長崎漫遊 2024  その2 作成:佐藤敏宏 2024年6月

■2024年5月28日の様子

大塚の宿住居から長崎空港まで

起床5時。宿住居で手作り朝食を済ませる。6時10分頃、宿を出て大塚駅から山手線に乗り浜松町駅で下車し、モノレールに乗り換え羽田空港をめざした。モノレールに乗ったのは見晴らしが良いからだ。その日は雨で、東京湾の遠くまで見通せたわけではない。地上ばかり眺めていることになった。見渡す限り、海面以外、手付かずの大地は見つけることができない。人口化した宙空をうねうねとモノレール独特の車列が進むさまは、未来都市に生きているように感じ、何度体験しても面白い。

離陸1時間前の7時30分頃、国内線乗り場に着き、荷物検査と登場手続きを済ませる。お登りさんなので、飛行機を背に記念写真を何枚も撮る。出発までは間があるのでキョロキョロしていたら、my長女がカード会員専用の休憩室に案内してくれた。受付に女性がいてチェックサれた者だけが入場できる。中に入ると広くて飛行機の発着も見える。部屋には大きくて長いテーブルがあり、ビジネスマン風の男女がPCとスマフォを開いて、仕事なのだろうか盛んにキーを打っている。

IT革命下の世にあり、新型コロナに遭い働き方はオンラインやチャット仕様に激変したようだ。できる者と平凡な者の格差は、さらに広がる予感が充満している、未来を想わせる羽田空港にある特別な専用部屋だった。

ANA機は8時40分ごろ羽田を離陸し、途端に雲の中に入って、程なく綿のような雨雲の上に突き抜けた。水平以降に入っても真っ白な綿雲の上を進むばかりだ。機内の温度が下がり寒いので、チョッキをとりだして羽織る。雨で気流は乱れているのでスチワーデスさんも着席の状態が多い。時々彼女たちは立ち上がってウロウロする。
彼女たちの髪の毛とユニホームと靴を見ていると吹き出しそうになった。各種コードが決まっていて、言い方も同様だから、未来のロボットの仕草をみているように感じる。人間なのに気の毒と想ったからだ。お茶は配布されたが飲まず、どんなトイレなのかと席を立ち、入ってみた。狭いながら機能的に作られている。引っ切りなしに使うのでドアを叩かれたので出た。老女だった。

1時間ほど過ぎると、着陸態勢にはいり雨雲を抜け下降し続ける。地上300mぐらいだろうか、大村湾といっても湖のような形状で波立っていない。その周辺にある民家の屋根が見えだし、飛行場だけが湖に浮いた蓮の葉のような様子はいい。快晴の朝、大村湾の蓮の葉に降りる体験をしてみたいと想った。快晴ならパイロットはじつに気持ちがいいのではないかと想像した。

10時37分、ANAジェット機から降りる。パイロット2人を背景に写真を撮る。詳しい時刻も記録される、デジタル化時代のカメラは便利なのか不便なのか分からない。


羽田は国際線ターミナルが2010年秋に開港したので飛行機の数とそれを支える車両と整備士などが行き交ってぼんやり見ていても飽きない。



関係者の皆さん安全な空の旅ありがとうございました。席は左右に3列、中に4席1列10人と大きなジェット機だ。通路側で十分。途中少し揺れた。

長崎空港から長崎市内まで)

飛行機を降り、空港ロビーに出ると、そこは名札を掲げもつ観光案内人たちの働く場所だった。日本各地から、世界から長崎市を目指した観光客がやってくるからだろう。内装も飾り物も、外部のシュロの木も、異国情緒を演出して歓迎しているかのようだ。天井から吊った蛇踊りの愛嬌のある蛇の下でカシャリ。次に、長崎市内に関する主だった観光案内図を片っ端から取り、バックに詰める。津波がおきた場合の想定高さを示すハザードマップも欲しかったが見当たらず。

空港の軒先にはシャトルバスが待機していて、即、乗車する。発車まで、手に入れた『アクセスガイド・マップ長崎』を見る。三陸の地形に似ているが、さらに複雑なリアスタイプの海岸線しかないようだ。起伏も激しい、300mの上下だろうがバスだとうねうねウンウン賑やかに進む。だから簡単に酔ってしまう人も現れそうだ。
眼の前の席には頭の天辺がハゲた老いた外国人が乗っていて、聞き取れない英語で運転手に話しかける。運転手も慣れた対応でさすが観光都市。彼はこの地では運転手の見本のような気がした。




1945年の長崎本線 道ノ尾駅 )

片道1200円、乗車時間約1時間だったが、異国情緒をかもしだす山々の木々の新緑がまばゆく、爽やかに目に飛び込、うねり迫リ来るのでバス乗車は飽きない。

道ノ尾駅に近づいたあたりから、バスは左に向きを変え両側の山の谷底を下るように、長崎市街に向け南下し始める。ファットマン投下の翌日8月10日、この付近を歩いて長崎に向け写真撮影をされた方がいる。山端庸介さんなどだ。福島県立図書館から『評伝・山端庸介─ナガサキの原爆を撮った男』を借りたので見ておこう。


 絵:web地図より

















1945年8月10日原爆投下直後、鉄道は長崎駅から浦上、西浦上までの三つの駅の間は壊滅状態で、道ノ尾駅から運行していたようだ。8月10日 山端庸介氏の撮影の足取りと撮影した写真を紹介するwebサイト

1945年8月10日、道ノ尾駅からはじまり、長崎市内を撮影した写真家、『評伝・山端庸介─ナガサキの原爆を撮った男』(論創社、2014年1月刊)。手に取ると、当時の様子がすこし分かるので抜き書してみる。

(151ページ〜)


東、山田、庸介、そして同行する下士官2名は9日午後3時発の列車で博多から長崎へと向かった・・・鳥栖までは順調に走っていた列車も、長崎本線に入った途端に、警戒警報が続き、肥前山口に着いたのが午後8時頃・・・庸介らが乗っている汽車は、長崎方面からやってくる何本かの汽車を待っていたために、諫早に長時間とまったままであった・・・・

入ってくる上り列車には目もあてられぬ程に、大小傷を負う様々な負傷者が車内に溢れて、まさに鬼気迫るその呻吟やききょう(漢字でず)がひしひしと私達の肺腑をえぐり、また一種異様な腐臭の臭いが鼻腔をついて、惨憺たる憂愁を煽るものがあった。

諫早駅ホームには、焼け爛れた死体がホームに山積みにされていたという。

213ペイジ
北島宗一編集。記録写真『原爆の長崎』昭和27年(1952年) 記録写真集の表紙が右の絵である。元の写真はそのまた右のモノクロで撮影した親子をトリミングしたのだろうか・・・。

原爆の長崎』第一出版社 は山端庸介 昭和20年8月10日撮影 を主に掲載した写真集で表紙が(右絵)右手におにぎりをもった少女。

(165ページ)井樋ノ口のおにぎり

庸介と山田栄ニが、この井樋ノ口の現場に立ったのは10日午前7時半から8時ぐらいだ。井樋ノ口交差点のお地蔵さんは、切通し坂の一部を削った地で、県道を見守るように並んでいた。そこには白いおにぎりの入った木箱が、お地蔵さんの前に積み上げられていた。およそ50個のおにぎりが入る木箱は、庸介の写真を見る限り約100箱はある。

庸介は対談でこのように語る。

山端:おむすびが山のように積んであっても取りにくる人がいないんですよ。食欲がある程度の人で生きているひとがいないんですね。この炊き出しのおにぎりは前の晩に長崎県大村の救護班が作り、井樋ノ口まで持ってきたものだ・・・。

以上で抜書きはお仕舞








山端 庸介(1917-1966)撮影 写真サイトより
炊き出しのおにぎりを持つ母と子。食べる元気もない。長崎 井樋ノ口町[現在・宝町]付近(爆心地から南1,5km) 1945年8月10日 朝

谷中の煎餅をバスに置き忘れる

地形は変わらない。だから、この谷底を下る道も鉄道も、あの日と同じ勾配で長崎市中心街まで続いているのだろう、そうバスに揺られながら思った。

長崎市の見どころの一つに、路面電車と道路との共存がある。検索すると1914年に創立し、翌年現在の退学病院までの3.7kmで運行されたとある。1921年までには現在の路線がほぼ完成していたともありました。そこは長崎特有の谷底のような狭くて平らな場所を車と路面電車が110年間、住み分けて来たのですから、興味が湧かない人は少ないのではないか。

長崎空港からバスターミナルに着き、早速、工事途中の駅前広場から、駅ビルに入って、長崎ちゃんぽんをmy長女と食べ始めました。

「あ!・・鈴木先生に差し上げるため、谷中で買ってきた煎餅バスに置き忘れた・・」そのことに気づきました。すこし長崎ちゃんぽんの味を落としてしまったように思いましたが、終点で下車したのは数名だったので、落とし物として保管してあるだろうと、根拠のない自信をもった。そして、美味しい実にいい味だ、長崎野菜たっぷり長崎ちゃんぽん。海産物もたっぷり長崎ちゃんぽん。器も華やか長崎ちゃんぽんだ!と喜んで食べました。旅する者の楽しみはその土地ならではの食を味わうことでもありますから。

昼食をいただき、今夜の宿は高級だぜ・・こういう宿に久方泊まったことがないよ・・それは、ヒルトン・ホテル。チェッインにはまだ間があるので、ひとまず荷物を預けおき、原爆資料館に向かうことにした・・そうそう、その前にお土産の谷中煎餅を取りに行くのだった。


長崎原爆資料館を訪ねる へ続く