HOME   佐藤敏宏が作成しました     2013年  
 
福島第一原子力発電所の事故によって起きている様々な問題を勉強し始めました 勉強過程の記録をつくってみますご活用ください
葛尾村における避難と復興に向けた取り組み 金谷さんによる講演 (2013年2月22日
01 02 03 04  05 


 文字だけ頁へ 

 村のサイトへ
 

 e 01      

  みなさん こんばんは 

     会場 こんばんは こんばんは 

ただいまご紹介いただきました葛尾村副村長の金谷と申します。本日は寒い中、お忙しい中、御来場いただきましてありがとうございます。こういう場は不慣れでございまして、なかなか皆さんに上手くお伝えできるかどうか心配なんですが。

今野先生の方からお話を頂きまして、村長が「おまえ行ってやってこい」ということでしたのでお引き受けいたしまいした。

 「葛尾村における避難と復興に向けた取り組み」ということで、避難してまもなく2年になるわけですが。その際のことをちょっと思い出しながら、まとめてみました。あった事、事実を申し上げて、今後 村としてどんな事を取り組むか?っていうこと等を紹介しながら進めたいと思います。よろしくお願いいたします ではすわって進めさせていただきます。失礼します(着座)

2:30 これ(投光された絵)はうちの村の森林公園のもりもりランドという所の芝生の広場なんですが。うちの村、このように阿武隈山系の中の小さな村ではありましたが、自然に恵まれたとても好い所で。この葛尾村の自然をまるまる賭けて引っ越して来た方などが、かなりのおりました。

ということで現在も放射能に汚染されて、避難という状況になっている訳ですが。それらの避難の経緯につていですね。時系列的にまとめてみましたので、みなさんに紹介をしていきたいというふうに思います。


最初にですね。この表(レジュメの見方)です 左側が国県の対応、あるいは原子力発電所の状況をまとめてみました。(レジュメの)右側が葛尾村の対応、あるいは周辺市町村の状況ということで、まとめました。

(2011年)3月11日の14時46分に三陸沖を震源とする、M9.6という巨大地震が発生したわけですが。うちの村の震度計を このあいだ行って観てたら、うちの方は14時48分っていうような事で。震度5強を示していました。

震度5強というのは今回で私は2回目の経験なんですが。数年前お盆の時期に、ちょうど震度5強というのがあったんです。あれはほんの一瞬の何十秒かで終わったので、そんなに恐い思いはしなかったんです。

この地震については皆さんも経験した通り、5分から6分という長い間(の揺れ)で。役場の建物そのものは耐震診断を受けていて。震度7まで大丈夫だということだったので。震度5強ということで、安心はしてたんですが。でなかなか(揺れが)収まらなくって長かったもんですから。
 

当時 私総務課長やってまして。全員に避難を指示して。職員もお客さんにも(庁舎から)出て頂くような状況でありました。

そういうことで早速、としては3時に災害対策本部を設置しまして。色々と対策を練った訳です。最初に消防団長さんからの方からも連絡頂いて。消防団の各幹部に出動要請をして、「村の被災の状況を把握しよう」ということで消防団に(村内の)各地に散っていただきました。

後で調べた この資料を見ますと、首相官邸には対策室を午後2時50分に設置したようです。

で、15時37分には第一原発に大津波15.5mぐらいまで達したというような。後の資料を見ますとそんなかたちになってしまして。午後3時42分には1・4号機が電源を喪失して非常用発電機が使用不能になったというような書き込みがされておりました。

そういうことで、我々はそういう発電所の事故など知らずに、色々と対策を進めていまして。

午後4時には消防団の方が戻って来ていただいて、村内の被害状況は屋根瓦の落下が47棟ぐらいで、人的被害、あるいは家屋の倒壊等は無い」というような報告を受けて安心をしていたところでありました。

また、村内の一人暮らしの高齢者であるとか、「若い人達が深夜、仕事をして帰って来ない」ということで「心配だ−」なんて話しが役場にありましたんで。避難所を開設して20数名の方が地域福祉センターに入っていただきました。


この地震でも葛尾村は停電しないで済みました。それが凄くラッキーな事でありました。ですから避難所を開設しても電気もありましたし、水も充分使えました。

この葛尾村には古道川発電所という発電所が在りまして。それは東北電力の発電所ですが。水力発電があって。その太い線のルートで浪江、津島地区の方まで線が延びております。2ルートですが。これが在った ために停電もしないで済みまして。後々避難をする時にもこの電気というのは凄く助かったものです。

この写真が古道川発電所で、葛尾川と高瀬川の合流地点に在りまして。古道川っと言うんですが。ここから先が浪江町の方に向けて高瀬川になって。河川名が変わっていきます。


で、11日の21時23分には原発から半径3キロ圏内に避難指示が出て。10キロ圏内には屋内待避指示が出るというような状況でありました。うちの村にも県の防災無線が入っていたんですが。これが段々機能しなくなってきました。あとで聞いてみると県防の在った本庁5階はもう耐震に耐えないということで、自治会館の方に移動して。回線が2回線3回線しか少なくって、通じないという。かなり県庁に通じない状況でありました

そういうことで、12日に入りまして、テレビなどで確認とれたのは午前5時過ぎに 5時44分ですね半径10キロ圏内に避難指示が出るということで。浪江町の住民あたり、うちの親戚 あたりですと 消防車であったりパトカーであったり、「総理大臣の命令です、避難してください」というような公報 して歩いていたようです。そういうことで第一、第二原発周辺の町では避難を開始をしておりました。
 

でNTT回線も段々と通じなくなりまして、携帯電話も通じなくなるような状況でした。これも後ほど確認すると、施設そのもは何でもなかったんですが、NTT富岡の局。ここは双葉郡の回線全てがここに集まってまして。ここから外に出て行くような形ですが。自家発電の燃料切れて、使えなくなったということで。双葉郡内の電話回線はほとんど駄目になりました。 

そういうことで12日には15時36分第一原発の1号機水素爆発があったわけです。これらを見て、その後、とても驚きまして。うちの村長は村長室に居て テレビを見ていたんですが。その爆発を見て下に飛んできて、「すごいぞ!お前 テレビみてみろ」ということだったもんですから。見たら凄いことになってまして。これはただ事ではないということで。役場の中でも色々準備を始めたような状況でありました。

で12日については16時30分に村の議会の全員協議会を招しまして。うちの方はたまたま3月9日に定例議会終わってまして。新年度予算等も議決して終わっていたもんですから。全員集まっていただいて。

先ほど紹介した地震の被害状況であるとか、それからやはりこの原発爆発等を見て、我々も担当課が10年ちかく防災担当だったんですが。その辺と相談しながら「これはちょっとやばいから、最悪のシナリオ考えようか」ということで。そんな事も考えて議会の方にもお話をしました



最悪のシナリオの案なんかも作って。避難指示を出すような状況になかもしれないと。あるいは予算等も含めて、議会を開くたぶん暇は無くなるだろうと。いうことで、「村長の判断で行動する事を了解して欲しい」ということで議会に話しをしまして。12日の夕方に議会から了解を得たところでした。


12日の午後6時25分になると半径20キロ圏内に避難指示が出まして。その時にテレビで知ってですね。大きな地図。ちょうどうちの方に有った双相建設事務所の管内地図が有ったもんですから。その地図を引っ張り出して来て。福島第一の原発の地点からコンパスで線を引いて20キロの線を、おっきな円を描いてやってみると。「うちの村も引っ掛かる!」という事で。そこでチェックしてですね。27世帯96名の方に避難指示をいたしました。

これも国県から通知があったわけではなくって。防災無線も通じませんしたので。テレビを見て。自分たちなりの判断で避難指示をしたところです。

そういうことで午後8時30分には先ほど地域福祉センターに避難所を設けたと言いましたが。もう一つ健康増進センターという、村の体育館が在ったので。そちらも新たに開設をしまして。そこに27世帯の40名の方に避難をしていただきました

12日の夕方頃から13日にかけて、288号線114号線で大熊、双葉、浪江、の人達が避難をして来て。もう車がなかなか動けないということで、脇道には行って葛尾村に逃れてくる方も居ました。そういう方もおりまして、そういう人達も引き受けながら、避難所2ヶ所を開設しておりました。



そこで3月13日になりますと、国会事故調当たりの資料等を見ますと。午前4時15分頃には3号機核燃料棒の露出などが始まっていたようなんです。

こういう事で「原発が不安定な為 避難を本当に!これは想定しなけきゃなんない」ということで準備を始めまして

13日は高齢者など要介護者対策点検・確認等しようということで、職員を各地区に振りまして電話をする。あるいは電話が通じない所はお宅をうかがって避難をする時には自分で逃げられますか?とか。逃げられない方は役場の担当が迎えに来ますからと。きめ細かに実施をしました。

この電話が通じたというのは後ほど紹介しますが。NTT回線はもう全て駄目でしたが、うちの村、幸いにもこの事故1年前に各世帯に光ファイバーを引いておりました。一家庭に二芯引いておりまして。それがIP網という、IP告知なんかも設置してたもんですから。そちらがNTT回線が使えなくっても、うちの回線が使えるというような状況でした。

地デジ対策で実施したわけなんですが。1線は地デジとIP放送。もう一線はNTTの方に解放して高速インターネットということで200M。当時の最大のスピードで。私の家なんかもやってみると下りで130Mぐらいついてまして。そういう回線でサービスを提供して丁度1年を過ぎた処でしたが。

こんなことで村内には電話が通じたので、確認するのにも凄くスムーズに出来ましたし。また電話をしてみて、そのお宅に行って見るとですね、居ないんですねも〜。自主的に避難していた方が13日の時点でいました

そういう人達の話を後々聞くと、東電の方に。関連会社に働きに行っていたり。そういう処から情報が聞くと早く逃げた方がいいよ、ということも あったので早く逃げたんだ」という事も後々聞かされまして。自主避難者もかなり出ていました。

13日にはですね。 うちも原発特措法の、からも蚊帳の外で、県の対策、事業対策は10キロ圏内しかやってなかったもんですから。立地町プラス浪江町ぐらいの中で、そういう色んな原子力(事故)対策の避難、訓練だとかやっていたので。うちの方は何の備えも無いし。マニュアルもないし。機器類も無かったので。本当に放射線を測る機械一つ無かったんですね。

13日の午後 3時頃になりますして 

 そのe02へ