佐藤敏宏 原稿 2020年10月05日 曇り 作成 佐藤敏宏
『別冊渡辺菊眞建築書 感涙の風景』について
 (その1)  その1 その2 その3 その4 
菊眞さんからメッセージ 「感想ほしい
はじめに
 2020年9月23日12時19分に渡辺菊眞さんから次のようなメッセージが届きました。「佐藤さん、ご無沙汰してしまっております。遅くなってしまったのですが、個展(注1)の図録のうち、感涙の風景をまとめた「別冊渡辺菊眞建築書 感涙の風景」をお送りしたいと思っております・・・・・・」翌日もメッセージがあった「・・・佐藤さん・・・・・また、ご感想などいただけたらありがたいです佐藤さんのmy体験記は本編の方に収録すべく、図録用の編集をほぼ終えておりますこちらはおもっている以上に骨が折れそうです。大阪(注2)は残念でしたが、図録をまとめつつ、新しい機会を考えたいとおもっております・・・」

 2日後『別冊渡辺菊眞建築書 感涙の風景』は我が家に配達されていた。手に取ってみると黒いガチな表紙に驚いた。展覧会のポスターのような「赤い表紙だ」と想い込んでいたからだ。頁をめくると「写真集じゃん」とも。文字がぎっしり詰まった難しい建築論が書いてある「建築書が届く」そう思い込んでいたからだ。
 私の菊眞さん展覧会における「体験記」はドンドン使っていただいて構わない。だが、大学の先生が刊行する本なので、誤字や脱字など多い体験記を「修正・直してくれるのかなー」と心配でもあった。さらに「感想を書いてweb頁にして送ろう」とも思った。

 でいつものようにweb書き始めます。まず章立てからつくり、順次進めていきます。見ていただければ幸いです



2019年12月3日個展会場である高知市文化プラザかるぽーとにてツーショット

(註1)2020年12月3日から5日まで市民ギャラリー3階展示室にて「渡辺菊眞建築展」は開催された

(註2)2020年春に大阪で渡辺菊眞展が開かれる予定であたがCOVID-19の影響で中止になった

■ 『渡辺菊眞建築書』の構成などの特徴における私の疑問
   下記の(数字)の順にすすめます
 
 現在、出版することの労や意味を語ることは「建築書」が刊行されてからにし、別冊写真集について、下記の順に語っていきます

(0)ほぼスナップ写真なのに「
写真集」でなく「建築書」に仕立てる謎について

(1) ここでない遥かなかなたへ通じていく場所を建築によって構成するために建築が到達すべき目標について

(2) 菊眞さんによる今回の『渡辺菊眞建築書』は建築書説明文をのぞき全82景を5つの章に分割し示している。

 1章 京都の風景 技巧の空間 (14景)
 2章 奈良の風景 空間の古代 (16景)
 3章 或る風景 日本 何処かで見つけたもの (14景)
 4章 或る風景 世界 何時かであったもの (16景)
 5章 高知の風景 空と海と大地 (22景)

(3) 私に湧いた疑問の数々

 イ)菊眞さんの人生を追うように時系列を素直に並べれば 奈良〜京都〜日本〜世界〜高知の順になるように思う。ではなぜ、京都が巻頭なのか?いついては後に記したい。

 ロ)景観数の順に並べるならば 高知〜奈良〜世界〜京都〜日本となるはずだが、それについても後に記したい。

 ハ)主にスナップ写真を配列しているのに、なぜ「建築書」と宣言あるいは表記しなければならなかったのだろうか。これも後に記したい。

 ニ)景観を写すスナップ写真なら、多数の人間が意図せずも写り込んでしまうのに、唯一息子さんだけが写る景観があるのはなぜだろうか。これについても後に記したい。

 (ホ)2020年現在はweb媒体で発表するのが、経費も掛からず、瞬時に世界に伝わる可能性があるのだが、なぜ物、紙媒体である書籍で「建築書」を刊行したのだろうか。自らの「建築書」を売るため菊眞さんは出版社も立ち上げている。それは何故なのだろうか。これも後に記したい。

 (ヘ)自費出版への意思が極めて明確であるけれど、それはなぜなのだろうか。自己PRのために、既存建築系出版社においてweb記事や紙媒体掲載に一喜一憂し、その結果をSNSで撒き散らすのが流行りの時世において、あるいは既存建築系出版社に自ら出向き、掲載を懇願して実現する者が多数なのに、つまり「建築界の受動機械」に自ら成る傾向が過多なのに、その流行りに菊眞さんが乗らないのはなぜなのだろうか。

(4)まとめ 

先に目次のようなものをつくりました。ここから感想を書いていきます。



YouTube 「建築家渡辺菊眞さんについて」




定価:3000E
刊行:2020年5月30日
発行:渡辺菊眞
 

■(0)ほぼスナップ写真なのに「写真集」でなく「建築書」に仕立てる謎について

 (まだ見ぬ建築に対する真摯な実践家

 菊眞さんが開催された建築展は情報量は多く、2日間でも見切れる展示内容ではなかった。それは菊眞さんが25年間にわたり格闘した数々の作品が所せましと、3列に、会場手前から「建てる建築」「感涙の風景」「建てぬ建築」と並べられていて、関連性がとっさには理解できなかったからでもある。

 真ん中一列に展示されていた写真群は会場の背骨にもなっていて、菊眞さんが25年間に得た感情が詰まってもいた。「感涙の風景」と称され抒情的なタイトルであるが「スナップ写真展」と「建築作品・模型展」が融合した構成だったからでもある。これは後で分った事で、会場に入った瞬間に、私はそのことが分からなかった。「なんで写真がど真ん中なんだろう」かと思うばかりだった。

 建築展は実作・実物を持ち込んで展示するわけにはいかないので、模型や竣工写真やテキスト、さらに動画・映像が並んでいたりする。そのよう整えたうえで講演会が行われたりする。それが一般的だろうか。回顧展でもなければ25年間の情報を一気に展示することもないように思う。

 学生時代から気合が入っている菊眞さんが展覧会を開いくので、高知市内の開場には全国各地から、友人知人やマスメディアの方々が集合していた。福島市に暮らしている私は、高知県初体験だったので「空海さんが修行した足摺岬に行いき、突端の荒波や岩をなでたり、足摺岬に立ちながら、菊眞建築を体験したかった」その欲望もあり、情報量が多すぎたのかもしれない。しかし、高知の風土と菊眞さんによる建築的思考と実践にあるだろう意味関係の中からしか、渡辺菊眞建築展を体験する意味は浮かばないだろう。そんな山勘、思もあった。

 福島に戻ってから書いた体験記に目を通していただければ分ることだが、といってもそれは「私が見た渡辺菊眞像」であって、普遍的な内容ではない。菊眞さんは、どこへ行こうと「その地の風土と菊眞さんの心身は引き裂かれている」という想い込みを持ちながら、建築的実践を継続し、人間のため建築を見つけ出そうとしている。方法は言葉に偏らな構えを整えて「まだ見ぬ建築に対する真摯な実践家」でもある。そのことが分るはずだ。

別冊 渡辺菊眞建築書 『感涙の風景』)

 別冊が先に届いたので誤読になると思うが『感涙の風景』について。

 建築展の会場に展示されていた写真内容は「透徹したリアリズム写真ではなく、建築家特有の、菊眞さんの抒情性がそこかしこから見えていて、なんだか恥ずかしい!と思いました。ですから「感涙の風景」全作品を一気には観ることはできませんでした。 あのときの「なんだか恥ずかしい」とは、いったいどこから感じ見えてしまうのでしょうか。そのことを私なりに突き詰めてみたいと、別冊感涙の風景が手にある今は思います。
 そこで日本における写真史のようなものを、にわか勉強ですが諸書(注3)を参考にしながら粗っぽく振り返ってみます。




(註3)参考にしたもの多数の写真集と
・『写真の歴史- 不滅のパイオニアたち』エアロ・シャーフ著/伊奈信男監修/小沢秀匡訳

・『写真論集成』多木浩二著

・『日本人の写真・歴史と現在』飯沢耕太郎著
最初は肖像画 1857年ー安政4年 最初の写真撮影

 ダゲレオタイプ(daguerreotype)の技法で(銀板写真)印影鏡(←写真機)と呼ばれていたもので撮影したようです。写真の撮影の様子を描いた図を参照してください。この絵は日本人による撮影第一号の撮影風景だそうです。被写体は薩摩藩28代藩主の島津斉彬です。島津斉彬(なりあきら)に写真機を提供したのはオランダ商館出入りの貿易商の上野俊之丞(しゅんのじょう)です。彼は、幕末の写真家で「東の下岡蓮杖、西の上野彦馬 」と称された上野彦馬さんのお父さんです。上野彦馬さんは坂本龍馬・勝海舟・桂小五郎・高杉晋作・伊藤俊介・土方歳三の肖像を現在に残した日本最初の職業・写真家の一人です。日本人が1857年(安政4年)写真機を持ち最初に撮影した被写体は人間、それも藩主であったのは興味深いです

           


 西欧では1827年夏、J.N.ニエブスさんがカメラオブスキュラを通して自然の風景を恒久的に固定しもの(ロンドン博物館蔵)タイトルが「書斎の窓からの眺め」で、建物や屋根が写っているように見えます。画像が不鮮明な1枚です。初めての撮影が日本では人間を撮り、西欧では私室の窓から風景を定着させた。この違いは興味深いです。

 1839年、ウイリアム・ヘンリー・タルボット(1800〜70)さんが1月31日「世界で初めて写真を発明したことを発表し、同時にその技法を明らかにした。また実用的なネガ・ポジの写真技法を発明したこと、さらに1840年には露光時間を短くした潜像現象を発見したことでも有名」(『写真の歴史』p・18) とある。 右の写真は1844年リーデングの写真撮影現場」(ロンドン博物館蔵)タルボットさんが撮影したものを(2枚右・左)合成したものだそうです。撮影に係わった大勢の人と建物が写ってます。
 
     

 日本の写真も戻ることにしす。左上の写真は1873年、武林盛一撮影による札幌本庁舎上棟式側面で工事現場の記録写真です。斜路の足場を含め建物足下まわりにたくさんの人が写っていいます。 右上の写真は1877年、上野彦馬撮影による西南戦争によって被害をうけた豊岡村付近の戦後を写した記録写真で、人が一人も写されて写り込んでいない。この点に注目しておきます。 
 
                        
 
 左上の写真は明治初年撮影下岡蓮杖さんです。 右上は幕末撮影で彼の写真館全楽堂で横浜の野毛に在ったそうです。繁昌したことで、横浜元町に移転し外国人客の土産用写真を多量に受注し、千客雲集だったと記されています(『写真の歴史』p201) 全楽堂の店先には人が写っています。これらには「日本の歴史の変容を経由し記録したが、人物、風俗、風景の映像記録は写ることへの素直な感動が残されている(写真の歴史P202) ここに記されている「写る事の素直な感情」を記憶しておきたいと思います。

 これらから、日本における写真は「肖像(人物)」、西南戦争や北海道開拓のさまを撮影した「記録」、外国人が日本の「お土産」として買い求める三つの源流があると言えます。その後、写真機が安価になることで、お金持ち・素人の方々が興味をち写真撮影に参加することで、多彩な「芸術写真」への道が拓かれます。19世紀末から20世紀初頭には町の風景をスナップする者から、撮った写真を合成する者、被写体に演出を加えて撮る者など、撮り手各々、それぞれの写真表現方法が模索されだしています。やがて西南戦争を撮影し上野彦馬の一つの流れは「報道写真」へと発展し現在に至っています。

 戦後になると土門拳によってリアリズムが提唱され「カメラとモチーフが直結することや、絶対非演出の絶対的スナップ」が追求され、写真の社会性を活かす事と近代的個人として、写真家としての存在が要求されることになりました。
 加えるように主観主義写真と呼ばれる新しい人間性も、新しい造形性も発見する写真の道が拓かれたり、写真にストーリー性(名取洋之助)を持ち込んだりします。対応するように、カメラマンの意思はストーリーに従属するとした写真が模索され、写真の道の多様性が明確になっていきます。

 奈良原一高の登場によって「消滅した時間」が写真によって加え提示され(『人間と土地)』)現在に至ると、私小説的だったりコンテンポラリーなどの写真群が追求されています(立木義浩・篠山紀信・森山大き道・荒木経惟など)。

 菊眞さんの写真について記すここでは「廃墟写真」を消滅した時間系の写真に含めておくことにします。建築写真に類するものでは宮本隆司による消滅する寸前の建築の細部に入り撮影した「解体過程写真」が提示されています。そこには人類が消滅する様子、怖くて甘くてなぜか暖かみさえ感じる時間が刻みこまれています。

 (渡辺菊眞さんの別冊『感涙の風景』の中の写真について

 完全な廃虚ではない時間の中に生きている構築物を「準・廃墟」と称しておきます。菊眞さんの写真は廃虚に至らせない、そのようなスナップが多いからです。数えてみますと、廃棄され・朽ち続ける建築や構築物は「墓場」を含め「準・廃墟」と呼べる写真は計22頁ほどあります。(註4)

 菊眞さんは準廃墟好きなのだろうか?

 そうではないと私は思います。ここで「準廃墟」と称したのは廃墟に出会ったときに湧き上がる「過去にあった人間の欲望のグロテスクさの残滓」放り出された人の残酷さと現実が読み取り難いからです。なにか愛情があふれているようにみえます。
 写真集のような別冊を「建築書」に加えているのは、先に記した日本の写真家達の模索の時が渡辺菊眞の写真にも投影されていて、写真家達の時間の流れに一旦、菊眞さんも乗って撮影したいたようにも見えます。

 菊眞さんは別冊巻頭で「ここ←→はるかかなたへ通じていく場所を建築によって構成する。そのことが建築の在り方であり、建築が到達すべき目標である」と宣言しています。

 近代的主体が目指しす道は、時間が直線的に進み到達すべき時間でありました。あるいは時間は後戻りしない、そのことを暗黙に了解し思考する主体だったと思います。だが、菊眞さんの時間の捉え方は、単に織り込まれたり、繰り返している、あるいは、ここで現象が循環してるだけなのです。そうして主体は時の繰り返しや単なる循環なので進歩も変容もせず浮遊し続けています。主体は永遠に時空に宙吊りとなり浮いたようにあり、着地しようとしないだけなのです
 この時空にあることで、菊眞さんは、近代の主体性の息苦しさから解放されつつあります。そのことを示している理由はこれから書き進むことで分かり易く伝えてゆきたいと思っています。

 この章の小さなまとめ、ほぼスナップ写真なのに「写真集」でなく「建築書」に仕立てた謎についてでした。菊眞さんの写真は循環する時間、あるいは単に繰り返される時間のなかにあるので、近代的主体は廃棄されて、名づけようのない新しい主体が宙づりになって生きている。その快適さを言語化できていないことによるのだと思います。

 25年間の活動を一気にまとめた展覧会で、その状態を言葉に置き換えて「感涙の風景」とし別冊に仕立て建築書に加えていのだと思います。

 そのことを過去の価値の中に生きる者=私は「宙づりされ続けてある主体の存在の快適さ」を感じて「なんだか恥ずかしい」と思ったのでした。

 このように誤読し、私の「0」で記した謎を、ここで一旦解決したことにしてきます。

(註4)数字は頁を示す
奈良編ー25、29、30、31、32、36、37
京都ー8、14、15、21
日本ー52
世界ー59、61、71 
高知ー82、85、86、87、88、89、90







つづいて 頁を改めて

(1) 「ここでない遥かなかなたへ通じていく場所を建築によって構成するために建築が到達すべき目標に」ついて、まとめてみます。

次の頁へつづく