本   2019年 作成 佐藤敏宏

 my本 2018年入手 19012901
1995年6月25日発行 かもがわブックレット82
 『占領下の「原爆展」』 平和を追い求めた青春
 日本初=世界初の展。1951年7月14日から京都駅前丸物百貨店にて、京大同学会(京大の全学学生自治会)主催の「綜合原爆展」が10日間開催された。そのご枝分かれし全国各地で開かれた
 木畑哲雄著
 1951年、京都大学同学会執行委員として綜合原爆展の宣伝を担当
 「原爆展掘り起こしの会」世話人

 プロローグ
 1 事前の大宣伝活動
 2 わだつみの声にこたえて
 3 忘れることのできない二人の先生
 4 熱気こもる会場
 5 相つぐ妨害と弾圧
 6 原爆展、各地にひろがる
 エピローグ


  



 福島県立図書館 書庫 043.4
 1975年3月19日発行 岩波書店
『原子力発電の安全性』 原子力問題研究会 
 まえがき 武谷三男
目次 
1歴史が教えるもの 
 1 コールダー・ホール型発電所兼セルの歴史的教訓T
 2 コールダー・ホール型発電所兼セルの歴史的教訓U
U 原子炉の工学的安全性
 3関西電力美浜原子5力発電所一号機の事故 (1972年6月12日発生)
 4美浜原子力発電所2号炉で発生した燃料棒事故
 5発電炉の緊急炉心冷却システムをめぐって
 6発電炉事故の災害評価
 7原子力施設の事故例について
V許容線量をいかに考えるか (頁毎の要点へ
 8許容線量におけるリスク・ベネフィット論
 9許容線量設定の問題点
10環境問題における放射能の最大許容濃度
11微弱放射線の影響に関する問題点
12ムラサキツユクサによる微量放射線の検出
W放射性物質の処理問題
13放射性物質の処分の現状T
14放射性物質の処分の現状U
15加速器による核分裂生成物の消滅処理 (道家忠義) 
X温排水について
16温排水
17熱汚染


  

資料編
1西ドイツにおける原子力発電所の安全性
2米国における原子安全問題の考え方
3関西電力美浜原子力発電所の安全審査関係資料
4浜岡原子力発電所2号機増設にともなく環境調査報告概要
5ホット・パーティクルの放射線基準
6ウエストパレイ再処理工場の放射能公害
7日本分析科学研究所のデータ捏造事件の背景と本質


福島県立図書館 書庫 429.4 

昭和29年(1954年)8月6日発行 岩波新書174
編者:武谷三男 『死の灰』 

目次 
 1954年3月1日ビキニ環礁でアメリカ軍の水爆実験がおこなわれた
 参照映画:(YouTube内 第五福竜丸へ

はじめに 原子物理学者のメモ 死の灰の記録書
・ 1954年3月16日読売朝刊で 「邦人漁夫、びきに原爆実験に遭遇、23名が原爆病」・・・3日後水で洗ったが落ちず、船員たちは灰のついた部分の皮膚が赤黒く水ぶくれとなり、のち黒に変わって来たので驚いて帰国、14日の朝焼津に入港、焼津市病院外科主任大井俊亮氏の手当てをうけ、一応原爆症と診断されたが、、比較的重症の山本忠司(26歳)君(焼津184)と増田三次郎君(29歳)の二名が東大の診断を受けるために上京し、他の21名は灰の付いた服のまま自宅に帰ったり、遊びに出たりしており、また船は灰のついたまま焼津港内に停泊している。
船員たちは「たいしたことない」といって警察にも届けず、記者らにも「何を騒ぐのか」というほどで、大井医師から報告を受けた県当局も適切な処置を講じていない有様である
はじめに
 ・死の灰の記録
 ・米国の態度「水爆はそれ自体危険ではない」
 ・・水爆はそれ自体危険である
一章 水爆の灰はどのように流れるか(和達清夫) 
 ・灰はどのように流れるか
 ・危険区域はいかに決定されるか
 ・水爆実験を探知する方法 
二章 マグロはどうなる 日本の漁業と関連して(中村廣司)
  ・マグロ漁業と危険区域
 ・マグロと鮪漁業
 ・日本漁業を脅かす水爆実験
三章 ビキニ患者主治医の一人として(三好和夫)
 ・主治医となる
 ・放射能症
 ・患者をめぐって米国側との応対
 ・その後の患者の病状
4章 放射線病とはどんな病気か(中泉正徳)
 ・はじめの症状
 ・どれくらいの放射線が当たってもよいのか
 ・患者の身体に入った放射能及び治療について
 ・放射線を扱うときにどのように注意すべきか
六章 放射能はどのように危険か 放射線物理学的立場から(西脇安)
 ・マグロも港も大変な放射能だった
 ・放射能魚は洗えば食べてよいか
 ・雨の放射能はどうか
 ・放射線をうけるとどんな害があるか
七章 船やマグロの放射能をいかに測定したか(山崎文男)
 ・放射能魚の処分
 ・被曝漁夫と放射能
 ・マグロの検査
 ・放射能はどのように測定するか
 ・原・水爆の放射能をとらえる方法
八章 ビキニの灰はどのように分析されたか(木村健二郎)
 ・灰には何が含まれているのか
 ・新しい分析法 イオン交換分離法
 ・分析できたもの
 ・分析こんなんな点

他に 『死の灰と闘う科学者』1954年3月、ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験で、小さな漁船・第五福竜丸が被災した。日本の科学者たちはただちにこの事件に取り組み、非常な困難の下で、灰の本体、人体と船と魚の放射能汚染、さらには大気・海洋への影響まで解明した。折しも冷戦下、日本政府は科学者たちのこの努力を否定し、政治を科学の上に置いてその後の原子力行政を推し進めた。本書はこの全容を伝える実録である。

   



(参照)
 山下正寿(元高校教諭)による調査
水爆実験で被爆したのは第五福竜丸だけではない、延べ992隻が被爆
高知県室戸船籍 「第二幸成丸」にて被曝した船員の方々を追う 内容

山下氏は(高知県ビキニ水爆実験被害調査団) 以下 記事よりコピー

・・歴史の中に埋められたビキニ被爆の記憶を蘇らせたのは、当時マグロ遠洋漁船の前進基地の一つであった四国の高知県の高校生たちだ。 高校生たちは1985年、広島・長崎原爆投下40周年をむかえて現地調査をする過程で、ビキニ被爆で高知県の多くの船員が今も苦痛を受けている現実を知った。 当時遠洋漁船の船員だった藤井節弥氏(1932〜1960)は被爆後遺症の恐怖に耐えられず自殺した。 驚くべき事実を知った高校生たちは、1985年9月に地域の高等学校教師の山下氏を中心に「高知県ビキニ水爆実験被害調査団」を結成し、本格的な調査を始める・・

他の参照 記事 
・・2百万円の見舞金を受けた福龍丸乗組員は焼津の一部市民からも反発され、中傷を受けた。大石又七さんが東京にでてきたのは被爆者という偏見と差別から逃れるためだった。第五福龍丸乗組員は(とりあえず)船員保険の扱いとなったが差別を受けていたのだ。・・・・
映画「放射線を浴びたX年後」公式サイト 南海放送の方々書籍の紹介動画  
■ 射能を浴びたX年2 制作者のことば
 伊藤英明さん
 
福島県立図書館蔵 書庫559.7 
 昭和32年8月5日(1957年)朝日新聞社発行 
 第一巻 原子戦争 市民のための原子力 
      武谷三男・林克也・星野芳郎・本家正文著
 第二巻 放射能の利用と障害  第三巻 原子力とエネルギー資源
 第四巻 極微と微大の世界 第五巻 原子力と科学者
 第六巻 原子力を世界情勢 
もくじ
 一章 原子戦争はどんな形をとるか
 1 将来戦の性格
(1)将来の見通し(2)原爆攻撃の威力(3)原爆攻撃からどのように身を守るか(4)原爆攻撃の戦略的効果(6)ABC兵器の意味(6)水素爆弾の威力(7)新しい様相の出現(8)原子戦争の経済学(9)
 2 国防の可能性
(1)防空の条件(2)従来の防空の効果(3)現在の対空防御法(4)っ完全防空への疑問
 3 制限戦争と全面戦争
(1)小型原爆の本質 (2)全面戦争の危機(3)自由諸国首脳部の原子戦争論

 二章 冷たい戦争は始まっている

 1原爆外交
(1)日本への原爆投下の理由(2)ブラッケットの論証(3)原爆外交の不利(4)原爆独占の固持(5)原爆外交の破綻

 2 原子兵器戦争
(1)水素爆弾の製造へ(2)水爆競争の極点(3)ジェット機による冷たい戦争(4)トワイニングのモスクワ報告書(5)アメリカ航空機工業の問題点(6)原子兵器競争の最終段階ー大陸間弾道兵器

 3水爆基地
(1)基地網の必要性(2)ヨーロッパの原子戦争体制(3)アジアの原子戦争体制(4)日本の原子戦争体制

 4水爆実験
(1)放射能による汚染(2)許容量は科学的に存在しない(3)日本における汚染(4)放射能がもたらす危害(5)原水爆実験禁止運動の効果

 5 むすび
 原子戦争は避けられない
(1)軍縮の方向(2)可能な軍縮のための条件

  

  

■P90〜93 日本への原爆投下の理由 について要点
p90
・皆殺し戦争とといわれる新しい戦争の様相が理想的に実現される戦争である
・銃後の国民の生命をねらう戦争である 
・生命を守る道はただ一つ戦争の勃発を防ぐ
p51
・原子戦争を推しすすめていく人間のは、(生命も地位も失う)その自明の理が見えない
・異常な原子戦争を計画しつつある事実自体がすでに異常である
・冷たい戦争は1945年8月6日からはじまった
・トルルーマン大統領は「我々は戦争の苦しみを早く打ち切るために、また数千人のアメリカの若者の声明を救うために、原子爆弾を使用した。」と演説
・8月6日と9日という日にアメリカ軍は日本に原発を投下しなければならない軍事的必要があったのだろうか
・1945年の初頭には日本の戦時経済はほとんど壊滅的な状態にちていた。
p92
・19945年5月8日 ドイツが降伏
・5月27日ホプキンスはモスクワでスターリンに会見
・ホプキンスはトルーマンに、日本におけるある分子によって、終戦交渉のさぐりが行われていることを打電
1945年7月13日に、日本の外務省は「天皇は終戦を望んでおられる」旨をソ連政府に正式に申し入れた。直ちにアメリカにも伝えた(国防長官フォレスタは7月15日の日記に・・・完全な敗北をみとめ、講和談判を開始したと記す)
・アメリカ政府は5月8日ヤルタ会談で8月8日には日本政府打倒のためにソ連軍が参戦することを知っていた
p93
・原爆投下)は戦争の犠牲を避けるために必要に迫られたとするが日本の降伏が時間の問題であることはアメリカ政府に目にもきわめて明らかなことであった
・にもかかわらずやっとできた2発しかない原子爆弾は広島と長崎に投下された
・物理学者モリソン私は個人として証言できるが8月10日前後(原爆投下)という日付は原爆準備を毎日の仕事にしているわれわれにとって、きけんとか金とか良好な開発計画とかのうえのどんな犠牲をはらっても、何としてrも間に合わせなければならぬ、神秘的な最後の日付だった

許容量は科学的に存在しないについて要点をまとめ
P212 
・第五福竜丸事件以来起った死の灰騒ぎはしばしノイローゼといわているが、そのさわぎの方の中には多少見当ちがいのことがあったとしても、放射能を恐れる程度においては、これは当然な正しい程度のものであるというべきである

・キュリー夫人はラジウムの実験をやることによって潰瘍ができていたが、いつまでもその潰瘍は治らなかった。一日に25レントゲン以上の放射線をあびると白血球が減るとか600レントゲンを一字にあびると致死量であつとか、その程度の認識にたっていたのである

P213
・物理学者も放射線をなんらの警戒なしに扱っていたので大量の放射線の危害のみに注意が集められていたのである
・戦後になって急に生物物理学が進歩して、微量の放射線の危険が深く認識されることになった
・放射線をあびた量がいいかに微量であろうとも、その害を検出することに次第に成功するようになった。昔は大量に放射線をあびたときに白血球が減ったり、600レントゲンという致死量につかい、ないしはその数分の一という放射線が問題になっていたがその時生ずる身体障害は第一次急性症状であって、そのときに死亡しなければ数か月たてば第五福竜丸の患者のようにほぼ治ってしまう・・・しかしそれでも放射線を受けた人が完全に回復することには決してならない。

P214
放射線はどんなに微量でも、それなりに有害であるということは、すでに今日の放射線の専門家の間には広く認められていることである。したがって科学的には放射線に許容量というものは存在しない

つまりその程度の有害な犠牲を冒しても、それに相当する有利さを獲得するためにはガマンするという所に許容量という概念が成立する。したがって許容量は科学的な量ではなく政治的な量である。どれだけ人間の生命が短くなり、どれだけ片輪ができても、放射線を使うことの有利さと引き換えうるかバランスしうるかということが許容量の概念なのである。

P215
・軍事的な関連において、許容量その他の概念が、いちじるしく人間性を失っていることに我々はちゅういしなければならない。
・非人道的な態度で・・・戦後も放射線はどこまで大丈夫かとかというような研究に重点がおかれていた。
・許容量を天然の放射線がおよぼしている人間への害悪と比較して、それより少なければ、がまんできるというような考えになってきているのである。

P126
・「科学的態度」・・・原水爆による放射能の危険はまだ証明されていない、したがってまだまだ続けても大丈夫という考え方・・・そのような態度は許されるべきではない。なぜならその害が証明されたときにはすでに人類全体として多大な被害をこうむっている・・悪い状態に置かれてしまったあとだから。
・ちょうど戦時中、九州大学で行われた捕虜を使って人体実験をやったという考え方と同じである・・・実際にはなんら科学的な実績をあげるものではなかった
・水爆実験を無害に行うという宣伝が行われはじめきれいな水爆という言葉を生んだ

P217
・科学的に害がないということによって総てが許されるような考え方は、それ自身根本的な間違いを起こしていることに注意しなければならない

p224
・人間がカルシウムを身体に取り入れるとき、スロンチウム90をわけてカルシウムだけを取り入れることはほとんどできない・・骨につく