黒田レオンさん講演メモ  (注意) 聞き取り違いも多いと思います と関連動画資料など 
 
『サイレントフォールアウト』アフタートーク  フクシマ問題録 2024年3月21日@フォーラム福島12:30〜より 

(右写真:黒田さん85才) 作成:佐藤敏宏2024・3・23

2016/06/09 バラク・フセイン・オバマ2世 米国44代大統領 広島演説動画,


昭和20年(1945年)、マリアナ諸島にある米軍基地から爆撃機(B-29::エノラ・ゲイ)にて広島へ原爆投下するまでを記録したアメリカ合衆国エネルギー省から出てきた映像


核爆発直下で何が起きたのか 

1945年8月6日 9時15分
 黒田家の朝の様子 黒田少年6才の記憶

(なぜ広島で暮らしていたか)

鎌倉生まれの父親はオリンピック候補になるほどの体格をしていた。父は化学の研究者であったが召集令状を受け取り入隊検査を受けた。

「戦争に行きたくない者は手を挙げろ」と言われ父は手を挙げた。ぼこぼこにされながら「鉄砲をもって戦場にいっても役立たないに研究室に戻せ」と訴えたことで入隊免除となった。
東京の大学から広島の大学へ移動命令になった。広島の官舎の和室12帖には紙袋に入った砂糖が天井までびっしり積んであった。砂糖がたくさんあったのは「砂糖からガソリンを造れ!」という軍命がでていて、その研究のためのだった。

8月6日)
明るい、蝉の鳴き声がうるさい朝で、母親はキッチンに立ち、お父さんと妹4才と黒田少年の子供三人(食堂兼和室?)食卓のあたりにいた。


(その時)
いっぺんに昼になったよう明るさになり母親は大きな金切声で「熱い!」と張りあげた。その瞬間、何が何だかわからなくなった。鎮まると、父親が「みな大丈夫か?」と叫んだ。どこから飛んで来たのか分からないが身体の上には、畳が載っていて身の上の畳には無数の硝子片が積み重なっていた。母親も、父親も、子供3人も無傷だった。

(救護所に)
官舎は爆心地から真南2kmにあった。家はしっかり建っていたので救護所になった。
助手は「爆心地がたいへんなことに・・」裸で熱い熱いといって逃げて来た。

父親は「履物を全部持っていけ」と黒田少年にいった。(裸足で逃げ出した被災者のため)
8月6日 御幸橋で撮影された2枚の写真が現存している。官舎から6才の少年が走って6分ほど(500mほどか)の御幸橋のたもとで見たものは(人の姿が)人間のような感じがしない、手から皮膚が垂れ下がる人、両目の目玉ぶらさがっている人がなぜか歩いていた。人間とは思えない人が無数歩いてきて、力尽きた人は倒れた。


(会津の山の中で暮らしているとカメラマンが)

今は会津地方の山の中で暮らしている。そこへNHKのカメラマンがカメラを回しながら入って来て取材が始まった。(『原爆死の真実─きのこ雲のしたで起きていたこと』:参照)
御幸橋のたもとで撮影された写真に写っている人全員の住所と指名が分っているそうだ。
誰かが見ていた「小さな子が履物をもってきては置いて、往復していた」その小さなこが黒田さんだった。

   
左:2017年7月25日刊行   右:2021年2月25日刊行
御幸橋付近で撮られた写真へ
写真で知る原爆 目次へ

(8月6日の記憶) 

家族は両親と子供3人。黒田さんが兄とよんでいた、母親の弟で13才のオジさんの6人暮らしだった。

当時は13才から14才のものが労働力として全員働いていた。
原爆投下後、オジさんが家に帰って来ないので探しに出かけ、爆心地をほっつき歩いた。黒焦げで小さくなった人。小さな黒焦げと大人のそれは母子の焼死体だった。7本の川が流れている川の町広島なので川の中に飛び込み、水死体が浮かんでいて向こう岸まで渡れるのではないかというほど黒焦げで膨らんだ死体がたくさんびっしり浮かんでいた。

(3日間、生きた女性に会わなかった)

8月6日から3日間、兄おじ)(を探し歩いたが生きた女性には会わなかった。兄は見つからない。身内を探している男性は数人いたが子供は私一人だった。
爆心地を見た、最後の人かもしれない。

(5人ぐらい黒田さんの体験談を聞きたい人がいれば出向くのでいつでも声を掛けてほしいそうです)

4日目、怪我もしていない兄は全く違う格好をして帰ってきた。「火事になり、火に追われて西へ西へ逃げ3日間帰ってこれなかった」とのこと。
兄は高校卒業後、プロ野球に誘われるような体格をしていたが、九州から社長さんが車で迎えに来てその会社に就職した。

(26才で兄(オジ)は亡くなった)

26才の兄が会社に出勤してこないので社員が見に行くと、シャワー出しっぱなしで、家の中が湯気ぼうぼうとなりシャワーの中で死んでいいた。原爆との関係を思うと解剖し原因を知りたいと思った。が遺骨で帰ってきた。骨壺を開け兄の頭蓋骨を取り出して見ると頭蓋骨の内側がまっくろだった。内出血していたのだろう。

その後、家族には何もなく、長生きし、両親と妹が癌で亡くなった。圧倒的に被曝したはずの私は現在85才で生きている。

(教室にMPが入っていた)

ある日、教室の入口を足で蹴とばしMPが入っていきた。ジープで放射線影響研究所に連れられだジープから降ろされた。検査室に入ると「着ているものを全部脱げ!」との命令が出た。が、若い女性もみな、もじもじしていた。やがて素っ裸にされ採血、レントゲン撮影、治療はせず。三回調査されたが後に結果は聞かされなかった。

ドクターの部屋にはお菓子が一杯あった。「お前の被ばく量は即死レベルだ、15歳までいきていたら奇跡だ!」と告げられた。

(死が来るのを待っていた)

15歳になったら自分の好きな事は何でもする。「核と戦争をなくす」。即死レベルの被曝は心の傷になっている。死が来るのを待っている。
15才過ぎると何でもする人生を歩んできた、学生運動もした。身近な人たちは数奇な運命だった。



 1945年8月6日 広島で亡くなった年齢別人数 『原爆死の真実』より

(佐藤の質問

 広島の原爆資料館は若い学芸員たちが「哀しませる資料を外しマイルド化し展示していると元館長さんが嘆くのを講義で聞いたことがある。黒田さんは目をそむけたくなるような生々しい記憶を伝えるための資料展示については、どのように思いますか。

黒田:私と同じ経験をする人、それぞれお言葉で正直に語ること大切だ。その後、広島では被爆者手帳をとるために闘うことになった。若い女性たちから自然に広島でも反対が起きた。でも頑張って命を育む女性がもっている力によって手帳が配布された。男性は力のある者についていくから信用ならない。
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(会場の男性の質問)
PTSDになりそうな感じのお話しでしたが?

余りにも死体がある、気の弱い子なら、あまりにも見過ぎた、人が死んでいるのが普通だった。臭いの記憶が消えない。死んだ者が発する臭い、溝臭い臭いに接した瞬間的にあの場に戻る。臭いの記憶は消えず今でも残っている。

(参照:聴衆は30人弱で男性は5名だった。)



以下 参照動画



1951年の広島を紹介する動画