| 浅野翔さんに聴く 2026年8月21日夜 浅野さんの自宅マンション | 作成:佐藤敏宏 | |
その03 ■ デザインリサーチャーの道を拓く 浅野:たんぽぽの家について語っているとき、愛知県を一つの会場として、東京、愛知、大阪、福岡でもやると言い出した。愛知には浅野がおったなと、声掛けてもらいました。 私は染色工場にいるから工場と福祉のメンバーとで出来ることをやりましょう、となりました。で、1年目のそれをやりました。東京でも展示したりして、いろいろやってました。そこにもデザイナーさんやファッションやっている、いろいろな人が見に来まして・・・・たまたま来た人たちの繋がりのなかで、「実はうちも福祉にかける飲食で仕事をしたいと思っているんだけど、昔、失敗しちゃったから手伝ってほしい。」 そうこうしやっているうちに、有松の方では浅野はどうやらよくわからない整理をしながら今まで付き合ってなかった人達とつなげいく仕事をするんだな・・・。ようやく工場の人たちに分かってもらえた。 あいつは工場の上でごそごそ掃除ばっかりしてい、金だしているのはこっちなんだけど、何やってんだ・・・と。 そんな事をやっていたら、東京の若い世代のファッションデザイナーとかがより多く来るようになったんです。今までは上の世代人達ばっかりだったんです。若い人たちもちゃんと問い合わせをしたら行ける場所なんだ・・、そういう事になりました。 だんだん僕は一年目は週に3で行っていたんですけど、二年目は週に2日にしてドンドン減らして、週一にして、3年間かかわりました。 今度はその分空いた時間に有松の違う仕事をしたりしました。たまたまその時に藤村龍至さんが愛知県の岡崎市で町づくりの仕事をやってました。そこに来ないと呼ばれて、岡崎市にも行ったりしました。1年目は実家にも居たから、かろうじて食べれていました。 建築を作りますというのは京都工芸繊維大学の第七志望で転げ落ちた時に、諦めというか、違う道、町づくり面白いとなりまして。それに3・11で僕も石巻とかを観に行ったりしたんです。神戸の時は建築ってこんなに人を守っているんで凄いな、だったんですけど。3・11の時のイメージは違っていました。阪神は物が残っていたんですけど、3・11では物が無くなっていた。 佐藤:津波被災で物は海にさらわれてしまってた、それを見てしまった。 浅野:その中でも、生活に色んな工夫をしながら一寸でもよくなるように創造力というんですかね、生きる力のようなものにフォーカスが行きました。 こんなに僕たちは創造的な能力や考え方を持っているのに、今の生活ではぜんぜんその創造力を発揮できないような世の中の仕組みになっているんだな・・と、それを凄く思い気付きました。 デザインリサーチャーとか染色の工場とか福祉の所などにある、そう創造力を拾い上げたり、掃除をして整理をし見えるようにしたり、こことここを繋いだら違う面白い物が生まれるかも知れないと。それは概念としては建築っぽいなと思ってはいます。 佐藤:人に活動の裏背景を支えるための場と行為が建築のミッションだから、そうだよね。 浅野:そういう活動をしている感じです。 佐藤:浅野さんは建築設計や出来た後の創作活動をするための、前段の仕事してたんだね。 浅野:まさにそうです。 佐藤:今の話を聞いて思うのは、災害に遭ったりしながら、社会が縮退して来るのを見たり具体的に被災地体験し、ようやく、そこに気付いた。高度成長の経済下では浅野さんがしている、そういう仕事はどうでもよかった。何もせずとも拡大し続けることができた。縮退し始めたときに皆が気付かないけど、自らが何をやって成長し続けてきたのか、何に焦点を当てながら縮退していくのか、縮退の手法に気付くためには、災害に遭い基盤が根こそぎ消滅したりすることで、少しずつ成長していた基盤を自覚しだした。そういうことですね。 役割を演じていれば済んだ成長期から、役割を見直して自分たちの働き方を編集しなおさなければ生き残りにくくなってしまった、と。 現場で物を作って来た人たちは、実は、高度成長を支えた町や人たちの全体の基盤や仕組みの詳細を分かっていなかったと。自覚せずも生き続けられたんだと。デザインサイドでも、誰にどこに声掛けて新しい社会に対応した物を作りは分かっていなかったと。 コロナ災害も急に来たし、縮退はそれらを見え易くした。デザインリサーチャーのような役割の人が欲しいんだけど、何ていう人で誰に声を掛けたらいいのか工場サイドでは分からない、無自覚だったんだと。だから、浅野さんの有松での仕事に対する職業名を町の人たちは付けられないでいた。 名前を発明するために、その名を聞けば誰で、職業の概念が浮かぶ、そして具体的な仕事内容がイメージできるようになるまでの頑張ったと。浅野さんが自分たちの工場の仕事と若いデザイナーと繋いでくれただした事によって、浅野さんがやっていた職能と仕事に名前も必要になった、と。まだ浅野さんの職能に対して、有松サイドで瞬時に分かる名前が発明されていないんだと。 誰でも一瞬で分かる職能名になれば、浅野さんはお金もいただき易くなる。浅野は何やっているんだろうね・・・の段階では、お金もいただき難い。 浅野:それを1,2年目にぐちゃぐちゃやっていて、デザインリサーチャー。3年やって飯食えなかったらデザインリサーチャーは日本では成り立たないから、止めようという感じでした。幸い不幸か飯は喰えてまして、裕福ではないけど・・・。 で、それを続けていたら、同じように、他の産地だったり、福祉系の人達だったりと、他にもそういう情報があるんだと見えてきました。 ■お菓子作りとと福祉施設 浅野:2年目にやっていたのは、仕事を観ていた人がお菓子屋さんと福祉施設のコラボ。いわゆる昔の授産品みたいなのは作りたくない。正義というかお涙頂戴になるから、ちゃんと美味しいお菓子を作りたいんです、と。 地元で4店舗ぐらいお菓子を作っている会社の社長と福祉施設がタッグを組んでお菓子つくるんですと。 一回、パティシエさんと仕事したときに上手くいかなかった、と言ってました。 浅野は、何で上手くいかなかってんですか・・・と聞きましたら、向こうの理想が高すぎたと言うんです。 今回もほぼ同じじゃん。じゃ、一端皆さんがどう働いているか教えてくださいと聞きましたら、綺麗にしゃべれなかったんです。 そこで僕はデザインリサーチャーなんで、弁当屋さんチーム、お菓子作りチーム、カフェなど幾つかありましたので、それらを3ヶ月かけてリサーチしましょうと提案しました。 自分たちはどういう価値基準で運営しているのか、それを整理したうえでその結果を新しいそれぞれにくっつけたら、何が出来るか考えましょうと提案し、それをやっていきました。 現場に張り付いて、カメラ回しっぱなしにしながらして、レコーダーを用意してここに書いてある事を教えてくださいと。 今日のメニューの中で施設を利用している人の特徴が現れているメニューを教えてください、それはどんな特徴ですか、と。それらを録音してもらう。 リサーチを続けているうちになんとなく分かってきました。 美味しいというのは彼らの基準の中の上位にあるんだけど、美味しいと彼らが仕事を覚えるのが早くなるんです。不味い物を作っていたら、やりたくない。 でも美味しい物の味が濃いとか、脂っこいとかは彼らの健康状態も気にするから、美味しいんだけど量を作り過ぎないように管理する人が後ろにいて。でも彼らの働きがいとか、美味しいから作りたいとか、モチベーション上手くコントロールしながら作っていく。 パティシエさんがやろうとしていたのはケーキ屋さんなんで、バターをたくさん使いたい、砂糖を使いたいとなる。 それらを使い過ぎると管理者はこの子達が健康被害になってしまうから出来ませんと言っていたから頓挫してしまった、と分かりました。 たまたまケーキ屋さんである地元の社長がグルテンフリー、糖質を抑えた美味しいケーキとお菓子を作りたいと言い始めたので、それだったらこれを話して、ここで合いますよね、と提案。 しかも分からない物をいきなり作れと言われてたら、みんなモチベーションは上がらないから、一端皆でお茶会しましょうと提案しました。で、これは美味しいねと言ったときに、今食べている美味しいものは今度皆が作るお菓子なんですとモチベーションをさらに上げました。そうやって回していく。 当時グルテンフリーは今でもコンビニに売ってたりします。無い物なので、それが町の中に急に入って来たら、地域の人達からはどう受け止められるんでしょう。それに店に名前を付けたなら何か?、デザインに落としたら何があるのか・・・。 建築の人が別のチームに居たので、福祉の子たちが働く回転の度合いだったり、グルテンフリーも当時は珍しかったので、食事の体験をするのにどういう席数だったらいいのか・・そういう事を色々計画し話合いながら席数がキツ過ぎると、ゆっくりのペースでしか働けない子たちも混じっているので、この席数だと働くのが厳しいです・・。で、空きすぎちゃったら経営的にはキビしくなる。こっちで物販をちゃんとやりましょう、と。 そういう話を経営者、建築設計の人、デザイナー、パティシエの社長などと会議の整理をし発信していた感じです。 2015,6年ぐらいにグルテンフリーの店はできました。今も続いてます。評価もされていますの、でよかったなーという感じがするんです。 それらを2,3年目に半年から1年かけてやっていました。お金もちゃんといただきました。なんとなくやってきたことをちゃんと説明できるようなものができた。しかもデザインリサーチャーとはなんぞや、それの処の整理もできました。福祉の人たちが町の中で働く姿を見せつつ、新しい食生活がそこから生まれてくる、そういう話もつなげる事ができました。 個人的にはすごく、やっていて今でも記憶に残っています。 佐藤:結果としては資本主義社会に合う拡大路線を追っている、戻る感じはしますか?縮んで行きながら豊かになるっていうモデルには成ってないんじゃないですか。 浅野:まあね。 佐藤:そこは浅野さんたちが上手くやっているんだけど、高度成長期の成長を夢見ている人たちを助けてしまうのではないか。そこを替えるデザインリサーチャーの提案じゃないと次に行けないのでは・・・。そこが一番難しい仕事だよね。 ただ設計はやっているんだけど、出来ている物が過去の価値の中に引き戻されてしまう。金融資本で株は高い・豊かだと言い張る政治家など多いが、移行期の困難は放置されてある。適切な解答をみつけられぬまま、その中でどうやって縮退する町を営むのか、何ていうのかな・・人口が減ってしまうのだから、全体は小さくならざるを得ないよね。島国根性なので外国人を嫌がる人も多い。小さくなりながら作り手も豊かになっていく、そこを上手に縮めるデザインリサーチャー、でも難しいよね。 浅野:めちゃ難しいんですけどね。 佐藤:金融資本主義が主になり、建築が置かれてきた状況と似ているよね。 浅野;めちゃ似ています。それで言うと最近、有松にもこんなに深く関わるとは思っていませんでした。 佐藤:それは深く関わってもらわないと有松の人達はもう困るでしょうね。売り上げ下がるのは分かるだろうけど、縮みながら収益を安定して生き続ける手法は分かってないでしょうからね。浅野さんが有松でできた、本質的な意味はまだ理解してないのではないでしょうか。 浅野:まだ分かってないと思います。浅野さん何でご飯食べているんですか、ってずっと言われ続けています(笑)。 佐藤:物にはお金を払うけど、リサーチに金を払わないというのは、新しい価値をつくり、次の社会をつくる仕事を生み出す、前段の活動をしている人の価値は分からないんでしょうね。 ここまでの話ですと、有松に生きている人たちの総合力で次の有松をつくるための連携とその方法は町中でも分かっていない、ように聞こえます。 浅野さんは有松衆の見えていない力を引き出している過程なんだね。その過程で対立してしまう多くの事態を掃除し取り除いて整えている仕事しているんだけど・・分からないし概念を共有できない。で、お金を支払いにくいと感じている。 続けていると、縮退し続けることに対応し続ける事態に合った継続可能な手法を手探りし身に付けていくことになるかも。その過程を浅野さんは想いつづけているんだけど、理解されにくい。次の世への指南役は誰でもできそうだけど出来ないんだと。 |
たんぽぽの家に関するニュース動画 ![]() 8月21日 浅野翔さんの自宅で語り合っている |
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■京都工芸繊維大学の職員になる 浅野:有松に戻りますけど、そういう事をやりつつ、3年間、京都工芸繊維大学の職員に行くことになったんです。 で、岡田先生が京都工芸繊大学のKYOTO Design Labのパブリケーションマネージャーという職に空きができたから手伝ってくれ、と急に連絡が来ました。 KYOTO Design Lab 施設紹介動画 僕以外にも声は掛かっていたんでしょう、とても厳しい環境だったから、そのタイミングで、工繊大に行きました。同時にそのタイミングで妻と名古屋で出会いました。 フィンランドに1年交換留学してんです。その時にたまたまエジプトに旅行に行きました。その時、水たばこを初めて吸いました。これは面白いもんだと思いました(笑)、1時間ぐらい吸い続けるので、紙たばこ吸うより長いから、話したりコミュニケーションの場にもなっていると分かりました。それを見て面白いなと思いました。 一式、エジプトで買いまして、家のベランダで吸っていた時もあったんですよ。(笑)一人で吸っていてもあまり楽しくない。その頃、元プロ野球選手の清原が薬物で捕まった。ベランダで吸っていたらあいつの家の息子が外で薬物やっている、と思われるから家で吸うな!と言われちゃって。 なんだよと思いながら、名古屋も水たばこの店あるかも、・・と思って調べました。丁度その頃、妻は水たばこ屋の店長をやっていました。その店に行っているうちにだんだん仲良くなって、常連さんとも仲良くなり始めました。ここは面白い場所だな、と言いながらご飯を一緒に食べたりし結婚に至るんです。 結婚指輪は岡田先生と中山英之さんがお仕事をされていたニーシングです。紹介してもらって(笑)。 妻と付き合い始めたばかりの頃、京都に来ないかと言われたんです。僕は29才ぐらいでした。責任とらなければならないタイミングでもありまして、1年間付き合って何も無かったら結婚しようか・・ということで、京都に行って週末は名古屋に戻って来てました。同時に週末には有松のことをやってもいました。 ■新型コロナ禍 浅野:そんな事をやっているうちに、新型コロナのタイミング(2020年)で工繊大を辞めまして、名古屋に戻ってきました。デザインリサーチャーはフィールドに行かなくちゃいけない。コロナ禍でフィールドにいけないから、めちゃしんどくって。オンラインでいろいろやってました。 そのころ有松は日本遺産に、簡単に言うと東京オリンピックで来た外国人に日本遺産という素晴らしい場所が一杯あるから、皆さん遊びに行ってくださいと。 その場所に有松が選ばれたんです。有松にタイトルが欲しいお爺ちゃんたちが出してて、有松を楽しめる企画や町の皆さんの気持ちを高めるワークショップなどをやってくださいという話だったのに、対面で出来ない時期でしたから、ワークショップはストップになってしまう、でも予算が付いているから、何かをオンラインでやってください、となりました。 同じように50代の人達に何かやりなさいと。彼らにはそんなことやってる時間は無いから浅野何かやれ、という話が来ました。そこで3年間、オンラインでハイブリッドしながら有松・町づくりをして、なんとか食いつないでいました。 その時期は、いままで出会いなかった人達とより深い話を聞くことができました。明日案内しようと思っている場所が有松の西の方にある、空き家です。そこは朽ちかけていました、水平垂直が無い。その空き家の改修工事はコロナの助成金など、いろいろ使うとできるかも知れない、という話になりました。 そこでレンタルキッチンとレンタルスペースを作ろうという話になりました。完成したあとは、今はそこMOSS ARIMATSUの運営もしているんです。 ![]() 左山頂:有松天満社 道:天満社参道 右の建物:MOSS ARIMATSU そこがすごく面白いと思ったのは、名古屋市はデカいし、トヨタに働いているお父さんなどにもいるのでお母さんたちは元気、元気な子供たちもいるんです。皆さん何かやりたいとは思っていて、モヤモヤしているんだけど、やる場所が無いとか、やりかけた所が使えなくなっちゃったとか。そのタイミングでMOSS ARIMATSU・僕らの場ができました。(運営開始 2024年) その04へ続く |
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