第2回 私の1970年代について 2024年4月13日 作成:佐藤敏宏

 私の1970年代 その2  その01 

WFA事務局長を務める

鈴木:そうなのよ、びっくりしちゃって。その頃、実はですね、大学院入試落ちた理由も1/3ぐらいはWFAから帰って来てから、次に受け入れと派遣をやらなければいけないです。で、派遣の実行委員長になって、1年やって・・・その後すぐに事務局長になってしまったんです。それがやたら忙しくって。でも楽しかったんですけどね。組織の運営の勉強も一杯しました。

佐藤:東大外の学生と多数知り合いになれ交流できましたね。

鈴木:そうなんですよ。理事会と称して偉い先生方も呼んでたいへん勉強になったんです。でも、オイルショックが起きてしまったので、なかなか学生が集まらくなっちゃったんです。
1974年を最後に「学生は集まらないので廃止します」と決定したんです。これがOBたちの反感を招いて、ケチョンケチョンに叩かれました。「伝統をお前は壊すのか」と叩かれました。当時のWAFの理事長と私で相談してどうしても続けられないので決めました。他方、大学生協でもっと安く行けてしまうツアーが出来ていた

佐藤:1ドルまだ360円でしたか、ドルショックから少し時が経ったので円高になっていましたか?
鈴木:私が事務局やっていたときは360円でした。WFAの学生団体の運営の方で手間、時間がとってしまったこともあり、修士試験おちて。


佐藤:でも米国・MITから手紙が来て修士過程へ。MIT、学費もお父さんだしてくれ、学外の活動効果ありですね。しっかりしたお父さんですね。
鈴木はははは、多分他の大学へ行っても出してくれたと思いますよ。励まし激励だったと思います。
佐藤:同意します。MITなら、父さんも、世間の通りもすいすいでしょうからね。
鈴木:親父は他の大学は知らない。ペンシルベニア大学とイリノイ工科大学も受けたんです。

佐藤:運もいい。親は学費をだしても支援し甲斐がありますでしょう。

鈴木:そうそう。

Dr.Thomas Neffさんとの出会い。人生を決めた修士論文

佐藤:めでたくMITへ、時々帰国してお父さん学業の報告していたんですか。
鈴木:してました。分からなかったと思います。都市工学だったので、親父は悔しかったかもしれない。「温度計作った」と言ったら「温度計なんかお前作れるのか・・・」と。ははははは。

佐藤:MITに入学してからの暮らし方はどうなっていたんですか、寮生活ですか?
鈴木:まず英語の学校に3ヶ月間通って英語を喋れるようにした。でもなかなか喋れるようにならないですよ。
その後、大学に行くための割と家賃の安いアパートを探して。3ベットルームだったんです。メキシコ人とアメリカ人と私とでシェアしてました。台所とバスタブは共用で自炊生活してました。

佐藤:生活は大変だったのか勉強が大変だったのか、どちらも楽勝だったのかについて。

鈴木:勉強は大変でした浪人時代とは違う勉強づくしとにかく一杯読まされましたね。
佐藤:読んでから議論もするんですか。
鈴木:議論もしますテクノロジー・アンド・ポリシー・プログラムの一つ特徴がプロ・セミナーと言って、ビジネススクールのような・・フリーディスカッションがある。これが辛かったですね。
佐藤:日本の学生さんは討議には慣れていない。

鈴木らの言っていることが分からないんですよ先生のレクチャーは分かるんですけどね。学生の言葉は分からなくって付いていけないんですよ。黙っていると点数が落ちるんです。発言しないと駄目なの。発言しないと先生から「お前ちょっと来い」と呼び出され「お前分かっているのか?」「3割か4割は分かりません」と言うと「それは駄目だ」と。

佐藤:学生の語りって何語っているの?がおおそうですね。言葉も整理されてませんので何を言いたいのか内容が分からないことが多いですよね。先生は学生自身が分からない内容や学生の思いをまとめて、同席の学生に分かるように伝える術がある。時々、建築系学生の話を聞いての体験ですが、そう思います。それぞれの学生の話を理解できるようになるのは技が要りそうです。学生の聞き手の学生が理解できるようになるには、訓練が要る。だから外国の大学で訛った外国語の学生の語りもあり、理解するのは幾重にも難しそうですね。

鈴木:そうですね。でも議論に付いていかなければいけないので。
佐藤:なんでもいいから、とりあえず発言してしまうと(笑)
鈴木:そうなの・・・「方針変えます」と言って授業の一番最初に発言することにしました自分の分かっているところから発言するようにした。1回でも発言していると点数が落ちない。でも大変だったですよ。私ともうひとり居たんです。二人で話し合って「最初に発言しよう」と。

佐藤:そこから、プルトニウムに関する研究に入った・・・ということでしょうか。

鈴木1年目が終わる頃には英語が分かるようになったんです。不思議なんです。家でニュース流して聞いてたんです。ある日突然英語のニュース番組のキャストの言葉が全部分かるようになったんで、びっくりした!段々聞こえるようになるんじゃなくって、急に分かるようになった。「あ、分かった、聞こえた!」と思ってからはずいぶん楽になりました。聞き取れるようになるまで1年掛かったんです。

 アメリカの大学は6月から9月まで夏休みなんです。「サマージョブやるか?」と言われて授業料稼がなければいけないので、サマージョブ・アプリケーションを出したんですね。先生のテーマが「太陽電池の環境力が好きか嫌いか言え」と問われて「好きでも嫌いでもありません、良いし、悪いものは悪いし」「そうか、お前はニュートラルだな」と言われて(笑)「だったらいい」と言われた。
 「太陽電池の環境影響評価するのにバイアスが掛かっていると困るから」と言われて「じゃ、お前やってみろ」と。その時に太陽電池の環境影響評価をやったんです。凄い面白かったんです。そ

れは1977年サマージョブが終わって先生、トーマス・ネフさんがやってきて、ここからが私の人生を変えたレポートフォード前川レポート』、例の“Nuclear Power Issues and Choices”」で、大騒ぎになった。そのレポート、トーマス・ネフ先生が著者の一人だったんです。驚くでしょう、信じられないですよね。「え!」そこから議論に入っちゃったです

私は当時は核燃サイクルは絶対やるべきもんだ・・・と教わっていた。だから「これはおかしいじゃないですか・・・」と質問したら「じゃーお前計算してみろ!」といわれた。何回計算しても先生の言うことが正しい。「先生、参りました。おっしゃる通りでした」そう言ったら「解ったか」と。「分からない人も居るんだ、何回答えが同じでも!やっぱり原子力がいいんだと叫ぶ人が多い。お前は解ったなら・・たいしたもんだ」と。別に大したもんではないんだけど(笑)(カーター大統領の原子力政策に関する声明 1977年4月7日

 それで「9月から新しいプロジェクト(Uranium Fuel Assurance)始まるから入らないか・・」と、誘われました。それがマスター論文のテーマになっていますウラン供給がされた時の対応の仕方、プルトニウムが・・・結論だったそこの研究をやらしていただいたのがプルトニウム研究との出会い。


1977年
Carter大統領の核燃料サイクル・核不拡散政策に衝撃
・“Nuclear Power Issues and Choices”

“In our view, the most serious risk associated with nuclear power is the attendant increase in the number of countries that have access
to technology, materials, and facilities leading to a nuclear weapons capability”

・ 原子力発電のあらゆる課題(経済性、安全性、エ ネルギー安全保障、環境、廃棄物問題、核不拡 散)を取り上げて、精緻に分析。その結論が上記。
核燃料サイクルの見直しに衝撃を受ける。





Uranium Fuel Assuranceのプロジェクトに 参加して、ウラン危機へに対する技術選択肢の比較評価をテーマとする。(プルトニューム研究の始り)


慣れないタイプライターで修士論文を打つので時間が掛かった

佐藤:頂いたPDF年譜を見ますと、修士論文を書きあげるまでに4年掛かっていますが。

鈴木苦労したんです。翌年に5月には発表して卒業するんです。だけど手間が掛かってしまって、計算はそんなに難しくなかったんですけど。

修士論文が遅れた原因の一つは英語の問題。当時はタイプライターですので、失敗したら最初から作り直さなければいけない。タイプライターに慣れていないので、今はブラインドタッチで打てますけれど、マスター論文を書くことでタイプライターをマスターした。4年掛かったのは語学の問題とタイプライターの問題
一章書いたらケチョンケチョンに直され「もう一回書き直しなさい」と。それらの時間が凄い掛かったんです。ストーリは出来ていたんだけど、翌年の5月ぐらいには出来ていたんです。けれど書き換える、書き換えるが続き、夏休みが終わった時に出せればよかったんだけど、間に合わなくって、10月に提出したので卒業は翌年の1979年の5月になりました

 その間に・・就職しなければいけないので、就職先を探したんだけど親父は「ドクターに行け、行け」とうるさかった

佐藤いいお父さんですね


博士課程へ進まず就職する

鈴木:それで、論文も厚めの論文だったので先生からは「もうちょっと頑張ればドクター論文の申請できるから・・・残ってMIT・大学でやったらどうか?」と言われたのね。私は「研究はもう十分だ」と思って。疲れちゃった、ちょっと金儲けしたい。自分で給料を稼ぎたいと思って「就職します」と言って、MITのドクターコースにはいかなかったんです。

就職を探している時に、これまた偶然なんだけど・・・・授業を受けていた、学生の一人の女性が私が「いろいろ探しているんだ」と言ったら「これちょっと受けてみたら、日本人探しているみたいだよ」とボストンコンサルティングのパンフレットを持っていた。
 早速、電話してみたら、「来週ボストンに行くから、その時に会おう」という話になって、会ったらすぐ決まっちゃった。聞いたらボストンコンサルティングの社長さん、ジェームズ・アベグレーという有名な人で、パンフレットくれた学生は彼の娘だった(笑)後から知った。

ボストン・コンサルティング・グループに就職することになったんです。原子力も離れるし、アセスからも離れるし・・・いいのかな?・・・・とみんなに相談したんです。「2年ぐらいならいいんじゃないの」と言う。で、東京に帰ってコンサルティングをやった。
東京支社があったんです。業務は面白かったんですよ。一番最初にやったのがパッケージ・エアコン、今はもうないですけど。昔食堂などに行くと凄い音をたてて吹いているエアコンがあったでしょう。あれはパッケージ・エアコンと言って業務用のエアコンなんです。日本のパッケージ・エアコンのメーカーさんが「東南アジアに進出したい」というので東南アジアの市場調査をしました。いきなりASEAN出張です。

佐藤MIT暮らしからASEANでのエアコン調査生活へ。変わりましたね(笑)

鈴木おもしろかったですね。市場調査はどうやってやるのかな・・と思ってたら、聞いて回る。インタビューして歩く。

佐藤:うろうろ聞きまわるなんて週刊誌の記者並ですね。
鈴木:ほんとおっしゃるとおり。クライアントの名前は言えないので、競争相手が来ていると分かるので「どこに頼まれたんだ」と聞かれても「それは言えません」と。そうして聞いて回ってマーケット・シェアを調査する。
当時はマーケットシェアなんか発表されていませんでした。まずマーケットシェアを作るんです。それで「あなた達のマーケットシェアはこんなに低いです」とか言って「これを破るには、どうしたら日本のパッケージエアコンが売れるのか・・・」そういう話を提案するんです。
いろいろな品物のコンサルもやりましたよ。農業用カッパとかも。一番難しかったのは韓国で朴大統領が殺されちゃったんです。その直後の「外資系の企業が韓国市場に留まるべきか、どうかの判断を2ヶ月で調べてくれ」という依頼。2ヶ月ではね、自分で調べろよ!・・・とは思ったんだけど、韓国へ行った、これもインタビューです。政府の人たちか、韓国の業界の人たち、インタビューして回って「早く、出たほうがいい」ははははは。

佐藤:突撃インタビューなんでしょうか、紹介者がいて聞き取りするのか?

鈴木紹介されるほうが間違いがないですね。紹介された人だけでは足りないので突撃です。ASEANの調査は大変でしたよ。インドネシアとフィリピンとマレーシアに行ったんです。着いて何するか?といったら、電話帳のエアコンのディーラーのところのパッケージを破いて片っ端から電話するんですよ。

佐藤:今までの研究内容とは全く離れて現場に立つ鈴木ですね。社会で実装されている技術のダイレクト調査でしたね。

鈴木:凄い勉強になりました。で、キャッシュ・フローとか企業の財務報告書の読み方とか、それまで全く知らなかった。で、その場で覚えさせられて・・・周りはみなさんMBA(経営修士)の人たちばっかしだから知っている。
佐藤:工学部で損益計算書、収支決算書の見方やキャッシュ・フローについても教えないでしょうからね。

鈴木:教えない。「キャッシュフローってなんですか?」と言うと「お前勉強しろ!」と言われて。キャッシュフロー、会計上の利益が出ててもキャッシュフローが悪いと企業は潰れてしまう、そのことを初めて知りまして。

佐藤:いわゆる銭の話をまなんだ、体験してよかったですね。原子力工学を研究していると、お金については一切学ばないでしょうから。お父さんに聞くわけにもいかないでしょうし、資本主義の世にあって、物と銭の回りかたと、お金の流れる仕組みが分からないと、かなりまずいですよね。
鈴木:2年間のコンサル業務に就いて企業経営のだいたいのことはわかりましたね。経営者が何を考えているのか・・それは分かりました
佐藤:銭の話は東南アジアの現場で叩き上げられた(笑)人生って分からない寄り道してみるもんですね(笑)MITの研究者仲間の一人にコンサルタント業を営む社長の娘がいなかったら、鈴木先生はそれらの体験はできなかった。

鈴木:やってない。私は嫌でした、企業の助けなんかしたくなかった。今、思えば無謀なんですけど、入る時に社長にメモを書きました。「僕は今から貴方がたの会社に入るけど、本来はパブリック・ポリシーのみであって、企業の経営に興味がない」と。しかも「軍事産業では仕事したくないし、環境を汚すような企業に行きたくないので外してくれ・・・、政府の仕事だったらやる・・・」そういう手紙を書いたんです。

佐藤
:青いし生意気でいいですね。それは採用しますね。
鈴木:大笑)「おまえちょっと来い」と、社長に呼ばれて「お前なんだこのメモは!お前はこんなこと言う立ち場にないんんだ。お前の仕事はクライアントに儲かるか儲からないか言えばいいんだ。もし軍事産業が嫌いだっと言うなら軍事産業に入り込むことは企業にとってマイナスだと証明すればいいんだ、哲学は関係ねーぞお前・・」と言われて。「わかりました・・・」ははははは。

佐藤:若者を説得の仕方が上手いですね。

鈴木:上手い。そうか。軍事産業やったら儲からないって証明すればいいんだと。それは未だに証明できていない!
佐藤:社長にまんまと騙されてよかったですね!

 ともに笑






日本のパッケージエアコン史より

ある日、大島恵一先生から電話

鈴木軍事産業どう考えても儲かる。そうして2年経ったら、パブリック・ポリシー・アンド・ポリティクスで、・ボストン・コンサルティングのなかに・ヨーロッパの人がいたんです。彼に手紙を書いて「一緒に仕事させてください」と一所懸命に書いてたら日本にやってきたんです。「一緒に仕事をしましょうと。分かった是非やろうね」と言って帰った時に、大島恵一先生から電話が掛かって来た。 「新しい研究室を作るから来い!」と。

佐藤:2年でコンサル業務から離れることができた!鈴木先生は人々の印象に残ってしまう人なんでしょうね。

鈴木:大島恵一先生からそういう電話が掛かってきてしまって・・・「何やってんだお前、早く帰って来い、エネルギーやれ!」と言われて「分かりました」と。向坂正男さんと大島恵一先生で新しい研究室を作ったんです。財団で国際エネルギー・フォーラムという、そこに入ることになった。で、ボストン・コンサルティングを2年で退社。
その時は1980年だったけど博士号取得はずっと後ですね。


これで大体、私の1970年代語りは終わりましたね。



■ アメリカ、カーター大統領声明 核燃料の再処理延期 
      
佐藤:繰り返しになりますが・・・鈴木先生の70年代語りで、聞き漏らしていることはないかな・・・・そうそう、カーター大統領が核兵器無期限使用停止だったかな?・・声明、発言したのはないかな?その内容を聞かせてください、お願いします。

鈴木:カーター大統領が1977年の4月にアメリカは核燃料の再処理
佐藤:カーター大統領の声明のベースになっているのが、MITで修士過程の指導教官だった。
鈴木:そのレポートを書いたうちの一人だった。トーマス・ネフ博士。

佐藤:カーター大統領の発言に触れて鈴木先生はたいへん驚かれたとのことでした。何に驚いたんですか。

鈴木:当時は原子力の専門家の方々はみんな「ウランはいずれ高くなるので、プルトニウムを再利用、リサイクルする」それが常識だったんですね。将来は高速増殖炉を造ることが、当たり前のように皆思っていた
佐藤:日本政府は原子力での発電は民業に任せて、高速増殖炉に税金を注ぎ込みだした。が未だに役立つことはなかった。

鈴木:当時、そういうのが常識だったんです。ですけどアメリカが「再処理を無期限延期する」と言ったんですね。しかも核兵器の問題で言ってたんで、その時にも、再処理は経済性も無いのは、だいたい分かったんです。それに対してヨーロッパの国々、日本も大反発。

ハーバードとMITの先生方も日本やヨーロッパの原子力専門家でこの問題についてワークショップを何回か開いていたんですね。

私はMITのチームで入ってた
もんだから、論文メモを一生懸命作ったんです。その時に日本のチーフとして大島恵一さんがやって来て「お前何やってんだ」と言われました。「こういう事を研究しているんです」と「お前どっちの味方だ?」と。
 共に笑う
どっちの味方って、研究なんで・・ウラン供給危機に対してプルトニウムはそんなに役に立たないという論文を書いていた、それに対応するようなデータをミーティングに一杯出していたんです。そしたら「お前なんでこんな論文を書いているんだ」と。

佐藤:日本政府には夢がある・・文殊だぞー!って言われちゃいそうだ(笑)

鈴木その頃から「売国奴」とチラチラ出始める
佐藤:鈴木先生は研究しつつ発言しているだけなのに・・・・・なるほど。
鈴木:日本政府は商業用原発も一生懸命やっていましたけど、それは電力会社がやるべきことで、日本政府が資金を出すのは高速増殖炉。

佐藤:文殊と核燃料リサイクルは日本でもいまだ実現してませんからね。
鈴木:「フォード・前川レポート」を今読んでも素晴らしいレポートです。未だに正しいですね。 
佐藤:webに公開されていて、誰でも読むことは可能ですか。

鈴木:本になっています。日本語訳の本はないですね。
佐藤:英文、若い人に訳してもらって本にしていただき、全国の公立図書館に購入してもらうといいですね、そう願いましょう。

鈴木:これが実物です(本を示す)



佐藤:この本が刊行されたのは何年前ですか?
鈴木1977年です。この本を読んで私は衝撃を受けてこういう事をしたいんだと思いました。
佐藤:この本はMITの授業で紹介されたんですか?
鈴木:授業ではない。カーター大統領の政策が出る前にこの内容が出ているんで、本になった時も大騒ぎだったんです。カーター大統領がこの著者をホワイトハウスに呼んでブリーフィングを受けた。覚えてないですけど、カーター大統領声明の中身はこの本。

佐藤:フランク・レポートの政治への影響もそうですけれども、軍人や政治家が科学者のレポートを読み咀嚼し政治に反映し活かしていこうとしているのは、日本では聞こえてこないようですが、ニュースにしないだけかな。

鈴木:この本は科学者はむしろ少なく、経済と政治の方が多いです。原子力工学者、専門家は誰もいない、それが凄いところです。常識や立場にとらわれない。





1977年4月7日カーター大統領声明の冒頭

 原子力の利益は,このように非常に現実的であり,実際的なものである。しかし,原子力が広く世界的に利用される場合には非常な危険が伴う?即ち,原子力利用過程のある部分が核兵器製造に転用される危険があるからである

 米国は,核不拡散条約を通じて,核兵器所有の拡大の危険を減少させるために重要な一歩を進めた。同条約により,100カ国以上の国が核爆発装置を開発しないことに同意している。しかし,米国は更にこれを押し進めなければならない。米国は,核兵器又は核爆発能力の一層の拡散が全ての国にもたらす結果につき深刻な懸念を有している。米国は,プルトニウム,高濃縮ウラン又はその他の兵器転用可能物質への直接の接近を可能とするセンシチブな技術の一層の拡散により,この危険が大いに増大するものと信ずる。私が大統領就任以来検討して来た問題は,いかにして,このことを原子力の具体的な利用を放棄することなく達成できるかという問題である。

 我々は今や,原子力の利用に係わる全ての問題について徹底的な再検討を完了しつつある。我々は,拡散のもたらす深刻な結果及び平和と安全保障への直接的影響にかんがみ,また,科学的,経済的理由からも,次のことをしなければならないとの結論に達した。

1977年ごろから 鈴木先生の研究が始まる
         インドの民生用原子炉と核兵器製造

佐藤:核分裂をエネルギーで使いたい人と核兵器で使いたい人の対立が続いているという話が前回ありました。先生の内部ではフランクレポートをベースに考え研究スタートしたんですか。

鈴木フランクレポートは核兵器の問題なんです、この本ですよね、プルトニウムは凄いエネルギー源になるわ、なんで、原子力工学家のの人たちからするとエネルギーにプルトニウムを使わない理由はないですよね。同じプルトニウムが核兵器に使われる

1974年にインドが核実験をしているんです。「平和利用の核爆発だ」と当時は言っていたんですが、そのインドが造っった核兵器の原料が実は民生用でアメリカとカナダが提供した原子炉から造ったんです。「民生用の原子炉から出てきたプルトニウムは兵器に使えないんじゃないか」という考え方があったんです。インドの核実験によってその考え方が壊れてしまった。
アメリカはそこから、民生用のプルトニウム・リサイクルは核拡散の危険性が有る、テロリズムの問題にもつながる。テロにも襲われる私はその頃からずっと研究を始めてた。その結果がこれにつながったんですね。

 ただ、まだエネルギーとして価値が高ければ使ってもいいんですけど、このレポートが出た時にエネルギーとしても高いと。ウランを使った方が安いと。1970年代のはじめ、当時ウランは足りないと言われていた。石油危機直後にウランの価値が上がって開発がガーンと進んだんです。そしたら10倍ぐらい見つかってしまったんです。ウランの値段が高くなりますと(山師たちは探し)見つけますよ。一杯見つけたのでウランの値段がガクンと値下がりするんですね。ウラン価格が上がらないとすると再処理する値段が高いのでプルトニウムはペイしない、経済的でないんだという結論がここで初めてこの本に書かれたんです。そんなことを言った人は今までいなかった。

佐藤:日本政府はレポートを読んでいたんですか。
鈴木:読んでいました。
佐藤:それでも高速増殖炉・文殊に投資し続けた理由はなんでしようか。

鈴木:それは日本だけじゃなく、ヨーロッパもそうなんです。1970年代末は「そうは言っているけど、まだまだ原子力は伸びる」という前提で「ウランの値段は上がっていくだろうから、再処理はいずれ安くなるから、いずれ逆転するので再処理はやめない方がいい・・・」というのがヨーロッパや日本の言い方でした。ところがこのレポートの言った通りウランの価格は上がらない、再処理の価格は上がる、高速増殖炉は失敗する、予言どおりでした1980年代後半からあちこちの国は核燃料サイクルから撤退する


佐藤:そうでしたか・・・、ちょっとお待ちください。1970年代について聞き漏らしたことがあるかチェックします。1970年代の語りは鈴木先生は濃密で人生も確定してしまっていて凄い濃い時間でしたね。

鈴木:激動の70年代です
佐藤:そうですね。MITで修論を修め、研究室から飛び出して世にでてコンサルしてキャッシュフローも学んだし、人生でもっとも濃厚な時間に見えますね。いい人との出会いが多いですかね。

鈴木:偶然にいろいろな人に会って、磨いてきたのが分かりますね。

佐藤:そこで、鈴木先生は灘高の校是、校歌にもある教えをまもって、それが生きている。
鈴木:ははははは、精力善用、自他共栄ですね。
佐藤:そうです。ふらちな道に入っていかない点も興味深いですね。育ちかたがいいんだな・・・としみじみ思いますね。
鈴木:ははははは。
佐藤:鈴木先生の存在の謎を解きたいですが、よく笑いますしね。

鈴木:末っ子だからじゃないですかね。

佐藤:家庭内での人間関係が豊かだったと私は推測してます。オッペンハイマーの伝記を読んでだけど、彼の子供の時分、そして結婚してからもオッペンハイマーの家庭の様が良くない。彼の子供も時代は両親が彼に尽くしすぎているし、両親が子供時期を奪ったというか、変な家庭だと思いました。彼の心にほとんど子供時代がなく大人扱いされてしまう、伝記を読むまではそういう人間が存在してたとは想像してなかったです。

鈴木:ははははは。

佐藤:で「原発の父」と冠つけて呼ばれるんだけど、『マンハッタン計画』を読むとその冠は大きくしすぎている、誰が「原爆の父」と言い出したのか?調べたいとも思いました。
鈴木天才だけかもしれない。


雑談メモ

佐藤:映画『オッペンハイマー』日本での上映後、各所から反響が多いですね。鈴木先生は引っ張りだこですね。

鈴木:今度はまた大田まさかずさんがやっているBSの番組があるんです。マイナーなBSです。26日金曜日、オッペンハイマーについて語るので呼ばれている。

佐藤:若い人たちが多く見ていて、核兵器に関しての議論が起きているようです。戦争をなくしていくには、若い人への伝承と継承が生まれる機会でナイスな映画効果だと思います。鈴木先生は科学者ではないところから発言されている、科学者ではないですよね

鈴木:科学者ではないですね。

佐藤:福島原発が事故になり、身の回りに放射能沈着してないと鈴木先生にお会いすることは無かったです。13年経ってフランク・レポートまで辿りつけたのは大変幸運でした。フランク・レポートを知ってから核兵器と原発事故後を語ると、その内容は現状とはだいぶ違う議論になると思いました。
鈴木:読むと違いますよね。シラードが出てきます

佐藤:痛感しているのは核兵器の実現から80年ほどしか経ってないんだけど、日本語版で「核兵器通史」が無いんですよね。核兵器年譜と解説があると、『オッペンハイマー』の批判にもありますけど日本人による被害妄想に偏る言説。あれは通史が編まれているなら・・・傾き集中してしまう現状の批判は少なくなり、核の全体を考え語り合うことができるだろうなと想像します、同時に原発の今後語りについても同様です。
それを核兵器通史をベースにして語り合うと日本軍が当時、大陸で何をしてたか知ることにもなり、単純な決論で「核」の扱いを語れないと分かると思うんです。

鈴木:おっしゃるとおりです。

佐藤:核兵器通史と原発通史が編まれているなら、後々混乱した議論は少なくなると思いました。それら概要は小学校高学年、あるいは中学で教えたらいい、漫画にして副読本ように思するももいのではと思います。

鈴木:通史も国別にはあるんです。イギリスの核兵器の兵器と原子力の歴史書はあるんです。
佐藤:日本に核に関した通史が無いので、調べるために無駄な労力が要るように感じます。本質的な議論に入らずに終わってしまうように思います。
 私は福島での原発事故後、フランクレポートに届くまでに13年掛かってしまいました。

鈴木:フランクレポートを知っている人はあまりいませんからね。

佐藤:映画を観たあと、1985年8月6日、原爆投下直後のスチムソン陸軍長官の声明文(『マンハッタン計画』内に全文あり)も読んで、原爆投下の背景とその後の核の民用へのインセンティブも分かってよかったなと・・・『オッペンハイマー』鑑賞後に読むんでも考え方が広まるのでいいなと思いました。

鈴木:アメリカの通史は一人でやっている人はいないかな。

佐藤:アメリカ国内での核兵器開発にともなうアメリカ人の被爆の話も、米国内でも知っている人が少ないように思います。

鈴木リチャード・ローズさんの原爆の本は一番有名なんです。「マンハッタン計画」直後ぐらいまでかな。メーキング・アトミック・ボーン、それが一番有名。そのあとリチャード・ローズさんは冷戦までの本も書いています。何に焦点を当てるかで書き方が変わってくる。核兵器の歴史をきちっと、リチャード・ローズさんは世界では一番有名なんです。

佐藤:リチャード・ローズさんの本を県立図書館で探してみます。今日も長時間ありがとうございます。次回は1980年代を語る、いよいよ濃くなり個性が明確になりますね。お付き合いよろしくお願いします。

鈴木:はい。

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2024年3月日本公開予告編
『オッペンハイマー』


















リチャード・ローズ著『原子爆弾の誕生』上下 絵ネットより




サイレントフォール・アウト
日本人による米国内での核兵器開発にともなう被曝の現実をレポートした内容