佐藤敏宏  HOME 
   2019年05月の日記      

 5月29日  シャツ一枚で快適な気温に戻る

31日にやってくるmy長女本や資料受け入れ前準備をコツコツ続けている。
fb投稿より
南泰裕先生制作 人生唯一無二の「手書き表彰状 」を発掘!
優れた建築などを主にした論客であり、前年に『住居はいかに可能か』を出版されたばかりの建築家 南泰裕(現国士舘大学教授)さんが手書で制作された無二の表彰状。
東大博士課程学生さんたちが集い『EDIFICARE RETURNS』を2003年に出版した折に「エディフィーカーレ賞」をいたことがあります。少々自慢話にて目汚し投稿に失礼を懐かしすぎるのでお許しください。
メンバーは8人ほどで学部生当時から研究会や自費出版、展覧会活動をされており、web全盛となり書籍発行が難しくなってきた時期をとらえ刊行されたように記憶しております。
五十嵐太郎先生は当時から「南君は学生時代から文章が完成していた」と太鼓判を押しまくって闘争心を露わにされておられました。...
現在は建築系の学生さんなどが書籍作り活動を通じて仲間を得るという事は無くなってしまったかも知れませ。紙媒体は必要です。もしそうなっていたなら建築系の学生さんたちに紙媒体への挑戦を再考し頂けると嬉しい。
南先生の筆跡を眺めてそう思いました。



 5月28日 時々

資料と本の整理をコツコツ続けている 今日も同じ、雨あがりをみはならって市役所にて開示請求書類を拝受に行く。 電話での意見聞き取り録、アンケートより断然に、なまなましくて、発言者の思いを推測するには参考になる。

■fb投稿より
真鯛で祝うよ!
サンチャイルド 像に関する公文書開示申請し、墨入れなしの決定的な二枚目を手に入れた。関係書類と担当者の記憶を失わせないためには、仕方のない請求と思ってるが、ここまてま辿りつくまで、何ヶ月も掛かってしまった。もう時期一年経ちそ。
決定的な二枚(総額20円)の他に、自由記述アンケート110通外の60通の意見の記述記録も、サンチャイルド などの図面一式も手に入れた。
追加で何度もと呆れられるも、たままた開示請求申請提出した。まだまだ続いてい
■H.R.GIGER 作品集 2冊ほりだす
SFフォラー 映画ファンならギーガーがオスカーを受賞。エーリアンを何作も鑑賞したなら記憶に刻まれてしまっただろう。リードスコットの依頼に応じ5ヶ月缶詰めで創作されたようだ。映画館で最初にギーガーエーリアンを観てしまうと、人は生と死あるいはダークな想像領域の深さと広さに魅了され、ギーガーの名は脳に刻まれたこと間違いない。
1940年うまれ。20歳で建築会社で建築士として働いてるなど、建築系の人間であると知り、画集は1980年代なかばに購入したのだろう。
エアブラシ1本で描いてるようだし、実見したことはないが、椅子や室内のデザイン作品もあるようだ。



 5月27日 
 今年は梅雨を飛ばして一気に真夏になってしまったような天候だ。昨日は北海道の東部は40℃まじかになったようだ。今日の福島市は32.9℃だった昨日は猛暑日寸前だった。
 暑すぎるので、体調不良にならぬよう今日は半地下室の移動済んだ本の整理をすこしする。温度計が22.5℃を指してたいから外気と10度も差があり、作業を休むと肌寒いほどだった。本格的な真夏は半地下書庫にて寝起きするよう準備するのがよさそうだ。
■FD投稿より

高校1年生で買った建築専門書、出て来た!
彰国社という出版社が脳味噌に刻まれた。27年後の後々『建築文化』に植田實さんによる全作品解説付きで掲載されるとは夢にも想っていなかった。
傍線ひいたり万年筆で書き込んだり、工業高等学校生徒必死読みっぷり。前半は理解でき卒業直後、1970年大阪万博にてカタラパビリオン見て「これは違う!」と思い、黒川ファンをやめた。
中学生3年から建築現場で土方バイトをしていた。職人たちには丁稚さんがいたので中学生を現場で使って問題無かったのか、高校生と嘘で潜り混んだのか?覚えてない。
高校3年間、春夏休みは土方バイトしまくり、建築現場を観察していた。市の施設も施工酷い建築精度だった。監督の目なんて届かないんだと知る。...
俺の日当は婦人土方と同額の500円だったので黒川さんの本は一日の日当では買えない。高いなーと思ったが買った。黒川さんの話しを工業高等学校でしてたら先生に鼻で笑われた。(先生が笑った理由は社会人になって分かった。
実黒川さんには岩手のデザイン会議でお会いしワイワイしてる)メタボリズム論の主旨はざっとわかったが、後半実作の解説は理解できなかった。
黒川紀章著『行動建築論 メタボリズムの美学』650円 1967年6月発行。


■半地下室へ猛暑避難中
外気は35度ぐらいかも、起きたら熱中症気味なので半地下室避難し、本の分類整理を始めた。22.5℃くらい、10℃差ありて、半袖でじっとしてると寒いかも。
◆今日掘り出したもの。
森山大道さんからいただきました葉書。
植田實さんからいただきました10つ上弱の手紙...
勅使河原三郎さん最初の作品集『月は水銀』超レア本だと思う
大村三良著 『ふくしま わが町』1987年7月発行 大村さんがタウン誌『信夫野』5年に渡り連載した「ふくしま明治 大正 昭和」収録したもので福島市市内の町研究者には必読書ではないかな



 5月26日  35℃以上の猛暑日となるような暑さ五月を通り越して真夏なのか、紫外線もキツイ。この時期にしてはすこし厳しすぎる天候だ

■Bill Evans Time Remembered を観た (ピアノ音いいす)
 映画やCDそしてYouTubeなどの情報は、例えば半世紀以上前の演奏であっても目の前の現実を実況中継しているかのような錯覚を「ここに運んでくる」今昔混在感が味わえる。そこがすこぶる好いし今世紀ならではの体感。
 YouTubeが運営開始した2005年当時は「お手軽な素人動画であふれてしまい2チャンネルのように罵詈雑言で溢れ、あっというまに捨てられてしまうwebメディアだ」と想った人は多かったのではないか。15年後の今では品質の悪い情報や、命を落としてしまうユーチューバーなども現れてはいるが「web動画媒体を使わない、自ら投稿しない」などの日々の暮らしは考えられない様だ。
 一方、TV新聞など戦後茶の間の友は権力サイドの「パターナリズムもろ出し情報機関」であったが、今世紀に入り権力が集中したことで起る指導力の粗雑さが因となり、マスメディアの与党支配構造が加速度的に姿を現す格好になってしまった。今では公共放送(NHK)でさえ露骨に与党放送局であると思っている人は多いだろう。そんなことでTVの寿命も見えてしまったように思う。(市井の者とってweb媒体も危険な道具ではあるが)今日はトランプ氏が訪日し国技館にて相撲観戦し土俵に登り優勝者をたたえる様子を公共放送が伝えるだろう。

 音楽愛好者でもJAZZ狂でもないが、portrait in JAZZ(1960年)BILL Evans trioのCDは傍にありweb投稿動画をときおり聞きながらbillのピアノを演奏に浸っている。Billの音が身に浸透し時が経つにしたがって「Bill Evansはどのような環境で育ちどんな人生を送ったのだろうか」と想うことが度々あった。それを福島市内で知る機会がやって来た。映画「Bill Evans Time Remembered」が上映されたからだ。福島市内ではマイナーだろう映画が上映されるとは!とても嬉しい。
 映画の内容についてネタバレになるので詳しいことは書かないで感想を少し。八方環境が整えられているからこそ、自らの道(音楽)をただひたすら追求しつづける事を強いられてしまうのか、地獄暮らしの人間のようにも見えるし、それ以外の行為は考えられない暮らしのようにも見える。そのような幸と地獄の中でさへ自身の狂気をひたすら生き続け、内部から湧き出る音楽への想像への力に従う美しい姿。凡庸な者には悶絶格闘し続けて生きていく人の不思議が描かれていてた。
 他者にとっては大いなるBillの迷惑事態の数々なども、隠したり忖度したりして映画をつくらない、そこも好い。この映画に触れると、ひとが想像表現行為によって起してしまう不可解な迷惑な事態の数々もたくさん描かれている点も好い。だから音楽愛好家、JAZZファンにはお勧めの映画だけれど、どなたが鑑賞されても得るものが多いと想像する。それは、どの世界に普遍的にある問答の一つだが、才能(氏あるいは遺伝子)か環境(教育とか豊な人間関係)かに対する答えも描かれているているからだ。
 Billの場合は両方ともに恵まれていることが分かる。では彼は幸いだったのだろうか、その事が彼の作品の質、そして暮らしにどのような影響を与えたのだろうか。彼は一般的な暮らしを基に比較すれば「不幸な人」であったし、才能と環境に甘んじることのないが故に自己評価に満足できない、ある種の弱さや狂気が生まれてしまう。自身でも理解不能な行動をもって迷惑を周囲にもまき散らす。その迷惑極まる不幸をも身にまとっているように見える。「このような矛盾は人を活きさせ美しい作品(音楽)を連発させる時代もあった、あったんだなー(アメリカ絶頂期論)」と。
 ポス・トゥルースの時代まったただ中、面従腹背で商売繁盛が常識となり流通蔓延する中ではそう想わざるを得ない。さて、ポス・トゥルース全盛の時代にあって、Billのような人の輝きと生き方を、地球上に暮らす人が忘却を強いられてしまう状況下に生きているのだと思う。そういう不幸も実感できた。

 そのような映画はBillが亡くなったから成せる作品なのか、ブルース・スピーゲル監督の思いや制作姿勢が生み出すものなのか、Billを支えた友人や家族などの彼を忘れさせまいとする真摯な思い中から生まれるものなのか。明確に断言は出来ないけれどBill関係者が共につくりだ尊敬と恐怖、愛おしさと哀悼、そして憎愛入り乱れる豊かさが、この映画を作り上げている、それが描かれている。もちろんビルの華麗なピアノ演奏も、その姿もライブなみに満喫できます(ライブ演奏者同士にようにはいかないが)。
 福島市内での上映は後わずかです。さー映画館に




 5月24日  夏日になったかも知れない暑さだ

ずこしづつ草むしっているが、全周70mの内残すは15mほど。来週中ごろまで真夏日になる天気予報なので、すこし気温が下がるまで一服する。 
 my長女本・資料の受け入れ準備のため今日は本棚の転倒防止を一部施す。まだまだ完全ではないので、様子を見ながら転倒防止策もしていく予定。地震などで本が飛びてないような対策は思案中。前後逆にして背中合わせで2列並べて、防止策として一部実験してみた。地震が来るのはいつか分からないので効果のほどやいかに。

■以下fb投稿より
小関庄太郎写真集 1984年5月発行
小関さんは福島市内で最初のフォトグラファーかもしれない。1987年の個展会場で会い語り合いあったが、自由で素直な表現者だと思いました。他者にも気さくに応じ、連れの面々と集合写真を決めていただいた事がある。翌日会場で手渡す几帳面さも持っている、他者をゾンザイに扱わない人だった。
彼は福島市のモダンなシティーボーイだったはず。それは昭和7年「二人像」という写真を見てそう思った。彼女だろうか古関さん本人と並んでいる女性は上半身ヌードであり、やや荒い印画紙が写真を見ているのにモダンボーイが活躍した町の幻影が立ち現れ見えてしまうような作品の質なのだ。
写真が一般的に普及していない時期だろう、大正一桁世代の女性が半ヌードにて写真におさまるのか?わからない。私の祖母は明治生末期うまれだが、巨乳自慢をしては、背中におんぶした我が子に、よいちよと巨乳を肩にかける仕草をしながら「こうやって、ちちやってた」と話していた。彼女は夏は上半身裸で養蚕をしていた。だから当時(1950年末)の女性たちの半身裸は普通の風景だつたのかも知れ...ない。隠す事で見せることを希な行為にしたて見せることを故意に強化する事なのだ、と想う。
少し話しがずれたが、写真集には小関さんのお母様が語る「福島市置賜町を語る」のチラシも挟んであった。初代福島市長二宮さんの家のそばで生まれたこと。明治44年の福島市の大火のことなど、貴重な証言が記されている。それは福島市内の明治の女性の意思が分かる貴重さだ。
写真集 に対する批評文も挟んであった。「アマチュアの孤独60年」のタイトル。sns時代が一般に普及した現在では付けないタイトルだ。その事にも時の移りゆく様を見てる気分になれる。
(現在の福島市内に何人かのフォトグラファーが暮らしているのか、その事さえ知らない。小関さんが最初で最後の福島市内の写真家になるのだろうか)




 5月23日 

数日かけて自前で頭髪を刈ってみた。一気には美しくできないので、あれこれ毎日削ったりしながら、整えていく。床屋談議が嫌いだし、床屋の雰囲気も好きになれない質なのだし、後期高齢者になったら日々、何でも自前で出来る方が楽しそうだからだ。今からコツコツ積み重ねれば色々出来ると思う。
今日は家人のセータの洗い方を教えてもらい、5枚ほど洗ってみた。手もみ洗いで縮む毛糸のあるそうだが、まだ糸の質の見分け方は知らず。

以下 fb投稿より

紫外線浴び にわの薔薇 すねぎみ
自前がた後高齢者を目指し、自前で髪を刈る。丸刈り目指すも途中で刈止め、よしとする。セーターの洗い方を教えていただき押し洗いし、陰干しす。
自前がた後高齢者もかなり体力要!まてよ単にすでに体力落ちてた だけかな?
セーター編める後期高齢者もよさそう。女が糸を紡いで男が編む社会もあると聞く。連携し ほかぽか社会なんだな


 5月22日 
 昨日に続き 雨上がり後の、家の庭などの草をむしる。残り1/4ぐらいかも。
■以下FB投稿のまま
藤村舜一さんと藤村龍至さんによる父子著書
(ドイツに移民したmy長女書籍などを受け入れ準備にて我が家の本と資料の大移動。筋肉痛!)
■今日の掘り出しものは父子による著書。
藤村舜一著『ヒトラーの青年時代』2005年10月発行。(多くのひと特に若い方々にぜひとも読書会など開くなどし読んで欲しい!一冊)ご子息の藤村龍至さんの2冊の著書『1955年以降 次世代建築家の語る現代の都市と建築』2005年2月発行、『批判的工学主義の建築 ソーシャル アーキテクチャをめざして』(磯崎新さんと東浩紀さんによる帯あり)2014年9月発行
藤村龍至さんの活躍は周知の事なので、お父さんである舜一さんの事を少し。
my長男が歴史の研究者であったことで、発行直後に送って頂いた。一読し、精緻な追跡と現地調査による検証が鮮やかで、流布しているヒトラー感を上書き訂正する記述だった。
敗戦時舜一氏は17歳。著書発行時は77歳。敗戦時20歳の方々とは少し異なる思いがあると思う、が60年間の重みが滲みでる。私は戦争を知らない子友なれど、おじさんなどから戦争体験談を聞かされていて、戦地入りした若者と、戦地に赴けなかった若者、彼らが戦後に語る差異は分かる。
内容は加害者としての日本人青年論ではないが、どこの町でも見られる平凡な青年、いつでもどこにでもいる青年が、やがて弁明の余地なき、言葉と行動によって、ワイドショーにあるような悪の代名詞!ヒトラーとなった。しかしヒトラーはどんな人間、どんな男だったのか、正しく知っているのだろうか?ワイドショー脳のまま単調で、薄い耳学問のままではないのか。ホローコストを起こした男心を把握しているのか?など上書きされていないのでは?。凡人がたからか、極悪非道人間に変わる真の青年期の姿と後の変容ぶりを正しく認識しているのか、お前は?私はしていない。
なので、知らぬまま放置しておけば、あなたもヒトラーになる可能性がある因を知らないという事だ。
読後、その事を多く人々にも知ってもらいたいと思った。そこでわたしが出来ることは、舜一氏をお招きし、我が家で開いていた「建築あそび」の講師に誘う。その場で『ヒトラーの青年時代』の解説を頂いて肉声講義録を作り公開する事だと考えた。
お誘いしたが、藤村舜一さんは高齢となり体力が衰えているとのこで、実現出来なかった。だから私は舜一氏には会ったことがない。
今日の掘り出しものを見てると、もっとシツコク粘り切ればよかったなーとしみじみ。お前は何をやってたんだ?悔しい!






 5月21日 午後3時ぐらいまで  のち曇り

 夏草が伸び放題なので雨上がりの好機にむしる。雨後の草は抜けやすくてあっというまに、終える。 家人の要望で近所の魚屋にでむき刺身で草むしり乾杯をする。なんだかんだと言い訳を見つけては福島の美味い安酒を呑む日々なり。
■ 今日もmy長女の本などの資料を受け入れ方法をあれこれ考えて、持っている本の整理などする。やはりみてしまう。毎日掘り出しものを見ては作業が遅延している。それも本の整理の楽しみの一つなので、楽しみながら進めている。
 

■fb投稿より
『青い隕石』勅使河原三郎 初作品集 今日雨なのでいろいろ出て来る。
1989年12月刊行 サインが1991年3月22日となってるので、高松伸設計大阪の麒麟プラザ(現存せず)での公演会のときに頂いたのだと思う。買ったのかも。
勅使河原さんの詩とドローイングとアラーキーの写真で編まれている本。
??髪ふさふさだ!当時KARASUは宮田佳さんとのコンビの演技だった。以前にも書いたが1985年ごろ福島市民会館で初公演(無名の若者男女二人)準備などお手伝いした縁。来福は何度もしていたので、我が家にも二人で来てくれワイワイした。...
音楽は福大の嶋津先生ならびに学生さんたちが担当。天才現る!!記憶にのこる素晴らしい演技だった。
『だんらん』俳句集は宮田佳さんがら頂いた、1971年に刊行。お爺さんは宮田重雄さんで医師でありルオーと親友である画家で。NHKの名物番組の出演者であった。
有識者の家族とはいえ、宮田家のように句集を刊行出来るような、豊かな家族は日本から蒸発してしまったのではないか。



■ 北山研二訳 本ほりだす
研ちゃん俺を福大で講義させる!(笑)
1980年代末は福島市はバブル末期にも関わらず町中は賑わっていた。株屋にゴルフ屋に不動産屋に土建屋大騒ぎ。カラ主張で呑み食い物は茶飯事だったと思う。
その頃、北山先生ま身体表現の公演会やジャズ喫茶の常連だったのかも知らない。とにかく偶然知り合い呑友となる。彼ははは福島大学フランス語の教授だったとは!後で知った。
北山先生に好かれたのだろう、1991年1月24日福大で学術講演会を開催していただき俺が講師として、呼ばれた!呑んだ勢いで受けたんだろう。講義料もくれるのでビックリした。その晩呑んでしまった。雑誌の建築に添えたmy文章をとても評価し喜んでくれてた唯一のひと。(編集部は気にせず、おれが面白いから書いただけ)...
??講演会にはてTV局の取材班、花束を抱えた呑み屋のアッ化粧したママ、旅館のキンキラキン若女将、市民の方が押し掛け熱気ムンンであった。面倒な質問が来ると、自分で考えなさい!と応じると会場は大爆笑となった。俺には日常だったあが、大学においてはかなり変わった講演会だったのだろう。大学人には「変な奴だ」と思わせておくのでいい。
??その後、北山先生は成城大学に移籍された。だが翻訳本を刊行される度に高価すぎる本を送ってくれる。フランス語の様な漢字なんで読めない、が福島では気になる者なのだろう。友達って、ことかな。
頂いた本の一部は知り合いの学芸員の方に差し上げたりして現在手元には4冊残っていた。掘り出す!






 5月20日 曇り梅雨気味のそらもよう

今日もmy長女本の受け入れのためあれこれ資料整理する


FB投稿より
■渡辺豊和さんビビる@1997年10月28日白河市 (市民自身と協働による遷都案だったかも、違うかも)
今日の掘り出し物。渡辺豊和さんが数人集めて新都白河を白河市で話したい。私は勘違いしていて、市民を多数集め実行委員会を組織し、鹿嶋神社に何度も合宿して計画的を練り上げた。さらに新聞社など駆け回り記事にして頂いたり、白河市内を手分けして各にチラシを配布するなどしてしまったのだった、
講演当日は文化センターが満杯になり、行政のお偉方方も集ってしまいさー大変!「さとう、数名だとおもってたぞ!」え!それを先に言ってください。後の祭りであった。
??講演内容と反省会の内容などをまとめた、記録集をつくるための荒ゲラまで完成していた。市民の面々の反対に遭い刊行を断念した、その事をおもいださせる、当日と翌日の式次第などの資料でてきた!
朝日新聞福島県版の記事が簡潔にまとめている。さすがプロ記者なり。(この記事を渡辺さんに送ったら、とても、喜んだ頂けた)...
何度白河市に通ったことか、元気だったかも俺。すっかりしよぼい現在。とほほなり




 5月18日  薄曇り

■離れなどからの本の移動は昨日で済んだ。お祝いに福島駅傍の蕎麦屋に行き乾杯する。家人も本移動の監督役をしめし他人の行動に興味を持つようになり、回復著しいように思う。(薬害は多少あるがしかたがない)

 昨日までは単に棚を移動して棚に入れただけなので、本の目録など作り分類をする必要があるが、my長女の荷物を受け入れし整理した後、2年ほど目途に仕上げたい。 
■FB投稿内容


■古い友達のwさんから希望わく2つの提案があり、やる気でてきてしまい、とてもありがたいことだ。人生何がおこるか分からないものだし、目標などもってもそうならずストレスが溜まるだけなので、40代半ばからは家人の病とともに成り行き生きに徹し身に付いた作法だ。この方が変化に対応でき完成とか希望到達点が無いだけずるずるになりそうと思いがちなのだが、じつはそうではなく、自分に性質に合ったチョイスの積み重ねになっていて、全体としては好い結果になる。そう感じる高齢老人となり。
 楽しく生きるためのコツも身について来たということかもしれない。


  5月16日   毎日本の移動しつづけている 11日の日記を思い出しながら追記 しよう。

my本の移動はあらかた済、my長女の資料受け入れのため、家人に手元になってもらい、台車をつかいながら重い・大きな本棚を移動してしまう。ようやく目途が立ってきた。ホンダなの裏からはmy次男の壁画が現れて楽しい。
以下FB投稿より 壁画あらわれ @myはなれ
毎日続いていた本の移動もおおかた済む。my長女の大量の資料受け入れ保存の目途立ったかも。きょうはデカイ重本棚を移動したら、裏からmy次男が20数年前に描いた壁画あらわれた。マジックインキのペンで描いたようだ。中学1年生だったとか電子ゲームやり過ぎかん溢れる1990年後半の雰囲気あり



5月15日  



■人生初絵を買う@21歳サラリーマン東京
(方々引越ししたので汚れた、でも捨てない)
人生初オリジナルプリントを買う@36歳自営
◆絵や写真を買うなら財布を叩き買うべし。人生初買い絵は名もなき作家の作品だった、21歳で有り金見せたらそれで売っくれた。
人生初写真は瀬戸正人さんのオリジナルプリントで、値段は瀬戸さんが付けていた。写真は後にも先にもこの一枚しか買わないだろう。...
瀬戸さんの生まれ故郷 たぶんベトナムたろうが故郷にて墓参りの様子だ。各人バラバラなさまを観てると、いい気分にウキウキになるのだ。理由なんてない。
死んだ者に会いに墓なぞに俺は行かない。生きてるひと、その人に生きてる間、一生懸命会って、墓なぞに会い行くなんてことはしたくない。毎日思い出してる、それでいい。俺が死んでも墓は要らない。








 5月14日 




藤本壮介さんサイン入りコンペ案
2002年6月1日藤本さんはサイン入りコンペ案を持参し我が家にて一晩中ワイワイした。その日記念品。お返しにと、建築家、篠原一男の分厚作品集を藤本さんに提供した。想像したとおり世界的な売れっ子建築家になり、本によいことです。
今日も本と資料大移動作業中、筋肉痛かも






 5月13日













 5月11日 晴れ



 5月10日 

my長男より本棚9本届く 将来の我が家は空き家にせず個人資料館にするため。まずはドイツに移民しているmy長女の資料受け入れ準備作業開始。家の資料もmy長女の資料もたくさんあるので、毎日こつこつ作業しているのだが筋肉痛ぎみ。
■FB投稿より
資料館作り(個人史資料館)
空き家になる前に我が家を「家族資料館」にすると決めた。ドイツに移民しちゃったmy長女の資料もドッサリ引き受けることとなった。受け入れのための準備を始めた。
我が家に何冊有るのか数えた事がない。漫画もドッサリある。
子供たちの小学生時分の文集が好きでたくさんある。面白い。小学生から資料整理で個性が出て、しまうものだとシミジミ見入ってしまう。お父さんしてたんだな俺。
このところ毎日本を移動してるので筋肉痛だ。今日は新しい本棚9本やって来た。重たいが何とか1本組み立ててみた。足らんかも?
my長男が小学生1年生時分の文集。表紙と裏表紙の絵を頼まて描いてる。なんてすっかり忘れいた。ゆるキャラ myサン、チャイルド じゃん(笑

■秡川沿いのmy建築(会計事務所)
オーダーは駐車場3台と周囲歩けること。それだけ。余ったままの形状を建物としただけ。
もう時期20年になる。秡川の護岸を修理中の作業員のかた逞しくていい。周囲の建物がどんどん解体除去されて丸見えになってしまてる。想定してない事ではあるが人口減少社会の一端だろう。
昭和26年うまれだから、建築ラッシュ時代と建築解体ラッシュ時代を、どちらも体験できるのって希なる事だろう。


■暴走するかのようなアスファルト筋@福島市名道
石畳の道からアスファルト道に移行中、あるいは一時的舗装なのか。不明なのでいずれ調査してみたい。昭和には賑わっていた筋だが、寂れはじめた街のテコ入れ事業だったかも。福島市中心部まちづくりの一環で石畳に仕立てたように想う。その時は鳴り物いりで登場したような記憶がある、なにかの賞を受賞した道路との風聞に触れもした道。
数十経た現在は絵のようにアスファルトが自在に暴走気味に走る混成仕上げになっている。初夏の強い日差しに陽炎立ち際立ち気味だ。このようになっている原因を突き止めてみたくなる。(当時まちづくりを先導した者は誰だ)
一方で最近全てアスファルト道に仕上げられた道もある
 


5月08日晴れ

FB投稿より

新関さんのお祝いしました。
一昨晩に斎藤さんのおはからいにて三人でワイワイ呑む。斎藤さん本当にありがとうございました!
新関さんお忙しいなか.お付き合いありがとうございました。お願いの件、実現するよう下準備いたします。
??美味い酒に浸り、すっかり酔っ払ってしまう。ふらふら。話しは1980年代の事などへと飛びまくり、酔いにまかせてのワイワイすっ飛びまくる。
??311後のmyテーマの一つである文化財保護活動について、古文書系と古建築系の融合活動の準備期に入ったので.新関さんにお願い事もあったので。...
??斎藤さんはヘリテージマネージャー講習実施なと、建築系諸君への支援活動を、書き出すとキリがないほど支援し続けている有難い存在なんけど、そう感じている県内の建築士はほとんどいないだろう。(やって当然だと思っているはずだ)
■俺は民間の小さな工事や各種事業計画書を作り銀行などに資金を借りる前準備。okが出れば建築を造り生きてきた。町金融から手形割り引きで生き血を吸い上げるダニ野郎の手口も観察してきたので。泥まみれてな感じだな。
で、行政内部のことはほとんど分かってない。色々教えて頂くことにした、参考になります。官民連携の端緒たくさんある。気づいたが、高齢者となり遅すぎる感あるんだけど、できることをコツコツすすめよう




 5月06 晴れのち午後雨。昨日と比べつと気温は一気に下がる。
■fb投稿より

my出版本『フロッタージュ』1992年刊行
今で言えばまとめログの本だ。当時はpcもsnsも無いので、障害を持つ若者たちはラジオの気に入った番組や司会者めがけ、葉書などを投稿していた。この本は85年以降5年間に、ラジオ福島に寄せられた投書、1800通を読み返し140通を選びだし、分類し本にまとめた内容。
80年代に県内にある養護施設(学校)に暮らしていた障害者たちの詩集の出版のため資金支援した。司会の方は障害者支援番組をもっていて、この本以前にも何冊か刊行していた御縁が続きであった。今回も自分が編集し、お金をだし出版した。人気があり増刷し売り上げ金は寄付した。(当時は子育資金も必要だったのでよく銭を稼いでいたのだ俺)
詩集に関係した障害を持つ若者は、20だいて亡くなる、短命の方が多かったように記憶する。今は司会の大和田さんだけ元気そうだ(サンチャイルド解体現場で久し振りに大和田さんに会った)
◆怠け者の連休働きは終わらない、本など含めて移動処分しているが、思い出の本や記事が出て来る。



 5月05日  カンカン照り 真夏に近づくお天気なり 5月のこの時期は紫外線も強いので好きにはなれない もうちょっと柔らかい陽射しがよいのだが紫外線で不要な殺虫をしているのかも

fb投稿こぴー 2つ

■東松照明写展@福島市1982年末。全国60ヶ所にて主に地域の若者による実行運営委員会形式でひらかれた。俺31歳だったかもで、福島市の委員に参加した。県立医大生と福大生が7割ほどで先生はどなたも参加なし。40名ほどだが、半年ほど松浪町に借家して集い、フリーペーパーをだし、討議集やパンフも広告費を集めフリーペーパーに仕立て配布した。学生や若い会社員たちはとても熱く活動していた。自らが持つ問題を実行委員会定例会にぶつけ、解の糸口を掴もうとして必至だつたのだ。
東松さんを囲んでの集合写真を見るとおれ喫煙者だったのだ。すっかり忘れてた。怠け者の連休働きの掘り出し写真やチラシの数々。その後会ったことない人々だらけだ。男女とも50代半ばにて定年間近なのではないか



 ■ 古建築改修見学会@二本松市安達内
伊藤立平さんの設計(大阪を基地に全国各地に建築を作り続け活躍中。期待されている若手建築家)
二本松市の農家が近代以降、歩んだ姿が端的に分かる配置。周辺環境に対する構え方は当主の思想をあらわすのか?この地の大工たちのそれなのかは分からないが、強引でありしなやかさに難があると私は思った。
伊藤さんは既存の配列やテキストを壊さず、311後のフクシマと、称される状況を小気味よく書き加え附置していた。その姿は強引になる飛び出す=明かされた構造態の対によって、強烈に示されていて、フクシマに生きる建築家なら腑に落ちて余りあるはずの構である。ここにある建築は福島原発事故が起きなければ誕生することは無かったからだ。ニュー福島建築とでも言えばいいのだろうか。
この建築を出る時、振り返ると、つよくその事が判るだろう。野山の野鳥は囀り河鹿カエルか長閑に鳴き側には、放射性廃棄物の山が安達太良山と並んで在る。
■右下の絵の真ん中に写っているように 放射性廃棄物の山との対比は311後の福島の一風景で建築の意味も、一般的な行為をしてても当然変わる。そういう自覚があればいいのだが。何をやっても放射能災害からは逃れられない現実を歴史にとう刻むのか、そこが建築かの腕の見せ所だと思う。(あらがうような強引さがあるから、よいと認める事は出来るのだ)

 5月04日  初夏の日差しにて日中暑い

■昨日も今日も荷物の大移動をしている。今朝はmy長女の履歴を保存している記録が9箱届いた。2階のmy部屋に移動保管する。 午後は(元仕事場)離れから、本を移動しつづける、まだまだ終わりそうもないが、劣化しても差し支えない本は地下に移動し、風通しを良くして配列保管するためすこしまばらに本棚を整える。作業をしていると35年ほど前の資料もでてきて、眺めてしまうのではかどらない。
以下 FB投稿
 唯一の福島県発注者のmy設計。(怠け者の連休働き、荷物片付け中、色んなの出るな)
 1981年頃の設計なので俺は30歳だった。積算書、設計書だな、予算調整ややくろうするも、請負人は事前に決まってたので、社長と談判しokもらう。建材屋ともネゴしまくり油っこいことも、若僧なりにしまくる。業者さ 10年間の経験は激減役立ち。チョロい田舎の社長さんにヘッドハンティングされたが、10年間ゼネコン設計で修業して再びゼネコンには行く気なし、断り続けた。(後に他のゼネコンの株主になり請負師を自在に活用した。建築つくる気なくなり、配当2割は惜しかったが、株は返し建築ともおさらば、懐かしい思い出)
福島県畜産課発注の家畜の競り場
 中央が競り場平屋で競り人は雛壇にてボタンスイッチで競る。現在も盛んに競りがおこなわれているので、もう少しで40年経過。50年たったら登録有形文化財資格ありだろう(笑 。規模拡張されているので資格なしか。...
建築課の課長さんに「薔薇色のプラン!なおせ」だったが、根回しが、功を奏し畜産課の面々太鼓判押しまくりー、頂き実現した。
後に参議院議員となられたと思うが、いろいろわすれまくる。


 5月03日 

FB投稿 スカスカに暮らすため、中層から高層でも可能な居住概念模型。これも懐かしい
製作は1980年中頃だったかも。ソロでも多世代でも、新婚さんぐるープでも、階層区別でき、多様な混在が可能で、相互に行き来もスイスイにて、複雑交流を支援出来る、ゆるゆるな居住モデルを考えていた。注文ある訳もなく忘れていた

カプセル何やらではないんだが、そう誤解されるだろうけど。全然違う。そこを表現できてないので能力不足

 模型は壊れてる。スカスカタワーに取り付くセル居住、一個の詳細模型。真ん中に畑を持ち畑の下部は雨水タンク。人工土は40センチほどで、都市農業をしつつ、太陽光り発電をフンワリ屋根に掛けてある。畑の中周囲に部屋や洗面スペースが設えてあり、ワイルド感充分なのです。真ん中の畑て通年トマトを育て食らう生活。なんてこと想像してた
積雪てソーラーパネルこのようにならな様に風対策とともに構造計算して欲しいね 絵ネットよ


 5月02日 

■唯一造らなかったmy建築(1980年代末設計図作成)
平らな床がほとんど無いので建築の否定建築のような気分で図面作成したな
my長女の履歴を証明するてんこ盛りの書類を引き取るために、我が家の物物を整理し受取る準備を整え始める。
あら!懐かしの手の混んだ透明模型でて来た。この透明な模型は、バラバラに出来る完成形を作り、バラす。重なる部位をバラした雌型を作る。できた雌型に樹脂を流し込み素材を製作。雌型を解体し透明部材をとしだし後に研ぎあげ、丹念に接着して接着部位を研ぎあげ完成。
完成当初は無色だつたが、30年間経ち飴色に変色した。これもいいかも。こう変色するのにな30年間かかる。...
my建築の大方の模型は捨ててしまったが、30個ぐらいはまだ手元にある。
??透明模型の実建築は存在出来ないかった建築だ。それは確認申請も済み、請け負業者さんも決まり着工前に発注者の癌発見にて、私が工事中止の引導を渡した建築。用途は陶芸家の亡くなった友人の作品を展示するための空間。なかなかに天地融合、さらには目まぐるしく内外反転(自他の入れ替え可能追求)し続けるポストモダン建築。なのだが、工事中止の引導渡した理由は竣工ご友人家族がこの建築をどのようにあつかのか映画のように観えてしまったからだ。
イタコ体質なので観えた事態には逆らわないようにしている



 5月01日 

■my長女と軽めしを食べたあと、日付が変わる。予約していた仙台国分町のカプセルホテルへ。1泊4300円ほどで、5時半ほど寝る。国分町は酔っ払いの若い男女で朝もにぎわっていた。

■5時に起きて、my長女が連泊しているホテルへ向かう、このホテルにも空きはあったが13000円と高いので泊まらず。
 6時5分発の空港アクセス線に乗る。連休とあり空港は家族ずれで大賑わい。なんどか見送りに来ているけどこれほどの混雑は初めて。タイミングよくmy長女は手続きを終え1時間ほどダベル時間があった。
■荷物は20kgほどのバック2個とてにもつ1個 my長女の後ろ姿を見ていると戦場へでも、出かけるのかと思うほど、小さい体に勇ましてんこ盛りの荷物!。
以下FB投稿
my長女出国 ドイツへ
連休中にて仙台空港は早朝にかかわらず大賑わい。親子など家族連れ多し。
??日本の若手女医さん、特に心臓外科医は西欧でバリバリ働いているとのこと。日本の外科医のように男性優位じゃなく、シフト制も確立されていて、女医さんには働きやすい環境が確立さされている事が日本を離れる因とのこと。
当分は国民国家がなくならないので、ハイスキル移民労働者になる為にも、語学、多様な他者との交渉能力、地球人として必要な寛容さなど不可欠なようだ。
学生時分からの記録は全て保存していなければ、手続き資料を作成できないようだ。日本の医師免許ては他国に通じないので、医学生なら今から要点整理し、何を学んだのか、どのようにな医療行為をへて来たかなどの履歴をすべて保存し、いつでも纏めて提出できるよう、戦闘態勢を身につけておくべきだ。そんな風にmy長女の背後姿は語っていた...
(世界を自在に 働きまわる その楽しさや困難を私は知らない)




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