佐藤敏宏  HOME 
   2019年06月の日記        

 6月30日 

夕方まで雨。梅雨と台風崩れの前線の仕業というが、気温も下がり、家の籠り作業する。

■ 

映画『マーサの幸せレシピ』を観る。my子DVD乱観10
 ドイツ女性監督サンドラ・ネットルベック監督127分の2001年作品。
映画の舞台はドイツ北東部・エルベ川沿いの町ハンブルク。そこは1871年ビズマルクによって統一されドイツ帝国の一員になるまでの自由独立の気風が生きている・姿勢を保っているハンブルグの高級フランス料理店が主な舞台だ。
 主役は超高級人気フランス料理店の厨房を仕切る凄腕女性シェフと彼女の姉が死んで引き取った姪っ子。
 筋はその二人の女性たちの誇りと自立心のぶつかり合いの中で苦悩する二人の大人と子ども(共に女性)。日本における隷属的家政婦を演じさせた、怒鳴り散らしそうさせている男どもには理解できない世界だ。...
彼女たち二人が自分の立ち位置のさぐり合いで起きる葛藤とあるだろう平和がたくみに連続している。共存共栄の術を互いに知らないことで起るそれぞれの苦悩付き葛藤ありの女性の生な姿。それらは他者による偶然の人的誤配によって(イタリヤ料理人オヤジ)他者と交流を得るこどで、それぞれの葛藤などを越え共存する道を拓くまでの姿を描て美しくもある。

 ドイツ文学者である内池紀先生おすすめの前世紀のドイツ映画からのそれではない。1919年『ガリガリ博士』 1927年『メトロポリス』 1979年『ブリキの太鼓』などの系譜とは異なる映画だと思う。

 リリーマルレーンを歌ったマレーネ ディートリッヒ、そのもの女性像の追及の継承だろう。マレーネ・彼女は「私には祖国が恥辱となりました。だからこそ捨てることにしたのです」「私はドイツ人です。ですからあのような恐るべきことを引き起こした国と和解することはごめんこうむりたい」(訳:内池氏)としたあれ。ドイツ女性自立の道を引き継いで歩ことで起きてしまう今日の苦闘。それを抱えてながら道を拓こうとする凄腕シェフである女性の深層を捉えて描き出そうとしていると思った。
それは監督自身の姿と想いが当然にように重なっているはずだ。だから主役の女性は監督自身の姿なとみた方がよい。

 今日の午後、金氏、文氏、トラン氏による朝鮮半島の38度線をまたぐセレモニーが配信された。「日本においては21世紀内のここで、外交無能記念日が決まったんだ」と受け止めた。つまり日本の大方の政治や会社そして社会を支配する忖度・男たちは自身の利益ばかり求め続ける、主権者にとっては嘘つき野郎の輩だったと。身の回りを改善しようとする政治家はいつまでたっても訪れない。「私の大地の信頼は地に落ちた」。それでもまだまだ忖度社会を続けようとする男たちは明日も相変わらずだろう、何事もなかったような振舞えーで暮らしを続けることだろう。

 なので、そんな彼らには、この映画はまるで縁なき作品だ。彼らが目を見開たとしても見ても監督の意図は受け取れない。子も産まず映画なんか作ってる場合かと罵るかもしれない。まーあ、おめでたい限りの忖度国民が投票する政治家とはそんなものだろう。

滑りまくって書いたが、今上映されている日本映画 原作:kaoriさん『今日も 嫌がらせせ弁当』を観てから訂正したり書加えたりしたい。そんなことを思わせる映画だった。梅雨時台風が来る日はめったにない。そんな日に観る一本



 6月29日  梅雨時に台風来たりとかで雨

■大雑把に移動した本や資料を、さっと見つけ出せるようにこつこつ仕分けしてた。雨の日の作業としては相応しいようにおもえた。 だいぶ整理されて来ている。コツコツ暇を見つけてはほぼ毎日整理し続けるのがよさそう。一気に整理とは考えないのがよい。

■映画『黒猫・白猫』を観る。my子DVD乱観09 
1998年仏独ユーゴ合作のユーゴスラヴィア映画。男だけの馬鹿家族愛と男だけの友情を重ね合わせた家畜も交え全編に渡るドタバタ喜劇129分。(タイトルと内容がほぼ関係ないのもおかしい)
 だが日本のクレージー・キャッツが演じた都市内を舞台にした喜劇映画とは質がまるで違う。それは日本の河川とは異なる、ゆったり滔滔と流れるドナウ川の川面や周辺の景観と多数の動物・家畜たちが容赦なく動員される演出から滲みでる味だろう。つまり監督の演出の手腕によっている。それらの舞台背景は何でも経済効率の話になしてしまう日本の現在では見いだせない魅力だ。自然と人々の無理のない様相で埋め尽くされているからだろう。絵作りは野生的でシナリオもばかばかしいほど粗野で乱雑なんだけど、言われえぬ面白さと役者の演技に無理がない。それは普段見慣れない顔立ちばかりだからか。演技より濃い顔キャラに目が行って、演技を観にくくしているからなのかもしれない。なにしろ歯槽膿漏で前歯の一部が無いギャングのボスなんてかっこ悪い、分かり易く言えば、敗戦直後に東...松照明が撮影した田舎の代議士の姿よりもっともっと下品に見えて、それが可笑しさを作り出してしまう巧みな演出には、多数の愛好者が待っていた映画だろう。
 巨匠映画監督が意図しようとも作れない顔立ちと風景などの風土に任せて撮するしかない,人が断念することで得るだれでも出来そうな拙な豊かさに溢れている。
 出演者の多くは「ロマ」が遊牧民の正式呼称とだそうた。彼ら遊牧民のゆったりし生き方、争わない、優劣を決めて暮し生きていかないなど、彼らの血肉に成られる暮らしぶりからにじみ出てしまう、ユーゴスラヴィアの風土そのものの懐のおおきさな力が作りだした味だろう。

 家族と男の友情を描く映画なので古さを感じてしまうのは仕方がない。繰り返すが男がメーインの男の友情物語と男だけの家族愛物語であるからだろう。女は徹底的に排除されている、あるいは奴隷的扱いだが恋の相手には女性がいないとまずいらしい、ホモ結婚はだめ、だれも考えない。男女婚でなければこの国では映画にならないので刺身のつま的に女性を出演させているように見える。

 2組の結婚式のドタバタは後半のメーンシーンなので、女性をとうじょうさせ恋風な味付けであるけれど、結婚式の場においても実は、祖父・息子・男孫たちの家族愛であり、その彼らとろくでもない男友達。=女を侍らせ酒を呑みながら風呂に入、り背中を流させ、相手が女だろうが男だろうが所かまわず札束びんたの嵐野郎。とまあ男が描く夢のような願望は、今時の草食若者は考えたくても想像できないだるサル的野生に満たされている。男のフィクション野生尽くしの絵が満載である。決してエログロに成らない押さえが効いていて爽やかである。

 ひまわり畑での若き男女のラブシーンはあるのだが、男女肉体の絡み合いは描かない。男が女の脱ぎ捨てた下着の臭いを嗅いだり、下着を頭に被ったりと、万国共通の若い男たちの願望を描くことで収めている。
 現在の日本の若い男たちがこの映画のような野生を回復する必要があるのかそれは疑問である。だが人は動物なのだから、交尾をして子をもうけ、育て、世代を継承していくという何万年も続いているこの国の人の生き方を、今日本の男たちが捨てたりする(性交しない)と、外国の男たちが彼らに代わって、日本の女性と交尾をして、今とはすこし異なる日本人が多数誕生するだろう。こうして伝統的な日本の暮らしは少しずつ変わりながら日本らしさをつくり出してきたので、問題もなかろう。

 遠く離れたユーゴスラヴィア映画とは言え「野生味と家族と友情が消えかかっている今の日本」において、梅雨のこの時期に観て、荒々しさに戻るか、さらに孤立を進めナイーブな人間関係を育む、苗床関係をつくるのか、再考の時期に合っているので、梅雨空の下あなたもパートナーの下着を頭に載せ〜野生回復を試みるための映画として、お勧めの一本




 6月27日 

 少し物を片付ける。市議会議員期日前投票を済ませる。
片づけているのだが、my次男が必要だった商品用段ボールを捨ててしまい、怒りを買う。かっかしながら、my次男は物置から必要な物を離れに運んでいた。男の子はどうもかっかする質で話合えばいいのに怒りを先に出して来るから受け方や対応が俺には扱いが分からない。親子とはこんな姿のものなんだろうか。
 自分に必要な物はどれか他者に伝えることが苦てなのだろうか、一方的に指示された仕事だけして働いているからなのだろうか、対話して自分の環境を整えようとする姿を感じられない。どのように生きていこうとしていうのか、とらえどころがないのだ
 俺は我が家から溢れるような多量の荷物が来たので、片っ端から整理しないど暮らすことが出来る場を確保しにだけだ。手伝ってくれれないので、一人でさっさ片付けている。よくもまあートラック2台の荷物が整理出来てきたと、高齢者もなると思っていた。なので親子とはいえ人間関係とは面倒なものだ、特に話をしない家族は何を考えて生きているのかさえ分からない。いい大人なんだからもう困っても支援する必要さえないのかも知れないのだが、まだ自立できるようには思えない、親ばかの観方なので、失敗しながら生きていく知恵を身に着けるしかないように思う。親離れ子離れは実にややこしい事態なんだな。面倒は幸い種だから、面倒もよかろう。

■『8月の狂詩曲』を観る my子DVD乱観08
 黒澤明監督80歳の作品。1991年公開98分。主役は夫を長崎原爆で亡くした元教師。彼女が一人暮らしをしている民家へ孫四人がひと夏を過ごしに来ているという設定。舞台は長崎市街と近郊の古民家。民家が「曲がり屋」なので岩手県内じゃないかと、勘違いしてしまった。黒沢が想う民家の暮らしを存分に演出するための完全に作ったセットとのこと。数億円は要るなどと建築屋の俺は思ってた。古民家も、老女たちが念仏を唱える小さな念仏堂も、その周辺の畑も田も景観も全てセットで作り上げたようだ。

 村田喜代子・原作『鍋の中』をベースに長崎の原爆と戦争を知らない世代やその子供達を冷ややかに描いて戦争の記憶を忘れさせない、思い出させるような脚色。原作者は『別冊文藝春秋1196号』P210にて「ラストで許そう、黒澤明ー世界のクロサワに映画化された、ああ、私の『鍋の中』は・・・どうして「原爆」の幻影を入れなければなかったのか?」を寄せている。
 1910年生まれの黒沢と1945年生まれの村田は親子ほどの年の差で、敗戦に対する考えも、作品の起承転結の有無についても、まったく違う二人。村田は最初に学んだのが映画のシナリオだそうで、紆余曲折を経てシナリオを捨てて小説を選んだそうだ。この映画への不満感こそがシナリオの世界から小説の世界へ飛び出した原因であり、目に見えるものによってしか表現することが出来ない映画の、映像というものの不自由を感じ、字で書く小説の世界の身軽さと自由を再確認している。
 一方敗戦前から映画をつくって生きて来た、黒澤は老齢化や映画業界の斜陽と予算縮小に遭い、は合戦大作をあきらめ(制作費は12億円なのだが黒沢にとって少額)小津や成瀬のような家族劇を手に入れようと模索していたのだろうか。祖母とその兄弟、子ども2人、孫4人にが織りなす家族劇。
 リチャードギヤはハワイに暮らす老女の甥っ子という設定で、日本人の演者が巧じゃないからだろうか、老女の演技がボケが進む老女と言う設定なのだが元気過ぎる演技で違和感を覚える。それらと比べるとリチャードの演技は自然はに見えてしまい、日本人演者とのギャップが目立った。だから黒沢映画にしては物足りないような気がした。やはり家族劇は派手な合戦劇とは違うのだろう。
 しかし蟻が赤いバラ(原作では白薔薇)に群がり登る映像は迫力満点で、蟻まで演出してしまう執念には敬意を持ってしまった。さらにラストシーンの雷雨のなか皆が走る演出は原作者も認めているように迫力がありよい。老女の傘がめくれた瞬間に野ばらの曲が流れだすが、雷雨との落差が明確になっていて映画ならではの良さがにじみ出ていた。

 年老いた老人映画作家の反戦映画と見るか。戦争を知らない、忘れてしまって経済優先で生きる日本の人々への批判と見るか。米国へ忖度しまくる日本の大人たちへの皮肉と見るか。失われた戦前の農家の暮らしの豊かさを懐かしむ映画。米国の原爆と被害といえば広島だけじゃないよ、長崎もマーシャル諸島の被曝者もいるよ・・・などと多様な見方ができる。いつもの8月15日が近づくこの頃の時期、お盆をまじかにして観る、お勧めの一本。



 6月25日 
 梅雨の晴れ間にて庭の除草とmy長女の荷物などによって混乱しているそれぞれの荷物を整えはじめる。どのような荷が来ているのかほぼ把握したいるのだが、今後見やすくするためにどこに置いたらいいのか。それを考えながら不要な物は処分ゴミとしてまとめだす。3ヶ月かけて整理できれば良しとして、急がず淡々と続けることで作業はおえるだろう。と気楽な構え
■FB投稿
以前の夏なら「除染」今は単なる「草むしり」@セシウム都市内
夏草はみるみる伸びる。一昨日誰かが「心の除染がまだ」と言ってた。サンチャイルド 像撤去事件に関するマスコミ報道の中でも40代半ばの女性のかたが「こころの除染が済んでないので、心の復興はまだ先」と語っていた。
ドクダミは根を地中深く張り巡らし表面を削ったぐらいでは瞬く間に芽を出し葉を出し花を咲かせる。セシウムは表層数センチにとどまり雨風などにょつて動く。想像の生き物である危険な龍に似てる。想像を掴んで「ほらこれさ」と差し出す事ができない。セシウムボールは見えないので龍同様に所在確認しにくい。で、怯えるか、無い事にするかだ。
多くの人はその二者の中で暮らし、態度の違い表明することで起きる対立を未然に防ぐため、セシウムに関することはあらゆる職場で言葉を発しない。言葉を発しないと他者との関係が生まれる端緒さえなくなる。災害の記憶を継承する事も不可能になる。また被災地の奮闘に共感を得ることも出来ない。
今のところ、心にへばりついて離れない心や脳のセシウムは、個々人の身体的の中で根腐れして芽吹...く事がない。
日本人の手になるセシウム都市製造やそののあらまし、さらに心のセシウム汚染がいかなる花を咲かせるのか。それは長い時間を待たなければ誰も全体を知ることはできない。セシウムは龍の様に刻々移動していてなにがここで起きているのか分からないのだからそうなる。分かった気になり観察を怠ってしまう不作為が将来にもたらす害を自らつくることにさえなる。
広島、長崎、マーシャル諸島、セミパラチンスクなどにある「グローバルヒバクシャ」について講義を受けそのことを再確認する事ができた。放射能被災地は人が作り出した放射能による人災なので、自然災害対応とは違う。当然のことだが。






 6月23日 
 日本平和学会@福大に参加したり、後の囲む会や懇親会に参加して、全国各地で暮らしている素顔の研究者と交流し多様な知を知る機会となった。加えて学会に招聘された福島市民の方々の声も聴いた。その方々の声と比べると311直後から俺って全く思いで生きていたと再確認すりことにもなった。


午後一番で参加した部会 島薗進先生の講義

島薗進先生と藍原さんなどの講義を拝聴@平和学会 2日目 福島大学。
今日はのんびり午後参加。グローバルヒバクシャ分科会では、島薗先生による講義。内容は投稿した絵にある三冊の本を中心に、島薗先生の家族のことや宗教学者になった背景なども平明に。さらに例の悪評極まる山下氏や早野氏などのような御用学者やイカサマが生まれる出る背景など伊達市に入っている方ならではの内容に聴き入る。
311直後は優れた先生は少数で御用学者が福島も溢れていたことを思い出した。近頃落ち着いてきてて、ようやくまともな有識者の語りに触れることが多くなった。フクシマ問題は始まったばかりと考えていたが、まだ先は長いし俺が死んでも続くので、それで良いことを実感。
加えて何を語り続けることや、今後は誰と連携すべきなのか、それもぼんやりと分かってきた。真摯な研究者の存在はわたしにとつてもとても大切な方々だ。



22日FB投稿

日本平和学会 春季研究大会に参加@福島大学
誰でも参加できる、参加費用500円。相変わらず新緑眩い福島大学構内に立つ。
今日は「核被害認定をめぐる歴史的 政治的背景」第1部会に参加。
竹峰誠一郎(明星大学)の切れ味鋭い発表を拝聴し「俺はこの語りを聴くために来たのだ」と確信。題は「世界の核被害者に対する援助措置 広島 長崎、マーシャル諸島、セミパラチンスクの相互比較」
(学生と竹峰先生などが福島中心に聞き書き調査を2014年間ら実施している)
2時間ご竹峰先生と2ショットを決める。学生を連れて福島に来るおのこと、学生さんたちもようやく福島入りするようになったようだ。



 6月20日 

FB投稿

高齢者、屋根に上り農業用日除けを天窓に簡易掛する
今年の夏はカンカンカンカン照りー!まくらぬよう、お天道さまに願を掛ける作業だ。階段室の天窓を日除けネットで覆ってみた。この作業が裏目にでて、程よい夏ならよしとしたいが、5月末のように北海道でも40ドアなんて天候になるとかなわんので。
今日は曇りのはずなのだが、陽が射して屋上作業は熱中症対策が必要だった。
簡単、安く日除け掛け出来るよう設計せず、我の無能と建設資金のなさを思いだす。1982年鉄筋コンクリート造で坪単価35万をめどに造った。素かんぴん建築。断熱せず35年間クーラー無しで暮し続けている。
60代夏ももほどほどに暮らす。70.80.まで生きているか不明だが、マイ建築に住み続ける 俺。



  6月19日    梅雨空 紫陽花咲きだす

 昨夜山形県の村上市沖合を震源地として地震がある。福島市は強い揺れだ、っ感じたが震度四。北米プレートとユーラシアプレートの際でひずみが溜まり揺れる。日本列島地震活動期真っ最中。本棚など結わえておいたので、本や物は落ちなかった。(もう少し補強しないといけない)

今日は階段室の天窓に夏の日差し除け付けようと建材屋に行く。資材は何でも売っている。小売なので値段は高いが便利だ。38×88長さ910で200円ほど。5本買う。梅雨空にて屋根に上るのをあきらめて 地下室をコツコツ整理する。



■黒澤明監督81歳作品『八月の狂詩曲』を観た(my子DVD乱観08)
 感想は明日書こう
 

 6月18日 

■ こつこつ半地下の書庫を片付け始める
 漫画単行本の二重陳列、ようやく解消
次回作業は号数順に並べ整えて漫画コーナー作業完了かな。
(手塚治虫、水島新司、ちばてつや、車田正美、鳥山明、北斗の拳、石ノ森章太郎、藤子不二雄、倉田由美など)
1989年4月20日朝日ジャーナル『手塚治虫の世界』2冊あった。1993年鳥山明展と1990年手塚治虫展 図録も


黒澤明監督第一作 最長編版『姿三四郎』を観た(my子DVD乱観07
 原作富田常雄著『姿三四郎』山嵐という技が得意な柔道家で福島県会津生まれの西郷四郎がモデルとのこと。
 1943年3月25日公開作品は79分ほどにカットされた作品で、オリジナル版は現存せず。監督や制作スタッフに無断でカットされた公開版に東宝の最長版制作スタッフが、ロシア国立映画保存所にて発見されたカットを加え最長版91分に制作したもの。
 敗戦によってソ連に接収された作品の全容も知りたいものだ。運よく満州映画協会にあった多量のフィルムの中に『姿三四郎』のフィルムも含まれていた。その幸運と敵国のフィルムでも全て保管し研究して他者に伝えようとする。その姿勢に映画好きの者は礼を言わねばならないだろう。最長版は2003年販売された。

...

■映画『姿三四郎』とドイツに占領下で驚くべき費で制作された『天井桟敷の人々』と観比べることで、当時の日本人恋愛に対する考え方や暮らしぶり浮かび上がって来るように思った。(比較しては書かない)

 筋で違和感ばかりが残った、その主な点は、敗戦前の日本の三角関係の仕立て方つまり男女の恋の描き方。町並みの作り方。無心になって祈る姿から己を捨てるという精神性とその目的。蓮の花を観て悟りを開くという紋切型の押し付け。イケメン男は武芸も秀でて争うと勝利し、三角関係のオンナの奪いあいにも勝利する。などなど。だが大ヒットし黒沢監督は一作で最前線の監督として認知されたそうだ。
 俺が抱いた違和感は黒沢監督世代、あるいは当時の人々と俺自身の中にある価値観が凄く違っているということだ。観ていると逆照射され自身を知る事にもなった。他者にあって何か自分を知ったような錯覚が訪れるあれだ。
 人も社会の様相も少しずつ変容していて止まらないのだが、その差異を知るには自身も含め時空を瞬間冷凍しておくしかないだろうが、それは不可能なので、映像や文章を残し後にそれらを観ながら現在を照射するしか手がないだろう。だから時代を遡って作られた昔映画や異国の映画は、その不可能な事を少し可能にしてくれるような、人間が創り出した地球人に対する記憶装置・臨場装置のような機能を果たす。それも鑑賞の一つの方法でさらに楽しい、驚きや違和感たっぷりの時間をつくりだし与えてくれる。最初に映画をつくりだしたリュミエール兄弟の『工場の出口』や『ラ・シオンタ駅への列車の到着』を思い出してしまう。

■印象に残ったシーンはストーリー順に記すと、焼酎甕が町中に山積みになってそこら中にあること。町ゆく庶民が小奇麗な姿であること。背水の陣でなぎ倒すこと。下駄が川面を流れていく事で時間と場所の移動経過を表現すること。三四郎に投げ飛ばすシーンを、観客の顔をグルリと写し込み、飛ばされた者が壁にブチ当たるとスローモーション撮影になり内装がゆっくり壊れること。三四郎が女性を全く口説くかない事(黒沢監督によると主役の男性は撮影現場に「女を連れ込んで寝泊りしたのを知って禁じた」と語っているので、この三四郎の愛の姿は事実と違う、映画は事実を写すためにあるんじゃないね) 悪役男性の衣装が際立ってお洒落で、主役の衣装はぼろい事。貧乏は勝つという大衆に合わせた価値観なのかもしれない。
 最終の決闘シーンはなかなか味わい深いし面白い撮り方でもある。三四郎は決闘の場に立ち「田原坂」を歌う。それは、やはり会津出の男ならか。西南戦争を制する切っ掛けをつくった田原坂の決闘を思い出せる仕掛けだからだ。田原坂の戦いは政府軍劣勢の中に会津志願兵が投入され「戦況を一変させた」と言われている。会津藩の武士たちは戊辰戦争で敗残兵となり西南戦争で汚名挽回した。あの薩摩武士をも震えあがらせ勝利の神々となったあの抜刀隊の面々を暗示し描きたかったのだろうか。
 深刻なのに笑えるような場面も多く出て来て興味深い。ユーモラスな場面は多数あるが外国人監督に多くを学び取り入れたと黒沢監督は語っている。表現のオーバさ、過剰さは黒沢作品なら。やり過ぎのおかしみはオリジナルだ。

■繰り返して書いてしまうが、男性は、女性は男に迫らない愛を打ち明けない。嘘だろう。女性は料理が上手で父親のためにつかえて働く美しい娘である。嘘だろう。そういう描き方を観ても監督自身の価値観だとは思わない。
 「好い映画とは、楽しい、分かり易くって面白い 創るということは素晴らしい」と黒沢監督は語っている。俺はそれに一つ加えておきたい「制作当時の多く現象が映し込まれ、描かれていて今を照らし続けて素晴らしい」と。




 6月17日   暑くなったり寒かったり目まぐるしいこのごろ
 my長男より父の日プレゼントに日本酒をいただき家人と乾杯す。
 fb投稿
父の日の酒!届いていた。(my長男より)
南部杜氏、宮城県産酒。美味い日本酒(純米酒以上なら)は誰に頂いても嬉しい!醸造用アルコールの入ってる酒は?まない、呑ませない事にして30年は経つかも。その頃から山形県に負けじと福島県酒造組合が清酒アカデミーを開校し杜氏育成に力を注いぎ始めたと記憶している。
福島県の日本酒美味い」それがようやく各地に暮らす日本酒好きの皆さまにも浸透してきた。そうなのです、福島県産の日本酒はうまい!よ。「そのなかでも、これは美味いぜ」は教えない。人それぞれだし体調にもよるし、販売店の温度管理にもよって味が変わる。日本酒は生き物なんだから、一期一会でなので銘柄を伏せる。
純米酒や純米大吟醸を?んでも、悪酔いせず(醸造用アルコールにやられる体質の俺)呑み過ぎると足腰とろれつが回らなくなるも、二日酔いにはならない。
純米大吟醸は美味いけど、ゆったり長時間?むには口説い重いやられちゃう気がしている。安価であることもあり常温ストック可能で、瓶詰めしたそれなら、日時は若いほうがスッキリし個性が分からやすので、製造日をチェックして...?む。
近頃は純米酒好みになってきてる。(キャッチコピーは老化に優しい純米酒。財布にも優しいし、同じ金額で大吟醸よりたくさん呑める。たくさん呑むための言い訳だな)



 6月15日 
新緑美しい福大校内の木々。雨の日の方が美しいかもの季節。
FB投稿より
公開授業 開始@福島大学 梅雨に新緑映える
これからの地域と歴史、文化遺産
今日は3日目。筑波大学の白井哲也先生による「災害アーカイブ論 3コマ通しで4時間半の授業です
■双葉町のマスコミ取材拒否 と誰でもの記録がアーカイブとなる語る内容に大きな矛盾を解決していないまま、あるいはこの資料が残されるべき資料と判定するのは誰か問題が解決されていない。その点は毎回の授業で気になっている一つだ。



 6月14日  昨日同様に快晴
■重い本だななどを移動し背筋に疲れがたまっているようで、だるい。肩回り凝りにて気力が落ちている。無理せず雑事などしたり、ゴロゴロしたり。

■ 『ベルンの軌跡』 を観る (my子dvd乱観 06)
 1945年7月4日ベルンにおいて、ドイツがワールドカップ・チャンピオンになるまでのチームの様子と、敗戦後9年にわたり父親がシベリア抑留されてしまった家族の物語を一体とし編成されている。ひとつのイシュー・父の抑留と家族の話では重すぎ人々に受けないのかもしれない。ナショナルチームによる奇跡の優勝の裏にシベリア抑留者家族の話を刻み込むことで半世紀たっても敗戦の記憶を蘇らせる作品と言い換えてもいいだろう。何度でも、いつでもドイツ国民は敗戦への思いを大切にしているように感じる。
 主役は1943年生まれの11才の少年。彼は地元サッカーチーム一員でナショナルチームの代表選手との豊かな交流の中で暮らしている。時々母親と兄、姉とが営むパブで、タバコを巻く。それを客に売り小遣いを稼いでいる。悩みが深くなれば彼の飼っているウサギ小屋に潜り込み、ウサギと対話し自身を保っている。
 1945年父が帰還すると、父は厳格なドイツの伝統家族を取り戻そうとする。だ敗戦後の家族は既にトラディショナルな思考では生き延びることが出来なかったので伝統を捨て個々人が自由な選択によって暮らしていた。父親の時計は止まったままだし、9年も離れ離れに生きていたので、そのような父が戻ると当然のように家族間に溝は生まれ深まり、思いもよらぬ混乱と暗い影が持ちこまれる一気に重苦しさを増す。帰還した父親と激しいぶつかり合いと分断が続いていく。父親が職安から戻り、背広姿で一人練習でバックシュートを決める絵が印象的で、そこからサッカーを通し家族それぞれが再生していく筋書き。
 再生は母親がキーとなっている。家族がなくなるかのような傾向の中にある現在に、当てはならないのだが半世紀前なら母親がカギになるのは万国共通なのではないだろうか。
 DVDコピーによると360万人のドイツ国民が泣いた感動巨編とある。敗戦の傷を抱えて難問を解決する努力し続けるサッカー好きの国ならではの一作。2003年公開で舞台は1954年西ドイツの炭鉱町エッセンとスイスのベルン。113分のゼーンケ・ヴォルトマン監督作品。
 映画の舞台であるエッセンには2001年世界遺産登録された「ツォルフェライン」という世界で最も美しい炭鉱が在る。SANAAの手による「ZOLLVERIN SCHOOL」が建っているので、日本でも建築好きの方にはお馴染みの地名かもしれない。

■福島県内の常磐炭鉱は世界遺産にならずも常磐ハワイアンセンターとして再生し、2006年映画『フラガール』がヒットし、フラダンスが大流行りした。いわきの人々中にもシベリアに抑留されていた老人は暮らしていただろしサッカーチームもある。この映画のようなアイディアが生まれない素地は「敗戦は忘れることに限る」そんな姿勢で暮らしているので「日本では受けない」と考えるだろう。
 でも敗戦、戦争責任を取らぬ大人はゴジラが現れ踏み潰され、無責任どもが暮らす大都会も木っ端みじんにされる。ゴジラは火を噴き(放射能か)あらゆるものを踏み潰したことで、後の世代や世界の映画好きや怪獣ファンのヒーローとなっている。だから、ゴジラを制作した監督本多猪四郎(いしろう)監督のように海に沈んで亡くなった多くの者たちの霊を一気に怪獣にとして蘇らせ戦争責任をとんらぬ日本人と都心とを踏み潰しまくり彼らの記憶もろとも灰燼に帰し溜飲を下げた。そういう日本人の姿勢も記憶しておきたい。この映画を観てて思った。

 シベリア抑留者から直接「体験談」を聴いたが何ねん経っても傷が癒えておらず多くは語らず亡くなってしまった。水木しげるの作品や香月泰男の一連の絵画、さらに歌謡曲「岸壁の母」や自身も俘虜だった吉田正の作曲だと思うが俘虜兵が作詞した「異国の丘」などによって、日本人シベリア抑留者たちとその家族の悲劇と惨状を知ることもできる。シベリア抑留に関する数々の文芸作品も残されている。

 敗戦後日本はサッカーではなく野球を選んだ。マスメディア資本によるマスコミの販売数増を目的としていて、高校野球やプロ野球が盛んになり私自身も野球少年だった。サッカーが国民スポーツにはなるには半世紀ほど待たなければならなかった。


 6月13日 

 昨日届いた仙台にあったmy長女の家具などを配置する。重い家具の移動を家人にサポートしてもらい、なんとか目的の位置にセット出来た。ここからはこつこつ分類整理作業となる。 やや筋肉痛にて夕方から横になる

■FB投稿より
陶仏 (一重孔希作) 今7体発掘す
新緑まばゆいカンカン照陽 物移動作業中
1980年代作だと思う。大きな40センチ前後の陶仏は凍害に遭い頭部だけになっていた。俺の大困難期は80年代末から約30年間なので、身が消えしかめっ面の頭部だけになった陶仏にさえ深い親しみをおぼえる



 6月12日 
 
午後1時半ごろ my長女の家具が届く。机と本棚と椅子だけ来るんだと思い込んでいたら、35個ほど着いて驚く。
 荷解きと仕分けをしておおよその配置をしてみる。

FB投稿より
梅雨晴れぞ! 第2陣 荷来たり ヒリビリ解く
雀くる夕刻 ぐぐったり
男力アップ なるぞぞー ハンバーグこねる 叩く
デカイぞ 焼くぞ 喰らうぞ 呑むぞ



 6月10日  梅雨入り本格化し 気温20度下回りそう 寒いかも

■猿能動、類人猿の労働、人の労働の推移と今世紀に築いた労働の価値と共有について、ぼんやり考えてみようと思うほどの梅雨日。

昨日のFB投稿より
■自殺予防の対策 公開講座始まる
いのちの電話においてボランティア参加するために必要な受講内容と受講講座数と期間などを、知っておくため参加。今日の講師は臨床心理士 桃井真帆先生
参加者老若多数 女性7割
◆日本にあって最も多い殺人者は自分自身である。リーマンショック当時と比較すると1万人減とはいえ現在21000人ほどいる。その数は交通事故死者、通り魔の比ではない。

■ 映画 『アメリ Ami elie 』観る (my子DVD乱観5)
 人は不幸なんぞに決してなれない!都市に暮らして生きる変人こそが人の世界を拡張し、人の暮らしを豊かにする。だから都市に暮らす人こそ変人に成れ!それを伝えているような作品だと想ったよ。
 ネガティブシンキングと「伝統的な価値に倣い生を営むことが人の価値」と勘違いしている大人に囲まれ都市に生きる若者に「そんな迷惑極まる事態で悩むことが起きたら、応答はどうすべきかの。その疑問にナイスチョイスを教え与える=「都市暮らしの愉楽はこれよ」とのメッセージ満載の一作。
 相変わらず宮崎某氏いらい引き子森がもりもり事件を犯すたびに話題になり、前世紀と同手法の羅列でうんざりする。「それは社会悪で国をあげて排除せねば」と審議せず、開かずの国会で今日審議されていた。みんな短絡的過ぎてオカシイよ。近頃のそれを具体的に記せば、幼児を殺害した通り魔や国策を先導した元事務次官の父67歳が引き籠り息子44歳を殺害した事件に関する内容がTLから落ちて来たあれだ。探害事件の多くは自身と親族なので目新しくはまるでない。その事件をマスコミで伝えることに意味があるとも思えない。なので調べる気もまるで起きないが、「なぜ引き籠りの息子は父に殺されなければならなかったのか」、その点には興味を持つ。簡略に記せば「引き籠り人=ダメ人間」「理解不能な子供は他者に迷惑を及ぼす以前に親たちが自分で殺す」。あるいは拡大自殺のような事件を起こす可能性があるから親・自身で殺す。馬鹿だ。
 それらはどちらも引き籠り者の豊な空想力と想いを聞き取って、都市生活をさらに豊かにしよういう姿勢がまるでない点に驚く。異能の他者と共存することで都市に暮らす人々は都市の愉楽を知り、都市の包容力を高める造像力ひとつしり、それを共有し学び実践したいと思うだろうに。そこの単なる一つの思いに至らないのはなぜなんだろう。
 その謎に解を提示するために調べたりする気も起きない。そんな暇があったらジャンピエールジュネによる脚本・監督の「Ami elie」を見続ける方が解の糸口が多数見つかる。

 作品が制作されたのは2003年頃。公開されたとき福島フォーラムでmy長女と一緒に観て盛り上が事を思い出す。要点にさし掛かるとバンドネオンの曲が鳴り出し「この場面を一緒に体験して盛り上がろうぜ」と。バンドネオンが掛かると監督のお気に入りの場面だよと伝えているようで分かり易い。何度見て楽しく、DVDが有れば、それらを微に入り細に入り何度も確認し楽しむことができる。IT革命が人々の暮らしに浸透しだし、映画においても画像処理技術が格段に高まり、まるで夢のようにモノクロとカラーが行きかう。新旧画像を重ね合わせたデータ画が激しく行き来する絵作り。絵作りはPC操作能力があればさほど苦労なく制作できる状況が到来した、その時期だった。(時間だけがやたら要る)

 もちろんヌーベルバーグを経ていきるジュネ監督にとっても私にとっても「筋=起承転結の有無より、瞬間瞬間の愉楽を追求し続ける姿勢の方が今は重要よ」と語っているように思えてけらけら笑ってしまうのだった。それは勘違いなのだろうがこの点は時を経て映画作り、絵作りはどうなり楽しむことになるのだろうと、一層映画に対して興味が湧いてしまうのだった。
 アメリDVDを観てそのことを思い出した。映画館で観るのとは違う見方が出来てDVDの楽しみ方が少しずつ分かってきて、こりゃーますます 死んでなんぞ!はいられんよ!あんたに殺されるなんてまぴらだ!




 6月07日  平年より5日遅れ今日から南東北も梅雨入りしたとのこと

資料と本の整理作業をしようと思うも手に取ってみてしまったり、このDVD鑑賞しようと観てしまう。今まで我が家にあった本や資料と仙台からやって来たそれらを比べちゃうので、いい刺激になっている。
 ひょんな切っ掛けからmy長女の仙台荷物を受け取り保管する事になったが、体力仕事を除けば幸が多くありがたいことだ。

■『愛と宿命の泉』を観た (my子DVD乱観 NO 4)

 1987年に公開されたフランス映画。二部仕立で計3時間45分ほどの大作。舞台は1920年代のフランス南東部プロヴァンス地方で、農業を主とした地域における血縁者による愛憎劇。原作は国民的作家マルセル・パニニョル『プロヴァンス物語/マルセルの夏』。
 自由とヴァカンスは命がけで守ると語られるフランスの人々。映画発祥の地でありヌーベルバーグを経たかの地においても主題は古いだろう。登場人物たちに工夫が凝らされ、俳優たちの演技も素晴らしい。共通普遍のテーマである男と女の愛情を描く姿勢は単調で浅い。その因は都市暮らしの人々を描くのか農村の人々のそれかで生じることだ。日本酒を呑みながら、ゆったりした楽しめる作品。

 主人公はイブ・モンタン演ずる、フロレット家の老男性のジャン。彼は70歳ほだろうか、ちょっとした資産家でもあるらしい。知恵者でもあると自負している。だが彼の小賢しさと振る舞いが、やがてブーメラン効果のように、彼自身に襲い来て失意のもとに命を閉じるという結末。だから因果応報劇なのかも知れな、古典的教訓一杯劇とも言えるかもしれない。キリスト教を信仰する人々にも因果応報概念が有るのかは知らないが、この手のストーリー、血縁者間に起る争いは世界中の家族間で茶飯事だろう。この手の話は苦手なので「これでお仕舞」でもいいが、筋語りに陥らないようにし感想を少しだけ。

 日本に当てはめれば明治末期から大正初期。資産と知恵を持つ老人。高齢者となった私の曾祖父たちはどのような思いで日々生きていたのだろうか。この映画のような具体的想像が生まれてこない。ガラスに刻まれた曾祖父を写真は見たような記憶があるが、その人が曾祖父だったかさえ定かでない。分家育ちでもあり、本家に今でも各種史料が保存されているのか不明だ。曾祖父が書き残し日記があるとも聞いたことがない。当時の他者の日記を読んだこともない。寂しいことではあるが彼らの生き様を想像さえすることが出来ない。
 「日本人は血縁関係者に対する思いが薄い」と思うので多くの老人たちもそうかもしれない。それは以前聞き取りした体験で得たことだが、伴侶の生い立ちと伴侶の家族史をほぼ語れない人が多い。聞き取り活動しweb記録を作ると「あんたそういう人だったのね!」とパートナーに少し感謝された。共に暮らしているパートナーがここに至る、生きて来た歴史といっては大げさだが、伴侶の肝腎な情報が少なすぎるように思う。だから日本においては100年前の他者について朗々と語れる者は、現代史の研究者ぐらいだろう。我が家の「ルーツ語り部」を育てることに努めず暮らすのが現在の日本人の特質の一つのように思う。

 映画の感想に戻る。小さなコミュニティーにつても結婚問題は解決しなければならない大きな課題の一つ。映画は水問題と共に結婚に関する人々の思いに触れながら展開していく。老人の主人公は結婚に失敗していて、結婚していない秘密は映画の重要な鍵となっている。終盤に明かされるがネタバレになるので控える。
 どうしても筋書き写しになってしまう。資産持ちである主人公は血縁者が大好きなのか、資産を見知らぬ者に奪われるのが嫌いなのか、判断できなかったが、家名守・墓守を義務と思い家政婦を雇い一人暮らしをしている。そこに兵役から甥が戻る。
 離れというには高低差と距離が離れているのだが、家屋を与え生活の面倒を見始める。経済支援も含めて微に入り細に入り面倒を見始める。唯一の血縁者なので当然なのだろう。甥は引きこもり系でお人好。カーネーション栽培し生計を立てようと考え、カーネーションの株を新聞に包んで兵役から戻っていた。
 だが、アルプスの西端のその土地は地中海性気候で雨量が極端に少ない。農業用水確保のための堰やダム湖を作れないため、水の確保が農業経営の要となる。イントロで舞台背景が映し出されるのだが、大きな違和肌が方々に露出してる急傾斜地。機材運搬用の道さえない急傾斜地においてこの映画を撮影するスタッフの苦労を想像してしまうほどだ。一見し明らかに農業に適さない乾いた最大斜度30度ぐらいの不毛の地だ。

 邦題「愛と宿命の泉」とあるように、農業用水を確保をめぐる苦労話が、哀調あるれるハーモニカの音色とともに展開する。阿武隈山地の農村に1951年生まれた私は、父たちが稲作のために広瀬川の支流の水を協働管理した現場を見ている。農業における水の管理の肝腎さと協働管理の困難を知ってもいる。100年前でも福島県内の扇状地の多くは荒れ地のままだったろう。西根堰をつくり信達の野拓き、猪苗代湖の水を活用するための安積疏水を設けた。羽鳥湖のような灌漑施設をつくり戦後の成長を支えたが、現在は農業の工業化や六次産業化が進められていて、水問題が第一になることはない。でも、荒れ地を農地に変えきた地に生きて来た事実がなくなるわけではなく、農業の工業化がますます進むとはいえ水が確保されなければそれも成り立たない。だから遠い昔語りとはいえ農業と水と地域の人々の暮らしや考え方を描き、映画化し記録を残すく姿勢には共感が持てる。



 6月05日  雷 小雨あり 

 雷が鳴り響いていたが、一部残っていた夏草の取り除き作業、東側13mほど三本鍬にて掘り起こしながらする。夏前の恒例作業をなんとか終える。

■ 町中に用事で出掛け何時もの酒屋(一番安い)で1升かって背負い戻る。311後、昭和の建物がどんどん壊されて空き地が方々に出来ている。人口減少によて市内にできた過剰とも言える昭和ビルはさらに不要となり解体されていくのだろう。ゆっくり観察していくつもり。

■  『愛と宿命の泉』を観る (my子DVD乱鑑 NO.4)
第一部 JEAN DE FLORRETTE (フロレット家のジャン) 116分
第二部 MANON DES SUOURCES (泉のマノン)  109分
監督タロード・ペり 原作マルセル・バニョール『プロヴァンス物語/マルセルの夏』

 6月04日 青空がみえない薄曇り 

31日仙台から届いた本や資料などの荷解きと、粗い本棚への収納作業は3日まで掛かりようやく終わった。昨日の夕方は荷解きで残った段ボール箱を家人が解体してくれたので、束ねて資源ごみ回収として出だす。今日は運よく、資源ごみ回収日だったので一部活用品を残して全てかたずいた。
 長期間引き籠りを続けていた家人も、2005年6月の一時入院し退院から4年が経ち、生活者として問題ない暮らしぶりとなっている。それは荷造り段ボールを解体したり、片付いた様子を見に来たりし、他者の作業にも興味をもち、手伝おうという、作業を通じた共同体験感とでもいうのだろうが、他者と交わり大切な感情が戻って来た証だろう。 20年前には想いつかない、人間らしさを回復してきて、俺の役割も終えたかのような気分だ。
それにしても人間のホルモンの過剰分泌などによる脳の働きは不思議でしかない、と家人が病になってから思う。ホルモン一つ一つが人格を構成する一つのカギなのか?と。ホルモンの働きは不可解いであり、○○依存症や薬物中毒の件も話題になるけれど、人間には太刀打ちできない代物ではないのか。ホルモンより社会と家庭や身近な暮らしを構築る場の環境を穏やかに変化させることが肝心なのかもしれない。

■ my長女は語学や世界各地の耳慣れない言葉と発音について、子どもの頃から興味があった。今では耳鼻系の医師であり脳と音の働きや相互関係を研究する専門家ようである。ドイツに移民し公務員となり働いているので、他に聞くことも多いし、詳しく聞いても理解できないと想うので聞いてない。なので俺のmy長女への認識は間違っているかもしれない。

 my長女はドイツ移民から数年が経ち、我が家にやって来た多量のDVDは「多様な言葉を聞き取る、日本語以外の言語を聞き取る練習用として買い集めた」と以前、話していた。DVD制作と販売からの制限なのだろう英語DVDが多い。一緒に来た本はアフリカ系言語は西江雅之さん、ロシア語は米原万理,さん、声帯に関しては米山文明さんの著著などが目に入る。ろう文化についての本も多数。面白そうな世界だと背表紙だけ見て思う。
 
 順不同で単に棚に入れただけだが。棚上段右から片っ端に観てやろうと思い、見始めた。数年掛るだろう。最初に観たのはドイツ映画『 HITLER』で歴史を検証作品で、評伝のような動画作品。付属の製作版をも観たが、当然だが制作者の間でもヒトラーについてとう描いていくかは議論になっていた。歴史の事実として共有すべきヒトラー伝はこれからも上書き更新し続けてやがて完成するのだろう。
 
■昨夜は「パリ20区、僕たちのクラス」 を観た(my子DVD NO3).
 第61回カンヌ最高賞受賞作品と書いてある。内容は日本の義務教育制度にくらべて書けば、中学2年生24人とクラスの担任である国語教師との教室内や学校内で起きる出来事に対する先生、生徒、保護者との対応を描写していた。内容のやりとりを理想的の姿とし、作品化しているのか、状況を正確にえがいているのかは分からない。が学校で起きるだろう様々な事を丹念に2時間ちょいに収めた作品だった。

 my子たちの中学生時分で記憶している事は、先生にろくでもない評価を受けていた、それと、PTAの行事などに参加すると先生君主、あるいは生徒の運命を握る独裁者のような「俺様振る舞い」をする者が多かったことだ。合法組織なのかは不明だが慣例的に続いている親がヨイショする仕組み=PTAの会の懇親会では母親は酒をつぎ回りならがヨイショ!。男性教員はそれが大好きなのだ。先生お前はこれだけかよ、世間知らずも甚だしい。彼らのあきれた言動を思い出す。不幸な事に我が子たちは質の悪い一部のいかれた先生に出会っただけだろう。

 福島大学を出てただけで義務教育の教員になる成る者が多く就任していたようで、もっと多様な教師像があった方がよい、例えば県外で教育を受けた先生や東アジア系の外国人の先生も確保し、先生たちの多様な混在に努力すべきだったと思う。
 福大は偉大な大学なのか?俺には分からないんだけど、my子たちの教師はそう信じていた。福大教の信者に見え恐いこと。福大で教鞭をとる先生に対しては神扱いだったし、そのご子息たちが教室にでも居ようものなら 孫様偉大な学級のリーダー様ででなければならないと、アカラサマナ贔屓の引き倒し対応と、単なるそれの価値観を押し付けて来るので、辟易したりあきれることが多かった。

 もっとも酷く強烈に記憶していることは子が教師から「暴力と人権侵害を含む行為に遭った」ことだろう。その事についてmy子は学級文集に原稿をよせ、先生への批判と皮肉交じりの文章書き上げた。だが先生たちの判断により不掲載の処遇をうけてしまった。親ので義務として、今でのその原稿は保存してある(一部絵で公開)。中学の教師による生徒への暴力行為は時効7年ぐらいだと思ったが、刑事事件となると市教育委員会との問答も面倒くさい。子に聞くと「とりあえず行動しないでほしい」ということだったので、メモや診断書などの証拠はきちんと保全しておいて訴えなかった。 子どもが大学生になってからでも間に合う、時効以内に訴えればいいなと思い、保管したままで今日まで忘れていた。
 加えて子が通う中学校の管理職が恩師であったことも暴力沙汰を見過ごすことになった不幸の一員であった。彼は私から見れば酷い姿の先生になったなーと思い、彼とは恩師と話したくないので訴訟の判断を先の延ばしにた一つの理由ではあった。

「パリ20区、僕たちのクラス」は書き込みによるとパリの下町にある中学校の日常を絵がいているのだそうだ。肌の色、でいえば 白色系 アフリカ系、アジア系、中南米系など様々。言語も同様で生徒の共通語はフランス語で統一されている、一端家にもどればスワヒリ語、ラテン語、中国語、朝鮮語だ。なぜか日本人はいない。生徒たちはそれらの違いを受け入れ、互いに尊敬し合い、時には先生や生徒同士も対立し合いながら、活発な対話の中から生きる意味や自分の将来の意味様を思考続けていた。
 日本の中学校のように酷い均質性はなく、生徒に対しては単に詰め込はまったくない描き方だ。教師たちの、いの一番の仕事は生徒の対話能力の向上と相手の語る内容をきちんと理解でき許容できる寛容性の高い人間を育てあげることに力点がおかれていように見えた。でフランス語・母国語での表現能力の向上にはうるさいし、それを高め合うことに力を注いでいた。
 日本の義務教育の現場は移民労働を受け入れるに当たって、東アジアの外国人の子供達を受け入れ教育をする場になっているのだろうか。気になるが、子をもたねば義務教育現場へ、今でも私のような老人がが立ち入り観ることができるのだろうか、今度調べてみたい。

 さらに教師同士の討論も管理職とのやりとりも、すこぶる健全な関係であった。両親と生徒と教員たちの対話のありかたと生徒の悪事を先生たちが討論によって決める姿もよい。生徒の両親は教員と会っても臆せず母国語で応じる。子供がフランス語に通訳して教師に伝えながら、お互いの中のある難問を解くようなありかたになっていて好感がもてた。
 今年の4月から半年のあいだ福島大学の公開授業を受けているが、映画の教室と比べて授業風景がとても殺風景で貧相だ。ドイツの大学の講義は教師が自分の持ち時間以内で自分の研究の現状を淡々んと語る、原稿を読み上げるだけでお仕舞だそうだ。 対話を重視するのか、他者の考え方の現在を静かに聞き入り、応答し合いここの授業を将来の自分の研究と他者の考え方の相違を考えさせるのか、生徒と先生の多様性が担保されていればそれぞれどちらでもいいように思う。共存を語る有識者に会ってみれば酷い権威主義者だったりす。sぽれは日本の日常なので諦めているのだが、明日は誰にとっても体験したことがない人生の一日であることは間違いないのだから、明日を共に考え、試行錯誤する態度と実践が肝腎。あらためて再確認できた。

 この映画は地球上にあるだろう多様な教育場の現在に思いをはせることが出来きてよい映画だと思った。


 6月2日 

記号としてのヒトラーしか知らない俺
ブルーノガンツ主演のヒトラー?最期の12日間?は2005年あたり福島フォーラムで観た。
藤村舜一さんはヒトラーの青年時代の足跡を丹念に現地入り足 身体で『ヒトラーの青年時代』成就された。私はたんに読んだり鑑賞したりしてるだけだ
映画にてガンツさん演じるヒトラーは晩年の12日間を描いている。ドンッマリの末期を密室劇で描いてるたのだが、ガツンさんがど迫力の演技連発する、あんまり似ている!(記号として合いすぎる)ので本人が現れたかのような!錯覚で最後まで圧倒されてしまった。その記憶が蘇ってきた。
渥美清さんは本人として生きたのか、寅さんとして生を全うしたのか、私は知らない。しかし役にハマりすぎて演者が自己を失ってしまう、自己を他者がきやがる!場合もあるように思える。
 あなたは誰を演じて、ほんとは誰なんですか? そのように自身に問うことも映画鑑賞の楽しみの一つである。上手い役者が好演すればするほど、この問いが頭を持ち上げてきてしまい、映画鑑賞どころではなくなる。ほどほどに鑑賞してしておかないなと、荷解きの疲れは解除しない



 6月01日  
 FB投稿より 
荷解き日和 すべて解いた。
昨夜から、仙台から届いたMy長女の本や資料の荷解き作業。備えの本棚に片っ端から収めるも、DVDが想定外に多く、数えてないが700本前後かるかもで溢れるたが、ほぼ終えた。
片方に空箱山ができた。丈夫な資料専用箱はとりおき活用予定。



■ 昨日のFB投稿 
トラック一台 「本と資料」来たなや!
線状降雨帯襲来を寸前で回避する早業にて幸運かも。思ったより多く、箱見た目なので2/3にはボリュームへるな、ても準備した本棚は溢れるかも

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