中山英之建築入門帳
中山英之講演録/東北工業大学主催(@smt)2019年10月14日
2019年 作成 佐藤敏宏
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先輩予備校生に憧れた 映画の観方知らなかった

 今回(ギャラ間展)は「映画館をつくるぞ」と思ったんです。その背景には「僕は映画を観るのが、凄く好きだった」ということがありました。

 私は賢い高校生ではなかったので、大学に入るため予備校に通っていた頃、凄く、たくさん浪人をしたんです。美術系の大学に入りたかったので。
 美術系の予備校に入ったら、高校の雰囲気とは全然違う種類の人たちが一杯いて。髪型もいろんな色の人、髪は側面だけ無い人も居るし、色んな、ファッションの人たちがいました。高校の教室とはぜんぜん違う話題を話していました。知らない音楽を聴いていて、知らない映画の話をしていていました。そこで、すごく彼らに憧れたんです。

 その予備校生たち、皆の話している映画のタイトルも一生懸命、こっそりメモをしたりして。その映画を翌日に観に行って。「なるほど、皆はこの映画の話をしていんだ、ちっとも意味が分からない」そういうような事を毎日・毎日するような日々を、建築を志した頃を過ごしていた。音楽を聴いたり、ギャラリーに行ったり、色んなことをしたんです。
 一番夢中になったのは映画を観る事だったんです。皆が観ているような、フランスの古いヌーヴェルヴァーグの映画だとか、ロシアの古い映画は、最初のうちは観ても、一体何を表しているのか、何を伝えようとしているのか分かんなかったんですね。

 「映画は泣いたり笑ったりするもんだ」としか思っていなかったんです。映画の筋を追って、共感できたとか、そういう観方しか知らなかった。自分でお金を払って映画館に行ったことすら、ほとんど無かったのです。ですから、まず何を観ればいいのか、よく分からなかったんです。

 
 
 
 (絵:ネットより)、
アルフレッド・ヒッチコック

 その時に、アルフレッド・ヒッチコックというサスペンス映画の巨匠の作品を、偶然観て、夢中になました。
 何で夢中になったのかと言うと、現在の映画では、お約束とか定番になり過ぎていて「それをやったら、ベタ過ぎるでしょう」と言われてしまうぐらいの、映画におけるサスペンス表現。あるいは映画における表現の基礎になるような手法をヒッチコックは片っ端から発明していっちゃった人なんですよね。

 彼の映画を観ると、「あ〜このシーンどこかで見たことある」とか「この書き方は他の映画でも見たことある」、ヒッチコックの手法、これが最初だったという、何かが生まれた瞬間に、応用編ではなくって一番シンプルな表現方法を観るみたいな感慨をもちます。ヒッチコックを観れば、映画の歴史が分かちゃう。そういう感じが凄くしてしまいます。

 しかもフランソワ・トリュフォーというフランスの、当時、難しくって分からないと思っていた映画監督が、ヒッチコックに憧れて、何であの人だけがこんなに、今の映画表現の基本中の基本になっているような、発明を、何で?ヒッチコックだけがあんなにも次から次へと出来たんだ・・・と。
 若い映画監督、トリュフォーにとっても凄く謎だった。ですから、ヒッチコックに突撃取材をして、いろいろ聞き出すんです。最初はヒッチコックも「変な若造が来て、自分から何かを盗もうとしている」というふうに思っていたんだけれども。
 トリュフォーはヒッチコックの映画をよーく見ていて、隅から隅まで研究し尽くしていた。ですから、ヒッチコックのも驚いて、次第に心を開いて、段々・段々自分がこの映画で、どんな事を考えたのかって、そういう事を、この本(『映画術』)の中で明らかにしていくんですね。

 僕はこの本(『映画術』)を読みながら、映画についての、説明を読んで、それを頭に入れて、ヒッチコックの映画を観て「なるほど」と思ったり、もう一回見ようと想ったり。そういうような日々をすごして、ボロボロになるまで、この本をめくっていました。

 (スイスにはチョコレート

 その本の中で、特に僕が気に入ったエピソードを紹介します。ヒッチコックは映画を作るための、基本的な発明を一杯やっているんです。けれども、それらに面白い名前を付けているんです。中でも特に気に入ったエピソードが「スイスにはチョコレート」というもの。
 「どういう意味か」と言うと、初期の『007』の映画を観ると分かります。世界の観光地巡りのような作りになっているんです。日本にも来ています。世界の有名な風景の前でスパイが大立ち回りをする、物語になっています。当時、旅行に行けなかった人も映画を観ると有名な観光地に行ったような気分になれる、そういう作りになっていました。サスペンス映画では、有名観光地を巡るような作りにしてしまう。そうすると、安っぽくなるんですよ。

 映画は移動していることを観客に知らせないと、そのシーンがどこで起こったのか場所が分からなくなります。そうするとストーリーが繋がらなくなります。ですからパリに来たと言うことを伝えたければ、エッフェル塔を写せばパリに来たんだと分かる。でも、ヒッチコックはそんなベタな事はやりたくないので、なんとなく・それとなく、主人公たちが移動しているということを、それとなく伝えたい。その時にヒッチコックが言っていたのは「スイスにはチョコレート」というキーワードです。

 単純な話、主人公が何か食べ物を注文する時に「チョコレート下さい」と言ったらスイスに来たんだなーと分かりますよね。有名な観光地を映すわけではないけれど、それとなくスイスに移動したんだということが、チョコレートだけで分かるわけです。
 そういうふうに、その土地にまつわる、皆がよく知っている物を、それとなくシーンの中に入れる事によって、どこからどこに移動しているのかを観客の頭の中に伝える。そのキーワードがスイスにはチョコレート。

 『北北西に進路をとれ』という、特に好きなヒッチコックの映画の一本なんです。
この本の中でヒッチコックとトリュフォーは『北北西に進路をとれ』の映画の中で、スイスにはチョコレートをどういうふうに考えたいたのか、について説明している。
 それはどういうことなのか『北北西に進路をとれ』っていう映画は、アメリカを北北西に東海岸を上っていくような、移動して行く映画。最後は観光地に行くんですけれども、その途中、どんどん移動して行く、それを・・・どうやれば観客に伝えられるのか・・ヒッチコックは考えたわけです。
 途中でデトロイトでとめる(泊める)んですよね。デトロイトは当時は自動車の大量生産が起った時期なんです。自動車の大量生産はラインの上に車の部品が流れていって、人は動かないで作業場にいて、自分の仕事を一個ずつやっていく。ずーっと流れ作業でやっていくと、あっという間に一台車が出来上がる。その場面。今では当たり前で、その作り方はちょっとずつ変化はしていますけれども、、当時としては画期的な作り方です。

 (できていないシナリオ

 では『スイスにはチョコレート』にならって、デトロイトには自動車だと思うわけです。その時点では『北北西に進路をとれ』の、シナリオは全然できていないんです。段々移動して行って、プロットが出来上がっる段階で、そんな事を考え始めている。結局「こういうシーンを思いついた」と書いてあります。登場人物の刑事と工場長さんが話ながら歩いているんですね。
 自動車の生産ラインの横を移動していくので、カメラを横移動するのと合っている。映画のカメラの動き方は、今では3Dで、ぐるぐる動きますが。当時は横移動か立て移動か、パンはズームかぐらいしか無かった。
 生産ラインは横移動撮影に向いているので、工場のラインをずーっと横移動していく。登場人物二人が、ラインの前を歩いていく。その背景で、ちょっとずつ自動車が出来上がっていく。そうこうしているうちにあっという間にネジ一本だったラインの上で、車が一台出来上がっていく。
 工場長さんが「どうです、すごいもんでしょう」といって、車のドアをぱっと開けると中から、死体がゴロンと出て来る・・・「これはどうだ」っていう事が書いてあります。
 『北北西に進路をとれ』っていう映画全体のストーリは、まだ全然できていないのに、「スイスにはチョコレート」というルールを一つだけ決めて。ルールを決めたことから、映画の中に「こんなシーンを作ったら、どうなるか」ということを考えはじめちゃった。

 「ちょっと待てよ」と思うんですけれども、『北北西に進路をとれ』の中に、そんなシーンは実際には無かったんです。「そんなシーン無かったな」と思ったら、とっても好いシーンだったから、これをなんとかシナリオ作りに取り込もうとしたんだけれども、今回は上手くいかなかったと書いてありました。 

 その記述に凄く感銘を受けました。どういうふうに感銘を受けたのかというと映画って原作があってシナリオがあって、ロケハンもして、場所を決めて順番に順番に作られていくもんだと思っていたんです。ヒッチコックの映画って途中まで何が起こっているのか分からないように、最後の数分で、今まで起こっていた伏線が全部ぐるぐると回収されて、グワンと全部一回転して、このシーンの為だったんだというような、どっから考えたのか分からない、そのような作りをしているんですよ。

 どっから考え始めたのかよく分からないけれども、知らないうちに、監督の思惑の中に自分がハマっていて、最後の最後に全部このシーンのために作られていたと、全部ここで回収されてしまうんだと、どうやったらこんなこと考えられるんだろう。
そういうような事を凄く思わせてくれる映画監督だった。











絵:『映画術』より 
右 ヒッチコック  トリュフォー


 
 



















 
 絵:webより




 絵:上下『映画術』p260・261より


全体像のないまま作り始める 住み手が見つけだし建築へ

 ヒッチコックはそのような映画を作るために、どういうふうに物事を考えていたのか。全体像がないままに、細かい部分を勝手に走らせて「こういうシーンだったらとても面白いシーンが撮れるんじゃないか」というような事を、ストーリーは関係なく考えていく。
 それから観客に移動ということを伝えるために、どんなことをしなければいけないのか、と思っているときに「こんなシーンが思いついた」と、ストーリーの中に入れられる・・というような、そういう逆算をやっているんですね。

 いろいろな観測気球のようなアイディアを一杯いっぱい、バラバラに浮かべて、最後に、それをちょっとずつ引っ張りながら。引っ張り寄せられないものもたくさんあるわけですけれども。そういうふうにして物事を考えていくと。
 どこから考え始めたのか、ちっともわからないけれども、全部計算されているというような、そういう凄い作品がつくれる。
 そのために「こんなことを監督は考えているんだなー」と言うような事を建築の勉強をし始めた頃に、この本によって、映画を作ることを学びました。

 いつか自分も 自分は建築をつくりたいと思ったんですけれども、コンセプトを決めて、構造体を決めて、その上に部屋割りをしていって・・・というふうに、順番・順番に考えていって。
 建築を一個つくって暮らしはじめる。引き渡された建築で施主が暮らしたりするときにも、順番をなぞるように生活していくのではなくって、どこから考え始めたのか全然分からないような建築にしたい。
 だけれども、暮らしていくと、様々な発見が、まるで自分がサスペンスのストーリーを、最初、全体像が分からない。その中から(物語を)見つけ出していくような、そういう建築の組み立て方が、ヒッチコックの映画みたいに、自分が出来るじゃないか

 建築のつくりかたについても、そういうような事を考えるようになりました











『映画術』 1991年晶文社刊行
■ 松本で施主をつくる 2004

 せんだいメディアテーク以降、伊東事務所に入ったのですが。その後に幾つか、仕事を担当して、その中の一つが松本市に建っている大きなホール(まつもと市民芸術館かも)ですね。松本に2年半ぐらい常駐してたんです。

 その時に現地で、施主をつくっちゃったんですね。奥さんつくっちゃった、先輩一人いました。私は現場では残念ながら奥さんみつけられなかったんですが、施主を見つけたんです。

 僕の髪を切ってくれた美容師さんでした。その人の住宅を松本で頼まれて、それを伊東さんに「この現場が終わったら、施主を見つけてしまったので、独立させてください」とお願いをしたんです。
 「だめだ、もう一個ぐらい現場をやらないとだめだ」と怒られちゃったんですけど。「もう、施主つくっちゃったんですよね」と言ったら「なんとか、2重生活でもいいから、頑張りたまえ」と言われて。最初の住宅は伊東事務所に居ながら設計しました。

 伊東事務所での最後のプロジェクトは、多摩美術大学の図書館のプロジェクトを僕が担当しました。
 それをやりながら、夜の時間。一人スタッフを見つけて、その子と一緒に住宅をつくっていくのが、最初の自分の名前で発表した『2004』という住宅です。

 2004というタイトルは2004年の、プロジェクトを始めるちょっと前に、その施主から「ここの土地を買ったから、見ておいで」と言われて、見に行きました。その時の写真です。
 この後、急速に宅地化が進んでいき、周りが、あっという間に住宅地になっちゃいました。この2004という建物が建つ、軽自動車が止まっているあたりだけが、元のまんまの草ぼうぼう。クローバーが生えているような、使われなかった田んぼなんです。それが取り残されて、そこで建物を考えいく。そういうプロセスだったんです。
 「ここから、ここまでが敷地ですよ」という線を、観に行ったら引かれていて。さらに見に行ったら、あっという間に、ぼこぼこ雨後の竹の子のように、お家が建っていて。全部敷地境界線から50センチ離れた所に建物が建って。「ここに車止めるよね」っていう所に車が並んでいる。そのような住宅街があっというまにできちゃったんです。

 僕に残された四角い土地も、そういうふうに使うのかなーって見えたわけですけれど。どっかの誰かが適当に決めた線、それが、ある時から凄い力を持って、全てがその線に習って、首尾よく造られていく。その様子は、僕にはとっても面白く感じられなかったんです。

 ヒッチコックなら、『2004』の周囲に建った住宅のような、そんな映画の作り方はしません。ヒッチコックは、そこに1本線が在っても、もっともっと驚くべき線の発見の仕方をする。なのに・・・自分はどうして敷地境界線が全くなかった所に、誰かが引いた線をガイドにして、そこから考え始めなければいけないんだ・・・・と、いうことが理解できなくって。
 
 「周りの家が全部 無くっても、僕は一個の家が建てられるぞーっ」というような事を一緒に考えようよと。スタッフになってくれつ人をさがしました。今も事務所を手伝ってくれてます、大切なスタッフです。そのスタッフと話合ってつくり始めました。
 これは(スクリーン画面)出来た建物を住宅街から見ているんです。こうやって敷地境界線に白いブロックが並べられて、全部綺麗に、そこから50センチ離れた所に揃う様にできている。そういう所の後ろに、それをどこ吹く風みたいな、並びになっています。

 こんなふうに見える





















2013年5月19日 スタッフの皆んさんと
中山英之建築設計事務所にて



















■ 2004で僕は何を考えたのか

 「ここで、僕は何を考えたのか」と言うと、ヒッチコックがどこから考え始めたのか分からないような作り方をするんです。僕は1800人収容のホールは設計した事があったけれども、住宅設計するのは初めてでした。しかもホールの時に僕は担当してたのが、大ホールだったのです。
 僕の担当している空間には水回りが無い。だから正直に言うと「蛇口をひねって何でお湯が出て来るのか」それも、よく知らなかったんですね。それぐらい住宅の事、なにも知らなかった。 どういう仕様・仕掛けになっているのか全然分からなかったんです。手伝ってくれることに成ったスタッフも「昨日大学院を卒業しました」みたいなひとだったのです。

 僕らは、全然建築のプロじゃないわけです。でも大それたことに、ヒッチコックの映画みたいな、凄い建築が造りたいと二人で思っていました。 

 その03へつづく 
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