佐藤敏宏・博多漫遊 2026 (5月30〜6月4日) 作成:佐藤敏宏 2026年7月



6月3日 板付遺跡〜 大宰府政庁
博多漫遊(粗日程)

 5月30日 福島から多博多へ 
 5月31日 赤坂から名護屋城へ 
 6月1日 博多城・大濠公園〜能古島 
       ペイペイドーム
 6月2日福岡城〜西公園〜港・食堂
       〜福岡市博物館
    (夜)岡田栄造先生と中津屋台へ 
 6月3日板付遺跡 大宰府政庁
 6月4日 博多から羽田空港 東京芸大


福岡市博物館に入館し、日本の米作り発祥の地は板付遺跡周辺だと知りその地を訪ねた。(参照:縄文後期、佐賀県菜畑遺跡)博多駅そばのバスターミナル駅は大変混雑していた。ターミナルからバスに揺られ30分ほどだったろうか板付遺跡も寄りのバス停留所で下車。周りは街道沿に低層の事務所などが並び、一歩街道の裏に入ると団地や低層の木造家屋が並ぶ住宅地だった。web地図で見ると現地での殺風景な印象とは異なり福岡市内の郊外住宅地のようにも見える。

10分ほと歩きだどり着いた現地は想っていたより深い堀が張り巡らされ外敵などから護られるような構造をもっていた。弥生時代の環濠集落遺跡と水田あとが保存継承されていた。集落は今にも朽ち崩れそうな竪穴住居数棟が再現し建っていた。水田の跡は環濠の外部にあり住居空間だけを外敵や獣の襲来を阻止するためだろうか、環濠内配置してあった。

縄文の世に様子を体験するため青森県の三内丸山遺跡内をさまよ見学した人は多いだろうが、福岡矢板遺跡にを訪ねた人に会ったと聴いたことはない。今は稲作は日本全国津々浦々に普及し尽くし、米の生産は続いて、昨年は倍の米価になったが原因は解き明かされていない、今年は値下がりし、政府は米の備蓄を増やすようだ。水田は身近にあり見慣れすぎている。今更圃場を見てもしかたがない、と思うだろう。さらに政治のうえでは敗戦後の日本の農業は虐げられ続け、外圧をもろに受け、米作り後継者は減少しっぱなしで風前の灯である。そんなおり田んぼを、板付環濠遺跡を訪ねる人は現れないかもしれない。

だが、福岡市をたずねたら、この地に立ち圃場や環濠集落を体験すると、権力が生まれる地形と生成過程、堀を巡らし体制を保持しようする初期の様は分かるような気になれる。とくに暮らしと関わりつづける生業の建築系の人には推しの場所だと思った。

隣地には板付遺跡弥生館が建っていて、板付環濠遺跡に関する資料が手際よくまとめ展示してあった。学芸員も数名勤務されていて、彼らは館内を親切に案内してくれた。もし入館の機会があったら彼らに声をかけ、質問することを御勧めしたい。

40分ほど滞在鑑賞し一旦バスに乗車し博多駅まで戻る。バス停から大宰府行の高速バスに乗車した

 注)1979年発見 佐賀県菜畑遺跡 日本最古の水稲耕作遺跡とされる。縄文時代晩期末とされた今から2930年前ぐらいに日本で初めて水田耕作による稲作農業が行われていたことを実証するものと考えられている。







 大宰府政庁跡 

博多のバスターミナルから高速バスに乗ると福岡国際空港に寄りってのち、高速道を走った。あいにくの雨が強く気温が高かったので周りにはがかかり遠くを眺め過ぎ去る町の様子を確認しながら楽しむような観光バスにはならなかった。

バスの終点は大宰府天満宮駅天満宮とそばの九州国立博物館に立ち寄ってみた。東アジア系の若い女性観光客が浴衣コスプレで大ぜい押しかけて賑わっていた。博物館の玄関ホールまで立ち入ったが、触手が動く展示物がなかったので、ホールに立っただけで引き返し、大宰府政庁跡を目指すことにした。

昼飯時は過ぎていたのですきっ腹を満たすため天満宮のバス停傍を見まわすとラーメン店しか見当たらなかったのでの入った。ひどく不味かった。やはり観光地に美味い食い物はないのだろうか。かき込んで大宰府政庁を目指し歩き始める。食い物が拙いと土地の印象は落ちる。歩き出す直ぐmy長女はお菓子屋で甘い物を買い、喰い歩きしていた。

100mほど進とバスプールが見える左に曲がる。道なりに落ち着きのある民家の並びを2キロほど歩いた。閑静だし空気が澄んでいるように想えたのは天満宮の観光地化しまくっている空気を吸い込んだせいで何でもない空気が美しく思えたからかもしれない。

政庁跡は当時の基礎石だけが整然とまま並んでいて清々しい佇まいを示していた。鴻臚館跡地難波宮跡地に立ち、今日、大宰府政庁跡に立つことができた。古代史の政治をとりしきった跡をほぼ訪ねた気分になる(笑)。

そばの大宰府展示館内には簡潔な周辺を含むジオラマが展示されているので、当時の大宰府政庁・全体の様を思うことが出来た。

あまり来客がないからだろうか、年老いた学芸員のかたが、とても親切丁寧に説明してくれた。「鴻臚館はなぜあのよう、政庁から遠い地に造ったのか分かりますか」との聴いてみた。「伝染病隔離対策のため、数か月鴻臚館に滞在していただき、周りの者が感染、あるいは病状を発しないと確かめ、こちらの大宰府政庁に招き、外交交渉を始めたんです」とのことだった。

2020年の新型コロナ感染禍の騒動を体験したあとなので、この答えに触れると現在のような医学が進歩していない当時は隔離して待つ、隔離場所としての迎賓館機能については1,も2も無く納得できた。(古文書を読み確認したわけではない



大宰府政庁跡に残る石基礎、い〜い!

誰が俺の背中を押しているのかしらないけれど鴻臚館跡、難波宮跡に立ち大宰府政庁跡に立たないわけにはいかないのだ、と思い込んでいた。建築系を生業とした生きてきたことと、ちょうど雨上がりで周囲は靄に包まれていたことも相乗し、基礎石を観ると工事中の人の動き、政庁が実働していた時の人の交流などを想ってしまうものだ。厳格な形式と配列を見ると、政庁のような構築物は人を排除しかつ仲間を囲いこむ装置でもあるように思える。それは現代の建築の理想は人の自由な交流を可能にする路上状態を保障するものだと自身が思っているからだろうか。



 (各種資料を合成し佐藤が作成した)

大宰府政庁跡周辺で手に入れた資料絵を合成して当時の様子を理解しやすくしてみた。その資料によると古代律令国家の外交・軍事、および九州地方全体を統括した役所あとの建築の配列が分かり易くなる。7〜12世紀前半ごろまでの遺跡、この地方で重要な政務・儀礼が行われたようだ。現存の礎石は10世紀後半の建て直しにともなうもの、だそうだ。脇殿間は60m前後ありそうなので、拡声器もない時代にはお互いに大声を張り上げないと聞き取れそうにない広さだ。交渉の席に着く前に文書を交換し、この場では儀礼てきにそれを読み上げ合う、政治的儀式の場だったのかもしれない。そのように想像すると広さ政庁の規模は納得できるしている。離れて立ち会えば、身の安全を保つにも都合がよかったのだろう。





それらを確認し 天神大牟田線都府楼前駅まで歩き、西鉄福岡駅へ戻った。博多漫遊の旅の目的はおおかた実行したので、西鉄の電車に揺られると夢心地の気分だった。

明日は早朝に民泊を出、福岡空港から羽田空港目指すことになる。民泊にもどりぐっすり寝入った。

 博多から羽田へに続く