石川初さんに聞く 2021年5月8日午後15〜  作成:佐藤敏宏


目次
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01
■ ZOOM 聞き取りはじまる

佐藤:こんにちは。
石川:こんにちは。
佐藤:まだちょっと早いですけど、今日はよろしくお願いします。東京は暑いですか
石川:そうでもないです。
佐藤:福島はすごいいい天気です
石川:はい ちょっと準備しますね (準備している)佐藤さん、久しぶりです。
佐藤:そうですね、10年ぶりぐらいですよね。
石川:そうですね。
佐藤:311後、樫原徹先生の家で会いました。覚えてますか、覚えてないですね、大震災直後、義援金をあの時いただきました。ありがとうございました。

石川:横浜で。
佐藤:ああ、中津先生の授業ですね。
石川:そうそう、あれは2014年とかです。
佐藤:そうか、関東学院大学、横浜の授業で会いました。ツバメアーキテックのメンバーが参加していた、WSみたいな授業ですね。
石川:吉村靖孝さんの采配で、ツバメとか403のみなさんとか岩瀬諒子さんとか、中川エリカさんとか冨永美穂さんとか、揃ってましたね。
佐藤:あまりにも、お久しぶりで、お互いいろいろありまして。私は年老いただけですが、お互い元気そうでよかったです。先生になられて、おめでとうございます。
石川:ありがとうございます。

佐藤:博士論文は今年出されたんですか。
石川:去年の今頃、出しました。
佐藤:どんなタイトルの論文でしたか。
石川タイトルは「ランドスケープ思考」ですね。
佐藤:じゃ先に刊行された『思考としてのランドスケープ』とは、関連づいてですか。
石川:関連づいています。逆なんですよ、いろいろ逆になっちゃったんですよ。普通は博士論文を書いて、それを本にするじゃないですか。そういうふうに行かなかったんですよ。
佐藤:でも、博士号を取得されてよかったですね。
石川:よかったです。
佐藤:これからは石川博士と呼ぶことにしましょう。みなさん博士になっていきますね。すごいです。
石川:大変でしたけど、必要な経験でした。

佐藤:ZOOMに、どなたか入ってきましたので、ここから始めちゃいますか、もうちょと待ってますか。
石川:そんなに広く呼び掛けていないんですよ。今、写っているのは慶応の学生なんですけど。大学院生です。

佐藤:よろしくお願いします。
院生:初めまして、よろしくお願いいたします。
佐藤:石川先生の教え子さんですか。
石川:いえ、同僚というか、もっと長くいる。先輩の先生の研究室にいる学生です。
佐藤:もうしわけないですね、土曜日の午後に参加してもらって。
石川:いろいろご縁があって、高校生のときから知っているんです。
佐藤:ははは、そうですか。10年以上前、知っているということですか。
石川:そんなに長くないですね。6年ぐらいですね。
佐藤:それはそれは どうもよろしくお願いします。
石川:研究室から2人、今、来てますね。

佐藤:私の方からは中村謙太郎さん。『住宅建築』編集をやっていました。
石川:中村さんは今なにをおやりになっています。
佐藤:現在はフリーの編集者です、ご存知でしたか。
石川:え、昔から知っています。一度何だっけ。
中村:『チルチンびと』という雑誌。
石川:取材して記事にしていただいたことがありますよ。
中村:「東京散歩」みたいな記事です。言うは易し、やるは難しかったでけどね。今日はよろしくお願いします。




石川初 略歴
1964年生まれ 慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科/環境情報学部教授。登録ランド・スケープ・アーキテクト(RLA) 鹿島建設設計本部、HOKプランニンググループ(米国)KAJIMA DESIGNランドスケープデザイン部、ランドスケープデザイン設計部を経て現職。 主な著書 『ランドスケール・ブックー地上へのまなざし』2012年  『思想としてのランドスケープー地上学への誘い』2018年 『近和次郎「日本の民家」再訪』2012年 『復興の風景像ーランドスケープの再生を通じた復興支援のためのコンセプトブック』2012年 『ドボク・サミット』2009年 『都市/建築フィールドワーク・メソッド』2002年 『ランドスケープ批評宣言』2002年

主な著書
『ランドスケール・ブックー地上へのまなざし』2012年 
『思想としてのランドスケープー地上学への誘い』2018年
『近和次郎「日本の民家」再訪』2012年
『復興の風景像ーランドスケープの再生を通じた復興支援のためのコンセプトブック』2012年
『ドボク・サミット』2009年
『都市/建築フィールドワーク・メソッド』2002年
『ランドスケープ批評宣言』2002年

























2000年頃 六本木ヒルズで

佐藤:私が司会をして、始めていいですかね。
石川:はいどうぞ。

佐藤:石川先生は 博士はです、僕と17年前、もっと前ですね。六本木ヒルズ・オープンした時に、石川先生と芝生を植え管理して。僕は田中浩也さんと一緒に多次元フォトコラージュ(フォトウオーカー)で都心の都市再開発の様子制作していました。
石川:芝生って、なんでしたっけ。
佐藤:森ビルに芝生しいて、東京ピクニッククラブの芝。
石川:ピクニッククラブか〜。あれはね、もっと後ですよ。太田さんたちとの芝を展示した作品ですね。

佐藤:なぜか、20年前ぐらいに会いまして、激しく「俺の家に来て講演して」と連絡していました。
石川:佐藤さんにはいろいろお世話になっているわけで、今回も、喋れということなんので。
佐藤:すみません、門外の人間(私)が、ものも知らない人間が、勝手に石川博士に「喋れ」と呼びかけて、話を聞いちゃおうということです。不届き者なんですけど。
我が家で、前回・2004年、石川さんと「建築あそび」での記録はリメーク版にし、4月21日にアップしておきました。みなさん興味がありしたら見てください。

石川:ありがとうございます。懐かしいですね、18年前か。
佐藤:参加者全員と雑魚寝までさせちゃいまして、新コロナ時代ではありえない人との距離が成り立っていた関係でした。


2004年3月27日「建築あそび」で雑魚寝 右 田中浩也さん 左手前から石川初さん 藤村龍至さん べラ・ジュンさん

石川
:あの時、生まれたばかりだった子供がもう高校3年生、高校卒業しましたよこの春に。
佐藤:それは、それはおめでとうございます、大学生ですか。
石川:今、勉強してます。

佐藤:今日のゲスト、石川さんはIT機器を常時身に付けて、地形とか、移動することによって、ったり、記録したり、たり、ったり、本をつくったり、ということで。僕からみれば、21世紀の新しい暮らし方を発明している人だなー、と思って、楽しい人なんです、石川さんのような人が沢山ふえるといいなーと。
石川:はははは、そういう時もありましたね、最近ちょっと、あんまり活動できていない(註:1)

佐藤:最近は研究室に引き籠り切っていますか。
石川:いや、そうでもないです。今は自宅が多いですね、授業がオンラインになっちゃったんでね。
佐藤:石川さんにとってオンライン授業は楽なのか、寂しいのか、どっちだか分りませんね。
石川辛いですね!。
佐藤:そうか、移動することで石川さんに成るですからね。そうですか。
石川:大学で学生たちと面と向かって、直接やっている方が、ぜんぜん楽ちんですよ。
佐藤:オンライン授業は沈黙の世界ですか、途中で質問とか入ってこないんですか。
石川:オンラインだと後でメールで質問来ますね。オンラインの方が手間が掛りますね。

佐藤:私はオンラインで聞き取りはじめ、ZOOM契約したばかり、3日目なんです。楽ですね。
石川:佐藤さんは今ご自宅ですか。
佐藤:そうです。
石川:あのコンクリートの家。
佐藤:仕事場です。天井など、部屋内部の六面は放射能沈着に怯えてガムテープ貼りまくって、その痕跡、私が剥がしたんですが、跡が残っています。フクシマ放射能対応の痕跡が残っています。





上記論文 PDFへ 



絵:WEBより ピクニック権を実践
東京ピクニッククラブ活動事例記事






























絵:WEBより2020年1月16日厚労省会見

(註1:2020年初頭から新コロナパンデミックとなる 報道・記事は2020年1月8日から目立ちはじめ1月30日までは武漢の話が多くクルーズ船記事は1月21日マスク不足は1月15日からと伝えられている





■ 呑めない石川さんと 呑み会で会う

石川:佐藤さんとお会いしたのは、六本木ヒルズのオープンニングのイベントの後の呑み会ですよね。
佐藤:そうでしたか。石川さんの記録のリメーク版つくるときに写真を探したら、あのときの絵も出てきて、石川さんも写ってましたんで貼っておきました。

石川
:森ビルが六本木ヒルズの森美術館を開くのに、オープニングのイベントで「東京都市展」という展示会をやる、ということで。都市展の企画を寺田真理子さんたちが受けて。寺田さんが五十嵐太郎さんを呼んだんですよね。五十嵐さんが声を掛けた仲間たちが集まって。南さんとか、田中浩也さんとか、太田さんとかいて、俺も呼ばれたたんですよ。ほとんどそこで初めて知ったんですけど。  紆余曲折あって、大変だったんだけど。オープニング終わって森ビルのプロジェクト始まって、オープニングに尽力した人たちの呑み会という、打ち上げがあって、打ち上げに行ったんですよね。そしたら田中浩也さんが「最近開発したフォトウオーカーっていうのを、すごい変わった使い方をして人が居る」って言って、紹介されたのが佐藤さんだったんですよね。

佐藤:私はすっかり忘れていました。私はフォトウオーカー(多次元フォトコラージュ)開発者である田中浩也さんに「お前の使い方はおかしいぞ」と彼の使い方に、けちを付けていました。ソフト開発者にケチをつける不届きなお爺さんだったんです。田中先生は「写真をみんなで参加していただき、つないでニューヨークまで行くんだ」と提案してたんだけど。私は、写真をつないで人間の記憶、脳の中に入っていく、行き来するのがいいんじゃない、と。真っ向から対立していたんです。博士論文を書く際にお手伝いした感じかな〜。で、その関連で石川さにもお会いすることになったと。

石川:田中さんあれで博士号をとってるんですよね。
佐藤:あの博士課程の方はおおかたそうなんでしょう。が、当時は田中さんは孤立していて、仲間に声かけ集めるんだけど「こんなの手伝っていられない」とみんな散ってしまって、誰もいなくなって。「俺だけ〜」で東京を撮って、フォトコラをこつこつ作りました。それが面白いから、田中さんの代々木の木賃ハウスに泊まり込んで、東京都内を撮りまく。原広司さんの自邸も撮りまいした建築文化CDになってますね。
 でもグーグルの検索エンジンとかストリュート・ビューとか出来ちゃって、萎みました。日本では若い人に投資しないし、人材も集まってこないので、田中さんは出遅れてしまい、世界的競争には勝ち抜けず「可哀そうだなー」と。「IT、最前線の世界での競争は厳しいなー」と思いまいした。

石川:でも、今から思うと、田中さん、グーグルのストリート・ビューとか出る遥か前に田中さんはフォトウ・オーカーやってたので、早かったですよね。感度がいいというか。面白かったですね、
佐藤:言葉をつないでみんなで物語りをつくる試作もしてました。フォトコラ、あのソフトは多様に使えるので面白かったです。他者の写真を投稿してつないで違う世界に、行き来するんだったら、さっきも言いましたけど「人の脳の中の記憶・思考を可視化できるよ」と。石川先生が実践している時層写真とか、風景写真の中の時を遡ったり。そういう使い方もおもしろんじゃないのと。盛んに議論したのを今思い出しました。昔話をしていると、いつまでも終わらないので。

石川:はい、どうしたらいいでしょうか、特に用意しているわけではないので。、




2003年4月25日オープン予告 電車中吊り広告 


五十嵐太郎さん 石川初さん

寺田真理子さん 南康裕さん田中浩也さん

寺田真理子さん 菅野裕子さん
五十嵐・妹さん 俺
1964年 京都で生まれる ルーツ (生い立ち編)

佐藤:では私が質問をしてく、その感じですすめます。最初の40分間は「生い立ち編」といことで、私は色んな人の聞き取りをしているんで、生い立ち編は恒例ですけど、石川さんの生い立ちを聞くということで、よろしくお願いします。裏とりはできなので存分にお願いします。

石川:生い立ち。

佐藤:どこで生まれました、1964年東京オリンピック開催した年に生まれて。日本がイケイケ時代ですね。
石川:覚えてないですけどね、ふふふ。
佐藤:私は中学生でしたが、全校生一堂にかいし開会式を観る、そんな授業がありました。1964年は覚えてます。どこで生まれたんですか。

石川:生まれた場所は京都の藤森国立病院というところなんですけど。京都市の南の端ぐらいなんですけど。
両親は、父は石川家の、本家はもともと横浜なんですよ。父は、祖父が横浜から、一度、戦時中に群馬県の桐生に行ったりして。石川家の本家は「大和屋」というシャツ屋だったんですよ。ワイシャツの仕立て屋です。明治時代、横浜に「大和屋」というシャツ屋をやっていたんですね。石川清右衛門という、私の曽祖父が横須賀辺りの出身らしいんです。横浜に在った雑貨商みたいな所へ婿入りして、横浜が外国人居留地になったので、あそこだけ開港して、外国人が居たじゃないですか。アメリカ人とかイギリス人とか、彼らを相手に商売をしていたらしんですよ。ワイシャツとかを、「いずれ日本人もこういうものを着るようになるんじゃないか」と思ったらしくって、ゴミ箱から拾って来て。それを分解して、研究して、国産のワイシャツを作り始めたんですて。というマニアックな奴だったんですよ。
佐藤:面白い人ですね。

石川:明治維新が来て「日本人も西洋人のような恰好をしなければいけない」という事になったときに、国産でワイシャツを作っているのは大和屋だけだったのですよ。
佐藤:それは大繁盛しそうだねー。
石川めちゃめや繁昌したらしんですよ。明治天皇のワイシャツを作るのに一般人、平民は触っちゃいけないので。2mぐらい離れた所からこうやって(実測している格好をする)っていう伝説が石川家には残っている。
佐藤:そんなんじゃ〜正確な採寸できそうもないですけど。ふふふふ。

石川
:一時期、ニューヨークに支店が在ったんですよ。今はないけど。今の横浜の山手の辺りにね本拠地が在って、工場とか在って、広い土地を持っていて。大和町っていう町名になって残っています。(参照:石川清右衛門さん23歳、1878年イザベラ・バードが見た横浜へ)

佐藤:すごい、どこで没落したのか聞きたくなりますね。
石川:世界恐慌と関東大震災ですね。
佐藤:それなら福島市周辺の繁栄と没落の道は一緒ですね。日銀支店や支所があったほと生糸製品が海外で売れていて、大繁盛の地だったんです。その二つで没落したと、それまではいけいけ土地だった。

石川:あと、第二次大戦の空襲で工場も何もかも焼けちゃったそうで。
佐藤:今でも石川町・大和町あるんですか、地名として残るのは初耳でかっこいいね。
石川:あります、土地はいろいろ持っていて、今は不動産を管理する会社が本家のビジネスです。だけど石川家のシンボルなのでシャツ屋は。シャツ屋はぜんぜん儲からないんだけど、残しています。
佐藤:シャツ屋さん明治維新150年後の今も在ると。
石川:銀座に在ります。銀座に大和屋シャツというので検索すると銀座の大和屋シャツ店のWEBサイトが出てきます。

佐藤:石川さんは、そこで仕立てたシャツを着ているんですか。
石川:とても、すごく高いんですよ、まじめにやると1着4万とか5万するので。
佐藤:それでは、石川さんはシャツもそうとう詳しいですね。
石川:イタリアのシャツ生地を使った、マスクとか有ります、これは買いました。すごいいいですよ。布マスクなんですけど。肌ざわりめちゃめちゃいいんで。よ。ふふふふ。(新品のマスクを数枚掲げる)

佐藤:桐生産の生地ですか、桐生という話がでましたけれど。絹ですか。
石川:桐生は繊維の町でね、あそこに工場が在って、そこに勉強に派遣されるみたいな感じで行っていたんですね。第二次世界大戦・戦時中そこにずーっと居て、子供達が生まれて、そのうちの一人が家の父だったんですね。父は桐生で生まれて。基本的に石川家のベースは横浜なんですよ。

佐藤:お父さんは桐生で生まれて何をされていたんですか。

 その02へつづく


(下絵 YAMATOYA HPより)



1964年10月10日東京オリンピック

1964年10月1日東海道新幹線開業



絵2枚 大和屋HP より 関内弁天通り
大和屋1876年石川清右衛門・独立
 

石川清右衛門 1855〜1936


絵:大和屋のシャツ webより








1878年4月横浜、石川清右衛門さん(23歳)。イザベラ・バードさん(47才)は横浜に上陸した。伊藤鶴吉さんを通訳として雇い、女性一人で本州の内陸(東北)と蝦夷(北海道)までの旅をしその記録『日本奥地紀行』1880年に刊行。内容は研究書ではなく「当時の旅先で日本の様子を妹と親しい友人たちに書いた書簡を中心とする形式にした」とある(完訳日本奥地紀行1-P26)

2021年ZOOMききとり143年前(人口3435万404人)イザベラ・バードさんが体験し記録した横浜の様子の一部を以下に抜粋しておく

(完訳日本奥地紀行1-P44〜より
第一報 第一印象 初めてみる日本の眺めー 夢のように美しい富士山ー雑然とした都市ー日本の艀ー人力車ーみっともない移動姿ー紙幣ー日本の旅の障害
・・・
夢のように美しい富士(山)
・・・・
 灯船の近くから内側は湾入して美しい湾を形成し横浜港になっているが、そこから北へは、江戸から名を改めた東京まで20マイル(32km)にわたって江戸(東京)湾が続き、その薄青色の海には白帆をたてた漁船が無数に点在している。(横浜で)最初に目を引くのはブラフ(断崖 山手)とバンド(海岸通)である。このブラフは、左手の方は(居留地から見てる)低い山の多数の尾根が急崖をなして海に臨み、右手の方(西側)は内陸に向かって低くなり、大小のバンバロー風の住宅や英国・ドイツ・米国の海岸病院の建物が一面に建っている。後者には旗竿が立っている。他方、バンドは海岸に沿ってたいへん長く続いく不整形な平坦地で、石を敷いた堤防の上にある。山手の下には居留地があり、その大部分は外国人街、一部は日本人街になり、後者には灰汁色の家と灰汁色一色の屋根が、広々とした平地一面に広がっている。

幕末の横浜 折れてるとこ切り妻・屋根が英国教会 献堂式が1863年に行われた 一角が居留地のようだ 『蘇る幕末』より 

雑然とした都市 横浜はどうみても立派とはいえない。これほど雑然とした都市は外に例がない。ブラフ(山手)はボストンの郊外を思い起こさせ、海岸通は亜熱帯と錯覚させる点はあるもののバーケンヘット(イングランドの港湾都市)の郊外を思い起こさせる。他方、日本人ガイ街はみすぼらしく美的価値に乏しく、勤勉なのに貧しいとしか言いようのない様相を呈している。海岸通り沿いにはグランドホテル、インターナショナルホテル、クラブ・ハウスやいくつかの「洋行 ホン」つまり商館がある。そのうち最も古いジャーディン・マセソン商会は一番地にある。これらの建物はみな低木の植え込みのある庭の中に建っており、海辺との間は広い馬車道になっている。また、ここには英国領事館・合同教会その他2,3の(洋館の)建物や、日本郵便局・税関・裁判所や倉庫のような建物がある。これらのうち、英国領事館はとても不細工だし、一部がハワイ諸島からの寄付によって建てられた合同教会はあまり人目をひかず、その他の建物もたいていは目障りである。日本の郵便局・税関・裁判所はいずれも新しく、外国人建築家の手になり、造りは西洋風でしっかりとしているものの、倉庫群のように見える複数の建物は品位を欠き雑然と建っている。(絵:海岸通り5番に在った横浜ユナイテッド・クラブ)
<波止場>といわれる突堤(ジェティ)が二つある。一つは英国のもの(西波止場)、もう一つはフランスのもの(東波止場)である。防波堤まがいのものが突き出しているだけの代物で、斜めになった側面は仕上げが施されていない石で覆われている。ドックもちゃんとした埠頭もない。ほとんど蒸気船である大きな船はその停泊地に列をなし、(艀によって)荷揚げや荷下ろしを行っていた。また、英国、フランス、アメリカ、イタリア、そしてロシアの国旗を掲げた、装甲艦や木造の戦艦がみたところ友好的に浮かび、それらに混じって日本のコルベット艦(船団護衛用の小型艦)が一艘、白地に赤い丸のついた日本国旗をたなびかせている。この船は最近英国で建造されたものである。商船の中には函館と上海から来た、三菱会社所有のすばらしい二艘の郵便船があった。この海運会社は日本の沿岸貿易と中国との貿易を徐々に独占しつつある。(絵:イギリス波止場)
 私が乗った船の乗客は多くが(中国への)帰国者で、またその全員が友人に出迎えてもらえることになっているので、大騒ぎだった。その中にあって私だけは、不案内な横浜の味気ない風景や眼前に広がるおぼろは土色の陸地をぼんやり眺めながら、一人として知人のいないこの土地でどんな運命が待ち受けているのだろうと、少し沈んだ気持ちで思いめぐらしていた。船が停泊すると、外国人が(サンバン)と呼ぶ日本の小舟、艀が多数、ワッとやってきて、船を取り巻いた。そこへ私のヒロの友人たちの近視者であるギューリック博士が自分の娘を迎えるために上船してきた。そして私を温かく迎え、上陸までの世話を万事してくださった。これらの小舟は見かけはとても不細工ながら、船頭たちは実に巧みにそれを操り、お互いに当たったり当たられたりすることはしょっちゅうでも大して気にもせず、船頭が怒鳴ったり罵ったりすることも、通常ではよくあることなのに、まったくなかった。
 やや三角形的な形をしたこの小舟の形状は、英国の一部の川でみられる平底の鮭漁船に似ている。床板が張ってあるので、外観は完全な平底船のように見えるが、すぐ一部の川でみられる平底の鮭漁船に似ている。床板が張ってあるので、外観は完全な平底船のように見えるが、すぐ傾くものの非常に安全である。造りがしっかりしている上に、たくさん木螺子(もくねじ)と少数の銅製留め具を実に整然と打ってあるからである。小舟は二人ないし四人の男が船外張出材に取り付けられた非常に重い二本の木製の櫓(オール)を漕いで進むのだが、私たちの言い方だと櫓を漕ぐというより、(櫂)で水をかくという感じである。男たちは腿を櫂の支えにして立ったまま水をかく。彼らはみな袖の幅が広く青い木綿の粗末な単衣の上着を、腰の部分を帯で締めないまま着ている。また足の親と他の指の間に留め紐(鼻緒)のある草履をはいている。かぶりものを被っていることもあるが、青い(正しくは紺)木綿の布切れ(手拭)を前結びにしているだけである。上着といっても申し訳ない程度のものであり、痩せて(猫背のために)凹んだように見える胸ははだけ、痩せているが筋肉質の手足もむき出しになっている。皮膚は真っ黄色で、多くの者は一面に怪獣の入れ墨をしている。艀の料金は運賃表で決められているので、上陸する時に法外な料金を要求されることがない。(絵:屋台)

男たちと小人 上陸してまず印象的だったのは浮浪者が一人もおらず、通りにいる男たちが小柄で不格好で、顔は人が良さそうだがしわくちゃで貧相で、蟹股で猫背で、胸がへこんでいるように見えるものの、みな自分の仕事をもっていることだった。上陸用雄階段をあがった所に屋台が一つあった。小ぎれいで、実にこじんまりとまとまり炭火を使う七輪と調理器具と食器が揃っていた。ただあたかも人形が人形のために作ったものであるかのようにみえた。屋台の男の背丈も5フィート(152p)に届かず、小人のようだった。関税ではヨーロッパ風の青い制服を着、革の長靴をはいた小柄な役人の検査を受けたが、非常に礼儀正しく、トランクを開け注意深く調べた後、紐で縛り直してくれた。同じ仕事をするニューヨークの関税のあの横柄で貪欲な連中と対照的で、面白かった。

不格好な乗り物・・・・



第6報
 中国人と従者 (Pー78) 横浜日本対する、印象がだいぶ変化していることに注意 (絵:福沢諭吉さん)

ヘボン医師ー横浜山手ー「中国人」ー買弁ー従者の雇い入れー伊藤の第一印象ー正式契約ー食料問題 
 6月7日英国公館にて

 私は1週間の予定で横浜に出かけた。ブラフ(山手)に住むペボン医師夫妻を訪問のためだった。香港のバードン主教夫妻もこられており、とても楽しい滞在だった。ペボン医師はここに19年住んでおられ、外国人居住者としては最古参の一人である。同師は旧体制(レジーム)下のよくわからない時代に医療宣教師として来日し、資格をもった医療従事者のいる病院や医療施設を日本人が開業する以前に、年間7000人もの患者を受け入れてこられた。患者は同師の診察を受けるためにずいぶん遠くからもやてきた。同師はキリスト教の話を聞いてもらう機会を確保するために診察を行うことが今の日本で必要なことだとは考えず、健康をそこねたこともあって医療活動からはすでに退いておられる。また日本のさまざまなことに関して広範は知識を有しておられ、その権威ある和英辞書は、13年にわたってほどんど独力で言語研究に努力してこられた成果である。同師は現在新約聖書の日本語への翻訳を三人の学者の一人として進めておられる。そして平真信徒ながら、横浜の日本人信徒の集会の責を担ってもおられる。その幅広い知識、科学的才能、冷静な判断力、そして偏見のなさが相まった、たいへん興味深い人物である。日本人に強く入れ込んでおられるわけではなく、日本人の将来について必ずしも楽観的なわけではない。日本人には堅持す佐賀欠けていると明確に考えておられる。
 山手はとても美しい。ニューイングランドと同じ美しさがある。すべてのものが小ぎれいで、小ざっぱりしている。急な坂道を伴ってうまく地取りされ、その両側には平屋の瀟洒な家が、密植された低木と生垣やツツジ・バラなどの背丈の低い花木で半分隠されたよになって並んでいる。花木が真っ盛りなので品のよい庭は華やいでる。丘の傾斜がたいへんきついので、海側も陸側も眺めがよく、朝と夕方にちらりと見える富士山は実に荘厳である。眼下には日本人の町が展開し、見たこともないものにあふれている。ただまだほんの輪郭さえ掴めていないので、今のところは、見えるものを記そうという気持ちにはなれない。日本は実に古臭くて精緻な文明を有する深遠な国であり、見たことがないものが多く、まるで他の惑星に出かけてきたようである!(絵:山手へ上る坂))
無くてはならない中国人 横浜では、小柄で薄着で一般的には貧相に見える日本人とは全く異質な東洋人を見ずには一日が終わらない。日本に居住する2500人の中国人のうち1100人以上がここ横浜にいる。もし突然彼らが追い払われるようなことがあれば、商業活動はただちに停止してしまうだろう。どこでもそうだがここでも、中国人移民(華僑)はなくてはならないものになっている。通りを行く彼らの足取りは軽く、このうえなく自己満足しているような雰囲気を漂わせ、まるで自分が支配する側の民俗の一員であるかのようである。背が高く大柄なうえ、重ね着し、立派な錦織の上着(馬掛)を着、足首のところで絞った儒子(サテン)のズボン(套褌)を覗かせ、爪先が幾分上に反りえった黒襦子製の踵の高い靴をはいているので、実際よりもっと背が高く大柄に見える。また頭は後頭部だけ残して剃り、その髪の毛は、財布の口を縛る黒い撚糸をたくさん使って編み、膝まで届く弁髪にしている。そして頭には椀を伏せたような帽子(瓜皮帽)を、後ろ寄りにかぶっている。糊のきいた黒色の帽子を被っていない中国人は全くみかけない。顔の色は真っ黄色で、切れ長の黒い目と眉毛はこめかみに向ってつり上がっている。また髪を剃ったあとは全くなく、「顔の」皮膚はつるつるである。見るからに「裕福」そうである。いやな顔つきではないとはいえ、中国人を見た人は、我は中国人なるぞといった感じで見下されているかのように感じるだろう。また、もしある商会で何か尋ねたり、金貨を札に(紙幣)に両替しようとしたり、汽車は汽船の切符を買ったり、さらには店で釣銭をもらおうとすると、必ずや中国人が現れる。通りでは用があるだと言わんばかりの顔つきで威勢よく通り過ぎていく。人力車に乗って急いで通り過ぎていくのに会えば、それは仕事に精出しているのである。謹厳で信頼もできるが、雇い主から金をくすねるというより、金を「搾り取」って満足する。人生お目的は唯一金なのである。というわけで勤勉で忠実で、自己抑制的であり、それによって報われるのである。(絵:中国人召使 長崎)
 横浜に着いた人は一時間もたたないうちに「買弁・コンプラードール」という、かって聞いたことのない言葉を耳にする。中国人がこの外国の地域社会で信頼を得て、とくに商業活動にあってはそれを幾分牛耳っていられるのは、この買弁としてである。どこの商会も中国人の買弁を抱えており、召使頭や仲介人をしているが時には暴君にもなる。日本では生産者、否たいていは仲介業者でさえ「欧米の」外国人商人には会わず、中国人「買弁」を介して取引をする。彼らは「ピジン=商取引のために用いる補助言語」日本語に「ピジン」英語を交えるだけでなく、当地で主に用いられている漢字を知っていることも生かしてことをなす。雇い主の要請に一定程度従いながら、商品の仕入れや販売、人夫の雇用や人夫への賃金の支払い、両替その他の多くを処理するのである。買弁は、外国人の商人からは信用され、正当な「手数料」だと見なしているものを嫌がらず支払ってもらっているものの、日本人の商人からは毛嫌いされている。買弁がすべてに対して「手数料」を強要する一方で、自分たち買弁の強奪を阻めないからである。中国人は買弁でなければ両替商か仲介業者か店員である。だから中国人がその気になればいつだって横浜の資金調達は立ちゆかなくなってしまう。ここでは、艶のあるよい服を身にまとい、ものごとに動じず「ふてぶてしいまでに寛 いだ」中国人に頼み込まないことには、自分の所持金がいくらの値打ちがあるのか、為替レートがどうなっているのか知ることはできないし、資金調達がどうなっているのかも皆目わからない。日本人の礼儀正しさはその物腰や言葉づかいに関しては卑屈と言えるほどなのに対して、中国人は気ままで、横柄といっていいほどである。死後も生きている間も、中国人は誰にも借りを作らない。自分たちの慈善団体・同業組合や寺院をもっており、不幸にして生きて母国に戻りそこでお金を使うこということができない場合があるとしても、遺体を永眠のために母国に運んでもらえる手筈をきちんと整えている。これほど勤勉で逆境をものともしない国民性は日本には存在しない。・・・・


農村の子供たち

その02へつづく