佐藤敏宏が作成しました     201306
 
 2013年6月29日  
滋賀県立大学 DANNWASITU 俺クチャー資料 元・エア建築家佐藤敏宏
セシウム都市福島市内で アクチャルな俺(生物)で生きるって何?
05 原子力発電所の歴史 ( 01  02  03 04 05 06 )

■4 ■5 
 現・システムの問題
 原子力発電所が出来た経緯
 原子力発電所と政治

 複合災害と政治的対応を観る
 ・近世期末期1835年178年前
  仙台藩の災害対応
311以降を辿り 対応を比較し問題を観 次の建築系の人としてのありかたを考え 日々の暮らしに活かしましょう

 まとめ 今後の課題 テーマ

 できるだけ事実を知りたいと関心を抱いています。 井上悠紀さん発 5っのリクエスト

■4 建築・都市の一部としての原子力発電所
 (他のどの建築にも無い、モノの影響力のすざまじさを感じ、恐ろしく思います。)

■5 政治とのしがらみ
 (今日の国会答弁で、安部政権「原発に絶対安全は無い、絶対に事故があってはいけない、
      安全を確認出来次第、原発を再稼働する」と矛盾に満ちた方針はいったいなぜ、どうして。。)

 原子爆の製造 

1938年 ベルリンで研究 O・ハイマー F・ストラスマン 
  ウランに中性子を衝突させる実験  原子核エネルギーを解放する道がひらけた

1939年アメリカに伝わる。 最新鋭の加速器サイクロトロンがつくられ ・・ウランの核分裂反応の詳細が直ぐ調べられた。 この反応をリヨウした爆弾だの製造の可能性も物理学者の認識するところとなった

マンハッタン計画 ウィキ−より
 原爆開発に焦った アメリカイギリスカナダ原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画である。計画は成功し、

■ 1943年 ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導した。彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ実験』と呼ばれている

■原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。
 さらに、ウラン爆弾を広島に1945年 8月6日・プルトニューム爆弾を長崎8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。

科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマーがあたった。大規模な計画を効率的に運営するために管理工学が使用された。 (戦後は・・オッペンハイマーは私生活も常にFBIの監視下におかれるなど生涯に渡って抑圧され続けた)

 
 原子力の平和利用

                  劣化ウラン       原爆    電力    原爆            電力 
                   ↑           ↑      ↑     ↑               ↑
ウラン鉱山→精錬・転換→濃縮施設→再転換→濃縮ウラン→原子炉→再処理施設→プル抽出←→増殖炉 
                                       ↓     ↓   
                                 放射性廃棄物  放射性廃棄物 

  1953年12月8日 国連総会においける「アトムズ・フォー・ピース」演説だった 20年ぶりに政権を奪還した共和党のアイゼンハワー大統領は、それまでの原子力政策を思い切って方向転換することにした(米ソの核兵器開発競争

1954年 1月21日アメリカ コネティカット州グロートン ノーチラス号の進水式。SSN571 世界初の原子力潜水艦
 原子力潜水艦 
 ノーチラス号が完成 軽水炉の搭載

 軽水炉では水が中性子を吸収してしまうので天然ウランでは持続的な反応が起こせない、数パーセントの濃縮が必要とされている。 ウエスティングハウス社と ゼネラエレクトリックシャが協力し軽水炉を完成させた 後に民需原子炉のモデルとなった。



 原子炉は原爆製造のために作られた 『震災・核災害の時代と歴史学』 p90 より


 日本での平和利用
 
『戦後日本のメデイア・イベント』
 1945〜 1960年 世界思想社
  2002年 3月20日発行

 


『戦後日本のメデイア・イベント』 目次
 1章 日本共産党の『アカハタ』子供獲得イベント
 2章 戦後甲子園野球大会の「復活」
 3章 創刊期のスポーツ紙と野球イベント
 4章 降伏記念日から終戦記念日へ
 5章 民放設立期におけるNHKのイベント
 6章 戦後美術展における「日本美術展覧会(日展)の位置
 7章 観光振興とメディア
 8章 朝日新聞社の「アメリカ博覧会」
 9章 復興期の子供向けメディアイベント
10章 朝日新聞社(大阪)の戦後児童文化事業
11章 戦後合唱コンクールとメディア
12章 原子力の平和利用博覧会と新聞社
13章 メディア・イベントとしての「御成婚」
14章 広告賞の政治学

1955年11月1日〜12月12日 
 ・ アメリカ大使館と読売新聞 地元の新聞社と共催 
 ・ 日比谷公園を皮切りに 11会場 延べ382日 おおよそ 300万人 (2992,552人)入場
 
 注目されるのは 広島平和記念公園  正力松太郎は富山県大門町で高岡の傍 水戸 
  各地に誘致合戦の結果 水戸 高岡  翌年日本げんしりょく研究所を茨城県東海村に建設と発表

 

 1955年 10月26日 読売新聞 紙面 
    日本での平和利用の促進はマスメディアと政府 USISの協働によって進められたことが分かる 
     (ジャーナリズムの概念が無いかのように)

            

            

         
       加速器サイクロトロン模型
            

               cp5型 原子炉模型

              

  ■ 広島開催の成果 同書 262より USIA アメリカ合衆国宣伝機関 の報告 

、 世界初の被爆都市で、博覧会を開催することに可能性について調査したときから、報告者はこの計画は十分に受け入れられ、何の問題もなく遂行できると確信していた。左翼の反対にもかかわらず、博覧会は予期した以上の成功を収めた。博覧会が地元指導者たちによって支持されたという事実は、当地におけるUSISの活動の成果を示している。反対グループや個人が博覧会の有益性を確信したかどうかは議論の余地がある。博覧回の有益性を確信したのか、それとも主催者(中国新聞社、広島県、広島市、広島大学、アメリカ大使館のことー引用者)に反対することが彼らの支持者に対する威信低下になると結論づけたからなのか。 実際、博覧会は、原子力を平和利用するという、ポジティブ・アプローチをとおして、USIAの目的達成に顕著に貢献した。そしてそのようなポジティブアプローチによるUSISのプログラムが、この地域の有力者の獲得に成果をあげられることを証明した。これは積極的にアメリカの誠意と善意を示すプログラムに絶えず努力を傾けてきたUSIS広島のこれまでの目的でもあった
 (USIS atoms for peace exhibition in Hiroshima  USIS Muliti Area, ZW5602)


■ 『原発・正力・CIA 』
  有馬哲夫著 新潮新書
  2008年2月20日発行 
 

  歴史的出来事を生み出す連鎖の複雑さとおもしろさを知ろう

■ 目次
  プロローグ
第一章 なぜ正力が原子力だったのか
     メディア追うと原子力発電
     正力マイクロ構想 
     政界進出を決心させたもの
     テレビ人脈と原子力

第二章 政治カードとしての原子力
第三章 正力とCIAの同床異夢
第四章 博覧会で世論を変えよ
第五章 動力炉で総理の椅子を引き寄せろ
第六章 ついに対決した正力とCIA
第七章 政界の孤児、テレビに帰る
第八章 ニューメディアとCIA
     エピローグ


 
 1955年 11月から平和利用博覧会

 1956年 5月19日から科学技術庁長官 (原子力委員長兼務)

 1956年 8月 東海村 くわいれ
 
 1956年 11月19日  訪英視察団の中間報告を受け イギリス製 コルダ−ホール型輸入の意向表明 

 1957年 6月イギリスから発電炉日本へ 
 1959年  12月GECは東海村の原発を設計し建設する契約を日本原子力発電と結んだ 総額1980万ポンド
 1965年 燃料棒を装着し発電までこぎつける が出力あがらす 故障と不具合のオンパレードであった



 『震災・核災害の時代と歴史学』三章日本最初の原子力発電所の導入過程 イギリスエネルギー省文書 「日本への原子力発電所の輸出」を中心に (有馬哲夫著)参照
    


 『原発になお地域の未来を託せるか』  福島原発事故ー利益誘導システムの破綻と地域再生への道 清水修司著 自治体研究社   2011年6月15日発行

 



■ 福島県の原子力発電所のこと 


  地域発展の起爆剤として 原発に 大きな夢を託した
  1号機稼働 1971年3月 双葉町長の談話 民友新聞(1971年3月29日)

  p65 双葉地方は高度開発の条件を持ちながらチャンスに恵まれず、福島県のチベットといわれる状態におかれてきました。なんとかして チベットから脱却したいという気持ちは地域民が常に抱いてきた共通のものでした。だからこそ将来を原発にかけた」

 東通村の村長さんが原発先進地福島を訪れ談「この当たりはやがて仙台のようになる」

 p74 石油ショックが来た 狂乱物価がおこる
 1973年(昭和48年)11月16日、石油緊急対策要綱を閣議決定、「総需要抑制策」が採られる。結果、日本の消費は低迷し、大型公共事業が凍結・縮小された。日本の消費者物価指数1974年(昭和49年)は23%上昇し、「狂乱物価」という造語まで生まれた。インフレーション抑制のために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資などを抑制する政策がとられた。結果、1974年(昭和49年)は-1.2%という戦後初めてのマイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。

  第三次 昭和49年11月11日改造 田中角栄内閣 電源開発の方向を原子力に大きくシフトし画期的な電源三法をつくる


  アサヒグラフ 1988年6月10日号 田中首相談
東京に作れないものを作る。作ってどんどん電気を送る。そしてどんどん東京からカネを送らせるんだ

    1)電源開発促進税法  電促税 電気料金に転嫁し徴収
    2)発電用施設周辺地域整備法 
    3)電源開発促進対策特別会計法 電源特会
        発電用施設周辺地域に 地元の県や市町村に補助金の形で支給

■ 中曽根通算大臣の答弁 1974年5月15日 衆議院商工委員会議録 迷惑施設の迷惑料

        ・・ 電源開発を促進して国民の要求する電力の需要に合うように供給体系をつくっておくということは通産省の責任でございますが、いまの情勢を見ますと、電源をつくるという場合いに、ダムをつくるとか、あるいは原子力発電所をつくるとか、そういうところの住民の皆さんは、かなりの迷惑を実は受けているところでございます。家を移転させるとか、あるいは公害の危険性が出てくるとか、そういう色々な非難がございます。しかしそれで迷惑を受けて発電所がつくられても、電気代が別に安いというわけではない。そのような面から住民の皆さんに非常に迷惑をかけておるところであるので、そこで住民のみなさま方にあるていど福祉を還元しなければバランスがとれない。また電源の開発も促進されない。そういうバランスの意味もありまして、周辺整備法の上程にもなったきているわけでござます。

■ 通産省森下元晴政務次官の答弁 1974年衆議院大蔵委員会議録 

「・・もう一つの要因は(原発)が地元の振興に対して寄与しない。いわゆる装置型の産業でございます。あまり恩恵を受けないということに対してますいわゆる不満感でございます。もう一つはそういう犠牲の上に立ってつくられた電力というものが、産業用とか都市のために多く使われて(地元に)益することがないという感情的な問題も含まれていると思います。


 原子力のリスクを
 貧困な地域に補助金という 熨斗をつけて
   引き受けさせる
     日本的システムである
  人らしく生きる権利を住民に与えよ



  1 故郷に住み続ける権利の維持
  2 原発依存からの脱却
  3 働く権利の回復
  4 復興をバネにした新しいコミュニティーの建設
  5 連携と協働による地域づくり

 地方自治の問題 原子力に地方の自治はない
        コントロールする能力もない

          立地自治体どうしの連携がぢ何らかの体制づくりが要る
          専門家と一般公衆とのギャップと対立がうまれる 専門家が担う責務がある
 原子力発電を
  「地方自治の問題としてほとんど意識してこなかった


 ★★ セシウム敏ちゃんの感想 
 
   海外進出し 世界の中に
  貧困という地域間格差がある システムは格差を作り続けることで  原発は維持され続けるだろう

  廃炉技術を含めた 安全な原発の開発 


 参照図
   








 責任集中とは電力会社は責任があるが原子炉メーカーには責任がないということ 


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