絵:漢那潤さん提案の沖縄「新民家」沖縄テレビより
漢那潤さんと語る 02 その01へ戻る 03へ 
沖縄の住宅などの現在

漢那:材料の話、林業にもつながるし、一番新しい古民家でもせいぜい100年前だという話にもつながってくるし、今の沖縄の風景の話とかも話さないとどうにもならない。
佐藤:長く話してください。

漢那:沖縄で建築をしようと思っていたときに、今、沖縄に建ってる建築の9割以上がコンクリートなんですよ。戦前は全部が木造だったんですけど。明治時代になると煉瓦の建物も那覇の一部にはあったんですが、基本的には全部木造だったという状況が、戦後一気にコンクリートになるんです。

調べていくと、もともと森が深かったので、いい木の材料も有った。もともと沖縄には林業があった。当初は琉球王国ができた頃、特に林業という意識もなく、ただ伐り出して使って消費していたんです。1700年代に栄えていって、伐り出してくる量が増えていって。その時に首里城が燃えて、テレビで話したことの一部なんですけれども、木材が無くて建て替えが出来なくなって、そこから林業をまとめようという話が1700年代から1800年にかけて出てきた。日本にもあったと思うんですけど、沖縄で言うと、その頃に生産と消費のシステムが変わって林業を軸に、かなり高度に整理されていった。琉球が小さい国ながら日本と中国に挟まれても政治の体制を保つことができたのは、きっちりした独自の文化と生産体制が整っていたからだと思うんですね。だから、国家として認められていた。琉球があったのは林業がきっちりとまとめたからだと思っています。
ただ、それが1872年の「琉球処分」によって琉球が沖縄県として日本に組み込まれた頃から林業のシステムが徐々に崩れていった。政治主体が変わると、山の管理の方法とか、それまでやっていた事の引継ぎがなかなかされないので、そうなってしまう。琉球王国が日本の一部になった途端に、再生していくというリズムが途絶えて消費一方になっていってしまった。戦前からも輸入に頼っていたという記録が残っているんです。まだコンクリートにはなっていない。とりあえず木造を建てるんですけど、ほぼ輸入なんですね、木材が無くなっちゃっていて。明治時代から昭和の頭にかけて、木材が全然無いんです。
輸入に頼る中で九州から杉を入れるんですけど、それが沖縄の気候に合わなくって、問題ばっかり起こすんですよ。沖縄の人たちは何しろ木の住居に苦労し始めて、かなか巧くいかない、白アリに食べられちゃう。それ以前は沖縄で育った木、イヌマキ(犬槇)だったり強い材料を使っていたんで、トラブルが少なかったんですけど。杉だと沖縄にとっては過酷で、杉では厳しいんだけど、それしか無いので、それを使っていた。人々の頭の中には杉材の住居への信頼が無かったということがあったんです。

それで(15年)戦争が起きて、焼け野原になって。米軍が基地を造り始めるんですけど、そこで沖縄の人たちが手伝うんですね、施工とかを。その材料を見て、これは素晴らしいみたいな形になった。米軍も適当に木造を造っても台風に飛ばされたり、トラブル続きだったらしく、ブロックでコンクリートで造ったりして、大きく建築材料が転換していくのが戦後です。

あまり調べてはいなんですけど、もともと、組石の文化は沖縄に独特に発展していました。石灰岩の場所なので石組も石の加工も。

花田:
グスクね。

漢那:グスクですね。石に対して適応力があった。これは僕の考えじゃないですけど、沖縄の昔の建築家が言うには、石への適応力はもともとあったから、コンクリート造りに対しても、ほぼあっさり適応して住んだんだと。内装では木造はずーっと生きていたんです。とにかく、外側はコンクリートに一気に振れた。

花田:コンクリートだけどね、沖縄の風景を見ていると、コンクリートというよりはブロックだよね。

漢那:ブロックは簡単に造れるので。

花田:あの材料はどこから来るの。

漢那:あれは沖縄でとれる。もともとセメントの材料は石灰だから。琉球世界は石灰石なんですよ。そこから採ったり、砂利は北部に砂と砂利が採れる本部石というのがあって、そこの山を削って砂利と砂は採れる。
基本的に自前で生産出来ちゃったんです。輸入しなくっても自前でコンクリート造れちゃった。技術はアメリアから入ったんで、材料は自分たちで調達できるというので、沖縄でコンクリートは造り易く、たくさんできるようになった。ただ全部が全部コンクリートになってしまった。

花田:沖縄の風景をダメにしてると思うんですが、モノ・トーンでしょう。

漢那:僕の感覚だと、自分が育ったベネズエラと同じようなコンクリートの風景なんです。建築の歴史で言えば、典型的なモダニズムの建築なんです。その流れです。綺麗に造れるかというとそうでもない。簡易なモダニズムが広がっている。フィリピンでも同じような景色だし。南米の貧民というか、お金が無い地域と沖縄の風景が全く同じ風景になっている。自分から見ると、固有性が無いです。

でも、沖縄で生まれ育った人たちは今はほとんど戦後生まれなんで、それしか見ていない。これが沖縄らしいって、そこで育っちゃったので、当然そう思ってしまっているんです。けれども広い目で見たら、それも外からやって来た作り方でしかない。

花田:たかだか戦後75年の歴史しかないブロック建築の風景ですよね。昔からあるわけじゃない。

漢那:いわゆるグスクも組石なんで、ブロックも組石だったのでどこか共通項があったりして。
花田:グスクの風景は沖縄の中で一番好きなんだけども、あの上に木造建築が建ってたわけだよね。
漢那:その絵がないです。
花田:それだけの木材が有ったわけでしょ。
漢那:そうです。

1:03:51





漢那潤さんによる街中の新民家



蔡温(さいおん)以下Wikipediaより
沖縄の森林資源を管理


林業政策
各島の木材需給状況に鑑み、ある程度の山林を有する島の用材は島内でまかない、山林のない島については沖縄本島中部や北部から供給し、八重山については将来へ向けての予備とする方針を定めた。また、山林と田畑との境界を明確にして管理を強化した。植林を奨励し、海岸部にはアダンマツテリハボクなどからなる潮垣と呼ばれる林、内陸部の要所にはマツなどからなる抱護と呼ばれる林を設けた。さらには森林資源保護のために新しい家や船の建造およびの利用を制限し、まるまる大木の一本を必要とする「くり舟」(丸木舟)の製造を禁止した[5]

グスク Wikipediaより
(1)「聖域説」 沖縄の信仰の聖地として、御嶽(うたき)があり、グスクはもともと御嶽であったと考える説。

(2)「集落説」 もともと集落として発生し、周辺を石垣で囲ったものとする説。また、(1)とあわせ、御嶽を中心に発達した集落であるとする説。

(3)「城館説」 地域の有力者の居城として構築されたとする説。



沖縄亀甲墓について Wikipediaより


コンクリート造の歴史 より 一部抜粋
1875(明治8)年,政府主導のもとで開始されたセメントの国内生産が深川工作分局で成功した。これに伴い民間によるセメント製造も開始され,1883(明治16)年9月初めて小野田セメントが生産に成功し,また,1884(明治17)年に深川工作分局の払い下げを受けた浅野セメントも民間として生産を始め,徐々にセメント生産はひとつの産業となるまで成長を遂げた。ちなみに,1897(明治30)年には使用するほとんどのセメントを国産で賄えるほどの生産量となり,その後は,セメントの輸出国へと変貌を遂げ,1937(昭和12)年にはベルギー,ドイツ,イギリスに次いで世界第4位のセメント輸出国となっていたのである。
花田:今米軍の嘉手納飛行場がある軍事基地、あの嘉手納の昔の写真を見たことがあるだけど、嘉手納村の風景。嘉手納村のメインストリートに松の大木の並木があって、あれを見て驚きましたね。沖縄には高い木が育たないのかと思っていたら、実はあんな松の大木が並木状につい75年前まで育っていたわけだよね。あれを全部米軍のブルドーザーが引き倒しちゃった。


 絵:基地昭和20年9月の風景 webブログより

 絵webより 

漢那:
ちょうど首里城に向かう、島の中央の一番峰のところが道なんですね。そこが普天間飛行場になっている。滑走路になっている。嘉手納もそう。
花田:今沖縄に行くと、何か木を見るとフクギの木ぐらいしか印象に残らないんだよ。あとは全部低木のブッシュみたいなのが見える。
漢那:藪になっていたりしています。

花田:今の沖縄の森の貧しい風景というのは、結局戦後の沖縄の木材の使い方、あるいは木材が使われなくなってしまったことによって人間がつくりだした森林の風景ですかね。
漢那:おっしゃる通りです。特に南部の方の市街化された地域の、一部の植物、というか緑地とかはぐちゃぐちゃですね。綺麗な藪化です、まともな形じゃない。

花田:75年であのように変化しちゃうんだから、漢那さんは75年時間を使えば、また森を復元できると思っているわけですか。


絵:1935年の沖縄はこうだった web沖縄タイムズより

漢那:そうですね、ある程度自然の力を信じないと、やる気が起きない。一応犬槇という、沖縄ではチャーギと呼ばれるんです。それが一番適していて、だいた50年ぐらいで、民家の柱ぐらいには使えるようになるんで。少なくともまずは木材の信用を高めないと。沖縄の置かれている状況は日本の一般的な状況とは違っていて、木材の信用も信頼もまったく無い、知識も無い。













花田:それは白アリのせいなの?要するに日本から杉を持ってきて白アリに食べられたから?
漢那:白アリと、輸入するんで値段が高いことですね。コンクリートの方が安いから皆コンクリートにしちゃった。ようやく最近になってコンクリートの値段が上がってきたんですよ。さすがに砂利も砂も、伐り出す山も無くなってきた。もう無いんですよ、ほとんど。無いよと言えないので、徐々に値段が上がってきて。木造とどっこいか、もう木造の方が安いぐらいになってきたんで、いろんな建築業者が木造に興味を持ち始めている。全然技術がないので、大工さんも数えるほどしかいない。

花田:大工さんが絶滅しちゃったんだよね。
漢那:そうですね。建て方だったりはまったく出来ない。

花田:そういうことが全部連鎖しているんだよね。木造住宅がブロック住宅に置き換われば、大工さんは絶滅危惧種になっちゃうし、森も木材を必要とされないから荒れる。

漢那:
放置される。負の連鎖がずーっと広がっている。明るい地獄に居るみたいな。太陽は燦々で、海綺麗だけど、本当に地獄にしか見えない感じです。

花田:ヤンバルはどうなの?あれは原始林、原生林だとかいって、自然遺産とかになっているでしょう。
漢那:あっちは実はほぼほぼ米軍が押さえているんで、そもそも入れなかったから残った。
花田:米軍は森林管理していないんだろうね。
漢那:してないです、多少やっているみたいですけども、間引きぐらいは森林組合がおこなっている。多少間引いたりしているみたいです。植林したりとかはきっちり全部出来ていない。一応形だけ、世界遺産になった。実態は全然、山の中に行くとゴミだらけだ。

花田:基地による影響というのは大きいね。
漢那:それがほとんどです。 







絵:戦前の首里城 と暮らしwebより

■ 建築の場所性

佐藤:ついでに場所性まで話を続けてもらいますか。その後、植林したりしている絵もありましたので、漢那さんは犬槇を植林したんですよね。

漢那:植林というより、今は苗木を育てているんです。畑に犬槇の苗木を植えて。専門家によると九州の犬槇と沖縄の犬槇は違うらしく、琉球チャーリという分類なんです。琉球犬槇、ちょっと違うので生産がされていなくって。生えている沖縄の犬槇の種を取るんですが、農家さんが手伝ってくれているんです。その人と一緒に種を拾って発芽させて苗木を育てて。

佐藤:私も子供の頃苗木を背負わされ、杉の植林をさせられたので、いろいろ思い出します。漢那さんは種を拾って発芽させることから始めたんですか。苗木の話は少し先に置いていただいて、花田先生が建築の場所性について提示されましたので、それをちょっと語っていただけますか。沖縄の主な場所性は米軍基地によって75年で変わってしまったということになるわけですが、今夜は坂巻さんに参加いただいたので、その後で植林の話に進みましょう。






絵:琉球犬槇 の苗木を育てる。中央が漢那潤さん

花田:建築と場所性の問題というのは、建築と場所との関係性ですよね。場所の持つ意味との繋がりです。建築は場所の持つ意味とどういう繋がりを持つかというのが場所性です。
建築って、単体として他から切り離されてそこに存在するというのではなくって、自然の環境や条件とか、文化の環境や条件とか、そういうもの中に置かれて初めて建築も意味を持つと思うんですね。建築が建っている場所を意識し、その意識と建築が交感するような、そういう事が大事なんじゃないかなと。
もちろん建築家は建物が建つ場所の地形とか、眺めだとか、その土地の形とか当然意識して見ますよね。そういう事じゃなくって、それをもっと越えてもっと広い自然の環境や条件、文化の環境や条件。あるいは自然的、文化的、歴史的生態関係。つまり一言で言うと建築が置かれる全体的コンテキスト・文脈を建築家、アーキテクトがどう意識して、それを自分のプロダクトである建築に反映させるのか、そういう問題なんですね。
そういう意味で言うと「トータル建築」という考え方が必要だと私は思うんです。要するに建築単体を考えるんじゃなくって、建築を取り巻く全体状況を考える「トータル建築」という考え方をアーキテクト、建築家は、もちろんユーザーも持つべきだろうと思うんです。

そういう事から言うと、先ほどの漢那さんの話はすでにそこに立ち至っていて、入り込んでいる。漢那さんが造る新民家という建物に関連して、それを造る材料がどこからやって来て、造る人・大工さんがどこに居て、その材料である木材が今どういう環境の中で、どういう生産状況になっているのか、そういう広がりを取り込んでいる。漢那さんは自分の仕事のストーリーを組み上げているなーと思うんですよ。それは私の解釈だけど。漢那さん自身はどう思うでしょうね、それが佐藤さんの質問だと思います。
佐藤:そうです、もう一つあげておきます。敢えて言います。日本の近代といいますか、モダニティというのは場所性を無視していて、そこら中に同じ建築を造ることで150年進んで来たと思うんです、乱暴ですが。だから民家について振り返ろうとしているのはこの10年ぐらいのことで、それ以前は古民家として古建築を残そうという文化財活用の姿勢、そうして観光資源として残そうという機運はあります。また重要伝統建築群を残す法制度もあります。

花田先生が言われているような、暮らしの中で民家をトータル建築として読み直し、技術的に、それから植林まで含めて生活全体の文化として場所と関連付けて、再生する点に力をおいた考え方と実践はほぼなされてこなかった。むしろ勤労者のために日本中同じような平面で同じような家を効率的に加速して造っちゃったと思うんです。そのことに拍車をかけたのが残念ながら戦争に負けたという事実です。敗戦し、植民地から、一杯(660余万人)引き揚げて来ましたので、住む家が無い。狭い住宅さえ引揚者に提供できない。福島にも残っていますが小さなマンションのような防火帯建築ができました。その後も改善がなされ、公団タイプによって全国に普及していって、建築と土地の場所性とは関係が薄く、均質な団地が造られたもんだから、日本中がモダニズム形式や郊外住宅になってしまった。(註1)

それが悪いとは言いませんが、景観や歴史などを含む場所性、そういうのはその建築を設計する人はさほど考えていなかったと思う。都心だと土地持ちの農家の方がコンクリート造りのアパート・借家を発注する。で、景観も保全するなどという視点に施主は興味が無い、そろばん勘定だけだったですよ。農地を転用し地主たちや土地持ちの方々が投資でアパートを建てたんだと思います。どうしても設計者は金儲けに引きずり込まれてしまって、地域性だとか文化だとか、よい住空間を提案せず、土地持ちに求めるれる共同住宅を造ってしまったのだと思います。

漢那潤さん発の新民家は木材を50年サイクルで再生し循環させ、植林の中で家を造る姿勢なので、森林の面も射程に入れて住宅の建設を進めるということですね。その例で思い出すのは式年遷宮の伊勢神宮ですね。20年ごとに移築(新築)されることで、技術と人と森を一体にまとめ管理しつつ伝承していくことで、トータル建築として残ってはいるけど、特殊な例ですよね。


絵:東北工業大学高橋恒夫先生の最終講義資料より

漢那さんは50年待って犬槙を育て、木材にして建て替えていくと言う。技術、そして漢那さんの思いも、時間と世代の設定が長すぎるな〜と思います。2世代先送りになるので、50年待っていては技術的の伝承が可能なのかなーと。

木の材料を育てるための内容は坂巻さんに登壇をお願いしたいんです。植林とか林業がどう関係していったら50年継続・継承して生業が成り立っていくのか。そこも考え続け、私たちの生活を組み立てていかなければ成立しない。

こういう思いは地球温暖化の影響が顕在化してきて、多くの人は理解していると思います。今までの生活の仕方や建築の造り方を続けていたら災害が多発して、方々で多重災害が起き、それまでの暮らしが守られにくい。そのことは理解が進んだと思います。3・11以降そういう共通の認識は強くなってきていると思います。
だから、ようやく近代の手法で住宅などを造るということの終焉が始まっている。その波頭で漢那さんは新民家宣言をされた。方々でクローズアップされるんだと思います。


1964年 福島市引き揚げ者の様子を知らせる記事 (昭和21年9月15日民友新聞)

終戦時、海外には、軍人・軍属、ならびに民間人を含め在外邦生存者数が、およそ660万余人いたと言われています。そのうち、1947年12月31日までに、624万余人の方々が復員・引揚げを完了しました。アジ歴で公開している資料には、こうした経緯をうかがい知ることができる歴史資料が少なからず含まれており、当時の復員・引揚げの状況を詳細に知ることができます。(上記記事はこのサイトから引用

防火帯建築
昭和27年に制定・施行された耐火建築促進法に、「防火建築帯」という言葉が出てきます。商店街や繁華街の不燃化・近代化を進めるために、地上3階建てもしくは11メートル以上、4階建て以下という基準に沿った建築物に対して補助を出すという法律で、地方都市では主に目抜き通り、東京や大阪、名古屋、横浜のような大都市では、比較的広範囲に、防火建築帯が指定されました (上記の記事をすべて読む)

 福島市街に現存する防火帯建の例

註1)藤森照信著『日本の近代建築ー上ー幕末・明治編』 71頁より
なぜ伝統技術で済ませ、中に近代的な機械をならべてすますわけにいかなかったのか。実用第一の工場だから、もしそうできれば浮いた費用を機械に回すことが可能になるが、しかし、防火とスパンの二つの理由から、工場は新しい建築技術に頼るしかなかったのである。
 産業革命によって大型化した工場の大敵は火事で、一瞬のスキに巨額の資本を投下した機械設備を鉄クズ化する苦い経験をへた後、外壁には煉瓦を使い、中の柱や梁、小屋組みには鉄を使うようになった。とりわけ鉄の仕様は工場建築が先駆し、その後、宮殿や劇場や一般建築に広まっていく。

150年続けた日本人の暮らし方を振り返っておかないと、派遣的暮らしが多いので新型コロナにも襲われていて、みんなその日の事だけでせいいっぱいの生活者も多い。平均所得も下がり続けています。所得を含めて、この20年続いた新自由主義の政治手法でも暮らしは豊かにならず、富は偏るばかり。150年の近代化を進めた考え方ではダメだ。そのことを共有しておかないとね。そのあたりも含めてベラさん話してもらえますか。漢那さんは建築のスタートは神奈川大学で、たくさん同じような建築をつくる近現代の建築手法を学んだと思うんですね。

絵:厚労省HPより

漢那:
自分で沖縄の建物を見るようになって、歴史的な建築の良さに気付いたこともあります。大学の教育のなかでは歴史と近代の設計って完全に分離して教わっていたんです。歴史的建築の良さ、それとの連続性をもって造らないといけないなーと。大学ではその話はまったくなかった。歴史は歴史、近代建築は近代というのがそれぞれ独立したままで、自分も仕事をしていました。卒業後しばらくそういう頭だったんです。
東京のど真ん中に居ると、そんな問題はぜんぜん感じないですね。地方としての沖縄に来て、田舎をじっくり見る機会が多くなって、わずかながら歴史を感じるというんですかね。それは僕が日本の地方に建築を造りに行ったことがほとんどなかったので分らなかったのです。どうなんですかね、日本の地方の建築家の人たちはもっと、そういうところが身近にあるんじゃないかなーと思いはしつつ、全体の流れというよりは単純に自分の興味で沖縄の民家が染みたというような処に着地したんです。









模型 出雲大社本殿 高さ約 48m

3本で一つの柱束。9本で支えている
出雲大社本殿の発掘さえrた宇豆柱、うず柱1248年
上二枚の絵:『出雲と大和』特別展図録より


木造建築と木材と林業

佐藤:更に問題を明らかにし共有できない理由は、田舎でずーっと暮らしていて観察した感想ですが、建築情報が偏っていること、偏りがあるのにそれを無い事にしてネグって発信されてきたことです。
新聞でもテレビでも建築雑誌でも、さらに有識者の集まりである建築学会、技術者の集まりの建築士会の情報誌でも東京で編集され発信されます。新聞の広告は電通が仕切り、住宅建築の広告はハウスメーカーの東京発、広告が主ですよね。広告代理店が東京で仕切って、東京発のそればっかり見ているので、中央集権制度下や工業生産体制で造られた家を見続けているわけです。地方で森との循環一体で家を造っている工務店もあるとは思いますが、広範囲に伝わっていない。
で、伝統的工法とは言うけれど、伝統と言っているだけのことで、材料は米国材だったりする。情報発信もほとんどないので、一般の方はそういうことを知らないのが実情だと思います。ですから、ベラさんのように苗木を育て植林から始める家造りをする人の存在も考えも見えてこない。
明治初期の民家造りではなくって、外国の木材を使って日本の建築基準法に合わせた工法で造る。そうして木造風に見せる。結果は百花繚乱で多様な外観を持った家が売られていますが、伝統でもなんでもない家の造り方なんですね。地方の大工さんは既に廃業しちゃっているし、大工さんの成り手もほとんどいない状況です。



前回、8月4日のZOOMでは「編集者と建築家について語る」をテーマに話し合いました。どういう建築関係の情報の流れがあるのかを語り合いました。東京大学を出てプロフェッサーアキテクトとなるのが王道で、それに合わせた情報が生産される建築媒体の情報だけが流れてきた。webができたことで情報発信は誰でもできる社会になったので、私は2000年以降発信しています。多くの方々もそうしているでしょう。






漢那さんは神奈川大学を卒業され、弟子入り修行もせず!いなり独立建築家になって建築設計を始め、生きてきた稀な方です。だから博士課程を出てプロフェッサーアキテクトという日本の建築家王道を歩んでいない。僕も工業高校しか出てないし、専門に勉強してないので日本のプロフェッサーアキテクトたちと縁が無い暮らしです。インターネットが現れるまでは建築王道上の人たちと、それに沿う編集者が流す情報しか無い建築暮らしだったと言っても過言ではない。

大学の建築教育に関して言えば、新しい建築を造ることに教育の主な力が注がれている。現在の生活とは歴史的な関係しかないような古建築教育は人気が薄い。ですから、専門家と行政の世界でも新建築と古建築が連続していないんです。それらが「建築」に統合されて捉えられて考えられていないんです。情報も教育の方法も分離している。大学での建築教育現場では一般教養としての歴史も教わる機会が無くて、卒業しちゃう。そして、経済効率を求める建築・現場に放り込まれる。分業になり過ぎた環境で大人になる。

沖縄の風景の中に建築をどうやって存立させるか。風景の中で自分の暮らしをどう守るか。そのためには建築の材料を生産する林業をどうしなければいけないのか。素材生産現場から建築造りへと一連で地続きのものとして議論なされることは少ない。その結果、歴史も景観も理解して造れない。けれど、人は一級建築士の試験に合格して建築士になれちゃう。一級試験は詰め込み知識によって学科試験を受かり、決められた時間に図面を仕上げれば、合格する。技術効率優先する試験だ。一級建築士の問題に地域の歴史の問題は出てこない。もちろん景観問題もない。

日本・国家がつくっている建築家って、戦前は建築士という制度もなかったじゃないか。最近は木造建築士というのもできた。補助金与えて材料は木材を使えと言っている。それは戦後植えた木が大きくなって余っちゃって、山が荒れちゃって災害が起きやすくなっているための対策だ。木質化だと言い張り、内装も構造にも材木を多く使いましょうと言っているだけのことで、場当たり行政だ。植林してから森を育てる、「森は建築の恋人」という作戦で林業と木造建築を育成しようとしているわけではない。

漢那:そうですね、その通りです。木を使うというところはいいんですけど、伐り出しから話は始まっていない。どのプロジェクトでも。

佐藤:木質化と言って木材使用量を競わせ、補助金を与え、推奨している。鉄筋コンクリートの上に木材を貼り付けて、見え掛かり部分を木材で仕上げる、初期の段階なんだよね。植林や林業と人々の生活や家造りが一体になる建築造りには至ってない。または、鉄骨を木材で巻いて燃え方は、一時間に6センチほどしか燃え進まないから(燃えしろ設計を参照のこと)、そういう木材の扱い方で木造耐火建築も造られ出した。
漢那さんが提案している新民家的なストーリーではない。植林によって暮らしと地域の風景を再生するという話ではない。言われている木質化は、木材を消費するための場当たり的で部分的な手法だと思います。漢那さんが沖縄で思い描いているような情報の流され方ではないので、木造民家とか言われても、トータル建築として、多くの人はピンと来ないだろうし、イメージできないと思います。
木材は日米構造協議によって米国材を輸入して、日本の車を含めた工業製品をアメリカに買ってもらう、そういう日米の商取引の問題になっていたので、日米両政府がそれで合意しているので、日本の林業を育てるという本気がないですよね。政治の問題と暮らしの問題、風景の問題なので、解くのが難しくって。

漢那さんはまずは犬槇の苗木を育てるところから始め、狼煙を上げたと。長時間・何世代も関わっていく仕事になるけれど、そういう姿勢で進めるのはいいなーと思うんです。

漢那:具体的に僕の役割は、考え方を沖縄のメディアにのせること。沖縄の人たちは木造は居心地がいいという、何となくぼんやりした気持ちは持っています。コンクリートはトラブルも当然ある。カビが生えたり、湿気があったり、暑いとか。本当は木造が気持ちいいとは薄っすら気付いているんです。けれども、手段が無いし、勉強している会社も無いし。根っ子には木造への思いはあるんで、そこを突いていけば可能だということで、広めています。
植林はあくまでも大枠の考え方なので、一個人の民間の会社で本気でやれる話じゃないと思うんです。僕はあくまで植林の専門家や林業の専門家じゃないので、これはけっこうな部分で公共事なのかなーと思っています。
昔の沖縄の暮らし方を調べていくと、その地域あるいは部落に一つ山があって、皆が管理していたとか。ある程度、公共事。

花田:入会地だね。

漢那:入会地、そういうスタイルで、公共的な形でやっていくしかない。 


日本の王道 主な建築家たち


ジョサイア・コンドル
1852年9月28日 - 1920年6月21日



辰野金吾  1854年10月13日- 1919年3月25日)


岸田日出刀 1899年2月6日 - 1966年5月3日

丹下健三 1913年 9月4日 - 2005年3月22日
■ 災害時の木造応急仮設住宅

佐藤:福島に暮らしているので、多重災害の木造応急仮設住宅は厚労省の支給品であって建築ではないですが、紹介しておきます。福島に放射能が降り積もって避難しなければいけなくなりました。長期に渡って体育館に寝ているわけにもいかず、応急仮設住宅を35000戸造りました。その内訳ですが、18000戸は民間の空き家を活用したんです。建てたのは16000戸でプレハブ仮設が10000戸です。足りずに地元チームが提案し設計施工で主に木材を用い6000戸を支給しました。1000戸は公営住宅を活用したんです。


花田先生や学生さんと木造型応急仮設住宅を体験したことがあります。木造仮設はプレハブに比べると温かいんだね。強いて言えば居住性がいいわけです。もちろんプレハブ仮設も改善し続けているので、仮設としてはさほど問題がなくなっています。木造応急仮設は部材を使いまわすためには課題が多いけど、3・11緊急仮設住宅で木造の良さも体験しています。それを一般の恒久住宅にした例もあります。が、保管庫の大きさや運搬費など課題も多い。火事や風にも弱い。火事は消防車が到着するまで近隣に燃え広がらないようにすればいわけだから、構造の木材を燃代分を厚くすれば、一定時間では一気に住宅が焼け落ちないので、類焼を防げる。それは学んで分っている。

耐火木造建築にするには太い厚い木材を使えばいいと分ったので、建築士の人たちは木質化建築を学んで、法律も整えられ木造耐火建築が一般化しました。私はコンクリートで造った家に住んでいますが、コンクリートにするか、木造にするか、その問いは不毛だと思っています。山を整備して水害や土砂災害を押さえるのは政治的な課題でもあるし、山を保全し景観を保ちながら整えなければいけないという話は以前からあります。森林を保全継承していかなければいけない国民的な課題もある。いろいろ課題は山積なんだけど、150年続いてきた近代ふう建築造りを転回できるかどうか。放射能が降っても変わらなかったからね。お金を中心にした暮らし方は変わらなかったし、お金を介した暮らしが被災地では加速しました。それは「フクシマは何でも金目でしょ」と石原元環境大臣の発言に端的に現れていました。

放射能被災地で難民化したのは、もともと伝統的な暮らしを守って民家で暮らしていた人々が多いのですが、お金を与えらえてしまって以前の暮らしを消滅させてしまいました。放射能被災地では地元民による地域再生や人づくりはしていないですね。伝統的な、お金はさほど要らない物々と地縁・伝統的な農法などを主にして暮らしていた人々と地域が、放射能がまかれた事で、賠償金という名で一気にお金経済(資本主義)に組み込まれてしまい、伝統的暮らしは消滅させられました。

景観をつくり育てながら地域の誇りを共有するためにはお金を介在させない、そうしないと伝統を守る生活には到達しないのは明らかです。10年経っても被災地域の力は賠償金頼みだから景観も伝統の暮らしも、お金でもって再生させることになる。こういう仕組みでは相互協力し合って、役所とも協力し合って、いい広域的な地域づくりへのモチベーションは生まれないし、被災者は皆さん何でも金目人になりさがるしかないので不可能です。東京のコンサルが入ってきていて、放射能被災地がどこでも画一的な再生手法にまみれ尽くし、近代の加速に進んだだけだったんです。

漢那さんがやろうとしていることの主な原因は放射能ではなくって米軍基地の存在ですが、構え方・姿勢はいいんだけど、多重災害が起き続けた時に、基本になる地域の人々との連携がなければ持続できない可能性もある。50年とか100年とか経る必要があるので、継承は厳しいかもしれないと思いながら聞いていました。
でも、まずそれを実行しないと先が見えてこない、試行錯誤していかないと課題もつかめないのでどうしようもないんだけれど。多くの人は今の制度の前に立ちつくし、どこから手を付けたらいいのかと悩むんですよ。(暮らし方変えたいと思ってないのかも)



まずは漢那さんが実践した新民家の情報を沖縄のTVにのせて流すという、漢那流だと言いましたけれども、それでいいと思います。小さな人と人との関係や、小さなことから情報を広めていって、メディア露出するしかない。一人で活動し続けて有名になる手法しか無いかもしれない。新民家で有名人になって旗振り役をする。

そのあたりはどうですかね。坂巻さん、何かアドバイスをお願いします。漢那さんも悩んでいることだし。近代建築家という船はすでに岩に乗り上げてしまっているし。






































webより木造高層計画事例

■  山作りの思想二つ 法正林思想 恒続林思想

花田:坂巻さんに質問するけれど、あなたは森を育てようとしているわけよね。ベラさんは森林が商品として生み出す木材を使って建築物を造っている側の人だよね。木材という建築材料を作り出す側の森林。それから木材という材料を使って家を造る側の建築家。その時に森林の側にいる人というのは、樹木、木の用途というのかな、使い道とか、そういう事について今どう考えているのかね。

漢那:僕もいろいろ聞きたい。

坂巻:では、ちょっと発言をさせていただきます。僕がなぜ山に興味を持っているかと言うと、そもそもは山村地域で日本人がこれからどうやって生きていけばいいのか?を考えたからです。その時に山村地域ですから、山が在るわけです。林業の問題にぶち当たるわけですよ。今までのお話のなかで言われているような、林業の、本当に片隅の片隅にいる人間なんです。

まず大前提として木を住宅なりに使ってもらうというのは大前提で、嬉しい。普通の人間が生活している中で木材を見ないことには山のことも考えないし、山に関心も持たないと思うので。木材を使っていただく分には使ってもらいたいとは思います。

僕なりにいろいろ取材をする中で気付いたことがあります。日本の山づくりの思想が、どうも間違っているらしいんです。それはドイツから輸入されたものなんですけど、実はこれを花田先生に調べてもらいたいです。日本の山づくりの思想ですが、ドイツを中心にヨーロッパで以前進められていた山づくり、今、日本で進められている山づくり。それはもうすでにドイツとヨーロッパでは禁止されたものなんです。その手法とは、山を一回全部伐ってそこに苗木を植えていくというやり方。

この皆伐施業というのは、今ドイツでは大規模な皆伐は禁止されている。じゃーどうするかと言うと、木を少しずつ伐っていって、抜き伐りをして、そこに少しずつ植えるか、勝手に生えて来るのを待つというんです。これを恒続林思想と言い、これがドイツ・ヨーロッパで現在進められている森づくりです。

花田:ダウァーヴァルトね。ヴァールトは森のことで、ダウァーは継続とも訳すことができるし、今使われている言葉で言えばサスティナブルでもいいですね。
漢那:植林なんかしないで放置しておくっていうことですか。
坂巻:そうですね、生えて来なかったら植栽をするんですけども。
漢那:農業も(福岡正信さんの)自然農法みたいものに近い感じですね。

坂巻:そうですね。日本人はどこかで農業と林業を一緒にしちゃっているんです。農業と林業は別に考えないといけない。なぜ皆伐がいけないのかって言うと、土ですよね。土壌が一気に流れてしまう。また土壌が再生するには物凄い時間が掛かるのです。生物多様性の面でもそこに棲む昆虫とか、小さな虫とかも全部生きられなくなるんです。今の日本の山づくりは法正林思想で、これも昔ドイツから輸入された思想です。
それで、建築される方が山の事を考えているというのは山側にいる人間からすると、物凄く嬉しいんです。その木はどうやって育てらてきたのかとか。今後、伐り出された山はどうなるのとか、そういうところをまで考えて欲しいんです。けれど、それは難しいといえば難しいんだけれども、それは山側から発信しなければいけないことなんですね。
山側の人たちも、いまだに法正林思想に縛られていて、変わらない。僕は今、神奈川の山に居ますけれども、山はボロボロですよ。本当に酷いです。こういった情報を一般の人に言っても届かない。届かないのはなぜか?と言うと、山に関心がないからです。山に関心を持ってもらうには、木を住宅とか公共の施設とかに使ってもらって、少しでも山との距離感を縮めてもらえたらな〜と思います。



絵:樹齢30年ほどの杉を伐り倒そうとしている坂巻さん

絵:坂巻陽平著『中山間地域を維持するための処方箋: 〜優秀な林業従事者を散りばめよう〜』キンドル250円で買う)



2021年9月16日
100年前にドイツで刊行された「恒続林(こうぞくりん)思想」を読み解く。日本に浸透する日は来るだろうか?
 坂巻さんブログへ

花田:一つ質問があるんだけど。森というのは、山というのは、木材を生産するためだけに存在するんですか。
坂巻:木材生産はあくまで人間の要求ですよね。
花田:それだけに従属していいのかっていうのがある。
漢那:雨が降って川とか水とか、森が無いとおそらく、良い水も出ないだろうし、災害の元になったりするし。災害が起こっている理由って、山が死んでいるからだと。

花田:気候温暖化の問題CO2もあるでしょう、森林が吸収するでしょう。
坂巻:水源涵養というのがあって、海・山・川は全てつながっていますよね。
花田:だから、森林というのが何か人間にとっての有用性、木材生産だとか、そういうものだけで捉えてきたから、結局、山が荒れた。
漢那:大元の根っこの逆なんです、山が元になって、下の土地が豊かになって、成り立っているみたいなのは、あるだろうから。そこを考えてないと、いろいろ歪みが出てくる。
再開発ビルの今日的手法

坂巻:さっきの話に戻ると、戦後復興期にコンクリートでどんどん造っていった。建築士の方を前にしても言うのもあれですけど、そういうこれまでの建築のあり方が、拙いよねっていう処にはなっているんです。けれども、それをどれほどの人が関心を持っているのかです。質問なんですけど、東京とか大阪でコンリートの高いビルが建っているじゃないですか、あれは、いずれは耐用年数来るものなんですよね。

漢那:きますね、朽ちてどうにもならなくなると、僕は見ているんです。建て替える時に解体しなければいけないですよね、その解体費用をプラスして新築費用に割りに合わせるには、もっと巨大化していかなければいけないんです。そうするとエンドレスに大きい建物を造り続けなければいけない。建て替えるときは大きくするという、終わりの無い地獄に向かって行くしかない建築方式です。再開発で大手はそういうふうに今だけ何とか、今回の建て替えがどうか、それしか考えていないんで。再開発しましたと皆がポジティブに言うんですけれども、あれは再開発して大きくし続けないと、どうにも次に行けないということなんです。

花田:木村さん、どうですか、今の再開発問題については。

木村:僕はさっき初めて漢那さんの新民家の写真をwebで見せていただいたんです。素直に住んでみたいと思ったんです。住んでみたいと思った瞬間に、東京では絶対あり得ない建物であって、そこを考えると、花田先生が仰っていた沖縄という環境があって初めて成り立つ木造平屋建ての住宅というものがある。単純に僕はビジュアルに見た時に、ここに住んでみたいと凄く思えた、そういうインパクトがあったんです。

僕も沖縄に何度か行って、皆さん仰っているブロックで造られた民家というのはたくさん見ました。けれども、あそこには住みたいと思ったことがないですよ。何か不衛生な感じもするし、快適じゃなさそうな、あまりいいイメージは無かったんです。沖縄に住むということで考えると、ビルに住むというよりもブロックの家に住むか、木造の家に住むかで選んでと言われたら、絶対木造の家を選ぶなーと思った。そういう欲望を喚起させるだけの建築家のデザインがある。ベラさんのあの建物は見るからに快適そうな豊かな感じ。2階3階と上に積み上げていくんじゃなくって、広い土地に平屋で建てるっていう、あの豊かさに凄く心動かされる。それは東京でやりたいと言っても、あれは建てられないと思うから。あれに住みたい人は沖縄に行くしかない。そういうふうに、場所も選んで、建物も選んで、住み方も選んで、最初の切っ掛けとなるのがビジュアルに、広い土地の中に建っている新民家。あの木造家というものから、そういうことが喚起されることになる。今日は皆さんの話を聞いていてーどうやって有名になるかみたいな話もありましたけれどもービジュアルの持つ力は強いなーと、不動産屋としても思いました。

住んでもらうことを考えた時に、あれは単純に都内の狭い土地ではあり得ないし、ああいう生活は都内では出来ない。で、都内の人たちもどういう生活をしたいかと言えば、皆、平屋に住みたい。そこで、平屋に住みたいという人は群馬の方に行きましょうとか、神奈川の山の方に行きましょうとか、言うんです。が、何か不自然さが出るんだけども、漢那さんの新民家という作品は自然に見える。というか、無理のない存在に見えたので、感銘を受けました。

花田:木村さん、ベラさんが言っていたことだけど、ビルがドンドン大きく高くなっていくという、そのロジックについては?

木村:建て替えをする時に、建て替える費用をどう捻出するのかっていうことが一番大きな問題です。今まで5階建てだったマンションを建て替えて費用を捻出しながら、さらに儲けていこうと考えていくと、どうしても5階建ては7階建てにしないといけない、8階建てにしなければいけないと。そういうロジックが働いちゃう。そうじゃないとスキームが合わないんですよね。だから、そういうロジックに陥ってしまうと、そうやっていかざるを得なくなるのです。建築基準法でいくと。今は都内の、花田先生が以前住んでいた早稲田界隈のマンションもそうです、あれだけの大きさは今は建たないんです。だから取り壊すと、今住んでいる人たちの部屋は小さくなっていってしまう。で、建物はそのまま生きのびていくしかないんですよね。あのマンションを建て替えないでいかにメンテナンスして生きながらえさせるか。そういう発想しか、コンクリートのマンションは成り立たない。そういうジレンマに、みな陥っていて、どうしようかと。築1960年代に建てられた建物は今そういう事態に直面してます。






















絵:ネットより。トーチタワー計画






絵ネットより 浜松町貿易センタービル計画


 建築を建て替える 技術を継承する 材料を育てる

花田:そこで私は思うんですけど、先の場所性との絡みで登場して来るのは、循環性っていう話です。これはベラさんが着目しているわけですよね。ベラさんは建て替えることをポジティブに捉える。発想の転換ということを言って。だから木造なわけよね。私はコンクリートの建物、あるはそういう物というのは耐久性が強く恒久的だっていう、思い込みが強すぎるんじゃないかと思うんですよ。むしろ建物について耐久性とか恒久性という価値を最初から捨てて、恒久的でなくってもいいという、ものの考え方に最初から立った方がいいんじゃないかと。
コンクリートだって耐用年数あるわけだし、木材に耐用年数あるというのは誰でも常識的に思っているわけで、両方とも耐用年数はある。ところが、コンクリートと言うとなぜかずーっと持つんじゃないかと思い込みの方が強い。
木材の方は長持ちはしないという常識がある。むしろそこに依拠した方がいいんじゃないか。つまり恒久的でなくてもいいという思想を持つ。朽ち果ててしまう、朽ち果てることを最初から組み込んだ建造物を造る。その方がずーっと潔よいではないかと思うんですよね。
だからベラさんは50年持つ木造建築。そうすると50年、佐藤さんは50年では長すぎるとさっき言ったけど、40年だとしてもね、40〜50年木造住宅がもつということであれば、人の一生の中で一度は住宅を建て替えるっていうことを経験するわけですよね。それは凄くいいことではないかと思うんですよ。自分の住処を人は誰でも一生の間に一度は建て替えると。そういう人生、いいんじゃないかと思うんです。そうすれば、木材や森林に関心を持つだろうし、自分の子供が住宅を造る時のために植林をしようと思うかもしれない。


 上下絵:政府広報HPより

循環はしているけど法正林手法の絵である。恒続林のように材種が混合して生えている絵ではない。

佐藤:
7世紀に建てられた法隆寺の木造建築が1400年ほどの耐久性がある。日本にある世界最古の木造建築として登録されている。
花田:法隆寺ね。


 絵:高橋恒夫先生最終講義資料より

佐藤:もつもたないの話題はそれが影響しているでしょうし、昔も太い木材が無い場合は寄木で造るんですね。今はCLT材とも言います。東大寺の仁王像のように寄木造りもある。コンクリートが恒久的だとは建築を造る者は誰も思っていないですね。建築に取り付けた設備はもっと早く劣化しちゃうし、壊れる。一般の人がコンクリート造が恒久的だと思っているのか?それは分らないです。

地中海周辺には石造建築が多いけど、石造の前に材木を使い果たして石で造るしかなかったので、遺跡として残ったんだと思うんです。人類はどこの地域でも身の回りにある木材で造ったのが建築の始まりだと思います。木造建築に暮すのが普通の姿だと思います。ですから、誰でも木造建築に住みたいと思うのも自然なことだと思います。ただ日本はこの150年の間に人口が4倍ぐらいに増えちゃいましたし、都市に人が集まって住むようにもなりました。そうすると火災になると大火になりますので、耐火性能が求められるようになり、3階以上の共同住宅だと耐火性能を保たなければいけないという法律ができました。それを木造建築では造れなかった時期が長期間ありました。

ところが、状況が変わりまして、先ほども話しました、あらかじめ燃え代を加えて厚くしたりすると、高層木造建築も可能になってきました。燃え代を重ね(加算)ておくと、木材が燃え尽きないので、燃え残った木造の部分で高層建築の強度が保たれれば、構造物が燃えても潰れない、その間に消化する。そうなってきているので、木造高層建築は出来てくると思います。高価ですが復興公営住宅で木造3階建ての共同住宅が造られてもいます。知人の渡辺豊和さんは高い木造建築・龍神村の体育館を建てたことで建築基準法を変えてしまいました。そのことで各地に大きな木造ドームなどの建築ができました。


絵webより:寄木造り 
東大寺南大門阿吽像解体修理

都市建築を木造建築に変えてしまうだけ、日本に木の材料があるのか?それは私にはわかりません。木造建築に未来がないとは思いません。材料をどう供給するのかという、日本人は山を育てることを考えながら都市に暮らしていくのか?、木材を輸入し続けて木質化高層建築にしていくのか、そこに話が行たった方がいいのではないかなと思います。
日本は人間が減っていくので、今ある住宅建築は1000万戸ほど余っていると言われています。それは木村さんにお聞きすると分ると思うのです。日本では余っている住宅建築をどうするんだという話と、子ども達は東京で暮らさないと仕事が無いので、地方は老夫婦が残されてじわじわと空き家が増え続ける。空いたところに外国人労働者を住まわせて3k労働などを彼らに託すのか。ヨーロッパのように移民と共に暮す国になっていくのか。日本人だけで閉じ続け、8000万人ぐらいに減っていくまで現在の利便性を捨てずに耐え続けるのか。多くの領域が関連して住宅が成り立つんだと思います。

何からどう手をつけて行けばいいのか分らない。その間に新型コロナも起きる。災害も多発する。いろいろ分らないことだらけです。木造は朽ち果てる、木造は朽ちたところは取り換えていけばいいので、鉄骨も錆びたら同じように部材を入れ替えられますので、木造か鉄骨造かコンクリート造かという選択を迫るような話にせず、現在ある建築をどういうふうに使い続けながら、最終的には木造建築にしていくか、そういう話なら分かるんですが。木造か鉄骨造かコンクリート造かという択一の話に仕立てちゃうと、いい結果を生まないと思います。くどいですが、今在るものを使いながら切り替えていく、縮退社会にするのか。現状維持するのか、さらに都市を拡張していくのか。その材料はどうするんだ、その時に日本の景観はどうあるべきなのか、そういう話をしつこくしたいですね。双方が対立する話に仕立てちゃうと、現状の問題を展開して解くことができなくなると思います。

どちらも悪い者にも良い者にもしないで、両者それぞれに欠点があるのだから、日本全国の木造建築は白アリにも喰われちゃうので薬品漬けにしゃってるしね。湿気に弱いので腐朽するし。現在の高断熱高気密工法だと通気が悪いので腐る可能性も高いので、燃えますし。全能の建築は無い。今後も新なコロナが登場して社会が変わって、暮らし方が変わっていくでしょう。人間の暮らしが変化し続けるので建築も当然変わり続けるんだと思います。


絵:東北工業大学高橋恒夫先生最終講義資料より


仁王像解体修理の様子動画 へ(1時間ほど)


金色堂解体修理動画




絵:webより 日本の人口推移予測

今夜のように沖縄と福島市と離れて暮らしながらZOOMなどで話し合うのか、都会で密集し続けて暮らし続けるのか。大都市に大きな地震が来ると餓死しますね。福島県で原発事故と地震では関連死が2330人(2021年8月5日現在)ほどで餓死者はいませんでした。南海トラフとか東京大震災とかの想定で県の災害対策課ではすでに準備しています。それでも餓死者がたくさん出ると思いますよ。そういうことに対応しながら空き家・余っている住宅を使いながら、朽ち果てたときに木造建築に変えながら景観や山を育てる。いつでも移行し続けながら対応し続けていかないと木造が正しい、コンクリートが長持ちする、古建築がいい、新建築がいい、その言い合いの対立だけで終ってしまう。対話の場をつくらないと話が噛み合っていかない。それを放置し続ける方が問題が大きくなり、さらに尾を引くので、こつこつ話し合いの場を造り続けるしかない。
 (絵:福島民報、2021年9月10日より 現在の避難者数34、9880人)

建築学会も古建築派と新建築派は混じり合って議論していませんね。自分の正しさを主張するばかりのように見えますが、施工業界もありますが、設計者の集まりって5団体ぐらいあるんですよ。話が合わないので分れちゃうんですね。同じ建築を造って人たちでも一緒にテーブルに着いて話し合えないという現実があります。非常に困難です。建築は社会と密接に関連した行為なので、正しさを主張し出すと解決しにくくなる。

専門家同士の対立で暗礁に乗り上げちゃう、そのあたり沖縄で活動していて、どうですか?

沖縄は人口が増えている 沖縄の、水と水源

漢那
:こういうスタンスなんで、そういう雰囲気になっちゃうんですけど、50年で絶対建て替える、もたそうと思ったらもっと持っちゃうし、コンクリートを完全に否定もすぐには出来ないから、法律の中では基礎でコンクリートを使っている。今の段階では、木造の割合を増やしていくとか、あくまでも沖縄限定で自分はストーリーを作っていて。沖縄では人口が増えている状態だし。建物が足りてないんです。

花田:人口増しているのは沖縄だけじゃないの。




漢那:人口が増えているのは東京と沖縄だけですね。で、戦後一気に建てたコンクリートが朽ちてきているので、危ない状況なんですね。ちっちゃい建物も朽ち始めている。それが町の真ん中にわーっと在るので、早いタイミングで建て替えのフェーズが来るし。
日本の一般的な地方で人口が減っていくという空き家問題とは全く状況が違うのです。日本全体として共通で考えるべき問題と、各地域でそれぞれに考えるべき問題があると思うんです。
沖縄の場合は、とは言え、森をしっかり機能させるというのは、根本的なことかなーと思います。坂巻さんが言っていたように、意識を山に持っていくというんですかね。環境問題がようやく一般化して、メディアがいろいろ言い出して、みんながちょっと気にし始めたタイミングですね。でも、まだ山にまで意識は到達してないですね。今は役割として分かり易いストーリーでやっていくというんですかね。そう話していくのも大事かなーと。その弊害としてはコンクリートを否定したような感じになっちゃうんですけど、一旦は木造の重要性を分かり易く発信するのがまず一点かなーと。で、山に意識を向けさせて、コンクリートと木のバランスを整理していく。



佐藤:先ほど山と水の話が出ました。福島県には只見川という水源に尾瀬があって、あのあたりはブナ林が多く、いい水がたくさん出るんです、猪苗代湖などもそうですが、東電が水利権を押さえているんです。水力発電にも使ってますね。福島市は宮城県との境にある山奥の茂庭地域にダムを作って水道水源にしています。沖縄の水事情はどうしているでしょうか。


絵: 福島県の水源の現状と課題PDFより

絵:webサイトより

漢那:沖縄の水は面白くって、最近、ようやくいろいろ分ってきたんですけど。琉球石灰岩層、鍾乳洞でできるです。

花田:ガマだね。

漢那:鍾乳洞の中に、鍾乳洞が地下の川みたいなことがあり、海にまで続く。突然ぽつんと穴があいて、鍾乳洞があったりします。地中を全部スキャンしてないんですけど、いろいろ想像すると、地下の川がいっぱい流れていて、その元の水は山の上から浸透していって、いろいろ栄養素を含んで石灰岩を溶かして徐々に集まって鍾乳洞になって、川になっている。鍾乳洞の中って川みたいに水がザーザー流れているんですよ。
それがたまたま地表に出てきて、その湧き水を昔は飲んでいた。あくまでも目に見える川は最後の最後の表面に見える水です。本当に美味しい水は一番下に流れていて、それが溢れる所が在った。そこが聖地。「カー」とか言われていて、そこを軸に生活が始まった。



沖縄本島の水源は、北部地域に集中していますが、主に人口の多い中部と南部地域で消費されています。

 大きな河川や湖などの水源に恵まれない沖縄県は、降水量も年や季節によって大きく変化するので、水を安定的に供給することが難しい自然環境にあります。
 このような厳しい自然環境と人口増加などによる水需要の拡大を受けて、国や県では、ダムや海水淡水化施設などの水源開発を進め、水の安定供給に努めてきました。
 企業局では、水源地域の理解と協力のもと、沖縄本島北部や中部地域に点在するダムや河川などの貴重な水源から取水しています。取水後は、浄水場で浄水処理し、沖縄本島の中部や南部地域を中心に水道水や工業用水を供給しています。



井戸水について
1962年(昭和37年)5月、琉球水道公社は沖縄本島の水道施設を抜本的に整備するための基本計画(マスター・プラン)を完成、その計画の一環として嘉手納地下水源開発が1962年〜1964年(昭和39年)の間に行われ、15の井戸群が嘉手納空軍基地内に緊急に開発され、コザ浄水場(平成5年廃止)に供給を開始しました。その後、1966年(昭和41年)〜 1968年(昭和43年)にかけて嘉手納基地内及び登川地域内においても、さらに井戸が開発されています。
 昭和62年8月、15号、16号、17号、18号、19号、20号、21号の7ヶ所の井戸群が北谷浄水場の建設にあわせて切り替えられ、平成5年には残りの井戸もすべて北谷浄水場に導水されることになりました。
 現在、1〜22号の井戸は、NTT回線及び基地内の軍電話回線を使用して、北谷浄水場で監視制御を行っていま


絵文 沖縄県企業局webサイトより


佐藤:珊瑚の島の下に水瓶があるですね。気仙沼や三陸では「魚付林」と言って、有名なコピーは「森は海の恋人」です。牡蠣やホタテの栄養素が豊かな山から流れてくる。そうして養殖の方々が山に、広葉樹だと思いますが、植林していて水を育てる。そうすると栄養豊富な水になり、そのことで養殖海産物がいいのがとれる。だから、山を手入れしたり、育てたりしていますね。養殖が始まってからだから、さほど時間は経っていないけど。沖縄には魚付林は無いですか。

漢那:林と言うかどうか、分らないです。そういう考えが無くって、昔の感じで言えば、地下水が琉球石灰岩の切れ目、サンゴなんですね。沖縄の海は写真で綺麗な色が広がっているですけど、浅瀬がずーっと広がって急に深くなるんです。琉球石灰岩層なんです。その下に水が流れいて、海の崖みたいな処に湧き出る。そこに珊瑚が生まれて育つ。鍾乳洞の地下水が栄養を集めて流れ出て、珊瑚を育てる。
これにもう一個、近代のコンクリートの話でショックなのがあるので、話します。今地下水が出て一番きれいなビーチだったり、鍾乳洞があるところって、珊瑚が綺麗なところなんですね。そういう所にホテルを造ろうとするじゃないですか。琉球石灰岩層に5階建ての建物を建てるとしたら、反力を調査して杭を打つじゃないですか。ある程度琉球石灰岩層に載せようかなーと思っても、ボーリングするといきなりドカーンと穴が開いているんです。たった5m掘ったら、急に空洞ができているから、もっとその下へといって掘ると、そこにはまた穴がある。どうしよう、となるわけです。そうすると、その鍾乳洞にコンクリートをどばーっと流して塊を作ってしまう。

佐藤:沖縄建築の基礎はそんなことをやってるんですか!そうやって高い建物を建てているのかー。

花田:地下の水系が乱れるよね。

漢那:地下水系が乱れて、目の前の綺麗な海で急に珊瑚が無くなって、大騒ぎして。珊瑚を植えたりしているんですけど。
佐藤:辺野古の海の埋め立ても酷い話だけれど、それより酷い事を高層建築を持つ観光宿泊業者はやっているんだね。

漢那:そういうことですね。



近世 日本 における魚 附林 と物質循環 若 菜 博 室蘭工業大学共通講座PDF




 沖縄県の代表的な湧水リスト



沖縄湧水についてweb記事へ






佐藤は木造建築と聞くとkinseyさんの写真集を思い出す。杉の切り株をくりぬいて手作りの家に暮らす家族の絵が私たちを逆照射している。
法正林思想恒続林思想

佐藤:山の育成の話に戻します。坂巻さん、先ほど法正林思想恒続林思想とおっしゃいましたけれども、水と景観とを考えて植林の普及というんでしょうか、魚付林もそうですが、森や林が材料の有用性だけではなくって、生物にとって必要不可欠な水をつくっているという、そういう話には展開していかないんでしょうか。今も杉とか檜を植えて出来上がりということになるですか。

坂巻:そうなんです。だから法正林思想は杉檜とか単一の樹種で植林し、恒続林思想の場合は広葉樹と針葉樹が入り混じる、混交林を目指す。生物多様性のことを考えたら、いろいろ植わっていた方が多様性が保てるねと。しかも広葉樹の葉っぱが落ちて土壌が豊かになる。

漢那:たしかに。

坂巻:理にかなっていはいるんですけど、戦後の日本の山づくりはまず針葉樹育てて建築材をとるんだと。

漢那:この恒続林思想って、今の農業もそういう話を聞いていて、単一のものを植えていると、栄養を入れていかないと育たない。で、土がどんどん痩せていっちゃうから、また肥料をあげてどうのこうのと、苦労するんだけれど。いろんなのを植えていくと、それがずーっと続けられる。農業も手間が掛からなくなって楽になる。農業でいうと一番聞いていて面白いなーという話です。今の恒続林における林業の話は同じベースの考えだなーと思いまして、その時に気になるのが、恒続林で出来ている山からある程度、作業というのかな、単純に林業のビジネスとしてどうなのかなーと。それで山はよくなるけど作業性とか、必要な木材が取れるのかとか、ちゃんと生活が成り立っていけるのかなーと。建築材料費がどーんと高くなったら、高すぎてみんな木造で建てられない。そこら辺を林業の人たちは、大枠のビジネスはどう考えているんですか。






坂巻:皆伐、ぜんぶ山を伐る方が一定のまとまった量の木材を出せるんです。恒続林の場合は、木の1本1本が大きく太っている状態を保つんですよ。つまり間伐ですよね。間伐をする中で山を育てていくので、どんどん木が大きくなっていく。木がとれる材料というのは、最終的には100年生、200年生の木が育つ。木は太くなる。材積としては将来的には増えるんですけどもね。(ドイツの森林面積は日本の半分だが、材の生産量は約2倍)
今の法正林思想の山づくりから、恒続林にすぐ切り替えたところで、あまり多く木は伐り出せない。そこの処はたしかに川下の方から見たらその通りだなーとは思います。ですから、すぐには転換できない。山の木は30年、50年間育てなきゃいけない。見えてくるのは50年後です、山が変わったよと言えるのはね。

漢那:50年経って見えはするけれど、そこからやっと1本、2本伐採する。
坂巻:そうですね。そこをどう伝えていくのか。
漢那:そこが実際に成り立たないとね。将来の先だったとしても、成り立つ何か。ストーリーなり。
坂巻:まさにそこは自分もどう人に説明するのがいいのかなーと思い悩んでいます。
漢那:今ちらっと思ったんですけど。斜面である程度太くなりすぎた木を一本だけ伐り出すって、そうとう難しいんじゃないかなー。
坂巻:はいはい。 2:24:59



絵:坂巻さんが伐り出した杉材を林内作業車で運搬中


絵:杉材を切り倒した後の山肌 山の持ち主はクヌギや楢の木を植えて恒続林に育てる予定だそうだ 坂巻陽平さんweb記録より 




その3へ続く



福島県天栄村のミズナラ。通称「こぶなら」推定樹齢350年   その3へ続く