12 「渡辺菊眞建築展」体験記01  目次へ  HOME 2020年 作成 佐藤敏宏
■ 菊眞さんからの誘い (2019年11月8日)
 佐藤敏宏さま、大変ご無沙汰しております。渡辺です。この間は滋賀県立大で講演なさっていたんですね。(註)拝聴できず残念でした。さて、来る12月3日から5日にかけて小生の個展、「渡辺菊眞建築展 建てる建築 建てぬ建築 感涙の風景」を高知市で開催いたします。こちらは誰かに要望されたなどでは全くない、全く勝手に決めてやってしまっている企画です。師走の忙しい時期にしかも平日3日間で、さらに高知市での開催ということで、ご覧くださいとはなかなか言いづらいのですが、小生が大学から25年分の建築構想、建築実践、その活力源となった魅力ある風景を展示いたします。渾身の展示会です。10年前にお話しを聞いていただいた時からの展開もご覧いただけます。もし可能でしたら、是非ご覧いただけたらと願っております。ポスターなど、資料を添付いたします。ご覧いただけましたら幸いに存知ます。どうぞよろしく申し上げます。渡辺菊眞

 

 註講演内容は 『雑口罵乱F』 2014年1月発行

■ 21年前の(1998年3月)渡辺菊眞展 について
   テーマ:風景みたいなものの欺瞞を暴きたい

 2002年6月6日亡くなった大島哲蔵さんは、1948年兵庫県でうまれ東京外国語大学ロシア語学科を中退した。時を経て大島さんは、淀屋橋そばに在るビルの2階を借り、建築やアートに関する書籍、洋書の販売を主に「スクウォッター」という名の書店を営みながら、翻訳やアート建築に関する評論活動をしていた。
 大島さんの住居を兼ねたその店には、大島さんを慕い、関西一円に暮らす建築系若者、とくに建築会社や設計事務所に勤めている社会人や、建築家の卵なども出入りする、建築界隈には珍しい対話が成り立つ信頼される場でもあった。単に本を売るだけの場所ではなく対話がおこったり、志が高い若者が悩みを大人に聴いてもらう、愚痴を吐くための溜まり場でもあった。
 集い呑んでダベる場だけではなく、誰でも参加できる喋り場を企画運営するために、学生と社会人が交流しながら、練り込んで実践する基地でもあった。具体的には「豊和塾」や「春秋塾」(註:0)への参加を呼び掛けたり、そこで課題提示し期限を切って参加者が提案を持ち寄り、批評し合うために必要な情報を発する拠点になっていた。その場をつくったことで、20世紀末の関西における建築系若者の行動に多くの影響を与え続けた。

 大島さんと私は「豊和塾」を介して知り合い、亡くなるまでの10年弱の間だ、交流し合った。保存している大島さんからのファクシミリ-の最初の日時は、1995年6月23日である。その日以降FAXを介し、東京や関西の建築状況などを教えていただいた。そのようなFAX通信の中に菊眞さんについての知らせもあった。
 1998年3月7日9時28分発信、大島哲蔵さんのFAXについて紹介しよう。(註1 個展タイトルの「「風景」建築ー風景」の意味は、観念がイメージで塗り固められた「風景」に建築を介することで、生身の風景画たちあらわれる、である)

(絵:大島哲蔵評論集 『SQUAttER』2003年6月刊行)

 「・・・菊眞は、なかなかよくやっていました。期待以上でした。なにか切っ掛けをつかむことができれば、どんどん充実できる奴です。親と同じで明るく物怖じしないので、おだてに乗るし、周囲の人間を巻き込んで、使う術にもたけています。道家や宮島も良い刺激を受けたようです・・・・

 では、菊眞さんは「98年の個展を、どのように考えていたのか」を、振り返ってみよう。


(註0) 豊和塾と春秋塾について
 「豊和塾」は渡辺豊和さんが塾長となり、主に関西圏の建築系・社会人と大学生を交流させ、鍛え研鑽し合う垣根の低い場の名称である。豊和塾の1期生は安藤忠雄さん高松伸さんなどだと、渡辺さんは語っていた。
 塾の目的は、オープンコンペがあれば提出落選案を持ち寄り語る。テーマが無いときは課題を与え、成果を持参し、共有し討議するそのような場であった。1996年12月をもって豊和塾は終塾となる。
 その後を引き継いだのは「春秋塾」と称し、主に大島哲蔵さんと新田正樹さんなどによって1997年4月スタートした。
 春秋塾のお仕舞がいつかは、私は知らない。だが、陶器メーカーがスポンサーとなり、大阪アーキフォーラムに引き継がれた。私は2度も呼ばれ講演したが、現在は立ち消えのようで噂も聞かなくなった。
 いまはSONSの普及よって関西圏の若者の熱意は、東京発のイベントや学会イベントに吸い上げらてるのだろう。学生の熱意も卒業制作コンテストなどへ吸収されてしまったようで、市井の人による自主建築勉強会について話を聞くことがなくなった。
 渡辺豊和さんに聞いた話だが、「村野藤吾さんが晩年、大学を卒業した若者・建築的社会人が勉強する場がないので、村野塾を開設したんだと、村野さんが言っていた」とのこと。
 村野さんを意を引き継いで、西澤隆文さん、次に渡辺豊和さんが、塾長を引き継いだそうだ。 それぞれ親子ほどの年齢差があるのだが、世代を越えて建築系の対話と交流の場、そこで互いに切磋琢磨する場を自主的につくっいたことは記憶しておきたい。2020年・現在そのような場が、日本にあるのか、風聞にさい触れない。推測だが、村野藤吾さんは緒方洪庵が28歳で開いた適塾を参照し、自腹活動を思いたち、村野塾を始めたのかもしれない。(この辺りを、教示いただければ嬉しい。


(註1)布野修司著『進撃の建築家』によると「・・・・菊眞の場合、博士課程に入って、渡辺菊眞個展「「風景」建築-風景」を開催する。竹山聖、鈴木隆之、大島哲蔵、田中禎彦などが参加するシンポジュームが開かれた(1998年3月4日)。菊眞としては、溢れ出る建築への思いを修士論文にまとめきれなかったフラストレーションがあったのだと思う。」
2009年12月12日 奈良での聞き取り記録 抜粋 (註2)
 
1998年3月 個展を催す(以下 10年前の菊眞さん語り)

佐藤:
それでは中途半端にやめるわけにはいかないね
渡辺:そうなんです「大学院に行こう」というのがあるのと、もう一つは、あんまり、分かってない世界が「研究して何かそれを論文にする」っていう世界に関しても何もやってなかったので。それに関しては何かをまとめたいと思って

佐藤:論文も書こう、と思っていたんだ
渡辺:それと あともう一つは、この(卒制)亡霊みたいなものの後処理も、チャントしたかったので。で、本当は何か、大学院の間に、自分の展覧会を、卒業制作のけりをつけて。卒制・これじゃなくって別な作品を何点か作って、似たテーマで。で個展をしたいと思ったんですね。4年生の終わりぐらいの時に(個展開催を思うようになった)

佐藤:生意気だね 個展ですか。
渡辺:それもアホみたいな話で、当時大島哲蔵さん、やっておられた英訳かなんかの、勉強会に参加してたときに。あの頃はまだ、ちょっと関西の学生もやや元気で、グループ展とかやる人が多かったんですよ
 で、大島さんはああいう方ですので、「最近まあ、元気があっても、二人展までっての、よく観たことあるだけど。一人でやる奴いないね〜」って、それそれに、ふふふふはははは、単にそれだけで。
    共に はははははははは
佐藤:乗せられ易いんじゃないか。
渡辺:乗せられやすいですね。それで「個展をしようって」そういうふうに言わなかったですけど、心に決めてまして
佐藤:大島さんを、ぎゃふんと言わしたろうと。
渡辺:一人でやるやつ、実は居るんですけどね〜。みたいなことぼんゃり、だいたいこう
佐藤:呟きながら
渡辺:つぶやきながら。院で論文も書きたかったとなると、2年しかないので、結局、個展で作るための物(作品)を途中までは作っていたんですが、個展するまで材料集まらなくって。論文は論文で書きまして。今度は論文の方も、こんな状態になって
佐藤:読んでも解らない文章になってる、詩集じゃないだよと論文は
渡辺:そうなんですよ。というのもあったから、今度またドクターに進まなくなくちゃならない
佐藤:どこへいってもまとまらず。それでも不安にならず(時は)進み。個展はどうだったの?
渡辺:その時は、できなくってドクターの1年生でようやく(開催できた)。1年間を布野先生にもらって。最初「ドクター来る限り、こういう論文を書けよ」って言われたんですけど。1年間はなんも研究しなくって個展をするためだけに時間をもらっていいですか?って言ったら。「勝手にしろ、馬鹿!」みたいなこと言われて、ははあはっははは

佐藤:それは言うはな、先生はな。
渡辺:ただ、布野先生はよく理解して、あれは奇跡的な事だと思ってますけど、そういうの理解してくれて。「ただ一個、条件が有る」と。「個展はしてもいいけれども、それやっている光景は後輩達にとっても何らかの良い影響出すだろうから、家でやるのはやめてくれ」と自分の家で模型作ったりするのはやめてくれと。だから(作品制作を)やっている、姿をちゃんと見えるように研究室でやる限りは1年間、じゃあ没頭していいよ」と言われたんで。よく分かんない、条件なので

佐藤:布野先生に強制的に公開、個展制作過程を、オープンにさせられちゃったと
渡辺それやったら許すという話「じゃ〜わかりました」と
佐藤:個展の(作品の)作り方、後輩に見せてね「失敗するぞあれ〜」と陰口を叩かれながらな〜
渡辺はははは、だから基本的にパソコンに並んでワープロ打っている研究室に、一角だけスチレンボードが鬼のように有って。そこで僕一人、もくもく作って。その時岩崎泰とか手伝ってくれてたです。

佐藤:あそうなの、へ〜
渡辺:はい、で、博士の1年(1998年)の3月に個展、出来たと。
佐藤:ドクターの2年に成る春ね
渡辺:2年になる直前ですね
佐藤:大島さん来た?
渡辺:大島さん来ましたね。
佐藤:つぶやきましたか、
渡辺:それは「けっこうやるね〜」みたいな事でふふふふ
佐藤:テーマはなんでしたか
渡辺:テーマはこれと同じ、風景みたいなものの欺瞞を建築でもって暴くみたいなことで
佐藤:なんだ その正義感みたいな、暴くってのは
渡辺:あははははは
佐藤:本当かよ〜

渡辺:それは、ほんまに、そうで京都がまた欺瞞だらけの町なので
佐藤:ただ ややっこしくなるだけじゃないか〜 そんなの作って
渡辺:ははあははは、たしかに全然 京都的には、そんなこと言われてもっていうような。まあ適当に、あしらわれるような感じではありましたけれども。 
ただ仮想のプロジェクトみたいなの、勝手に組んで。5作品ぐらい出していたですけど。それを一人でまたやって、展示するっていうこと自体あんまり無かったので
佐藤:彫刻家だから、そういの、ちょろいよね
渡辺:ふはあははははは
佐藤:絵画と建築と彫刻の、あいまいな状態がずーっと続いているよね。
渡辺:はい。ここら辺(室内の棚のうえ)に有るのが、その時のやったやつですよこれ。

佐藤:じゃ、ついでに写真を撮りながら、聞いてますので話を続けてください。これなですか、用途は焼却炉みたいなのは
渡辺:おっしゃる通りで、図書館という設定ですけど実は古書を焼く施設
佐藤:焚書じゃないか
渡辺:ははははは、普通に児童公園みたいな所の地下に埋まっている施設で。だから一番上がGLなんですけど。

佐藤:地底に隠れているわけね。
渡辺:はい、で、公園にポストみたいなものが置いてまして、そこへ、みんなそれぞれ、要らなくなって本を投げ入れ、それが筒に下りていって。最後ベルトコンベアーでグルグル回って。最後焼却炉に、

佐藤:物語lこ 今度は 小説家ふうになってきましたね、起承転結があるんだ
渡辺:そうですね
佐藤:物語が出来てますね
渡辺:この中にある押し入れ、みたいな付いている所に管理人さんが住んでいて
佐藤:ははははは。管理人さんは何をする人なですか?

渡辺:管理人さんは流れて来る本を焼く係りなんですけれでども。自分の気に入った本があれば勝手に頂戴して、こっちの本棚に入れる。みたいな話なんです。
佐藤:本は焼くけど気に入れば保存すると
渡辺:管理人さんの好みによって、そこが決まるみたいな。まず本に対する批判もあって、

佐藤:本を燃したろう〜なんて!学問の世界に入ったのに
渡辺:いえいえ、本の批判っていうか、割と建築家の方でも、他の方でも本棚に、本を並べて喜んでいる方が多い。という思いがあって。
で、それで、ここのやつは近隣住民の人がポストに自分の要らなくなった本を入れるので、まあ例えば、お爺ちゃんが亡くなって変な古文書、若い奥さんが要らなくなってほかす。古文書もあれば、単にあんちゃんが要らなくなったエロ本をほかしたりする事も。古文書とエロ本が並んでベルトコンベアーに流れるようは風景があるのとかで。いわゆるある似たような本が並んでいて格好付けることが成り立てない、ベルトコンベアーみたいになっているっていう状態を。 ベルトコンベアー自体は見て回れますので、そういうの並べて良いけど取っちゃだめルールになっていて。最後は管理人さんの趣味主体で、活きる本と、死ぬ本が分けられていく、みたいな。

佐藤:自分で物語を作ることによって欺瞞を暴くという、気になるキーワードで建築や絵や彫刻を繋げることが出来たと
渡辺:はい
佐藤:一応コンテキストがないと建築になりにくいと いう事だよね
渡辺:そうですね〜
佐藤:形じゃなくって、まず物語を作って、それに合わせて建築が獲得されていくと。テーマは欺瞞を暴くなんだけど。ふふふふ
渡辺:だから本を巡ることと、あと公園みたいなものっていうのは子供とか遊ばせるときに、辺になんか親御さん安心しりするのは僕は公園大嫌いで何も面白くないので。のっぺりしてて。 というのもあったので。
のっぺりした公園に屋根がGLに、こう在って、ただ本焼くから煙たいんですね公園が。ふふふ、凄い嫌な感じ
佐藤:もう出来ちゃっている気分で話ているじゃないですか
渡辺:はははは
佐藤:公園の中から煙もこもこ、嫌な臭いプンプンと。エロ本だとほどほどな臭いで 古文書だと良い香りとか 本の質によって臭いが変わる とね〜
渡辺:うはははは、それ仮想のプロジェクトですけど。割とそれは妄想的にリアルに想像するのも好きで
だから個展の時に地図を付けて。いかにもありそうな左京区立なんとか、古書回収所とか言う名前を付けておくことで、展示会したところ。人が行く施設のロビーかなんかでやったので。そしたら割と面白がってですね〜「こんな施設が在るの知らなかった!」とか言われて「見にいって来ます」とか言われて
佐藤:ははははは

渡辺:「どうぞ」とか言ってはははは
佐藤:本当。凄いね〜反響
渡辺:それが面白かったですね。また図面もあえて青焼きとかで出したたんですよ。よう分かんない施設なのに。青焼きって変なリアリティーが在るじゃないですか。
佐藤:もう出来てる昔の施設だ
渡辺:こんな施設があるのは知らなかったです。
佐藤:それは凄かったね。でも今の話だと、かなり複雑だから、建築のつながりと物語の繋がりと 造形が 相互に越境しているので、何それみたいな周りから言われるんじゃないの。
渡辺:えーとそれは、文章一枚まず付けてあるのと。
佐藤:売り語り、(卒制の条件)7行から、成長して、一枚の文章になったわけだ
渡辺:一枚だけにして、後はこれ1/50の模型なんですけど。それが在ると、それとの絡みで見る人もあれば、子供とかも来てたので。

型の1/50って丁度いいスケールで。デティールは要らないけれども。中に入っているのが気になるような、そういうスケールですから。まあそれを見て、勝手に楽しんでいる人も居たりとかあったので。割と様々な反応があって・・・。

以上、抜粋でしたお仕舞です。


(註2)佐藤敏宏による聞き取り活動(ことば悦覧)は
 1)他薦であること
 2)独立系建築家であること
 3)無名であること
 4)30代であること
 5)5年ごとに聞き取に応じること
 6)話したまま 編集校正なしでweb公開する
 以上の6点を満たした者を活動対象者とする

 渡辺菊眞さんを推薦したのは森田一弥さんです。





 本棚最上段に作品が並んでいる


































 岩崎泰さんが手伝い、作った模型








































































 2009年の渡辺菊眞さん 





■ 1998年3月の個展開催の主な目的

1) 卒業設計にけじめをつけるために、似たようなテーマで5作品ほど制作した。(5作品名などを知らない)
2)博士課程に入学し「1年間は個展のために制作に没頭した」とは言うが、模型制作を手伝った岩崎氏によると時々だろうが「一升瓶を持ち寄っては呑んでいた」という。
3)布野修司先生に「1年間は個展のために制作したい」と菊眞さんは申し出たようだ。布野先生の反応は「勝手にしろ馬鹿!」のようなことを言われ、一つ条件が与えられた。それは「個展作品制作は家でやるな、研究室の一角でやれ」と言うことだった。その布野先生の反応は「奇跡的」だったと菊眞さんは振り返っている。
4)「卒制」のけじめをつけるために(修士の試験に落ちているので)3年間、博士課程1年間と合わせ、4年間費やしたことになる。この「しつこさ」は2019年も健在であって、個展会場での聞き取りでも、菊眞氏自身は 「ゲップがでるほど見せてやる」んだと語っている。始めたらやめないという才能は見習うべきだろう。
5)1998年・個展のお題が「「風景」建築→建築」。今回の個展のお題は「渡辺菊眞建築展 建てる建築 建てぬ建築 感涙の風景」であった。
 今回の展覧会を観た大学同期入学の森田一弥さんは次のように語っている。

 「大学生の頃って、彼は凄く個人的な、町角で感じた、思いだとか、彼の繊細な感受性みたいなところから建築をつくっていると。社会に対する憤りを、建築を通して、ぶつけるみたいな。凄く「私小説的なね、感じがしたんです
 よくよく考えてみたら「風景みたいな事を執拗に言っているなー」と思って。卒業設計も「風景」と言っていたし「あーそうかー」と思って。
 なにか「今、ここ」っていう。自分が感じている事と、遥か彼方、宇宙とか地球とか。コスモロジー的な世界が対峙されていた。それは昔から「風景と、言っていたんだなー」と、そのことが、腑に落ちましたね。・・・・・
・・・ 菊眞本人によると、「真ん中にある、感涙の風景がいちばん大事だ」と。それが展覧会で一番示したかったことで、自分の作品はどれも到達しているとは思わないけど、そこを目指している」そういう宣言だと。そういう話でしたね。森田さん感想全文へ

 渡辺菊眞さんにとって重要な「感涙の風景」に倣うこと、その風景は何か、さらに、今ここと遥か彼方を繋ぐ、とは菊眞さんにとっては、どういう意味をもつのであろうか。
 それを考える前に、渡辺菊眞さんの2009年12月12日、10年前の聞き取りから、彼の生い立ちなどを振り返っておこう。

 つぎに続く