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鷲田めるろ さん編     2014年5月29日   真夏日 
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佐藤:次に311後の建築という企画についてお願いします

鷲田今年(2014)の11月1日から始まる展覧会なんですけれども。今年の10月で この21世紀美術館が開館して10周年になるんですね。で区切りでもあるので今年と来年と再来年の、3年間掛け建築美術工芸グループ展をそれぞれやって。

 でこの10年を振り返りながら次の10年を考えていくというような、そういった中身にしたいという案が出て来て。それの第一弾が建築、第二弾が美術、第三弾が工芸。

佐藤:それぞれ関連させた展示になるんですか
鷲田それぞれですね。別ですけれどもグループ展で割と大規模なもので。これからの10年を考えていこうというような。

佐藤:なかなか難しそうですね。インターネットとかスマフォとかで情報の量が今までの10年より加速度的に増えて来ましたし 増えそうです。ツールもドンドン変わって出て来るし。通信速度も変化しましたし。その中で未来を予測し 考えるというのは難しいですよね


  21世紀美術館の芝生にべた座りし ワイワイ聞きとりました

鷲田
予想するというよりは今の時点で「これから何が重要だと思われるか」ということだと 思うんですけど。予想図を描くというよりはこれからを考えた時に今何をしておかなければいけないのかっていう、ことじゃないかなーと思うんです。

佐藤
:なるほど。美術館から観た建築というのはどのような定義なんですようか。

鷲田:狭い意味での美術から言うと建築とかデザインとかパフォーマンスとか、音楽とか、その辺は美術の外になって来るわけですけれど。
 でも21世紀美術館の場合は割とそういう複合施設として、もともと 色んなジャンルのアートを扱おうとしてきていたし。まずそういうモノも入ってくるというのも当初からのコンセプトでもあって。
 で、もう一つはこの美術館が建物として 結構評価されたというのもあったので。建築に関心のある人も注目してくれているし。
佐藤:グリット街区を象徴的に円で切り取ったかのような形式で 展示室それぞれが町のようになっていて 集合して在り 異なる展示がしてある。

鷲田はい 建物として評価されて海外含めて建築に関心のある人が来てくれるし。
 もう一つは日本と海外というのを考えた時に日本の建築っていうジャンルが国際的にも結構評価が高いし、注目もされていると思うので。そういう意味で日本から建築を発信していくという。

佐藤:建築家を支援するというか援護するというか。世界に向けて日本の建築家の活躍ぶりを発信し 活動の場所も提供していくという美術館の姿勢もあるわけですね
鷲田そうですね
佐藤:建築家の皆さんにエールを送っていると。ありがたいことですね〜
鷲田そうなれば いいなーと。
佐藤:建築家ファン美術館なのでもあると。そういうことを美術館が成されるって珍しことですね

鷲田:そうですかね。ポンピドーセンターにしてもMoMAにしても建築がきちっんとあるし。そうですね 建築部門というのがきちっと あって。建築の専門のキューレターが居るわけなので。そこまではちょっと至れてないと思うのです。


佐藤:金沢21世紀美術館のような建築家が作る象徴的な建築と 鷲田さんは町家に暮らしたり、CAAKの様な古建築の機能を再発見!のような活動も同時に動いてらっしてるんですけど。
 町家は名の無い、主体も分からない、江戸から明治に掛けた建築家的と言っていいのかどうかも分かりませんが、町全体の技術が作り出した建築ではある訳ですね。日常的にそれら2つの特徴ある建築を毎日・毎日行き来しながら、鷲田さんは暮らされているわけですが、そこで建築というモノの事態は一緒なのか どうなのか

 最先端の建築と200年〜100年以上経っても使われている建築を 行き来して、建築に対する考え方というのは うまれるのか?鷲田さんは 独特な体験されていると思うのですけど。
鷲田そうですよね。両方体験できて幸せだなーと思いますけどね

佐藤:建築の見方が改めて変わったとか その当たりはどうですか

鷲田ありますね
佐藤:せっかくなので具体的にお聞かせください
鷲田:まず、どちらも。美術館の方は建築家の考えというのに こちらが驚かされるっていう体験が何度も 設計して行く中でありました自分達が想像してなかったような提案が出て来るっていうことですね。もちろんその中で色んな調整なんかもあって実現したこと、しなかった ことありますけれども。

例えば展示する部屋が独立してバラバラの状態になっている提案っていうのは建築家から出て来た提案だったんですけれど。そういう展示室の在り方っていうのが、あり得るんだっていう事はそれまでは こちらは思いつかなかったので。そういう案を観たときに、そういう手もあるのかって半分思いつつ本当に大丈夫かなー みたいなの

 ともに ははははは

 一方で思っいつつ。

佐藤:10年間使いこまれていかがですか

鷲田
:それは当初のコンセプト通り、使いやすい処もあるし。使うに当たって色々問題を解決しないといけない事っていうのは それに伴って出て来たりもします
佐藤:入りきらない作品とかあるんですか
鷲田それは無いですね。だいたいここに入らない作品ってたぶん運んでこれない。道路を使って運んでこれれない作品なので。もともと動かせない作品であれば、それはもちろん持ってこれないですけど。道路を運搬出来る物であれば そこそこ入れられるんじゃないかなーと思います。

佐藤:日々働かれる職場は最先端建築ですが 住み暮らしている場は町家ですよね。町家に暮らすということを最初から理解して住み始めた訳ではないですよね
鷲田そうですねほとんど関心が無かったですね 金沢に来たときは。

佐藤:偶然 町家を借りることになった切っ掛けを おねがいします
鷲田: いや それは切っ掛けがあって。アトリエ・ワンを金沢21世紀美術館の企画で呼んで町をリサーチするっていうプロジェクトを2007年にやったんですね。

 でその時に私がアトリエ・ワンで面白いなーと思っていたのは例えばペットアーキテクチャーリサーチとか。メイドイン東京のリサーチとか。 そういう町の中で見過ごされているような建築の面白さを 再発見する ような処が面白いなーと思って。

 で金沢21世紀美術館が元々  町との関わりが強い美術館として造られて。オープンして。オープンしたときはどう回していくかとか、どうして来てもらうかとかが中心になっていたんですけれど。

オープンして3年、4年経って そちらの方も回りだいしたときに、また町の中に美術館が一つの拠点として展開して行くということを出来たらいいなーと思って。

 それでその切っ掛けになればいいなと思って、アトリエ・ワンに来てもらって町のリサーチをしよういうことで。

リサーチ始めて、その中で塚本さんと貝島さんたちアトリエ・ワンの人達は町家が面白いから町家のリサーチしようって事になって。「あー??そうなんですか」みたいなことに ふふふふ

佐藤:塚本先生と仲間の活動経由で鷲田さんは町家好き〜になったんでか! ふふふふ
鷲田なったんですよ
佐藤:町家に巻き込まれてしまったと。今回my活動している滞在拠点が、アトリエワンと学生の方達が改修した町家ですね。
 
 滞在した 横山町の町家 

鷲田:それも そのリサーチが切っ掛けになって出来てきて。でそれ以降 町家を割とよく見るようになったっていうのは一つの切っ掛けで。

 あとは 丁度その頃に、これはどちらかというと 林野の方で「町家に住みたい」みたいな話しがあって。それまでは6階建てのビルの4階とかにワンルームで借りて住んでいたんですけれど。そこは私が1人で住んでいた所で。結婚してから「手狭だし、台所も狭いから引っ越したい」というのは前から言っていて。その中で町家の物件があるからそっちに引っ越したいということで。

 私はどちらでもよかったんですけれど。町家の方が広いし。値段もあまり変わらずに引っ越せたので、引越をしたというのが町家に暮らし始めた切っ掛けです。

 もともと京都で 私は凄い古い日本家屋住んでいたので、どちらかというと慣れていて、彼女の方は木造の日本家屋に住んだ経験が無くって。だからむしろ新鮮な感じで住み始めたということだと思いますね

佐藤:アトリエ・ワンご夫妻 町家再発見〜では こういうシステムだというような 再解釈の仕方を調査しながら たぶん教え込まれたんだろうと。 リーサーチを企画した鷲田さんと共にお互いが探り当てたといますか。そういう流れになったんだと思いますけれど、目から鱗といいますか ですね。どいうい所が印象の残っていますか。興味が無かった 町家にどんどん巻き込まれて来たわけですが。で「こんなの家!」など色々ありそうですが

鷲田
町家が元々おとか工房とかと住居を兼ねている建物であるっていう、ことによる面白さっていうのは自分にとっては割と新鮮でしたねー

 それまで住んでいた家も古い木造の家ですけれど。それはお店とかではなくって。純粋に住居なので。そういう半分町に開かれたようなそういう建物の面白さっていうのはありましたね

佐藤
:戦後 機能を小分けして住む所と働く所を分けて 合理性を追求しすぎました。暮らすと働くの 機能が分かれたまま 現在でも建築が作られ続ける という事態があります。

 町家のような古い建築は働く暮らす そこが未分化のまま、そこが生産拠点だったり商売の拠点だったりしつつ 外部の人と交流しつつ 自分達の暮らしも守られていた。奥にはこじんまりした庭も設えて在ったりして。そういう合わせ技的建築の形式は戦後 すっかり忘れてしまい、目的合理的に従い人間は生産し続けてしまい 他者と関わって生きているんだ ということを忘れて 役に立つ者 立たぬ者と仕分けし生きてしまいましたね。

鷲田:まだ金沢の場合は町もそんなに大きくないから、生産、生活の場所と仕事の場所っていうのがそれほど離れてもいないし。仕事場での人間関係と生活での人間関係っていうのが重なって来る部分とかも出て来るし。

 そういう意味では建物が実際に古い町家が残っているだけじゃなくって、そういう人間関係の太さみたいなものが町に残っているというのは町屋の形式とは合っているかなーというのもありますね。

佐藤:たまたま横山町の町家で寝泊まりして 、床の間に偶然建築雑誌が置いてあったので 改修が終わったあとに鼎談されていたのを読んだんです。
 塚本先生はビックブラザーと言いますか 確たる主体が町家を作り手に入れた近代人が ああいう建築形式を残したんだけど、発注者というか お店の人達が まったくこの世から居なくなって、建築の形式だけが残されていて、それをどういうふうに今生きる私たちが使っていくのか、といいますか ゲストハウスをみんなで運営するように 分解した主体が緩い連なりと集合で維持していきたい というような意味のことが書いてありました。
 普通に考えると しっかりした主体を古い町家に招きいれ美術館にしてしまうとか 商売上手な方に委ねてしまうとか。 そうなると強い主体を入れ替えた〜 しか出来たことにならないのですね。 今の我々のような へなへなの主体たちが集合連携することによって古い町家を共有して活用し新しい生活の形式として再生させするんだということが好いのではないかと書いてあったので、そのことが印象に残ったんですけれども。

たまたま 僕の生き方にとっても都合がいいことなので、印象に残ったんです。ふふふふ

 長年色々な所有者がハッキリしている住宅や建物に泊まり歩いる老人の俺です。 聞き取り活動をしているので、日本の家屋は誰かの物であると極論も出来るし。
 所有しないことによって豊になるという手法も実践しているし、建築家と言われてもいたしたので。

 建築は 個人の所有者にだけに還元する仕事ではないんですねと言い続けてもいます。 大きな主体が1人あって、その建物を一つの機能で使い切っていくということを終わらせて、小さな主体の連合が関連し合う することによって建物の機能が複雑かつ多義的に どう展開していくのかという点が興味深く、そのような事を語っていました。雑誌にも同様なことがあったと思いました。

 過去の個人の所有物・建築を皆で共有するのが第一歩のであって、と その当たりについてはどうお考えですか

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