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  2017年10月03日 
石榑督和(いしぐれ まさかず)さんに聞く にて
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佐藤:博士号とっても食えないと青井先生は諭すのだが
石榑でも行きまーすみたいな感じで。色々言われたのが、「俺は人づきあいが得意じゃないけど、食っていくためにはネットワークを作らなければいけないから、外の人にめちゃ会え!」「どっかに顔出せ!」と言われて。分かりましたと。
佐藤:石榑さんは素直だな

石榑僕は素直なんです。たまたま、都市発生学研究会で、建築学における闇市研究の第一人者と言われる、東大の助教をやられている、初田香成(こうせい)先生がいるんです。伊藤ていじが名前を付けたらしいんですけど。初田亨っていう日本都市史の初期に活躍した4人の巨匠の一人ですけど、息子さんなんです。

初田さんから闇市研究会あるから、どうって誘われたんですよ。で参加したら同世代がめちゃ居て。2003年末にそのメンバーで闇市の本を出すんですけど。そこでの出会いが同世代の人とからむ最初の切っ掛けだったと思うんです。



佐藤:自主トレ研究会で招いた、東大の初田香成先生から外部との関係が濃密は高め加速だした。石榑さんの研究も芽吹きだした
石榑初田研究があって戦後東京と闇市』がある。色々初田先生には教えていただいて。闇市研究会なので建築系じゃない研究者も居るんですよ。歴史系とか文学の人も、社会学の人も。同世代のそういう院生と話したり、修士を経て社会人になっているけど研究会に参加している人たちも、東大出てって、みんなめちゃ頭がいいんですよ。繰り返しますけど。
神戸大学から来てる人もいましたけど。でも、当時根拠の無い自信があった僕闇市研究会に居たんです。「超あたまいいじゃんこいつら!」と思っつ。

佐藤:根拠なき自信あるから気後れもせず
石榑やべー俺分からねーみたいな感じがあって。でも、外に出るってすげーなーって思って。色々刺激を受けて修士課程を過ごしてました。
ちゃんと2年で新宿をテーマに修士論文を書いた。『戦後東京と闇市』に書かれている新宿の内容よりだいぶ薄いですけど。博士論文は修士論文がベースになってて、さらに拡大してかつ池袋新宿渋谷も同じように対応して比較したというのが『戦後東京と闇市』なんです。

明治大学内で修士の時はとにかく青井先生、面白い、先生が調査に行く所は全部付いて行く
佐藤:青井先生の背中は、じいちゃんの背中だ、ってな感じだ
石榑;とにかく盗めるものは全部盗んでやるぜーみたいな気合だけはある。修士論文の発表会が代官山で東京建築コレクションというイベントが毎年あるんですけど。それに修論を出したんですよ。たまたま審査員が布野修司先生、


博士課程に入る

佐藤:根拠の無い自信に運も重なる場があった
石榑ふふふふ発表に選ばれて、布野先生の前で発表して。コメントも色々頂いて。充実した修士生活が終わるわけです。

で、その修論のイベントの次か次の日ぐらいに東日本大震災が起きるんです。テレビで津波の様子を見るじゃないですか。11階が研究室だったんですけど、免振ビルの11階で糞揺れて、ぐちゃぐちゃの研究室から脱出して。本棚が倒れてきましたから、危険だなーと思いました。
テレビで津波の被害を見て、率直に思ったんですけど、僕が修論で研究していた焼け野原が日本に出来ているって思ったんです。まっさらになった都市があって、そこから何か復興をする。かつ、これが何度も繰り返されてるって事だと、ちょっと経ってから解ってきたんです。

とは言え歴史研なので、計画を描くことではないので、でも何かこの災害に向かわなければならないし。この現象自体は客観的に興味深い・面白いことだと思って研究する必要があると、災害学者が言っているのを聞いて、心強く思ったんです。
浜ごとの災害と復興が繰り返されていて再生するときには前の災害と復興を踏まえる必要があるので、既にやっているから。後方支援として何かやれないかと青井先生が言い始めて。

僕と青井先生を中心に三陸沿岸部の浜ごとの、明治・昭和・リチ津波の時に亡くなった人数と、壊れた戸数と、復興計画とか、復興で高所移転したけど浜に戻った事を文献から抜き出して、webを作ったんですね。

行政地区じゃなくって浜ごとに作るというのをコンセプトにして200集落ぐらいの浜の情報をサイトに上げたんですよ。修論でやっていた作業と感覚的にはつながっていて、博士課程の半年か1年ぐらいはズーっと三陸沿岸部の研究をしてたんです。東北を巡って。浜ごとに頁を作って、

佐藤:その作業って地味だけど労力たくさん要るよね
石榑大学は授業がなくなったので、震災起きて1か月ぐらいは授業が無かった。毎日朝10時に集合して後輩たちと一緒にずーっと打ち込みまくる。
佐藤:現場にも行ったんですよね
石榑:最初に20集落か、30集落ぐらいweb公開した直後に

佐藤:新宿の闇市は戦争という人災で立ち上がったんだろうけど、津波という自然災害によってできた瓦礫の山と真っ新な地に立つことで戦後の荒野を追体験した。石榑さんの研究が身に迫るリアルさが加算されてたんだ
石榑:闇市の研究は博士課程に入ったときは完全ストップしてる。

佐藤:努力しなくっても、研究に関するリアルな事態がドンドン押し寄せて来る、その幸運さも持ち合わせているね
石榑ラッキーというのは不謹慎とは思いますが、本当にそう思いましたね歴史的に考えている事が目の前で起きている、その感覚が凄く強くって。
佐藤:天から研究テーマに関する事態が降って来る人なのね
石榑頂いたって感じかもしれないです。三陸の歴史研究も今もう一回青井先生と三人で共同研究しているんです。面白いですね。

佐藤:幸せ建築家という称号を柳沢究先生に与えたことがあるんだけど、石榑さんは幸せ研究者ね。
石榑:そうかもしんないですね。
佐藤:今日の聞き取り情報によると、たいした努力もしてないんだけど、いつの間にか研究テーマが与えられて、追体験するかの様に大災害が起き、そこで今・研究しなければいけないる人、アクチャルで研究をする場に配達されちゃっている人。これは幸運、天が与えた幸せ研究者じゃのー、そこに立って居る強運と仕合せ
石榑:そうかも知れないです。本当に青井先生のおかげだと思います
佐藤幸せ研究者第一号の誕生だ、おめでとう!
石榑ありがとうございます。認定されましたか。
佐藤:幸せ研究者第一号を認定する。そのために聞き取りに来たわけじゃなかったけど。話を聞いて、どう考えても、幸せになってしまう研究者に出会いましたね。喜び分かち合い乾杯 乾杯
石榑そうかもしんないですね。




超苦しい時代が到来

佐藤:これで終わるか

石榑ちょっと待ってください。ここまで達するためには一番苦しい事態を通り抜けているんです
佐藤:何が苦しかったんです
石榑:まず、修士までは素直なので、青井先生面白のでどこへ行くにも付いていって、盗めるものは盗みたい。こいつの面白い処をぜんぶ捕ってやるみたいな感覚で居たわけです。

博士課程に進学すると、独立した研究者を目指さなければいなくなるわけですよ。そうると青井先生と同じ事を追及しててもしょうがないと思いだして。

佐藤:そんな事も分からずに博士課程に入ったのかい
石榑そう。で、父親うぜー!みたいに成るわけですよ
佐藤:青井さえこの世に居なければ、俺が研究したのだと言い張れるわけだからな〜、その感覚、普通の感情が湧きだして、分厚い青井壁に当たり突き破れない。いいね。
石榑:震災になった次の2012年から、学会の『建築雑誌』の編集長に青井先生がなるんですよね。僕は鞄持ち的なところをやらせてもらていたんで、委員会にも出て。皆さんが議論しているところで、目次をこうしたらいいんじゃないかみたいな議論が起きるんです。プロジェクター上で目次の組み換えとか、今・出た研究者の名前を検索して出すとか、そんな雑用をしてたんですよ。

佐藤竹内康先生も編集委員だったよ。原稿依頼あったあの時期か
石榑:竹内先生にはそこで出会ったんです。もちろん凄く勉強になりつつ、青井先生本当に全方位的に議論できるし。まじくそーと思いながら。思春期の子供みたいな感情に襲われて、すげー仲が悪くなってしまって
佐藤:どんなにあがいても青井先生に追いつけないので存在を嫉妬し憎むと
石榑:追いつけるわけない勝てるわけないんですけど。思春期的感情でかなり仲が悪かったです、ドクターの1、2年は

佐藤:石榑さんが単に突っかかってた、だけじゃないか
石榑:ただそれだけです。とは言え、博士号を出すには査読論文を提出しなければいけないんですよ。建築学会で言う黄表紙。黄表紙を出せ出せと言われ

佐藤:東日本大震災対応で、研究作業はなにもしてないし
石榑:言われ続けるけど、一本目めちゃいい論文を山さなきゃいけない、そんな気負いがありすぎて、全然出せないんですよ
佐藤:はははは、
石榑めちゃ仲が悪くなるし、悶々とするドクター1、2年の暗黒時代を過ごして。一方では青井先生に教えてもらうだけではどうしようもないなーと思い。修士の時に言われた外に出ろがそのあたりで響いて来るんですよ。親離れするための言葉 外へ出ろ。Twitterなどでつながった日埜直彦さんとかに呑みに連れていってもらったり。事務所で議論してもらう機会が何回かあって、色々教えてもらったり。日埜さんは東京の街歩きをたくさんしてて。教えてもらったり。山岸剛さん、建築写真家がいるんです。山岸さんとも一緒に街歩きしたり。いろんな議論させてもらったり。この『戦後東京と闇市』を編集した川尻さんとかとも。呑んでただけかも知れないでけど、色んなことを教えてもらった。それがけっこう大きくって。

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