変わった人です。「田舎者の私を取り上げる変わった編集者もいるんだなー」と思ております。

プロの建築編集者なので、東京で会って仲間と一緒に酒を呑んだりしていたんです。けれども「編集者って何」みたいな話を一度もしたことが無かった!と最近気が付きまして「編集者と建築家について語る。ZOOMで一緒にやりましょう」、とお誘いしました。今日は編集者中村健太郎さんにもあれこれを話ていただきます。「私のような変な者(天然不良)を相手にしなくちゃいけない、建築編集者ってかわいそうだねー」とも思います。そのあたりも含めて自由に語っていただければと思います。中村さんお願いいたします。



中村:はいわかりました。後でも話に出ると思いますけれど亡くなった大島哲蔵さんて言う方がいらして、大阪と名古屋を拠点に「スクウォッター」という名の洋書店を営みながら、建築・美術の評論活動や関西圏の大学の非常勤講師を受け持ったり、「豊和塾」は世話人をされ、豊和塾解散後は「大阪アーキフォーラム」の世話をし、若い建築家を焚きつけるような活動されていました。
その方に佐藤さんが「中村っていうのが取り上げて2日間で10軒ぐらい回って撮影すると言ってたんだけど、大丈夫だろうかと」心配のメールを送ったら、大島さんが「まー悪い奴じゃないとは思うけど、向こうのペースに巻き込まれないように気を付けてください」と。そういうメールのやりとりを盗み見た記憶を、今、思いだしました。

それはさておいて、僕は、『住宅建築』という雑誌と、『チルチンびと』という生活系の雑誌に所属していたものですから、いわゆる何て言うんでしょう、建築の最先端の時流を追いかけるようなメディアとはちょっと距離を置いておりまして、建築系メディアの主流とはちょっと違う、ような気もするもんです。おいおいお話していこうと思います。

まず、僕の両親は建築とは関係ないんです。けれども、父方の祖母の兄、つま伯父が建築家の牧野正巳と言いまして、1928年頃にル・コルビュジェの下で図面をひいておりました。その当時のコルビュジェのアトリエの様子を克明に『国際建築』に寄稿しておりまして、ということを僕は後から知ったんです。そんな事もあって、隔世遺伝とも違う、もしかしたらそういう血を受け継いでいるのかも知れないと思っております。

僕は武蔵美の建築学科で長尾重武さん、歴史家のゼミに在席しつつ、建築と評論家の長谷川堯さんの授業に熱中しました。そこで、ジョン・ラスキンやウイリアム・モリスをモダニズム批判の文脈で教わりました。それが建築を考える僕の今のベースになっていると言えます。

で、その延長線上で在学中に『住宅建築』の存在を知りまして、卒業後どうにかそこに滑り込んだと。そこに至って初めて『住宅建築』を創刊した平良敬一という人を知って、その人が村野藤吾の読売そごうを取り上げて全員編集者が首になった、新建築問題の首謀者である、ということを、そこで初めて知ったんです。

見えるでしょうか、この座っている人が平良敬一さん、この写真は北田英治さんが撮った写真ですけれども。お互い60代ぐらいの写真ですね。で、立っている方が二代目の編集長の立松久昌さんという人です。

平良は鹿島出版で『SD』 を創刊し『都市住宅』を仕掛けたあと出版部長になったんですけれども、それが物足りなくって場所を転じて『住宅建築』を創刊するに至ったと。平良敬一は1986年の5月号に永田昌民さんという建築家の特集の中で「もう一つの前線」というキーワードで、その思いについて原稿を書いてまして。
どうも「もう一つの前線」というのが通底する思いだったのではないか。つまり時代の先端とは違っても「設計者と住まいについての関係をインタラクティブにしたい、だとか、ギ-ディオンの言う(時間・空間・建築)にさらに「場所」というキーワードを入れたいと、いうようなことを考えて、「もう一つの前線」で奮闘する建築家を取り上げて光を当てたいと。そういう事をやっていました。

常々、平良というのはネットとかそういったものには一切、疎かったんですけれども、「将来は一人一人がメディアになる」とも言ってました。そのことはネットを通じて今は現実のものになっている気がして、まさに慧眼というしかありません。

もう一人、立松は僕にとっては凄く謎でして。というのも、毎日顔を出すわけではないんです。どこかで何をやっているのか分らない。で、知らないうちに版元の建築研究社に行って色々交渉事をやったり。立松の母校の東京の名門私立校の麻布学園が何か大問題が起きて存亡の危機にになると、旗本退屈男みたいに「やあやあ」と現れて、問題をさっと解決して帰ってくる。そんなことをやっていたそうです。で母校の理事もやっていた。元々早稲田の文学部の出で、桂文楽を卒業論文で書いているという人物なので、建築とは関係ないところですが、物事の本質を見抜く直観力がとてつもない人でした。
例えば、どこに現れていたかと言うと、建築家の方が亡くなると追悼記事というのをやるんですね。普通、だいたいいかにもしかるべき人に追悼文を頼む。ただそれが良いのか?という事がありまして。例えば立松は前川國男さんの追悼記事の時に伊東豊雄さんに頼んだ。後年、林雅子さんの追悼記事では鈴木博之さんに寄稿を依頼してます。そうすることで亡くなった人への興味を今の人にも湧かせるような、そういう角度の違う視点、それが編集者には重要であるということを教えてくれました。常々言っていたのが、「楽しいということが大事なんだ」ということです。つい堅苦しくなりがちな建築のメディアなんですけれども、いかに楽しいものにするか、ということを今でも僕は重要なものだと考えています

もう一つ建築家と編集者の関係において「建築家と編集者は五分と五分でいけ」と、常々言っておりました。「そこに主従関係というものは無く、あくまでも対等の関係の中で、ものごとを進めていくべきなんだ」と言ってました。

話を僕の方も戻しますと、僕が入社したのは1992年頃でして当時、編集長が三代目の植久哲男という者に変わっておりました。三代目になって、これまで取り上げて来なかった建築家も取り上げていくよ、なんて機運があって、僕はその担当になったりしたんです。
けれども、すぐ1995年に阪神淡路大震災が起きました。そこで問題になったのは「在来木造という、地域地域の大工さんが自分の経験則で建ってた物が一斉に被害を受けてしまった」ということで「全部金物で補強しよう」とか、次々に「性能数値で表示せよ」とか。どんどん住宅が堅苦しくなって。その中で、木造住宅はどういうふうにあるべきか、という記事を取り上げていきました。
その中で、僕は特に注目しいたのは長谷川堯に手仕事の意味というものを学んでいたもんですから、それを日本に適用するっていう意味で、左官とか土壁とか、そういった物の今日的な意味というものに注目するようになってきました。


写真撮影、中村謙太郎さん。長谷川堯さん2017年8月6日神楽坂建築塾公開講座にて 





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大阪のアーキフォーラムには2度呼ばれた。若い方たちは講演会後批評を書いている。
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大島哲蔵、愛称「てっちゃん」

2002年6月6日気管支肺炎で死亡
FAX交信記録 佐藤分はほぼ捨てて無い
大島哲蔵さんからの便り
1995 1996 997年
1998年
 999年分 2000年分 2001年分


















平良敬一さん 2019年、仙台にて
写真撮影:中村謙太郎さん 












そうこうしている内に、確か2000年頃に佐藤さんに出会ったわけです。『建築文化』の特集(1994年11月号)を見たのが最初でした。その時は植田実さんが解説を書かれていたと思います。

実際に会ったのはそれから数か月後に。さきほど言われた通り大阪のアーキフォーラムのシンポジュームで大島哲蔵さんなんかもいらっしゃる中です。
てっきりコンクリートの造形的な物について中心に語られるのかと思ったら、個々の住宅における家族の在り方ですね、依頼主にその現実を突き付けて「さあ君たちはこれからどう生きるんだ」と。「突き付けながら日頃、設計している」という話を聞いて。一方で造形についてはかなり客観的に覚めた目で観ている眼差し、というのが凄く印象に残りました。

といった訳で『住宅建築』2001年の7月号で、あちこちの地域の建築家を取り上げるということになりまして。僕は佐藤さんを推薦したところ企画が通りまして、佐藤さんを取材することになったと。
で、『住宅建築』の中では佐藤さんという建築家は異色の存在だったですけれども、ちょうど取材したのが5月だったか、田植の終わった田園の中に佇む佐藤さんの建築の美しいカットが撮れて「これはいけるー」と思いまして、「表紙にしないか」と、うまく表紙になった、「してやったり」と思ったものです。


で、そうこうしているうちに2003年には立松が亡くなりまして「ちょっと早かったなー」と思うんですけれども。また今度『建築雑誌』というものの売れ行きがどんどん落ちていきまして。で、問題になって。2004,5年には平良がまた『住宅建築』の指揮を執ることになりました。
それでも売れ行きの低下はとどまらず、2008年には『住宅建築』は月刊から隔月になりまして。そうなると編集部員がそんなに要らないということになりまして、「そろそろ君とも話をしなきゃいけないなー」と平良に言われて。「やばい!肩たたきだよ」と。「どうしようかなー」と言っていたら、ある日出勤したら「『チルチンびと』という雑誌の編集長に話をつけたから、そっちに行くように」と。それで行くことになりました。それが2010年です。

何かと僕は震災と縁があると言いますか、その翌年の2011年に東日本大震災が起こりました。『チルチンびと』は自然志向の住宅誌なものですから「自然を放射能が汚す、原発の依存から脱却したほうが好いんじゃないか」ということで脱原発を銘打った連載がスタートします。僕が担当になりました。

で、くしくも私、この前オリンピックの開会式に演出する予定のミュージシャンが中学生の頃に虐めを行って問題になった、同じ学校に通ってまして。そこでは小学生ぐらいの時から「平和教育」ということで、広島に修学旅行に行ったりとかしてたもんですから。「原発」と言ったら「反核」ということで、僕は刷り込まれているもんですから、まさに、最初からどうも偏っているんですね。

で、『チルチンびと』それの連載で福島に行って、再び接触しました。佐藤さんが震災後どういう動きをしたか、ということをレポートに書いた。と同時に、次の取材先に、行く先ざき探すんですけれども、どうも色んな人に会うと、そういう人がだいたい佐藤さんの知り合いとか、元・佐藤さんに設計を依頼した依頼主だったりするんですね。

ということで、先ほど渡辺さんも仰ってましたが、どうも佐藤さんというのは福島の、変な言い方ですが「サブカル・ネットワークの中心に居た」ということがよく分るんですね。これがどうも平良が言うところの、「もう一つの前線がここにもあったな〜」ということですね。ちょっと思ったもんです。

で、『チルチンびと』に居たんですけれども、2013年いっぱいで退社しました。現在は『住宅建築』に居たころから追求してました「土壁の住まいの普及」ということで建築家の人と一緒に勉強会をやったり、見学会なんかもやったりしつつ、いろいろ細かい仕事をしています。

建築雑誌が少なくなって、建築メディアはどうなるのか、と思う話なんですけれども、一部の雑誌、『新建築』とかですね。そういう主流のところは情報源として残りつつ、平良が予言した通り建築に関わる様々な立場の人が、ネットなどを通じて個々に発信するようになるんじゃないか、と考えています。しかも、最近、ネットに限らず、建築家が出版社も始めた。少部数で出版して情報発信する、なんていう建築家が増えているもんですから。それもちょっと注目したいなー、と思っております。

いすれにしても長谷川堯、平良敬一の薫陶と、これまで出会ったいろんな方々のご縁で、今はこうなっていることは、自分にとっての「もう一つの前線」ではないかと考えて現在に至っていると。そういったわけです、どうもありがとうございました。

佐藤:中村さんどうも、ありがとうございました。    1:04:41


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