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福島第一原子力発電所の事故によって起きている様々な問題を勉強し始めました 勉強過程の記録をつくってみますご活用ください
震災復興における高校教育の現状と課題  2013年3月7日
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こんばんは。齋藤と申します。勤務先は福島北高校。飯坂温泉の入り口に在る高校に勤めております。高校生徒の関わりでは平和ゼミナールを1月に立ち上げまして、それの世話人をしております。組合の方でも役職に就いております。

今、野先生からご紹介いただいたんですが、今野先生が福島大学に着任されたときに大学2年生でありまして。ウスイ先生と今野先生同じ年にお見えになったんですが。そのときの大学二年生でした。

詳しくご存じの方は87年卒だと「ずいぶん時間がずれているなー」とおおもいだと思うのですが。成績が悪くってですね学部に6年も居たもんですから。その後、就職も出来ないので大学院に入れていただいて。また3年居てですね。81年に大学に入ったんですがやっと就職したのが90年というですね。そのぐらい福島大学で、ご迷惑を掛け放題で。何とか教員にしていただいたと、まだ1人前になれてないんですが。恥ずかしながらも50才になってしまいました。1962年の生まれです。

教員になってから実は初任が大熊町の双葉農業高校という学校でした。今は校名が変わりまして、学科改変で。双葉翔陽高校っていう名前になってまして。当然大熊は立ち入れませんから、今はいわき市のいわき明星大学という所にサテライト校が置かれているはずです。

自分が勤めて以来、一度も学校には伺ったことが無いんですけれども。またいずれ戻れるようになったらですね「大熊町を訪ねてみたいなー」とは思うんですけども。

双葉郡も浪江から富岡からですね、大熊にはまともなスーパーが在りませんでしたので、買い物というと浪江に行くか、富岡に行くか。そういう生活をしておりましたが。懐かしい所です。その後 3:38白河市の女子校に勤めまして。3番目が会津地区のですね、奥会津の川口高校というところに勤めました。

丁度震災の年の夏に大雨で只見川がですね、ダムの水を放水したもんですから橋が流れたりですね、色々したりして。大変な被害になったようですが、そこで10年おりました。その間に組合の専従なんかも2年ほど福島に出て参りまして、まだ戻ってということで。その後やっと出身の福島に戻って参りまして。福島東高校にちょうど震災のときは勤めておりました。そして今福島北高校に逃げ出しております。ということです


そういう自分の経歴というんでしょうか。今までの流れを御説明申し上げましたが。高校の先生もいらっしゃるかと思います。私なんぞよりも沢山ご存じの方もいらっしゃると思いますので、一通り説明させていただいた後で、色々私の間違いとかですね、そんなものを訂正させていただければというふうに思っています。

 自分の年50才を考えますと私が小学校の低学年の頃ですかね。「その頃に第一原発が、運転開始をしたのかなー」と思います。それから中学校の頃にたしか第二原発が始まったように思います。同じ県内に居たですけれども。福島市外の小中学校に居た私にとって山を越えた海際の双葉郡の原発が在るその地域というのは、実は行ったこともありませんでしたし、非常に遠い存在でした。

学校の授業でも原発について学んだという記憶は全くありません。おそらく先生たちも(原子力発電所が)出来つつある過程でしたので、充分に御存知なかったのかも知れませんが、授業で取り上げられた記憶は全くないというふうに思います。

そういう中で教員になって色々原発について取り上げてる実践書を読んだりですね、あとは双葉郡に住むようになって色々な原発の問題についての講演会があるたびに顔を出して。清水先生とかですね、東京の方からは高木仁三郎さんなんかが、4,5人ぐらいの講演会でも来られて。コーヒーなんか入れてくれたりして。本当にアットホームな感じで講演会なんかよくされていたんですが。そうい処に顔を出したりして。運動というかそういう学習の場で学んでいたということがあります。

ただ組合の福島に戻ってまいりましてから、色々役職に就いて。原発の住民運動であるとか 色んなものに関わるようになって今に至るんですが。運動の末尾にくっついて来たということです。


二番なんですが。(発災時の高校

丁度震災の時にですね。私は学校におりました。この日金曜日だったと思うんですが。福島県では丁度、今実は今日、明日が県立高校の2期選抜。昔でいう学力選抜。一般入試です。今は二期選抜と申しますが。それで今日学力検査をいたしました。今日面接もやっちゃう学校もありますが、明日面接。私の学校も明日面接です。

福島高校とか進学校は面接やってもあまり意味がありませんので、点数で決めちゃいますから。今日が力検査やっても明日採点やっている訳です。その日程で学校によって一寸違うんです。当時の福島東高校は福島大学に沢山進学する、一応地元の進学校でありますので、この11日の日にですね判定会をやりました。

お昼まで生徒の授業をやりまして、4時間やりまして。1時までに下校させるというような段取りだったかと思います。会議を1時ぐらいから始めて、こ1時間ぐらいで会議が終わってしまいました。さーと合格者を決めて。2時ぐらいには担当の方は残ってお仕事されてましたけれど。一教員の私は自分の職員室に戻りまして。会議室から戻りまして自分の机の周りなんかを片付けたりしてました。その時にぐらぐら−っと来て。

みなさんも地元ですので地震の説明はいいんだと思うんですが。本当の職員室の中いろいろ物が置いて在って建て混んでおりまして。ロッカーがですね、通常ですと、体が大きい私が幾ら押しても動かないようなロッカーがですね、壁から1m以上ぐぐぐーっとせり出して。倒れかかって来るようなのがありまして。そういう中で外側からいろんな物が、自分達にずれて 倒れ掛かって来るような。職員室の中で立ち往生をしていたというところでした。

かなりの時間揺れがようやく収まって、動けるようになってからですね。もう机から飛び散っている、ファイルとか本とかそれを踏みつけて山を越えるようにして職員室を出て、外に出て行きました。丁度その時に雪が降って来まして。非常に寒い感じがしました。

 福島東高校自体は理科室のビーカーとかそういうガラス製品が沢山壊れたということがあるんですが。棚に上がっていた物がみんな落ちてですね、ごちゃごちゃになるということはあったんですけれども。学校の校舎が使えないほどの被災はしませんでした。被害はありませんでした。「ひびがもうすこし長くなったかなー」とかそのぐらいの形で。その後検査をしても特に大規模な補修は必要になるような状況ではありませんでした。

ただ福島高校は老朽化した校舎が立ち入れないような状況になって、体育館を教室にして。大きな体育館を間仕切りして授業を行うような状況になりましたし。

県北では保原高校は、校舎が使えない状態。同時に全学年が校舎に入れない状況でしたね。使える所もあるので一部の学年は授業が出来るんですが。3学年揃っては学校に入れない。ですから聞いた処ですと、2学年が登校して1学年は自宅で学習。それを順繰りに繰り返して、次の日は自宅の学年がでて来て、前の日来た学年が次の日は家で勉強をする。そういうな形で先生方 苦労されて授業やる状況だったかと思います。10:59

それから警戒区域などに指定された部分の高校は。高校自体もかなりの被害はあったと思うんですが。そこには使える状態であってもそこに立ち入れないという状況ですので。「学校を始めるどころではなかった」ということがあるかと思います。

細かい 「学校がどのぐらい壊れたか」というのは説明はいらないかと思いますので、そのぐらいにしますが。

ここで被災の状況が放射能の被害とも合わせますと、あとは校舎の被害と、地震の被害揺れとか、そういう部分も。生活の困難とか。そういう部分も会津地方とかそれから中通り、それから浜通りですね。そこの所で大きく分かれまして。当然がながら学校もそこに在る訳ですから各学校でバラバラと言うんでしょうか。まちまちになると。いうことがあったかと思います。

ですから同じ県立学校でありながら、新年度が始まってもすぐ授業が始まって「さー受験に向けて1年間通してのスートだ」という学校もあれば。たとえば会津地方の進学校はそうでしょうし。福島もそれに遅れじと進学校は1日に早く始める。「遅れるなんてとんでもない」という状況で始まったかと思います。

ところがサテライト校にいずれなる学校は一番遅かった小高工業が5月の中旬になったかと思うのですが。で、何か校長さんが全ての学校の入学式に始業式かなにかに出るということらしく。5ヶ所サテライト校舎がありましたので 月火水木金と1日ずつずらして始めたというふうに聞きましたが。

そういうにして1ヶ月半ぐらい授業やっている、通常なら「もう少しで1学期の中間考査がやってくるな」っていう時期にようやく始まった学校もあると。そういう処で震災のあったその年の高校での教育という部分では特に被災をして。サテライト校に集まることになった生徒さんたち。それから自分の地域を離れて自宅を離れて仮設住宅に入ったり、または借り上げ住宅に入ったりですね。色んな苦渋な生活の環境の中で学ぶっていう生徒さんの間で本当に大きな違いがあったのかなーって思います。

後で高校生たちの、描いた絵とかですね、それを作った教員の文章なんかも、見ていただきますが。そういうなかで高校生、ジャー「目の前のですね、震災について本当にそれと向き合って考えるような余裕があったのかなー」って言いますと、実は我々教員もそうなんですが、「それどころではない」と言いましょうか。

3年生は受験。だから震災で大変でどうなるか不安だけれども、放射能も不安だけれども、それよりも、とにかく自分の進路に向けて勉強しなくっちゃ〜。自分はどこに目標があればですね、そこに向かってどう勉強していけば入れるんだろうか?ということで、「震災どころではなかった」ということがあるかなーと思います。そういうなかで学校が始まったということです。

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