2022年4月4日 「私塾を語る」 web記録  作成:佐藤敏宏
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■ 私塾的場の特性あれこれ

佐藤
:俺は、1984年に自分の家を造ったときから「建築あそび」活動していたけど、1年に3,4回不定期でやっていた。2000年以降、HPを作ったのを切っ掛けにweb記録として活動の内容は公開できるようになりました。でも2000年頃はHPの作り方が分からず、最初の音採りも失敗したりして記録がきちんと作れなかったので、グジャグジャのデータだったりします。1人でデータ採りしているのだから上手くいかないよね(笑) 記録していて分かるのは、俺は誰彼、構わず招いて語り合っていたし、竣工したらその建築をお借りしてもワイワイしてた。つまり「俺の建築はお前の家だ」「お前の建築は俺の建築だ」という気分で活動してました。

「建築あそび」とは野遊びの建築版です。野遊びとは多くの困難が押し寄せるなかででも庶民が野に出で天然の中に身を浸し、呑み・語り・歌い・踊り・食べ・生を感じることだと思います。「建築あそび」は私がその野遊びの精神を建築と人との関係性に取り入ようとする運動です。

2000年ごろの建築あそび集合写真
普通の社会人女性の参加者が多いのが分かる



今日の話ですと魚谷さんの教会建築は別にして、他は、町屋の奥庭の取り方の共有を見ても俺より閉じているベクトルの感じかな。千年の都・都会だからそういうことなのなのかも。でも、建築系の人には開いている。人が少ないし経済活動の規模も小さいし宗教にハマっている人もいないので、開催しても福島の建築系の人の参加は少ない。当時は関東圏のフットワークが軽くて若い人は思ったより来てました。学生さんだったり無名の人たちでしたが。今は大学の教員になってしまった人も多いですね。
自分の住んでいる場所で建築の話をみんなでして、ちょっとでも建築を使うことが楽しくなったり、時々集まれる場所があればいい。無名の場に無名の人が参加してくれてワイワイしているのが好ましいと思っていました。今でもそう思います。
1984年第一回目のゲストが知人の勧めで毛綱もん太さんだったんです。建築系の福島圏内の人は妖しいと思ったのでしょうか、参加しませんでした。最初の会合には後に発注者になった友達ばかりが集まってきましたね。何か効果を狙って「建築あそび」を開催してたわけではないので、自他の建築を使ってワイワイ過ごす、それが日常でいいんだと、それが目的だったんです。そういうことをやっていると人間付き合いが変わり、自分の人生も変わってしまいましたね。
今はネットで繋がれるので地域間の差はほとんど意味がなくなりましたが、1984年当時は地域間をつなぐ情報はほとんど情報量の無かったんです。有るのは専門雑誌だけでしたね。私的な活動の延長で渡辺豊和さんに出会い、奈良の自邸には2週間・長期滞在させていただいたり、大阪の若い人の家にも泊めてもらってました。で意図せずに他者の家の「住経験」をたくさん積んでました(笑)
魚谷さんと会ったのは大阪で聞き取り活動してた時に、京都の書店で勉強会があると知って京都に出向いた結果です。で、打ち上げの会場に行く時にバスの隣に座っていたのが魚谷さんでした。そこで京都の若い建築系の人を紹介してもらい聞き取りをすることになりました。あの日は初めて会った川勝真一さんの家に泊めてもらいました。若い人の紹介は質に当たりはずれはありますが、どこに行っても一番若い人に紹介してもらうことにしていました。若い人の素直な目で見て人を紹介してもらう。そうしましたら、柳沢さんや森田さんなどが紹介され、今日まで13年ほど交流が続いてます。後で分かったのは紹介された人たちは魚谷さんの卒業された布野研卒の先輩たちだったんです。
研究室とは異なり人によって感受性は違うと思うのですが、私には私塾的な場は人間関係を開いていくよう思います。もちろん硬直する可能性もありますが勉強会を開いていく、既存の壁を取り払っていく中で軟らかい関係になると思います。柳沢先生の神楽岡工作公司は職人さんが来たりして近所の人たちが参加するということはありましたか。
場を持つことで変わったことありましたか

柳沢
:近所の人の参加までは、残念ながらなかったですね。ただ2000年、当時としてはHPを熱心に作っていて、そこからメールを使って案内も出したりしていたので、割と若い子が、会った事ないような人がけっこう毎回来てくれていたなと。今だったら来てくれないだろなと思うんです。2000年頃はそういう場所も、機会も無かったのかなと。そういう理由で来てくれていたのはありますね。
 
佐藤:今はSNSなど受動的な情報と場が溢れてますからね。私塾的と言いますか、神楽岡工作公司のような場所は柳沢先生の人生にも影響を与えたと思いますが、いかがでしょうか。

柳沢:そうですね。そこで会った人と結婚しました
佐藤:おめでとうございます!(笑)それは凄い、大変化してしまったですね。神楽岡工作公司が人生そのものの始りですね、無くてはならない場所ですね。一番安定した状況をも手に入れたんだと。
柳沢:そうですね。

佐藤:珍しいことですが、いい出会いの場を自分でつくっていたんだと。それはよかったですね。
渡辺菊眞さんは春秋塾の勉強会の場から刺激を受けて個展を開く切っ掛けになったという話でした。その後も積極的に活動されていて2019年12月に高知市内で個展を開催されましたね。25年間の作品をまとめてすべて展示されていました。春秋塾のような場の活動の記憶が基にあって、自分の建築人生にもだいぶ影響を与えているのではないでしょうか?あまり関係なかったですか。

渡辺:関係なくは無いですよね。春秋塾、作品そのものは卒制を終えたあとから何となく消化不良の感覚があったので、学生にいる間にしようと思っていたのは学部出た時に思っていた事です。ただ実質は院生になったりしていると、そんな事をやっている暇が無くってですね、結局は修士論文とかをおずおずと書いたりしている内に、個展では5個出品したんです。5個の内の2つは作っていたですね。3つを春秋塾の課題があったので、課題もよかったのがあります。抽象的な観念をどうこうまさぐる課題じゃなくって、学校とか図書館とか、住宅みたいな、そういうばくっとした、近代で特に決められていた、ビルディングタイプものだけが課題で出ていて、改めて問うみたいな課題でしたので、逆にやりやすかったんですね。


1998年3月7日9時28分発信、大島哲蔵さんのFAXより抜粋

で、これを活用して個展の残りの作品づくりに活かそうというのが正直なところでして、勝手に作っていたものと、あとは春秋塾の課題を活用して、個展を実現することに向けて作品をより増やしていきたいみたいなことがありましたですから春秋塾で刺激があって、個展をしたといういうのとは違います
逆にその前に大島さんとの勉強会で、ああだこうだ言っていた時に、個展しようという気になったので、そっちの方(翻訳会)の影響の方が大きい気がしますね。春秋塾の方はもうちょっと開かれたというかデカイ組織だったので、内なるモチベーションをそこで貯めて爆発させるという場ではなかったような気がしていまして。スポンサーも付いていたものですから、何となく脱臭された感覚はありました

初期の頃の春秋塾というのは、塾とか言ってますけれど、そのような体制は整っているものでもなくって、安藤さんは昔からの知り合いだっから渡辺豊和の事務所にしょっちゅう遊びに来てたような事だけであって、塾生というわけでもないでしょうし。高松さんぐらいがそれらしいのかなーという感じです。同じ時期の人たちは大島さん、高松さん、平山さんですかね。それも塾というカチとしたことを決めたわけでもないでしょうが。
私が近いしいのは大島さんがやっていたのは勉強会の気がしています。春秋塾はどちらかと言うとINAXが付いてたフォームでしたから、そこまで刺激的な場だったかというと、今思うとそうでもなかったような気がしてますね。大島哲蔵さんからの影響が大きかった気がしています。 

   2019年12月3〜5日渡辺菊眞建築展、聞き取り目次をみる



神楽岡工作公司の面々






若い人の学ぶ場  学内評価と外部卒展について

佐藤:建築系の学生さんが学ぶ場所について話を移していきます。最近は仙台の卒制日本一展。あるいは菊眞さんが世話されているJIA四国支部の卒展など地域選抜を経て全国大会もあります。建築学会の卒業設計コンテストもあるようですね。京都ディプロマもあります。全国の方々で仙台日本一展に似たような卒業設計展をおこなっているようです。2000年頃は卒制コンテストは耳にしませんでした。
仙台のコンテストは仙台メディアテークが竣工したのを機に場に合ったイベントを阿部仁史さんが主導し開始したと聞いています。その影響が大きかったのでしょう、大学内で評価されない人や大学内の評価に不満を持った学生が出展して腕試しをする場にもなって盛り上げます。

菊眞さんに一月前の3月9日に高知市に呼ばれて、審査員長しての感想です。大学で建築の勉強をするのと、大学を離れて競うというのはどのように整理したらいいのか分かりませんが感想です。菊眞先生は学生の一人一人の個性に合わせた建築教育されていることを確認できた場になりました。コンテストの後に居酒屋で学生さんと語り合って、それぞれの個性に合った建築教育をされ卒制、修士設計を完成させていることを呑み語り合いながら知り、好感を持ちました。建築教育とコンテストはほとんど関係ないわけです。







2022年3月9日
学部生との語り合い記録を読む 





2022年3月8日
修士生との語り合い記録を読む
 


佐藤:仙台日本一展に出展する学生に会って私が彼らの声を記録したの2018年度の日本一展の参加者です。工学院大学の渡辺顕人さんが日本一位にりました。展が終わってから工学院大学に行き、傍の居酒屋で聞き取りしました。大学内では評価がさほどされなかったということでした。日本一位を狙って半年前から準備していました。で、10人のファイナリストにはなっていたです。ですが、審査が終盤を迎えた時に渡辺顕人(右絵)さんは「日本一にならなくってもいい」と啖呵を切りました。審査会のちゃぶ台をひっクり返しました。その途端には彼に票が集まりまして、日本一位になりました(笑)。私は前日に「この作品が日本一位になる」と一緒に見て回っていた工学院大学の樫原徹先生に言ってました。ああいう演技で日本一位をさらっていく学生もいる。
彼の制作は建築とは離れていると言います、ある種・有名建築パロディー、二次創作になっていた作品でした。日本一への狙い方が上手いわけです。

そこで卒業設計と社会にある私塾のような勉強会とは関係が有るのか、無いのか興味が湧いて、卒制に関する人の聞き取りも続けていて、記録したりしていました。

今年の3月仙台は京都大学の女性の方が日本一位になりました。柳沢先生の研究室では卒業設計は作品を作っているんですか、論文だけでしょうか。


作品と 渡辺顕人さん


柳沢:卒業設計と作品制作もしています。

佐藤:各研究室で制作して、京都大学全体でのコンテストもあるんでしょうか?

柳沢:京都大学では卒業設計については卒業設計賞を決めるので、審査会を毎年恒例でやっています。
佐藤:仙台日本一展で一位になった女学生は大学内では評価されていたのでしょうか?
柳沢:学生の佐藤ですよね。大学でも一等をとりました

佐藤:菊眞さんも魚谷さんも見ていないので、日本一位の作品は分からないと思います。簡単に話しますと津波に遭った宮城県の牡鹿半島のとある浜、湊の地域を再生プロジェクトでした、漁業と観光物産館と津波で壊れないタワーなどを複合させている提案でした。今後、津波に遭っても地域の歴史や記憶を残しつつ再生し時々の浜の人の思いを継承させていくような意図でした。模型もすごい細かく作り込んでいて、ランドスケイプ的でもありましたし、説明も達者でしす一位でしょうかと。

菊眞さんの大学もそうでしたが、女性学生が頑張っている、優秀といいますか。でも社会に出てしまうと、いつのかにか消えてしまう。今までは建築界のジェンダーバランスが悪くって、活躍している人などの男女比で女性は14%しかいません。女性研究者の比率では数パーセントでしょうかZ世代の女性の活躍の場が、非常に少ない領域でもあります。

話が混乱、脱線しましたけれど、大学で開く審査会と、スポンサー付きで学外で開かれるコンテストを先生方はどのように観てきたのか?お聞かせ願いませんでしょうか。私は大学で充実した勉強をして他は「好きにやりなさい」でいいと思います。仙台日本一展などの学外コンテストが最終目標になっている学生が居るのは私には納得できないですね。


 

 
絵:佐藤のHP内にある聞き取り記録を見る
柳沢:あまりいいことではないと思うんです。 学外で評価される場がある、発表の場がある、いろんな人の意見をもらえる場があるのは凄くいいことだと思います。で、学生がそういうコンテストに一生懸命出すのもいいことだと思っています。

ただ私も前の大学にいたときから見ていて、気になっていたのは仙台が始まって盛り上がっている、まあそういうのもあっていいかなと思って見てたんです。各地に出来ましたよね。京都は前からやっていましたけれど、中部、名古屋設計賞とか、九州の方にも出来たり。各地でたくさん開催されるようになって。あれもぜんぶスポンサー付きというか、紐付きで。スポンサーはこれをやると学生の情報が入るというのに違和感を感じた。学生に僕も企画の手伝いをするように言われて、入ったことがあるんです、けれども、フォーマットが決まっているんですよね。審査員は学生が凄いと思う、あるいはこの人に審査してもらいたいと思う、なおかつスポンサーにとって宣伝になるようなネームバリューがある建築家を、3〜4人ぐらい選んで、その人を呼んでもらって、意見をもらって審査してもらっている。

そのフォーマットが全部決まっていて。参加している学生もそこをまったく疑わずに取組んでいるのが、僕はちょっと、見ていて気になってました。
それは、特に有名な人に褒めてもらいたい、そのために作るみたいな、そういう感じになっていて。どういう審査員を選ぶのか?というと建築雑誌に載っているような人たちしか審査員に選ばれない。僕らが知らないような「こんな人いたの」みたいな人が出て来ることは絶対ないです。オーソライズされた建築家を呼んできて、その人に学生の作品ですと言って、拙いですけれど見てください、と。提出し褒めてもらう。そういうのは嫌だ、気持ち悪い
で、あんまり応援もしてなかったんです。一度、学生にはそういう審査員を呼ぶんじゃなくって、自分たちで相互講評する会でもいいんじゃないと、言ったりもしたんです。でも学生にはあんまり響かない(笑)そんな事を感じています。

あの仕組みは一個ぐらいあってもいいんだけど、全部が仙台と同じ形式になっているのが、よくないなと思います。


佐藤:建築学生にあるフォーディズムですかね、自家用車を作るように建築家は生産できるんだと(笑)。原因は学生に届く情報が少ないのでしょうが、有名建築家を知るのは雑誌からでしょうから、メディア露出することが多い人、若い審査員は同じでして、今年の仙台には秋吉さんが審査員でした。彼は新自由主義内に生まれたアルゴリズム建築系時代の若手トップランナーということでしょうか。
菊眞さんが開いている卒制コンテストは俺なんか呼んじゃって(笑)異例でしょう。審査していて分かるのは、大学で先生とマンツーマンでじっくり時間を掛けて話合って制作する方が学生さん自身が自分の建築観を見る時間が長くなるのでそちらに時間を割くべきでしょう。 審査員はほんの数分で制作、意図を聞いて、質問や応答してて優劣を決めるわけですが、菊眞さんから卒制データをいただいて見返してみると、審査会場とは違う思いになりますね。呑み会して交流して記録を作っているので、審査会場にはない感慨がわきます。だから大学で先生とマンツーマンでじっくり制作し続ける方が建築人の将来にとってはいいのではないかと思うようになりました。先月の審査員長になり終えた感想です。

審査委員長とは言え、隣の審査員と持ち点が同じなので、点数で結果がでてしまうので、こんな案を一位にするのは気に入らんとは言えない。高専の作品が一等になってしまった。高専の案は落としたかったんだけど、その理由は案を作るベースが紙媒体の情報を基にした、一種脳内妄想や教え込まれたデータで卒制を制作していたんです。その作品は外国からやってくる技能研修生のためのシェアハウス案でした。質問して確かめたのですが現地や当事者に当たり聞き取りしたりして自分自身の情報をもとに制作していない。これを作ったら受けるだろうという感じだ、そう分かったからです。大人に媚びるというか、要領がいいというか。他の審査員が高得点を入れてしまって一位になってしまいました。
ひっくり返す権限もなさそうなので、困ったんです。菊眞さんの前で俺がごねたり暴れてもしょうがないので、甘んじて俺の名前で賞をあげました。審査委員長としてはとても拙い対応でした。反省しております。

菊眞さんはその辺りはどう思っていますか?、あのようなコンテストと自分が大学で一対一で教えながら制作していく、その時々の評価と言いますか。なんとなくあの場で感じたのは、しょうがないから今年もコンテストやるか、そんな空気でした。で福島に戻って竹内泰さんと呑みましたら、学生を餌にスポンサー付きコンテストについは大人がいかんと、強烈な批判を受けてしまいました。学生は違う行為にそれぞれ時間を割くべきだと、批判を聞いてて妥当だと思いました。

地方・四国でスポンサー付きでやり始めた点などを教えていただけますか。



2022年3月末で東北工業大学を辞した竹内泰先生と3月10日福島市で呑む

講評前に敷地を観る魚谷さん 大学で私塾する

渡辺高知というのがまず大きいと思っています。それぞれ、私は関西にしかいたことが無いので、高知に来た時に、思ってる以上に情報が無い。今はネットがあるから情報なんてどこだって一緒だと思うんです。放置しておくと、学生はなぜか高知に来ているからか、分からないです。(建築系の情報にも)興味が無さそうなんですよ。それは情報収集しない子たちが多い、それは好いことだなとあるときに思って。都市部では、雑誌を見て周りのことを気にしだして誰かしらが「今、こういうのが流行っているから」という話になっていくですけれども、高知に来ている学生たちはなぜか?あまり興味が無さそうで。
それから、高知に在る誰が建てたのか分からないような建物だとか、場所とかがやたら面白いものが多い。じゃ、情報にも興味がなく目の前にある物には、かなり面白いものが多いというのがあるので、そこを舞台に何か考えるということをしていけばいいかなと、いうのが最初にありました
その時に、なんやかや言っても研究室も組織なので、この研究室だとこういう事を考えたりすると、いいんじゃなかろうか、と思う輩もでて来るので。それを僕、ものすごい叱責するんです。そんなこと、お前思っていないだろうと話ます。そういう形式じゃなくって、たぶん元来根っこにあるようなものを、それぞれがしつこく対話していると出て来るんです。そういうような事を題材にしながら一緒に考えています。
それから高知という、故郷をテーマにしてやる子もいるんですけれども、高知で何か刺激を受けたことと結び付けて考えるのが多いので。結果それを、ずーっとやってきているような事があります。

ただし、僕と彼らだけの対話だけしかないのはどうか?といのがありますので、いつも年度末に研究室の展示会は魚谷さんも10数回来てくださってるんです。魚谷さんに毎年来ていただいていて。ある時期から構造の高橋さん、去年からまた違う日建の中川さんを呼んでいたします。魚谷さんは継続して来てくださっていて。これもコロコロと目先を変えずに、魚谷さんは迷惑かも知れませんが、とにかく魚谷さんは毎年来るんだみたいな話が僕はいいと思っていまして。外の刺激を受ける時に何かバラエティーを揃えるのもいいかも知れませんけど、ある考え方を持って、しかも高知に何回も足を運んでおられる。
その上に魚谷さんに来ていただいて始めたことなんですが、講評するだけじゃなくって、午前中に彼らが選んだ敷地を周るみたいな事を魚谷さんが高知に来て「敷地見てきました」と言ってことが切っ掛けで、敷地を周る、それをやることが定例になった。それは非常にいいことでして、講評の前には敷地・場所を観にいくんですよ。
高知に来ていただいて、作品の発表が場所と結びついて言っていることが理解していただけるその敷地体験の共有をもってコメントを頂けるというのが年度末の一番大きな行事です。それを目標に彼らは案を作っているんですが。

JIAの展はオマケ的なことで、自分自身がどこか手を入れれないような話を含めた、外部の組織でのコンテストに出してみて、いろんな話を聞きましょうと。JIAの地方コンテストは僕に丸投げされているんですので、審査委員長に関しては僕が誰を呼んでもいいことになっているですよ。(笑)うまく活用して、普通呼ばないだろうという人も含めて呼ぶと。そうしたら四国支部長とか嫌な顔をするんですけども、そんなら僕から権限を奪ったらいいんじゃないの、という話があるので。そこは最大限活用させていただいているです。

ただ彼らはあれも一つの刺激ぐらいにしか思っていないので、我が大学だと全国で勝つんだみたいな人はそんなに居ない気がしています。基本的には佐藤さんが最初におっしゃったように、研究室の中で学ぶというのが多いんです。それを可能にしているのが高知という場所が大きいので、それが無い事には。
僕が高知以外の場で教えていたらどうしたかは分からないのですけれど。高知に助けられていることがものすごく大きいと思っています。3月の初めに佐藤さんが来られた時も高知出身の子が多くないんです。そこで4年なり6年いると、相当にそこから感じる、そのことが多そうだと。そこは最近分かって来ましたので。だから大学という話なんですが、実は大学の名を借りて私塾的なことをそこでやっているような感じがあると思っています。私はそんなところですね。そんなことを考えている感じです。

 2022年3月8日 修士生と語り合う








3月9日JAI四国支部卒制展会場






卒制展後学部生と呑む
佐藤:今回は菊眞さんに高知に呼ばれ、学部生5人と修士の方4人、9人の作品を見せていただきました。魚谷さんの話とは違って私は計画の敷地を見に行ってないのです。敷地を周ってから講評する行為は魚谷さんから始まったということで、建築を造るときのように具体的に行為にしているのはいいですね。
審査会の夜、学生さんたちは、私と酒呑んでいても帰ろうとしなかったですよね。お喋りをずと聞いているし、聞けば話すし大賑わいでした。それぞれ言葉はつたないわけですけれども、若いからしょうがない。しかし自分たちが偏差値低いと口々に語ります。現代の評価で俺たちは馬鹿であるともはっきり自覚しておりました。その事を悲観的に語るでもなく抗うために努力するような気配もない。ですから無理のない学生生活を送って来てるように想いました。それで、背伸びしない姿で自分の建築をつくり始めている、その点も印象に残りました。競争社会に毒されずに済んで、自分の建築観をつくろうとしている姿がいいわけです。
仙台に行って聞き取りしようとしても、話を聞かせてくれる人は少なく「東北大は暗い」といいますし、スター建築家を追っかけてしまいます。有名建築関係者じゃないと相手にしたくない、そんな姿勢と雰囲気がありました。有名人しか人間じゃない病に罹ってしまているかのようです。有名資本主義とでも言うんでしょうか。ですから多くの学生が似たような応答になってしまうので、大学の性格というのは若い者に大きな影響を与えてしまうので怖いと思います。
菊眞さんの大学の学生に会ってみると、有名建築家病にも罹っていませんし、学生同士がそれぞれの特徴をお互い認め合いながら和気あいあい建築を学んでいく場になっていました。そこにも好感を持ちました。情報が偏っていないし、過多でもないんだけど、建築雑誌は購読しているだと思います。

渡辺:それは大学に普通にありますからね。あんまり見ないんですよ。(笑)

佐藤:先日1月4日のZOOMで「おめでとうを語り合う」というお題で。京都府立大学の森田一弥先生の初大学授業の話を聞きました。そうしましたら、学生はインスタグラムを見ながら「先生このデザインがいい」と教えてくれる。で有名建築家はインスタグラムで情報を公開に力を入れているんだと教えてくれました。
でも、高知の学生さんはインスタグラムで情報を採り見せ合っているような様子はありませんでした。建築情報に関しても専門誌の過剰な偏ったかのようなものに侵されていない点がいいなー、それぞれの学生に合った学びをのびのび手に入れて勉強しているなと想いました。


2022年1月4日記録を読む 

オマケで出品して他の評価も聞いてみよう 
 先生、名簿を売り支援金を得る? (費用が掛かりすぎるよ)

魚谷さんは震災後に呼ばれていろいろなコンテストの審査活動はしていますか?
魚谷:たまに呼ばれています。
佐藤:どのような感じでしょうか?

魚谷:たぶんみなさんと一緒ですけれど、学校にもよると思うんです。学校によっては悪い人ではなんだろうけど、学生の卒業設計を見るのがあまり上手じゃない先生が偏っていることもあり得ると思うんですね。そういう時に学内の講評の場所じゃない所で評価される機会があるというのは間違いなくいいことだとは思うんです。最近はそういう場がたくさん有って二回生でも新人戦とか言うのがあるんですよ。別にそれをやっている人は悪くはないけど。全員が全員そうではないけれど、特に関西だと非常勤とかもやっている資格の学校にありがちなんです、それを頑張っているんですね(笑)で、それが目的化してしまったりすると、ちょっと違うんじゃないかと思います
たぶん卒業設計をまんま、オマケで出品して他の評価も聞いてみると言うんだったらいいと思うんだけども。そこで評価されるためにやっているとなると、違う。そういうのを頑張る人が居てもいいと思います。
学生に言っているのは「そういう人もいてもいいけど、そうじゃないことをする人もいいんじゃないかな」と。本を読んだりとか、旅行したりとか。そういうことをすることもいいんじゃないかなと。そういう話はしてますね。

佐藤:外部コンテストに力を注がず、本を読んだり旅行した方がいいかも、と。京都に集まってくるような学生さんたちは勉強しすぎているだろうから、そうは言われても日本一になって有名になりたいと思うんじゃないですかね?新自由主義下の若者たちに、コンテストより読書や旅行の方がいいと語り、彼らの動機を変えてやると(笑)。

魚谷:どっちがいいかは分からないですよね。僕は学生の時に建築ばかりやり過ぎるよりも、もう少し世界とか社会とか自分の事とかをいろいろしょうもないことを考えた経験があったうえで、その中でどう建築を造っていくのかということがいいんじゃないかと。そう考えたら学生の時に建築だけをやるよりも、そうじゃないことをすることもいいんじゃないかと思うけど。それはどっちが正しいかは分からないですよね。

佐藤:魚谷さんは非常勤でいろいろな大学で教えているんですか、常勤ですか?
魚谷:今は常勤はないです。非常勤ばっかりです。
佐藤:非常勤をすると自分の教え子がコンテストで一位獲ったり入賞すると、SNSで自慢をしたりしますのを散見しました。自分hあ教育者としての能力をアピールしてんるのかも知れません。そういう煽りする人もいるんじゃないですか。

魚谷:あまり知らない、分からないです。
佐藤:仙台2018では先生が率先してSNS投稿を見ました。我が大学はレベルが高いんだという内容でした。非常勤していると専任講師に採用されるために、そういうモチベーションも働くのかなと思って聞いてみました。ツイートしていた大学の先生はいましたよ。

魚谷
:ほほえましですよね。 会場大笑い

佐藤:ほほえましいし!こんな投稿して恥ずかしいんじゃないかな?と思うんだけど。そんな投稿は大学の教員がすることじゃねーだろうと思ったんです。高専でも全国コンテストががあって自校をアピールする先生も同様に見るので、お聞きしました。

魚谷:もしかしたら学生によっては建築家になるためには、それが王道と思っている、そういう学生がいるかも知れません。でも、それ以外にも楽しく建築の仕事をしながら生きていける道は幾らでもあるんで。必ずしもそこで卒制で賞をとることが建築家になる必要条件ではないですよね。

佐藤:スポンサーが居ないと設計し建築は建たないわけだけど、商売あがったりになるので、コンテストにおいて資格関係じゃない建築系のスポンサーがいるのはいいのだが、まとまった支援金は資格関係から得るのが易のだとは思うんだろうけど。コンテスト開催する地域のだけの支援金ならまだいいかもですね。
柳沢先生がさきほど言われたようにコンテストのテンプレートが出来てしまっていて、どのコンテストも同じになってしまう、一体どうしてそうことになるのか?自由を放棄しているようで不思議です。まだ謎は解けてないです。もうすこし観察を続ける予定です、まとめて運営資金得るのに楽ちんだったり、協賛金の交渉楽だからでしょうね。

魚谷:たぶんスポンサーの話とテンプレートの話は別な気がするんです(笑)スポンサーの話って難しいですよね。要は学生の名簿を売ってお金を得ているわけですよね。
佐藤:そのよううだね。
魚谷:なんだろう、難しいですよね。学生の名簿を売って教員が何らかの美味しい事を享受していれば大問題ですけれど。

  会場大笑い

あるいは、そういう会で、学生が搾取されているのも問題でしょうし、スポンサーがお金出して、その結果は一級建築士の講座の受講料が上がっているのも、どうかな?と思うんです。

佐藤:高知のコンテストから帰ってきた夜、福島市内で竹内泰先生と呑んだんだけど、そこで、その点を突いて大いに叱責されました。竹内泰先生はまともなだなと思いました。学生や建築のためにはならないだと言っていた。受講料はどのぐらいするのか知らないけれど高額なんですね。
魚谷:高いみたいですね。僕は払わなかったですけれど。僕にもゼミとかの活動助成金とか言って来るんですね。で、そういうのは当然だめだと思って断ったですよ。そんなにの学生の名簿を売れるわけないでしょう、と。
佐藤:それはそうだよな。

魚谷
:それを学生に言ったですよ。自慢げに「断ってやったよ」と。そうしたら、「いやいや何を断っているんですか」と(笑)丁度その時にタイとか香港とかハノイとかに自費で調査に行かせていたんですよ。そのお金をもらっていたら、足代になったじゃないですか。(笑)だから学生はそう言うんですね。


行政の支援と海外派遣

佐藤
:仙台での2018年日本一展では、仙台市が1人台湾に派遣していると聞きました。東北大から芸大に進んだ、須藤さんの証言をとりました。内容は仙台市に暮す、建築で優秀だと思われる学生を仙台市役所が派遣しているそうです。行政が派遣するのはいかがでしょうか?行政が学生を派遣するのも好くないですか。

スポンサーの有無や業種も含めめてどこまでが好く、どこからが学生に悪影響を与えるのか、区別するのが難しいです。

魚谷:行政が派遣するんだったら、いいとかじゃなくって、行政の人が見ていいと思った学生を派遣すればいいじゃないですか。

佐藤:行政の人が判断しているのか、大学の先生が推薦した学生を派遣しているのか?そこまでは調べていません。仙台市内で建築を学んでいる活躍していると思われる学生を年に一人派遣しているそうです。

魚谷:審査員が選んだのではなくって行政の人が選んだったら、それはいいですね。
佐藤:仙台のメディアテークでは学芸員の方が学生の世話もしつつ、年間通して月に2回ぐらい、学生会議の勉強会の場としても場所を提供し使わせている。活動を支援したり、いろいろ面倒を見ている学芸員がいるんですね。その一環として海外にも1人派遣するということでしょう。仙台の日本一展の場合は仙台周辺の大学の先生たちが仕切っているのか?微妙な感じがしますので、各大学の関わり方については詳しくは私は分かっていません。

魚谷:竹内さんが居たら荒れそうですね。
佐藤:竹内先生は自立してない学生のコンテストには異議を申し続けていました。工業大学にも日本一展大好きな先生もいますので。そういう人とも良好じゃなかったと思います。日本一展以外でも以前から仙台は多くの領域で東京大学の植民地のような状況だと思います、精神も植民地化しているように思います。で、竹内先生の異議申し立ても理解できるような気がします。建築雑誌をふくめて、建築系媒体は東大系の先生方が主導してきたと思いますから、そういう傾向は今でも続いていて、東京が中心で地方が倣うような関係になっているんだと思います。で、地方がいつになっても自立できにくいのでしょうね。


その03へ続く