種田元春 『立原道造の夢みた建築』 感想 あるいは誤読 
 01はじめに  02「序 一枚のスケッチから」 
03 第一章 「出会った建築、焼き付けた風景」について感想のようなもの    2021年02月〜 作成 佐藤敏宏
(1)立原道造の暮らしぶりを想うために   (2)結核について    (3)立原道造を包んだ公共圏ふたつ

(3)立原道造を包んだ 公共圏ふたつ
 公共圏・The Public Sphere 語りはじめに

 「記憶された立原道造」は公共圏(Sphere)ふたつが起動していることで現在も保たれている。二つの公共圏とは「文芸Sphere」「建築Sphere」である。


 下に示した図はふたつの公共圏を表に区分けし氏名を入れもの(氏名は『立原道造の夢見た建築』による)で、この頁では立原道造の記録保全継承に関わり立原道造像を包むふたつのSphereについて詳しく見ていくことにする。(繰り言ふうに)

 立原道造が生まれた日の新聞と亡くなった日の新聞はすでに紹介した。明治維新以降、1945年の敗戦に至るまで帝国日本は植民地拡張を目的に戦争を多数遂行している。植民地獲得のための戦争が日本臣民の心身にどのような影を落としていたのか。そのことは西山卯三の『住まい方の記』を手にとることで、当時の若い男性の様子を具体的に見た。

 明治維新は江戸時代の武士たちによる内乱によって成されたが、士族の勝者が帝国憲法をつくり、行政や政治の運営は士族のなかのエリートたちがおこなった。市民革命によって民主化が進んだ西欧諸国とは異なる、上意下達という特質をもっている。

 植民地支配を逃れるため士族たちによる急ごしらえの政治制度に加え、世界規模の第一次大戦が起きることで生まれた、戦争特需により景気上昇がすぎ「成金」と「バブル経済」が発生したと言われている。戦争特需は世界金融恐慌が起きるまで続いた。(末尾に福島市の生糸産業の繁栄と没落を少し記す)

 『結核の歴史』によると、日本は富国強兵政策の推進によって結核の検査方法も予防接種も発明されぬ時期に、近代工場で働いた女工や懲役義務によって集まめられた兵の集団生活が結核菌を大都市や日本各地にばらまく媒体となっていた。そののち結核は蔓延安定期に至り市井の人々をも苦しめたことは(2)結核についてで見たとおりだ。

 立原道造は原因も治療法も確立していない結核の蔓延安定期の、大都会・東京下町に生まれてしまった


戦前の臣民根性は理解しがたい

 立原道造が生まれた社会に生きた人は「臣民」と称され、天皇の赤子だった。そのような世間であったが個人の特異な活動、例えば「立原道造の記録」は継続的に保存継承されつづけた。その結果、私にも伝わっている。そのことは不思議なことだ。どのような意識が元にあり連なることで、「記憶された立原道造」がなされたのか、ここでそのことを確認しておきたい。

帝国憲法下にも公共圏は存在した・・・と仮定しよう・・

 「記憶された立原道造」が保たれつづけた因を、私は二つの公共圏が起動していたからだと仮定した。その二つの社会空間が存在したから成せたと仮定し、感想を続ける。

 立原道造の周りに暮した臣民たちが、ふたつの公共圏を共有し育み続けたことで「立原の記録を保全・継承」することができた。(くどいけど何度も書きます)現在もその思いは共有されている。その証の一つが「立原道造の夢みた建築」を刊行した種田元春さんの存在と行為である。

 種田さんは「建築Sphere」の在りようを自覚せず、『立原道造の夢みた建築』によって立原道造の像を更新し、それを「建築Sphere」に投げ入れていた。

 私も『立原道造の夢みた建築』を読み、感想文を書くことで私なりの「立原道造の像」を想い描き、他者に伝えることができる。それは種田さんの建築スフィアー内活動のおかげであると受け止めている。建築Sphereは人々の活動内にあるエネルギーのようなものを受け止め保持・継承する何かだと仮定している。見えない社会空間である。同時に建築Sphereは可能態であるから常に変容しとどまることがない。そういった特性を持つことで次の世の人々の活動や同時代の他者の活動の結果をも建築Sphereの蓄層となって保たれている。そう思い込んでみたい。

 建築Sphereは概念なので、それを理解する人間が概念に沿うように活動しなければ実態は生まれない。概念だから触ったり見たりすることができない可能態なので当たり前である。建築Sphereを感じる者の日々の活動による成果物を建築Sphereに投入することで、変容し続ける可能態だ。

 建築的公共圏を感じて日々を生きることは、宗教行為に接近して暮らしているように見えるかもしれない。何度もくり返したが立原道造の詩集を読んだことがない私も、建築Sphereにある立原道造像にふれたことで、多様な感情の吹きだした。それをもたらす源を建築Sphereがあったからこそだ。そう想定するしか理解しようがない不思議な出来事だ。

 
 メモ欄


854 辰野金吾うまれる〜1919
  明治時代
1868 明治維新
     戊辰戦争
1877 西南戦争
1879 永井荷風うまれる〜1959
1886 谷崎潤一郎うまれる〜1965
1889 帝国憲法公布 
     徴兵義務 男子20歳3年の兵役
     室生犀星うまれる〜1962
1890 帝国憲法施行
1892 芥川龍之介うまれる〜1927
1894 日清戦争〜1895
1904 日露戦争
     堀辰雄うまれる 
1907 中原中也うまれる〜1937
1908 家人の父生まれる
1909 家人の母うまれる
(浅草で暮らし関東大震災と東京大空襲体験一時 隅田川の船上暮し 子たちは隅田川あそび ) 
1912 大正時代
1911 西山卯三 生まれる〜1994
1912 生田勉 生まれる
1913 杉浦明平 生まれる
1914 立原道造 生まれる〜1939
     小場晴夫 生まれる〜2000
  第一次世界大戦〜1918
  大戦景気 成金誕生 日記の時代
1918 スペイン風邪感染拡大
1923 関東大震災
1925 三島由紀夫生まれる〜1970
     my父生まれる
1926 昭和 時代
1929 昭和恐慌 大戦バブル崩壊
    世界恐慌 福島生糸暴落
     デフレ 農産物価格崩落
     福島内でも子女身売り
1930 昭和農業恐慌〜1931
1936 226事件帝国憲法違反の内覧 
     君側の奸 高橋是清惨殺
1937 日中戦争
1941 日米戦争

 
1944八幡製鉄所空襲
    106回の東京大空襲 
    罹災者100万人・死者10万人
1945 敗戦 






立原道造 の体型 (東京紅団より)
17歳169p45kg
(10キロ少なし) 

ふたつの公共圏 人名表

「記憶された立原道造」にかかわる公共圏ふたつを表にした。氏名は 『立原道造の夢みた建築』に登場した者をひろいあげ、キーマンから順にならべたものである。ごらんの様に文芸Sphereに関した人々が多い。

 建築Sphereの人々

  生田勉 小場春夫

東大系 作風継承者
   生田勉 大江宏 

東大系 丹下健三 浪江定夫
 柴岡亥佐雄 

下出源七
(『新建築』立原道造特集
小場春夫) 

硝子の部屋 武基雄


 種田元晴
文芸Sphereの人々

 堀辰雄 杉浦明平
 室生犀星  中村真一郎
私家版詩集刊行 柴岡亥佐雄 下出源七  

 芥川龍之介
 (理系への道をとく・・中村真一郎による)

 『四季』 『詩歌』の面々 井伏鱒二
 萩原朔太郎 津村信夫 田中冬二
 高橋幸一 竹村俊郎 深澤紅子父
 野村俊夫 小山正孝

 一高(短歌会など) 近藤武夫 杉浦明平
  江頭彦造
 『午前』同人誌 小山正孝 
 『九州文学』同人誌 矢山哲治 
  立原達夫(弟) 水戸部アサイ(婚約者)
  鹿野珍見(東京紅団より) 立原道造の会
 師:近代建築の規範を学ぶ
 岸田日出刀 内田祥三 藤島亥治郎 浜田稔  石本喜久治

 
堀辰雄   杉浦明平

  
室生犀星 中村真一郎

 
生田勉  小場晴夫

 ここからは私が体験して来た「公共圏」について、出会いから振り返り記すことにしつつ、立原道造を包んだ文芸的Sphereについては、近世・身分制社会にも存在したと思われる文芸的Sphereの一端を確認しておきたい。

■2001年 公共圏と出会う

2001年花田達朗先生と呑む

 「公共圏」という日本語はフランクフルト学派のユルゲン・ハーバーマスの直弟子である花田達朗先生が日本の社会に根付かせた。1996年2月に出版された花田達朗著『公共圏というなの社会空間』によってである。

 「公共圏」概念に関心をもち、「建築」の発想に取り入れ(?)ようとしたものは東北大の阿部仁史さんと小野田泰明さんで「仙台メディアテーク(Smt)」においてのようだ。「smtが公共圏発生装置としてデザインされているように思われた」とある。(註1)

 その縁であろうか、花田先生は2001年9月22日の建築学会大会にパネリストとして招かれ「公共圏概念、そしてメディアとしての建築」と題して講演したという。その学会からあたえられた題が「建築の計画はコミュニケーションを変革する結節点に足り得るのか?−第三期くまもとアートポリスを事例として」であったそうだ。会議では公共圏がキーワードになっていて「建築家たちは建築をコミュニケーション過程のなかに解体しよう、いやコミュニケーション過程のなかから建築を立ち上げよう、と気付いたのだと感じた。・・・・・その日、私は建築家たちがどこか打ちひしがれているように見えた・・・・・9・11(註2)のあとも建築は可能かと人は問うであろう。私には建築が処刑されているように見えた」と会議の感想を書いている(註1)

 私は1984年から「建築あそび」と称する私的活動をおこなっていた。私が花田先生と偶然会ったのは、建築学会の大会が開かれるひと月前の仙台メディアテーク(開館1月)がオープンした年の夏・2001年8月22日であった。(9・11が起きる20日ほど前)

 阿部仁史さんと五十嵐太郎さんが、仙台駅の西口広場に面したビルの1階と2階を使ってイベントを企画・開催した。私もそのイベントに参加した。会場には花田達朗先生も同席し聴衆の一人であった。イベント終了後、佐藤・阿部・五十嵐・花田の4人で二次会に行ったので、その日のことはよく覚えている。花田先生は「あの時たべた秋刀魚の塩焼きが人生で一番美味かった」と時々語る。

 その後、2002年3月3日と同年11月2日、我が家で開催している「建築あそび」の講師として来福いただき「公共圏」について講演をしていただいた。講演内容は花田達朗全集第3巻『公共圏ー市民社会再定義のために(2020年5月刊行で328〜395頁に掲載)myHPでweb記録公開中)

 当時、花田達朗先生は東大の社会情報研究所の所長で、手狭になった新聞研究所の建物を福武書店から寄贈を受け、安藤忠雄設計の情報学館・福武ホール建物の建設の総指揮をされていた。完成後、「研究者じゃなく実践的ジャーナリスト教育を実践するため、情報学環・学際情報学府長を退職し、早稲田大学に移られた。そうしてジャーナリズム研究所を開設された。研究所をベースに2018年の春・退職されるまで(最終講義録)で教育とジャーナリスト育成教育もされた。

 その間、私も招聘研究員に招かれ研究所の様々な活動に参加した。現在もHPの更新を主に交流しつづけている。公共圏の理論的なことは分かっていないのだが「建築」の暮らしにある「公共圏=建築スフィ」は20年間の日々の暮らしのなかに根付いてしまっている。







  


  

(註1)『公共圏』 369頁
(註2)2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件
公共圏 (The Public Sphere

(公共圏について)

 1996年の花田達朗先生が刊行した『公共圏というなの社会空間』のはしがきはこのようにはじまる

 
 この本書は「公共圏」という言葉をめぐり書かれたものである。その言葉はドイツ語ではエッフェントリッヒカイト(ドイツ語表記)、英語ではパブリック・スフィアー(英語表記)と表現されている。その日本語を公共圏というふうに「」という名詞で受け止めることの含意はその言葉を空間の概念として捉えたい、または捉えるべきだという点にある。それが本書の基本的モチーフであり、トポスだといってよい。その上でいえば、公共圏とは言説表象交通し,抗争し、交渉しつつ、帰結をうみだしていくそういう過程が展開される社会空間のことであり、同時にそれは公的ないし公共的、エッフェントリッヒあるいはパブリックという形容詞で指示される、あるいは理念の運動が投影される社会空間のことだということができる。すでにここにみられる空間の二重性は現実と理念実態と規範のデュアリズムに他ならない。そのデュアリズムの包摂を可能にするのが空間という設定なのである。


 上記に示されてるように 「公共圏」を二重の社会空間と捉え、現実と理念、実態と規範が相互浸透し幾重にも重ね繰り返しがあることで成り立つ、そういう可能態として設定されている点に注目しておきたい。論理的な内容は花田達朗著の2冊を手に取っていただくことにして、建築に「公共圏」が活かせるのではないかという思いを少し示しておきたい。 小さな公共圏と花田先生に指摘された「建築あそび」実践し感じじていたもにに対し私は言葉をもっていなかった 末尾参照に全文掲載

 下図に示されるような国家と私的領域の対立がなりたつ社会空間は、戦後民主主義に暮らす私たち(主権者)にとっては自明なことである。

 しかし立原道造は帝国憲法下に暮らしていた都市民だ。彼・彼女たちは天皇の赤子として教育されていた。「公共圏」という概念は近代社会の市民の心の自由の表れで、国家と市民が対立するなかで「私的領域を豊かにしよう」とする動機によって芽生え手に入れた概念だ。立原の生きた世間に近代市民の思いが存在したのか、その点は勉強不足で詳しく分かっていない。臣民の世にも動物集団として快適で幸いな暮らしを追求しながら本能に従う自由があった程度かもしれない。

 私の感想は帝国憲法下に暮らした都市民の一部のなかにも「建築スフィアーと文芸スフィアーが存在した」と仮定し書き始める。そのことで「立原道造の記憶が継承保全されてきた」とし書いている、その点をお断りしておく。

 なぜそのように仮定して語るかというのは、建築スフィアの存在を自覚することで、「建築」を豊かでスリリングで更新し続ける可能態として捉えることが可能であるからだ。建築スフィアという言葉を共有することで、参加する各自が想う「建築」を更新し続け、硬直することがなくなると想像するからだ


   
 1図は 『公共圏という名の社会空間』171頁より 公共圏と市民社会の構図

 立原道造の記憶が継承されつづけているのは「建築スフィア」が存在していたからなのだ、と仮定することで共有可能な領域や共感可能な他者が広がるように思うからだ。

 旧来のように特異な個人に焦点を当てて賛美するよりは、特異な個人に焦点を当ててしか見ようとしなかったそれよりは、「過去の建築スフィア」に投光し問題点を議論更新することで、次なる他者が参加し更新可能な「建築スフィア」にするため、多様な活動が共有可能になるだろう。そういう思いからだ。(たんなる私・個人の妄想でもあろうが・・・)

 くどくなるが「建築」への思考とその言動、それらの実践の過程と抗争も包摂する社会空間と言いる。そうすることで「建築界」への転用・利活用、その後の展開がはかれるだろう。そのようは可能態・社会空間のイメージが建築スフィアだと考える。

 だが「建築」への自らの活動を「建築スフィア」を自覚しつつ実践展開している人は少ない。無自覚であても小さなローカル領域の仲間での語り合い、その継続と離合集散。あるいは継承されている「学会」などの中規模で多様な活動の塊をふくめ語ることも、共有可能態をも公共圏=社会空間とらえうる概念だと思う。

 見上げ、大気圏を想い描けば、その広大で美しいイメージにも似た思い、可視化を経ることで「公共圏・建築Sphere」は共有し易いだろう。多様な他者と「建築」を共に介し活動することが可能になる概念の一つになり得るだろう。さらに「建築スフィア=公共圏」を自覚し語り伝えながら「建築の実践」もされている方が増えることもながり、インターネットで地上に暮らす人々のつながる生活をPCやスマフォを介して日々体験してしまった者には容易に分かる建築Sphereといえる。

 現在の「建築」、その大方はローカルコミュニティーに属し若い人々が、新自由主義者となり互いに利益の奪い合いを加速させ勝ち誇る、小さな思いの中で活動するのが流行だ。新自由主義者の行為は世代を継ぐ「圏」の中での活動イメージほど豊かに成長していないのではないか。興味がある者同士で連携し合い小さな虐めや空疎な権威を横行させるための「建築」としての捉え方のように見える。(政治状況に合わせた生き方なので仕方のないことだろうが)

 感想にもどろう

 立原道造が暮らした社会空間には帝国憲法のもとの公権力と、それに対抗するかのような私的で共有可能な社会空間は存在したのだろうか。

 1910年に起きた幸徳秋水など無政府主義者や社会主義者が弾圧された「大逆事件」、1921年と1935年には国家神道と対立した宗教者たちが、公権力によって攻撃をうけた「大本弾圧事件」などが思い浮かぶ。そこには公権と対立した私人サイドの「公共圏」のようなものは存在していたと仮定してもよいのではないかと思う。だが公権力の弾圧によって消された。

(風聞によると大逆事件に遭い朝日新聞に在席していた夏目漱石は「石川啄木にそのことを書く事を禁じた」と聞いたような気がする。公権力に反する行為を仲間同士で監視し自制し合うほどの「文芸スフィア」があり、それを守り貫こうとしたと捉えることもできるだろう。)










1996年『公共圏というなの社会空間』

 2020年
『公共圏ー市民社会再定義のために』
(註1)『公共圏』369〜370参照


 先に引用した図を見て、お分かりと思うが、立原道造が暮した世間には公権力と対立した豊かな私的空間と、市民同士による言論・闘争によってなりたつ公共圏という意識や「市民社会」という言葉・概念をもって暮らす人は存在しなかったのだろうか?。宮武外骨(1867〜1955)が公権力批判を書いた新聞や雑誌を刊行していることで名高い。この点も今後の課題としておこう。


 敗戦後生まれの私は「二つの公共圏」が立原道造の暮らしを包んでいたと仮定し、制度が変わっても変わらない公共圏を見ていきたいと思う。そのことで『立原道造の夢みた建築』のような書籍のかたちでも、立原道造が現在も「建築」の中に記憶継承され続けるという事態を、理解しやすいものにできると考える。

 そう仮定することで、これからの「建築」にも関わる人々にも立原道造は記憶継承され続ける可能性が生まれると想定している。



 次に堀辰雄 杉浦明平 室生犀星  中村真一郎 などが関わることで立原道造は文芸スフィアーに生き続けていることについて。テーマを移す

 (参照図)公共圏概念がつくられた 当初のハーバーマスの基本構図から先に掲載した1図のように公共圏が発展し、さらに今日では細分化した公共圏が多様に存在すると考えることが可能だ
   
    『公共圏という名の社会空間』31頁                 

■ 文芸スフィア・Shpere 敗戦前の江湖

   立原道造亡き後の堀辰雄 、杉浦明平、 生田勉、小場晴夫などの行為をどのように捉え咀嚼したらよいのだろうか。感想を続けるにあたり、そういう思いが湧きます。師弟愛とか友情などの内向きで小さな、閉じたような語りではない、違ったとらえ方、観方をかえるのがよいと思う。

 ではどうすると広がりを持ち次世代へ引き継ぐ事も可能になる観方になるのでしょうか。私は、文芸スフィア文学スフィアを認識・共有することで可能だと思います。先に建築スフィアーと文芸スフィアーを氏名の「表」にしめし掲載しました。

 ここからは立原道造が生まれる前、近世末期の歴史資料を棚から取り出して、手がかりを見つけだそうと思います。


 文学スフィアー Literature Sphere は『立原道造の夢みた建築』についての感想文を書くにあたって、急造した、私が言い張っている造語(漢字と英語の熟語)です。今日の日本でも一般的に普及している言葉ではありません。
 しかし、以下に示す「江湖(ごうこ)」という熟語や「追善句集(小島菊)」のような文芸活動の記録集が残されています。

 また立原道造が私家版の詩集などを含めた刊行物が存在し、継承されている事実を説明するためには「文芸スフィアー」の中に保存・継承されたことで現在も継承されている、と捉えると共感しやすいでしょう。そうすることで今後も立原道造が保存・共有・継承されたり、そのための言論や闘争が生まれ更新され続ける可能性が芽吹いてくるように思うのです。


 江湖という言葉を知っている方に会うと嬉しいような気がするけど、めったに会わない。日本史研究者の東島誠さんが辿り着き、再投光した歴史上の概念だと思う。彼の博士論文タイトルが『公共圏の歴史的創造ー江湖の思想へ』で花田達朗先生も論文審査に参加されている。そこで花田先生はこのような評価を著したようです。

 「日本史研究家の東島の分析にはメディオローグ的視点の内在を認めることができる。日本史分析においても(中略)コミュニケーションの内容物が問題ではなく、伝達の集団プロセスとその社会組織、そこに内在し発展する闘争が問題なのだという方法意識は、見えなかったものを見えるようにする光源となるだろう」と。(

 東島さんによると江湖とは「中世には禅の世界にのみ存在した、国家権力や既存の共同代から自由な「公論」世界であり、また近代には新聞・雑誌などのジャーナリズムや政治倶楽部の言説空間に用いられた概念であったそうで、(『公共圏』410頁あたり) 網野善彦の『無縁・公界・楽』とも比較されていて、興味深いものです。


近世末期の俳句集 

追善句集 『追善 小島菊』について 明和7年(1772)刊行

 3・11以前、福島県歴史資料館の主催で杉仁さんの講演会に参加していた記憶が蘇った。福島盆地の蚕種(さんたね)商人たちが関東一円に出向き、お蚕さんの種を売り歩き、そこで蚕種の技術論争や商取引、それらが済むと、俳句会が町役人もふくめ(連歌会)開催されたそうだ。そのようなつながりのなかから遠く離れた福島盆地の蚕種商人が亡くなると、連なる各地の人々で追善俳句集を出した。そういう話を聞き感銘を受けた。近世期に身分をこえ、地域をこえ、商品取引をこえ、闘争相手が亡くなったあとに皆で句集を刊行するという。江戸の在村文化にあった文芸的豊かさがなぜなりたち、なぜ消えたのか、それはなんと言い表せばいいのか、概念がないの中でどうして句集が刊行できたのか。そういう疑問も浮かぶのだ。

 そのことを思い出した。で資料を探したが、時が経っていて、どこにあるのか分からないのでWEB検索してみた。 追善句集も杉さんの博士論文の主要がヒットした。

 早稲田大学サイトで公開されている杉仁による博士論文の主要「近世の地域と在村文化 −技術と商品と風雅の交流(要旨」 による。(本は2001年刊行され県立図書館にある)
 公開されている要主をみただけでも追善句集『追善小島菊』が刊行された背景が想像できるので一部掲載しておく。


二 在村における技術と商品と風雅の交流

 一 蚕種と蚕書をめぐる技術交流
 
1信州 塚田与右衛門 の『養蚕秘書』
  2塚田与右衛門と「野州結城 川内郡吉田●塚原氏」の技術交流
 3奥州佐藤友信との技術論争

 (中略) 蚕書・養蚕技術で交流した人々は、いずれも雅号・俳号をもつ。蚕書執筆も、雅号による文化行為だった。信州蚕種地上塩尻村の俳諧結社「巌端社中」の俳書『巌端集』の参加分布、行商販売先、定宿分布などから、蚕種・俳諧、商品・風雅の一体交流をみる

 ついで、信州蚕種商俳人「杜蕾」塚田与右衛門が遠く奥州は俳書にあらわれる『追善小島菊』から、追善個人「自川」の奥州蚕種俳人遠藤善五郎、かれの商品・風雅一体の遠隔地交流。仲間の産種商俳人らの協力ぶりなど、商品と風雅の一体交流を詳述する。

 ついで野州の産種商俳人「野州吉田村 塚らは氏(語竹之印)」(庵号 語竹庵)が、蚕種行商地の上州に庵をつくって、高崎俳壇の指導者となったこと、弟子たちとの活動に、他には稀な在村的特徴が強いことなどをみる。さらに蚕種と風雅の一体交流の個別例を、上州渋川の漢学養蚕農吉田芝渓と奥州伊達郡伏黒村の蚕種商人、上州富岡の養蚕農と奥州本宮の蚕種俳人冥々の二例で詳述する。


 以上で杉仁著の一部、紹介は終えるが、養蚕技術を闘わせながら、蚕種を売る、売った土地で句会も開いていた。人と人との交流が多面的で身分の違いを取り払った文芸行為がなされ文化的な交流も拡がっていく様子は想像できる。


■人の死と本の刊行

友の死 本の刊行

 大阪で洋書・建築書籍店を営み大学で学生建築教育もされていた、友人の大島哲蔵さんが亡くなった後に、知人友人が『スクウォッター 建築×本×アート SQUATTER』を刊行している。

 その後、知り合いが亡くなってはいないが、建築関係者が亡くなった事を切っ掛けに書籍が刊行された話は身近では聞かない。

 現在は、『追善 小島菊』が明和7年(1772)刊行された当時の人々より、今の私たちは人情が薄くならざるを得ないほど、情報が溢れていて、どどのつまりは人が亡くなっても故人の記録づくりや、その記憶・継承が図られない。その事実は確認しておきたい。


慕い合う人と人 Shpereのエネルギー源?

(余談
 小津久足(ひさたり)による人に対する慕い合うという感情を見よう

 『立原道造の夢みた建築』感想として、江戸の人々の文芸的な活動に触れておくのは冗長で遠回りしているようにもお思うが、そうでもないだろう。で以下に少し記しおく。


 『東京物語』など一連の作品で名高い小津安二郎監督の先祖筋と言われる、小津久足(ひさたり)さんの日記。文化元年(1804)〜安政五年(1858)の手によってなす紀行文『陸奥日記』(みちの)の翻刻全文に目を通すと、当時の人々の情の濃さを思うことができる。

 小津久足さんの『陸奥日記』は1840年3月3日、江戸深川を出発、浜街道を北上し目的地の松島に至り、帰りは奥州街道を経て4月29日に深川に戻る。その間にたずねた史跡・風景、出会った人々の詳細な描写と独自の視点による評論が加えられている(東北文化資料叢書第11集3頁) 


 旅の終わりの日に 深川から竹ノ塚の宿まで迎えの関係者が出向かいに来ていて嬉しいとある。

 現在、地球を一周し家に戻っても飛行場に迎えに出向いたりする人は少ないだろう。他者のことを思ったり、思い慕い合うという人間らしさの一面が希薄になっているの点は文芸スフィアにも大きな影響を与えていると推測している

久足さんが旅を終えての一句


 つつがなくけふかへりしも家ならばなほいかばかりうれしからまし

 現在人は「いかばかりうれしからまし」というよう情感を蒸発させてしまい日々暮らしているようだ。


 小津久足から100年後東京下町にいきた立原道造の記憶は人が人を思い慕い合うことで生まれる文芸的公共圏の存在で成されたと仮定しておきたい。

 私家版詩集発刊や立原が亡くなって後、立原道造全集の刊行、加えて新建築での特集記事を編むなどの所作は、そのような慕い合う情と人が存在し亡くなる無常無念の感情をなんとかして刻み込もうとする共感の情を介さずに成せるとは思おもえない。

そのような人々の関係や思い慕い合うすあ近世期の社会空間も文芸的公共圏と称しておきたい。









































2009年刊行。我が家にあった杉仁著『近世の在村文化と出版物』








現代詩文庫1025 『立原道造詩集』思潮社 1982年初版 
 中村真一郎著 「ある文学的系譜」 

(初稿:「新潮」1970年5月号)

■ この頁のまとめ

 このweb頁では「立原道造の記憶を保全・継承」がなされている因を「建築Sphere」と「文芸Sphere」ふたつの「公共圏・Sphere」の存在であると仮定し記してきた。一般的ではない公共圏・Sphereというとらえ方を、立原道造を包んだ人・人が互いに慕い合うことによって生まれ続ける2種類の空気だと思っていただけると、理解が進むかもしれない。

 現在も立原道造を包んでいるふたつのSphereは存在しつづけている。その始まりをつくった主な人名を表にまとめ示した。さらに公共圏との出会いを振り返り理解しようとした。明治にあった「江湖(ごうこ)」や近世末期の「追善句集」さらに「友人の死に際しての刊行本」を雑駁に見ることで、政治体制や憲法、世相が変わっても文芸Sphereの変わらないという、実例を示してみた。


 現在、地上は後期資本主義や高度情報化(IT資本)によって必然的に出現したGAFAや新コロナ・感染症の嵐が起きている。それらの嵐はそれまでの「建築Sphere」や「文芸Sphere」も消し去るほどの勢いである。
 ここで立原道造を包んだふたつの公共圏を再確認し噛みしめ、今世紀初頭に吹き荒れる嵐(GAFA・COVID19storm)ガコスムに遭っても見失ってはならない公共圏のかなにうまれている事態を再確認しきた。

 人と人が慕い合うなかで生まれるエネルギーの積層で成る、人間お暮らしにとって必要な「記憶(人営)の保存・継承」その実例を『立原道の夢みた建築』について感想をきすことで具体化・可視化したつもりだが、共有し易くなったかもしれない。

 立原の生きた世間にも多くの戦争があり、感染症も経済不況も大震災も現在と同様に身近にあった。そんな天地動乱にあっても、80年間、立原道造の記憶が保存継承されていた。その中に『立原道造の夢みた建築』が刊行されたわけだが、その事実を咀嚼しアクチャルな日々の生活の糧にしていきたい。そう思うのであった。

これで (3)立原道造を包んだ 公共圏ふたつ
を終わりとします。

第一章の感想のまとめ

一章 「出会った建築、焼き付けた風景」感想について.

 立原道造が生きた敗戦前の日本の社会と若い男性の暮らしぶりなどを見た。次に立原道造の生き方や暮らし方に重い影をおちしていた結核について、日本の近代化や富国強兵などによって起き、新コロナ下の私の生活にも結核の教訓が生かされていないことを見た。それは結核療養した立原の心情を理解するために避けては通れないものだと思ったからだ。残された結果を見ているより、作品が残された背景を理解することで、今日の私のこれからの活動にも動機付けを与えるものと考えたからだ。
 最後に公共圏についてだが西欧の市民社会から生まれた「公共圏」という概念は網野善彦をはじめ杉仁、東島誠の研究などでも示されてるように、日本史のなかも異なる言葉で似た概念「公界・楽・無縁」や「江湖」などの熟語で捕えられていたことを共有できただろう。

 日本の歴史にあった概念の中から『立原道造が夢みた建築』もうまれ来たと仮定してみた。そのことによって、亡くなった人を他者がつくり続ける。そのつくり続けた記憶を保存継承しつつ更新しつづける。それらが意見の違いや世代をつなぎつづけるものとしてある、そのイメージを安定させ基盤となるのが「公共圏」という概念なだとした。

 そう定義することで、今を生きる人、既に亡くなった人とその人を支えた人々とその社会に光を当てやすくなり、私たちの生きている社会を検証しつつ、ゆっくり、グラジュアルに更新し続けることで、一人一人が自由な活動が成せる社会、暮らし方を手に入れることに成るだろう。そう思うのだ。来るべきその自由のために立原道道の心身を過ぎ去った困難な経験も共有され受け取ったものが活かすべきなのだ。

 立原道造は未完の建築家であり未完の表現者であったからこそ、未完の私たち自身を照らす光でもあり鏡にも彼の軌跡は成りつづけ得るのだ。



(註:すべての感想をしるしたら再度第一章の感想を考えてみたい)
第二章 「透視図に込められた物語」へつづく 


■ 参照記事 
        ちいさい公共圏みつけた   
 
花田達朗
(建設業界2002年12月号 p46〜47写

『ちいさい秋みつけた』という歌がある。

 だれかさんが だれかさんが
 
れかさんがみつけた
 ちいさい秋 
いさい
 
ちいさい    みつけ た

 サトウハチロー作詞、田中喜直作曲のその歌はボニージャックスが歌って、昭和37年の第3回日本レコード大賞童謡賞を受賞した。ご存じの方も多いだろう。「ちいさい秋」はだれでもがみつけるものではない。だれかがふとした拍子にみつけるものだ。だれがみつけるかわからない。そのふとした拍子を招き入れる軽い構えが必要なのだ。


 秋深まる福島を訪れた。福島在住の建築家・佐藤敏宏さんが主宰する「
建築あそび」に招かれ、そこで話をするためである。ご自宅の「BOX1」のコンクリート打ちはなしの外壁には色づいた蔦の葉がさざ波のように揺れていた。

 佐藤さんはユニークな建築家である。考え方も面白いが、つくった住宅が面白い。施主の注文が
一千万円の予算だったことから、それを視覚化して、上から見れば1○○○の形をした住宅が設計された。つまり、丸い単位が三つ横に並び、外廊下でつながり、端に台所などの共有部が配置されている。この「千万家」は住む人にユニークな住み方を要求し、住む側にも家族のあり方を問うことになっただろう。けれども、結局住む側がその変わった住宅を使いこなし、住む人と建っている住宅は互角の関係を作って、お互い楽しんでいるらしいのである。

 彼は建築以外のものもつくり出している。それが「建築あそび」と名づけられた場である。そこにはいろいろな人々、老若男女が集まる。彼の
友人や知人施主さん夫妻などが近隣から、ホームページで知り合ったサイバーフレンドやさらにその知り合いなどが遠方から集まってくる。だから、お互いほとんど初対面である。建築に関心のある人達が多いようだが、必ずしもみんながそうではない。そこにスピーカーが招かれ、そのが触媒となって遊び場が構築されるのである。触媒はほかにもあって、地元福島の地酒とおいしい料理が用意されている。

 
その場は公共圏に他ならない。見知らぬ者同士が集まり、自己紹介もそこそこに一つの話を聴き、あるいはプレゼンテーションを見て、自由に討論するのである。オープンな言葉の交通圏が立ちあがるのである。そこにはそういう場をシェアーしたいという意識だけが共有されている。 

 私はその場で公共圏というテーマについて話をした。あるまとまりのある講義として組み立てて話をした。ということは、公共圏と呼ぶことの出来る空間で、公共圏について語るという二重のことをやってみたことになる。公共圏を語りつつ公共圏そのものを実際化する、あるいは公共圏のなかに身をおいて公共圏を語るということである。その二重性は興味深い経験だっ。そういう意味ある経験はいかなる方向へであれ思考を刺激してくれるものなのだ。
 
公共圏概念と建築意識が遭遇し交叉したところに思考の断片が落ちてくる。そこからいくつかを拾ってみよう。


 最初の断片−。
公共圏と建築は似たところがあるどちらも空間として感じられるが、しかし入れ物や容器ではない。両方ともそこに社会関係をつくりだしもするが、同時に社会関係からそれらがつくり出され、つくり直されもする。公共圏も建築も未決定の動的な存在である存在というよりも過程であろう。そこに展開される社会関係によって生かされもするし殺されもする。住宅に住まうということと、公共圏に住まうということは住まうという存在のあり方において重なり合っている。生きられる公共圏と生きられる建築、つまりオーセンティックな公共圏と建築という視点が欠かせないのである。

 次に、
住宅は通常プライベートな空間であるが、そこがパブリックな空間になることがある。いや、住宅はそのような可能性に開かれたものでなけらばならない、プライベートな世界に固定され閉鎖されずに、公共圏の取り込みを可能にするような住宅とはどのようなものだろうか。佐藤邸の「建築あそび」はまるでストリートの出会いのようだ。偶然に道で出会った人々が突然議論を始めるようなものである。もちろん口論ではなく、理性的な言葉の交換によってである。その舞台を用意できるような可変的な住宅こそが住まうべき住宅に値するのではないだろうか


 もうひとつの断片−。
公共圏はだれのものでもない。どこにでも発生する。それはそもそも所有されないし、私有されるべきものでもない。それが原理である。しかし、建築ないし住宅はどうだろうか。それは地表に固定されて、土地に結びつき、不動産と呼ばれ、所有権が設定され、おおむね私有物である。マイ所有物なのである。この了解事項は果たして今後も当たり前のこととして放置されてよいであろうか。所有しない住宅、私有化されない住宅という可能性はないのか。テンポラリーにそのスペースを占有するとうい考え方と仕組みが発明できたら面白いと思う。それが住宅で実現できるなら、今世紀は無所有の原理に向かって一歩を踏み出すことが出来るかもしれない。私自身、すまうべき住宅を探している。ついに見つけられずに死ぬのではないかと思っている。
 
 さて私の見つけたちいさい公共圏。ちいさいからこそいろんなことを考えさせてくれる。他者との出会いを美酒が間を取り持ってくれる。おそらくこうした小さい公共圏は無数にあるのであろう。すべてを知る必要はない。自分がみつけたものと付き合っていけばよい。


 再び佐藤さんはユニークな建築家である。福島市でも一夜にして60センチもの雪が積もることがあるという。そうすると、かれは自宅の雪掻きもそこそこに施主さんの家へ出かけて行って、さりげなく
トップライトの雪下ろしをしてくる建築が人々の社会関係のなかに配置され呼吸しているのだ。次に来る施主さんがどういう注文を出し、彼がどういう住宅をつくるか、それを見るのを楽しみにしている