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福島第一原子力発電所の事故によって起きている様々な問題を勉強し始めました 勉強過程の記録をつくってみますご活用ください
葛尾村における避難と復興に向けた取り組み
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  それは 一般の家庭にですね。そういう家なんかもあって。そういう方も含めて避難をお願いして 612名の方があづま総合運動公園に避難をしていただきました。到着した頃には2000名近くの人が居まして。毛布とか布団もほとんどかったんですが。

たまたま行った夜中に長野県の方からロングのトラックに支援物資を満載にして布団とか毛布とか一杯積んで持って来た。それをうちの職員が30数名居たもんですから。運動公園の体育館の職員は夜間ですので4,5人しか居なかったので。うちの職員に手伝わせて。体育館の方 全員に毛布を配って終わったのが 2時か3時頃だったと思うんですが。それから我々仮眠をとって。

次の日を迎えるとまた6時頃にテレビで段々段々現場の実況放送やっている。それを見ていると大量放出で2号機が空焚き状態になったということで。後々資料を見ると4号機でも水素爆発が起きてような状況であります。



「これはちょっと福島もやばいな〜」と。「100キロ以上離れた方がいい」というのがなぜか我々の頭にあったんですね。「100キロ離れた所に行こう」ということで。「山形にするか会津にするか」っていうことになったんですが。「今の時期 西風が吹く」っていうことだったら「会津の方が好いだろう」ということで「会津に避難をする」っていうことで。

職員に色々と調べさせたら、会津若松市が災害対策本部で、会津地方をとりまとめているようだ。っていうことで、会津の災害対策本部に職員に電話をさせて。そうしましたら、会津坂下を紹介していただきまして。急遽 会津坂下の方に向かう事になりました

で体育館の隅っこの方で、こそこそと、みんなに分からない。2000人も居るわけですから。「騒ぎ起こすと大変だ」ということで「住民にどうして知らせようか」住民もかなり ばらけて入ってましたので。迷ったんですが。体育館の方にお願いしたら2階のロビーが広くってですね、そこに集められるスペース在ったもんですから。放送しまして。まだ避難してから点呼をとっていなかったんですね。「葛尾村から来られた方、避難した方点呼をとりますので2階のロビーに集まってください」。代表の方集まりくださいっていうことで。乗って来たバス毎に、5号車。

それからもう1台。その5台では足りなくってですね。、もう一台欲しいということで、その午前中色々と探して。「レンタカーを借りてこい」ということでレンタ会社に職員を走らせたんですが。訳言ったらレンタカー貸してもらえないくってですね。「原発の避難だ」と言ったらね

 かいじょう う ふふふふふ

。これは困りましてね。ジャー「福島交通に電話しよう」と。福島交通うちの方何かあると使ってて。その営業を何年も付き合っていた営業の方が居たので。そこに電話したら、「分かった」と早速手配すると。手配をしていただきました。 

福島交通のバス1台来ていただきまして。そのバスも表に付ける訳いかないので、陰の方に止めておいて。目立たない所に止めて。そして集めた住民に対して1人1人こそこそと、「これから会津に逃げるよ」と。「みんなに分かると騒ぎになるからこっそりと逃げて乗って来たバスに乗りなさい」と。

あとは「車燃料無くって(自家用車で)行けない人は福島交通のバスがあそこに在るからあっちに行ってください」ということで、こそ こそ逃げ出しました。そこも何とかスムーズに逃げました。

そこで、あづま総合運動公園に残った方が60数名おりました。そこは「家族が動けない」とか。あるいはうちの村、牛をかなり飼っている方がおりまして。人間数より牛の数の方が多かったんですね。4千頭 5千頭って居ましたもんですから。人間は1570名程度だったんですが。肥育業者は1人で2千頭ぐらいやっていたり。あとは繁殖牛ですね。それは各家庭、その牛の世話のために運動公園に残るっていう方がおりまして。その方達を残して、とりあえず会津に一晩で逃げましたが。

次の日職員を一端逃げて、ちょっと落ち着いた状況だったので、福島に残って居るので職員を3名次の日また戻しまして。ずーっと三春に帰るまでずっとそこに職員を常駐させておきました。


そして15日になりますと、今お話しましたようにバスで逃げましたが。その頃になると、15日の11時に30キロ圏内の屋内待機指示がようやくでて来たんですが。そのときうちの方は逃げていたんで。後で知ったことなんですけども。

 最終便が午後5時近くに会津坂下の方に到着をしまして。川西公民館という会津坂下から西会津に向かう途中に川西って在るんですが。ここの公民館は旧小学校跡の公民館でして。大きな体育館 在りまして、そちらの方に270名。それから会津少年自然の家って。県立の自然の家なんですが、ここに86名。そういうことであづま運動公園に残った人が83名。そういうことだったんですが。あづま運動公園も他に逃げた人たちも、だんだんと集まって最終的には多い時には250名ぐらいが、あづま運動公園の方に居ました。
 
それは250名全て葛尾村の人ではなくって。5,60人ぐらいは他の町の住民の方もおりまして。それは葛尾村でお世話をしていたような状況でありました。

 
4月5日頃になりますと、川西公民館は行ったときに隣に給食センターが在りまして4月から新たに発足する給食センターで。まだ全然使ってない給食センターだったんですが。我々が避難したということで急遽その給食センターを使って暖かい食事を用意してくれてました

ですから15日は朝からほとんど住民にお握り一個渡ったか渡んないぐらい。私なんかは渡んないで居たんですが。お昼もやっと一個もらったぐらいで。もう皆さんお腹を空かして会津の方に行って。その夕ご飯に暖かいご飯と暖かい味噌汁出していただいて。凄く感激をしてました。 

そういうことでそこで避難をして15日から4月の5日頃までずっと暮らしていたわけですが。ちょうどあの年も雪が多くって、毎晩起きてみると20センチ30センチ雪が降っているような状況でしたから。

4月5日から会津坂下、あるいは柳会津町等のホテル旅館等への、住民の2次避難。開始しまして。みなさんそちらの方に移って、今度は旅館で好い食事三食付きということで、体育館の中よりはかなり いい生活が出来るようになったんです

そういうことで役場も葛尾村役場は川西公民館に事務所を開設しまして。15日から開設をして、24時間 住民と共に暮らした訳ですけれど。

3月の18日には役場のシステムを立ち上げました。避難するときにバックアップデータも持ち出して来てたので。うちの基幹業務は北海道のベンダーで。ccsっていう会社だったんですが。その北海道のベンダーが、うちの村が避難したのを知ってですね、うちの方から頼んだ訳でも無かったんですが。急遽新潟経由で来てくれまして。機械も持ち込んで一生懸命やっていただいて18日に基幹業務を立ち上げて。住民票の発行とか、印鑑証明の発行とか財務会計とかそういうもの。

4月15日から立ち上げました。狭くってなかなか大変なので色々と坂下町の方にも相談をしたりしたら「法務局が空いているようだよ」と。いうことで国の方にも相談しましたら、「そういう避難の状況なので無料でお貸しします」ということで。法務局の会津坂下出張所をお借りして葛尾村の会津坂下出張所を開設いたしました。

6月21日には葛尾村の特別警戒隊というものを発足させました。村内、誰も居なくなってきてる状況なので心配になりましたので。パトロール隊を結成して、村民52名を委嘱をしまして。5班体制で8時間勤務で24時間。3交代制です。そういうことで24時間パトロールをして。それ以前、数件空き巣狙い等があったんですが。それ発足してから今日までほとんど空き巣狙いは無いということで、現在も続けております。

仮設住宅を作る段になりまして「どこに作ろうか?」という話になりまして。住民あるいは議会にも相談したら、「郡山近辺。三春近辺にして欲しい」と。どうしても仕事の関係、学校の関係で「会津ではちょっと遠すぎて大変なので三春、郡山近辺にして欲しい」ということで。県の方に相談をしました処 「三春町が好いんじゃないか」ということで。県の方から三春町の方にも連絡していただいて。うちの方もお願いに行って。三春町にOKを頂いて。三春ダム周辺に10ヶ所の団地を建設させていただきました




430戸ほどの仮設住宅で、6月26日にから8月に掛けて。完成しだい次々と移っていただいて。8月には仮設の方に移動いたしました。7月1日には、葛尾村の三春出張所を正式に開設をいたしまして。6月15日から役場の事務所は開設していたんですが。条例により正式に葛尾村の出張所を開設いたしまして現在に至っています。


8月10日には会津坂下町の出張所を閉鎖しております。8月31日に現在の避難状況ですが。避難者数は1526名で県外が133名。県内1393名。自主避難34名。借り上げ住宅446名。仮設住宅913名。ということでこの時点で避難所、ホテル等にいる方は0となりました。

この借り上げ住宅の大半はですね、郡山と田村市で、仮設住宅はすべて三春町ですので。この3市町で村の約8割から85%ぐらいが三春周辺に住んでまして。すでに うちの村では「三春に中心に仮の村ができあがっている」ような状況になっております。
 
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