『遠雷』DVD鑑賞録 | 作成:佐藤敏宏 2025・4・3 | |
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『遠雷』検索エンジン内・画像より | |
■はじめに 生きがいと職業観の違いによって起動する父と息子の対話不全はやがて小さな社会である家族崩壊に至る。あなたが暮らす家庭では対話があり親密な会話がなりたっていますか? 家庭崩壊をベースに息子の死を切っ掛けに物語が展開していく映画『美晴に傘を』を観、web感想録を作成した。作業中に45年前に観た『遠雷』のラストシーンが浮かんだ。 前者の舞台は小さな漁業町の独居じいさんの家。後者は鉄筋づくりの団地に囲まれたトマト農家。両者は一次産業を生業としその場所が海と陸の違いはあるが、物語にある対話不全を比べ観察し親密な社会(家族)の再現可能な端緒があると思った。 漁船に乗り大海原から魚を獲る、大地にビニールハウスを建て重油でハウスの温度管理をしトマトを収穫する、どちらも原油に依存し狩猟採取民からは遠く離れている、その点も共通している。2本の映画は共通店が多いが父を息子が表面を滑るだけで、深層で理解しあってないことで多様で不要な争いが起き、家族崩壊に至ることは同じ病だ。 独居世帯が4割に届こうとする現在、そう言い切れないのだが・・・近代以降の150年間に生きている人は各自が想い描く社会(家庭)を作ろうとして生きる動物になったのだから、地球上にある見知らぬ世界から多様な情報が侵入し圧がかかると争いが起きる。そのことはだれでも日々感じているだろう。 『遠雷』中古DVD 筆者が生きた時間と重なっているので、現在と45年前の世界からの圧と家族の争点を知りたくなりwebから中古DVDを手に入れた。何度も鑑賞したが「これだよ、これが当時の若者が世界から受け止め活動の源となったものだ」といった思いには至らなかった。 トマト営農に一生を賭すような若者・和田満夫が『遠雷』の主役だ。彼の周りに起きる事件が物語として提示されるが、仕舞かたが腑に落ちない。1980年初頭、20代の若者は一流企業のサラリーマンをめざしただろう。農地があるとしても新婚夫妻が仲良くトマト栽培に一生を捧げる、その点に希望を見いだす者は農業オタクだったろう。映画の仕舞はトマトハウスの前で夫妻での農作業にエンドロールが流れ出す。あの〆かたは腑に落ちない。東京圏といえる宇都宮市。団地に囲まれた農地でトマト栽培を生業にし、孫子の世代も生き残れるかのような『遠雷』。あの仕舞いかたは若者たちに脆弱な希望の押し付けではないだろうか。 巨大都市近郊の農業 2025年、空き住宅は1000万戸にとどくと言われている。1980年代初頭でも、敗戦から続いていた住宅不足は、地方にも都市化の波として押し寄せ農地を蚕食していった。具体的には農地を宅地に変えサラリーマンたちに家を持たせること。国策としての「持ち家制度」がエンジンとなり、金融機関が住宅金融公庫の窓口を兼ね個人の郊外住宅が雨後の竹の子のように建てられることで、土地・住宅神話がつづいた。 農地は蚕食されつづける世の中で、一次産業に従事する家族内にあっても構成員の職業観は異なり、各自が自由に職業を選び就き給料を得ることを若者は希望したはずだ。その裏面では旧来の家族営農を基盤とした家父長的家族は崩壊し、父的権威が失われる世の末のありさまだったろう。日本の自民党政治は営農家族に支えられていたが、政治は白物家電や車を輸出し農産物を輸入する世へと舵をきって久しかった。だから映画『遠雷』の舞台となったような農家という社会が崩壊するのも当然の帰結だった。 トマト栽培を観れば、1985年のつくば科学万博で展示された1万3,000個のトマトを実らせる水耕栽培はニュースにもなった(関連情報)。農業の水耕栽培への移行は工場化の始まりだった。苗木への害虫対策と栄養補給の問題からも、工場型農業は次世代の夢として誰の目にも映っただろう。 農業の工場化への移行は人が土いじりから解放され、天然・天候に多きく左右されない農業は主流だ、と考える人が多くなっていて、農業経営戦略として事業展開する者がおおかったから2025年、コンビニやスーパーには水耕栽培によって安定供給された野菜と加工食品が並んでいるのだ。 農業から解放された人々の自由の先には何が・・・ 1970〜80年代は、敗戦からつづいた食糧難と住宅難から人が解放され、快楽をもとめた世でもあった。株式投資に走り、早朝からゴルフ場にでかけ帰りはスナックで呑みあかす。快楽優先の世も膨れあがっていた。さらに、各自が生きがいや自由を求め、個々を縛り合うような旧来の営農のような家業は継がないで離れる。その結果として休耕地とシャッター通りが現れ、社会(家族)が壊れ多数の若者が流民化したから生まれ、2/3人の負け組が派遣労働者とし奴隷化のような様が出現した。物語『遠雷』は日本列島の津々浦々まで豊かに成り立っていた一次産業が錆びれ、同時にそれをささえた家族(社会)の崩壊を示す一事例だった。その後、1985年のプラザ合意を切っ掛けに日本にはバブル経済が出現し、土地バブル、ゴルフ場権利バブル、株バブルがあらわれ、6年後の1991年に金融崩壊に至ったり、農家の金融をささえていた農林中金も土地バブルに投資したことで経営が立ちいかなくなり、税金で救済策がとられた。 立松による『遠雷』はバブル経済の前夜にあらされた警鐘として捉えることも可能だ。小説が映画化されたことで現在でもDVDを手に入れれば、当時の崩れゆく地方の若者の暮らしを振り返り観ることができる。 明治から続いた家内工業的・伝統的な農業と携わる家族像の崩壊と消滅。流れに逆らって新婚さんが伝統的家族を営み始めたとしても、世に合う新しく豊かな生活や家族像を手に入れることは不可能なのだ。工業製品を海外に輸出し農産物は輸入するという、政治の選択が、第一次産業を衰退に至らせたことは自明のことだ。 立松が『遠雷』を小説とし書きあらわした動機は、映画の凡庸な仕舞い方で済ませる事ではないと思った。しかし映画の中には手がかりが無いので、我が家の傍にある県立図書館にいき立松和平著『遠雷』を借りてきた。一読すると原作での仕舞いかたは、崩壊し始めた農家の周囲に現れる豊かな幻想と幻影が交差する美しい農村の映像描写だった。夢幻のなかに現れる都市化と農村の混在。さらにこの地に生きた過去と現在に交わった人々への思いが渦巻く。そのような生き方をもとめる若者が観た幻影として刻印されていた。 幻影の中に立ち現れる豊かな農村風景が描かれても疑問は残る。農家を捨て愛人と蒸発した父のその後はどうなるのか描かれていない。 安っぽい出来心で人妻と駆け落ちし、モーテルで女を殺害した友人広次は自首した。広次の家族と彼らの農地はどうなるのか、など読者に対して立松は物語に始末をつける必要がある。満夫とその家族の次の生き方を書きあらわさなければ、作者も座りがわるかろう。 立松和平はそれらの疑問に始末をつけていた。遠雷四部作とよぶそうだ。『遠雷』、『春雷』、『性的黙示録』、『地霊』のことだ。遠雷だけ読み終えただけなので、立松がどのように1980年代の若者と家族(社会)を見通し、表現しようとしたのか、そのことは今は分かっていない。それを記すことは今年の私的課題としておく。 web感想録の前置きはさておき、次に映画『遠雷』をみていこう。 |
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1980年代に観た遠雷の記憶 (新婚さん「わたしの青い鳥」を歌うシーン) 『遠雷』検索すると1981年10月24日初公開とある。私は30才になったばかりで調布市から千葉市へと借家を変えたのち福島市に戻っていた。1982年12月には福島市内の若者たちと(写真展)『東松照明の世界・展 いま!』を実行委員会形式で開催した。委員会は映写会も開催した。寺山修司作『田園に死す』やアンジェワイダの『大理石の男』などの作品をワイワイしながら観た。その流れで『遠雷』を実行委員会の誰かと福島市内の映画館で観たのかもしれない。 『遠雷』を観て印象に残ったのは主演の新婚さん両人が歌う(永島敏行と石田えり)が自宅を解放しての結婚式の様子だ。明け方までつづいた結婚式と披露宴の仕舞にクッククック青い鳥・・と3度歌うシーンだ。主役の和田満夫は披露宴を仕切る背後では、愛人を殺害した友人の自首を支援していて、表舞台では結婚式だ。二つの大きな出来事を同時に行き来する、天国と地獄が偶然にも重なり描かれたことで満夫の涙からは多重な意味が発生していて、朴訥でとぎれとぎれに歌う、あのシーンは記憶に残ってた。 |
『田園に死す』予告動画 (作詞・阿久悠、作曲中村泰士、歌桜田淳子。曲名「わたしの青い鳥) |
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■舞台は トマト農家 舞台は宇都宮市のトマト農家とトマトを栽培するビニールハウス2000uだ。主役の和田満夫は次男でも農業高校(宇都宮白楊高等学校?)を卒業しトマト栽培に従事し、将来は2倍の面積の4000uのトマト・ハウスに拡張したい、と考える気力が満ちている23才の好青年だ。 映画の物語は、母親がもちこんだ満夫のお見合いから結婚式に至るまでのわずか数か月に詰め込まれえがかれる。村人が納豆のようにまとわりつく濃密で滑稽でいい加減でも、ばらけない人間模様を描いている。戦後あるいは昭和の人間関係が、都市化の波に洗われ、いよいよ消滅する時期の農家の人間模様を的確に描きだしている。 ![]() ![]() |
1980年、宇都宮市は40.9万人ほどだったが2020年には51.9万人に増加し、農業に従事する者は0.5%。家族で食べるだけの自給的農家は1、000戸ほど。300uかつ50万円以上の売り上げがある販売農家は3、000戸ほどで20、000人とある。 右絵は宇都宮市統計書PDFより |
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■満夫をとりまく相関 (3人家族) 祖母は初期痴呆で耳が遠い。家族を見れば、嫁入り出産時の苦労話を壊れたIC・レコーダーのように繰り言をまき散らしながら嫁いびりに余念がない。(原作では結婚式当日になくなり、結婚式と葬式が連続する様子があらわされている。) 母親はトマト栽培を手伝いながら、道路工事現場に土方にでて日銭を稼ぎ、野菜をスーパーから買い満夫に舌打ちされる。二人の息子を持つ。不埒な夫の行動を大目にみている。夫が浮気しよそで女と暮らしていても、夫は居ないよりましと考えている。完全を求めるより諦めと共に暮らす昭和の女性。 夫が家に寄り付かないと息子に愚痴るわけでもなく、持ち前の明るさで土方仲間からも好かれている。危機に遭っても振舞いかたこなし考え方は一部は現在的でもある。諦めを内部化し生き抜いていくしたたかさをもつ。 父親は女好き(?)選挙好き、世話好きの男。受け継いだ農地を売り払った土地代で愛人と中古スナックを居ぬき購入し飲み屋を愛人に営ませる。サービス業を甘く見ている男で、じき経営不振に陥り店を売りはらい、愛人とともに蒸発する。 したい放題する50代に見えるが、激変する昭和後期を甘く見ている男で、彼には対応する術もなく生き抜く知恵をもたない無能な男として描かれる。農夫がサービス業に転職して成功できると考える甘い男は多かっただろう。大都市の近郊に農地を多量に持つ彼らは不動産業者の餌食となった。 兄は農業を諦め都心の銀行員として埼玉県内に居をかまえる2児の父。実父が売り払った土地代から300万円を受け取る権利があると主張しつづける。 (満夫の友人関係) 見合い相手の女性はガソリンスダンドで働く小金持ちの娘。見合い当日、満夫とモーテルに直行し契りを交わす。そこで、8回見合いした過去があり、性交渉の相手は満夫が5人目だと告げる。満夫は処女原理主義者ではなく驚きもしない。性にたいする柔軟性・大らかさをもち、決断がはやく胆力のある好青年であることが見合い相手の対応によって描かれていく。 友達:近所の農家の一人息子、幼馴染が中森広次。土方で日銭を稼ぎながら稲作を営農としている。女性にはもてず身不相応の女性への憧れが一方的に増大してしまう青年として設定し描かれる。 広次と駆け落ちし殺害される女:トマト畑の北側に接する広い何棟もある団地に、夫と娘一人の3人家族で暮らす。女は結婚時に浮気を許すことを条件にブ男と結婚。下半身がだらしなく解放的だ。とういうよりは恋心と愛のある生活の仕分けができないゆえに、したい放題だ。たんに愛情に飢えている女で、単なる性行為好きではない、体を張ってでも自分を愛してくれ、生活を営む男性を探しているのだ、と思い見ていた。 広次と駆け落ちしてしまう、陳腐な筋立てだが、この女性の設定がなければ主人公の満夫の人間性を描くことができなかっただろう。女を悪役に仕立て加えなければ、映画『遠雷』は、都市化の波にもまれる苦労する農家の好青年の生き方を描くことは不可能だったろう。その点に注目すれば面白い設定だ。 さらなる悪女と描くなら、広次がもつ農地の権利書を巻き上げて家屋敷も売り飛ばし広次を捨ててしまう女に設定できるだろう。そこまで至らぬ小悪女性であるが『遠雷』を起させ深みを動させている点は注目し見た。悪役をどう登場させるのかはフィクションの肝だ。エロ仕掛けで100万円を使い果たす不倫旅行の仕舞が絞殺だ。昭和ならではの陳腐でわかりやすい設定だろうか。 ■日活・ロマンポルノの影響 1964年のオリンピック開催によってTV受像器が日本列島の津々浦々に配置された。TVから流れ出る映像の数々は映画を斜陽産業化させて、いよいよ先が見えなくなったのは1970年代だ。そこで日活はロマンポルノへ舵をきり生き残りをはかった。『遠雷』はその影響をもろにかぶり、濡れ場が多すぎた。映画における時代の潮流に流されざるを得なかったのだろう。満夫の孤軍奮闘や友情、そして胆力を描きあげるために、濡れ場の数々は効いてはいない。1/3以下の描写で充分だったのではないか。 欲望を消し、遠ざかる若者たち いつの世にも、したい放題する男も女も存在する。男女関係は常にややこしく対処法は星の数ほどあるが正解はない。昭和の男女は年中発情しどうして、広次と女のように性好きで、寿命の短い仕合わせを求め合ったのだろうか。瞬時の欲望の昭和ふう暴走は可愛いと勘違いしてしまうほどだ。 現在の23才は感情に任せて瞬時に決断し行動を起こさない。性愛に対しては昭和の男女のようにぎらぎらしてない。そもそも人数が少ないので大学にでも行かないと23才の若者に接する機会を得ることができないほどだし、社会に出てもSNSを手に引き籠りが主になっている。現在の23才は教育が行き届き、人生計画を立て、金銭に余裕があれば債権投資したり、コスパが悪いと決めれば他者と付き合わない。つまり若者に家庭(社会)は無用だと受け止められると考えたい。webにある嘘を含めた多様な情報に浸り暮らすと欲望など湧き上がらない。生身の人間と対話することで野生の人間性が芽吹くわけだが、人目に触れるような場では欲望を露わにしないので社会は変化・成長しないだろう。崩れ消え社会(家族)は生まれ変わる ■立松和平全集「境界を生きる─解体する共同体・家族」を福島県立図書館から借りて読み始めた。『遠雷』と続篇である『春雷』とが合本になっていたので読み始めた。『遠雷』4部作を読み終えると立松和平が23才の若きトマト農園の営農者・和田満夫に託した希望の内容、あるいは家族(社会)と共に暮らす意味が分かるかもしれない。そのことで同時にある若者の絶望も同時に立ち上がり1980年代中ばの地方都市と農村やそこに生きざるを得ない人たちへの立松の思いは現れるような気がする。 4部作の読書感想文を書きweb公開することにして映画『遠雷』の感想録はお仕舞とする。 つづく『遠雷』四部作感想文 |
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