21世紀のメディアについて語る
 2021年11月4日 20:30から

編集者:中村睦美
社会学者:花田達朗
木こり・ライター:坂巻陽平

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作成:佐藤敏宏
 04   3:28:20
情報バブルの元を見る

花田:社会に影響を与えているか、社会を変えているか、社会を動かしているかですね。社会を動かすということは人間を動かすということです。

佐藤:まあ、俺が動いたからまずは、焦らずに。他の若い人たちも、エラボいいねと拡散していたのを見ました。

中村:いいねという声、例えばですけど、私たちは今トップに上がっている記事「2021年、私の『選挙』」シリーズは年の衆議院選挙の時にZ 世代のライターの人たちは、自分はこういう意志を持って投票にいきましたと、率直に書いてくれたんですね。それを読んだ同世代の子がなるほど、選挙というのはこういうものなんだと思ってくれればいいなと。

佐藤:そうか、同世代・Z世代が反応しないエラボの問題なんだね。

中村:そうすればその人にとってもインパクトを与えたと言えるんだと思うんですよね。

花田:悲観的、私は最近ずっと悲観的なんでね。悲観的にならざるを得ない。要するに、今依然としてある一定数の人間は自分の考えを表現し、人々に伝達し、人々とシェアしたいという欲望、欲求を持っている。そういう人々というのは存在するわけですよ。
今日ネットには様々な発信者がいるね、ネット右翼まで含めて。いろんな発信者がいる。エラボのライターたちも、あるいはタンサのレポーターたちも、この欲望を実現しているわけですね。表現し発信し、人々に伝達してシェアするという、そういう欲望、欲求。この実現のためにタンサのレポーターたちはやっているし、エラボのライターたちもやっていると思うんですよ。じゃ、マジョリティーはどうか。情報の消費者に止まっているわけです。しかも、たくさんの情報が出ているように見えるけれども、ほとんどがコピーされた情報ですよね。
だから、純粋なコンテンツ・情報は実際には少なくなっていると思うんです。でも、情報のボリュームは全体に増えているように見える。なぜかと言うと、コンテンツがコピーされ複製されているから、大きな情報量になっているかのように見える。それはニュースサイトだってそうでしょう。

中村:そうですね、二次利用ですものね。こういうニュースがありましたという。

花田:ヤフーなんか、みんなそうじゃない。新聞社のサイトから引っ張ってきているわけです。
中村:仕舞には、新聞ですらネットでこういうのが話題になっていましたと記事にしている。凄いですよ。

花田:循環しているわけですよ。純粋なオリジナルな情報ってそんなに無いんだよ。だから、そうやって一方では情報流通の肥大化、他方では情報消費の肥大化が起きている。その消費者たちはそれで満足しているわけですね。情報の消費において何らかの満足感を得ているわけですよ。そういう満足感を得ている人々ってアクションを起こさないわけです。情報消費者として自己満足しているから。情報があること自体、情報を自分で消費していること自体に満足感を得ていて、そこで終る。自分自身ではアクションを起こさない。だから「情報過多」っていう言葉が最初に出たけど、たしかに情報過多ですよ。情報がどんどん複製されているので、過多になっている。
それを猛烈な勢いでみんなが消費している。だけど、その結果何も起きないわけです。世の中全然変わらないわけです。つまりインパクトが無いわけですよ。このギャップがいま本当に大問題だと思う。依然としてして自分の考えを表現し伝達し、シェアしたいという欲求をきちんと持っている人たちはいる。エラボにライターたちが居る。タンサも書いているし、それを支持している人たちもいる。だけど、何も起きないのです。虚しいですよ。

中村
:なかなか虚しいですね。

佐藤:こうやって数時間、語り合っている、それだけで虚しくないです。

 会場笑い

佐藤:情報は消費されているのか、偏っている、過多なのか、もしかすると反応を示す人に届いていかない、出会わない、見てはいるけど能動的に反応しない、そういう受動的な観客は多いと感じています。

中村:それは一つありますよね。

佐藤:それほど日本の経済や政治に携わっている方々は身の回りしか見ていないかも。そのことは世界にあるウエブ情報で、比較でき身の回りを客観視できる社会が出現したので、それほど悲観しなくっても、いいのではないかと私は思っています。相対化しやすくもなっています。現に20年前にも20代の人はwebとIT技術で立ち上がろうとしてる場に立ち会ってきました。すでに彼らは大学の教員になってしまいまして、社会を変え来ているのを見ています。デジタル・コンテンツを扱う若い人に投資しないのが日本の特性ではなでしょうか、若いやる気のある人に、さほどお金が回って懐にはいってこない。それは20年前も同じでした。経済的な問題、どうやって、お金を回すようにするのか?そこを生身の人間、若い人も老人も乗り越えていくのは、観察しがいがありますよ。


中村さん推し曲 
That Means A Lot
ビートルズ大好きなんですが、初期のガレージサウンドというか雑なギターの音が見事にまとまったこの曲が一番好きかもです
無料・ウエブ・メディアは何が困難なのか

中村:まったくその通りで。最近では若い世代も行なっている市民運動は、みなさん仕事の傍らで活動されている無償で成り立つ場ですよね。本当にバイタリティのある人こそできる運動だと思っているので、デモをやっている奴は暇人だ、みたいな批判はすごい的外れです。

佐藤:極端に言えばですよ、お金、現金が無くなっても成り立つ社会にしてしまえばいいですよ。お金を介さないでみんなが暮すようにする、未開の部族だったり、宗教者、僧のような何も持たずに生きて活動して死んでいく。日本の中世のお坊さんたちは建築家でもあり、医療も福祉もt実践していた(権力ともつながっていた)し、土木工事もするし、文字も思想も語るし、信仰もとく、勿論情報を収集して発信もしていたからジャーナリストでもあった。
現代でも所有しない、お金を介さないで活動するのがいい、収益(資本増殖)を目的にしていない組織は昔も今も環境負荷も小さいし理想の生き方だと思います。坊さんになると家族も家も個人で所有しなかったのでしょうう。
一方現在は住宅政策の貧困がつくる風景が日本各地にあります、日本のサラリーマンのように住宅を買うために一生働いてい生きている。昔の僧は住宅ローンも負っていない。単に生きているだけに見えるけど、それはもしかすると豊なのではないか。今は資本主義・お金を介していしか暮せない思ってしまい、ドンドン資本主義を加速させて、若い人に学資ローンでwお背負わせ、利ざやを稼いで若者の首を締め付けています。本来能動的に活動するだろう周りの仲間からだって搾り取る、派遣労働させて搾り取る。資本主義の末期に至っている現象じゃないでしょうか。あとは戦争起こしてしまうのか。資本家の奴隷なのか日本の若ものは?若者はそういう社会のありかたを捨てしまえば、思い思いに活動する社会に戻れると思いますが。経済評論家も資本主義の終わりだと言い続け、本がたくさん売れていたし、世界の若い人はそういう話をずーっとしてましたよね。生きるための限定的な豊かさを維持する、お金を捨ててしまい中世の暮らしに世界中の足並みそろうのは不可能だが・・・。
福島県に放射能が降って、災害の起きるたびに資本に取り込まれていきます。福島県のような地方の人々は自然から直接恵みを得て、それを互いに分け与え、金銭を介さない生活をしてたんだけど、原発事故ではそういう暮らしから引き離されて、お金介した貧しい暮らしになってしまった。
私の近所にも彼らは引っ越してきた。家の長老たちは放射能災害による賠償金をもって、兄弟や孫子に家を建ててやったりして、綺麗な家に住んでいる、けど愚痴っていてやるせないですし、町に出て来てけど元の農家のような作業を新しい家には無いと嘆いていますよ。彼らはお金が入らないんだけど一日中、田畑を野山を手入れしてて暮らした。その生活を全て捨てさせられ、全てを金銭を介して暮せと。福島県内で素朴に暮らしていた原発被災者たちは、資本主義社会に投げ入れられちゃいました、気の毒です。この10年間見てきたことです。新しいを建てた、買った、だけど嬉しくない、お金、賠償金で仕合せになってないですよ。ここで若者たちが一斉にお金を捨てて野山入って暮らし始めたらどうなるのか、そういう妄想してしまいます。

花田:貨幣経済の前に戻ろうということね。

中村:そういう議論、繰り返されて来たと思うんですけど。
佐藤:それはそうだ。
中村:最近でも柄谷行人の「交換様式」を模索すると謳う地域の実践みたいな話を聞いたことがあります。そういうことなのかな.

佐藤:柄谷行人の論は知らないけど、今の私の話は夢想だけど、経済活動をほとんどしてないで20年暮らして来た私の体験で見た近隣の実態です。お金を得るためだけの目的で働くのは実に貧しいということを言いたいんです。お金を得るためにWEB活動するとろくなことにならないと推測します。で、まず自分は車も処分してしまい、働くことも捨て、要るものを最小限にした小さい暮らしをしていて見えたことです。無駄な事をして蠢いているのではないか。
私のWEB活動もエラボの活動も探査の活動も、お金に換えなられない活動ということで、一歩踏み出した。そこ注目して今後の行動を組み立てていかないと更新されない。小さな活動の芽は、旧来の出版とか紙媒体とかメディアとかに巻き込まれて消えていくしかないと思ってます。まず金を取らないウエブ情報発信をしたいんだから、まずそこの可能性を見ていく、先をあまり考えないことが肝心ではないかな。遠くを見て、暗くなる、絶望するのはまだ早いと思います。

中村:そうですね、両方、お金を取らないということでからね。


絵:ネットより

花田
:さっき、坊さんの話が出たけど、私はワセダクロニクル始まった頃から言っているんですけど、お布施

佐藤:ウエブ的投げ銭もいいな(笑)実践している人は時々みますね。

花田:お賽銭箱、あれで財政が賄えたらいいなあと言っている。ところがね、実際にはできないんですよ。

       会場爆笑

寄付金は来ない。だから、ネットでサポーターになりますという投げ銭ですね。私は前から言っているだけど、ウェブサイトに賽銭箱の絵を描けと。やらないんだよね。投げ銭の思想、それからお布施の思想。世の中を良くすることに役立つことをやっている人に、お坊さんに差し出すように、どうぞと言ってお布施。あるいは托鉢している人のお椀にチャリンと入れる。あの精神で良いから、ジャーナリズムを、あるいは表現者を支持してよねと。考え方としては成り立つんですよ。だけど、それが実際の世界では、今のこの日本の世界ではね、絶望的なの。

戦国時代 の僧侶 快元 の日記である『 快元僧都記 』によると、 1540年 (天文9年)に散銭櫃(さんせんびつ)なる箱が 鶴岡八幡宮 に置かれたという記述があり、これが賽銭箱が記録に残る日本最古のものとされる。 室町時代 に 伊勢参宮 や本山詣が庶民に広がり、賽銭を奉る風習が定着したといわれる。 元旦 未明の 明治神宮 の賽銭箱。 初詣時期の参拝客に対応するため、拝殿の前の敷地を区切り賽銭入れとしている
花田達朗さんの推し曲

《願榮光歸香港》管弦樂團及合唱團版 MV
みなが表現者に

佐藤:
web投げ銭のハードルが高いので現金をお賽銭箱に入れるように簡単ではないシステムを構築しないとできない、でハードルは高いと思います。
さっき花田先生の二つの問いがあったじゃないですか、リアクションがありますか、共鳴板も持っているか?社会的なインパクトが有るのか?と。じゃーあったらどうなんだと?問いを花田先生に聞いてみたいんですけど、何もかも発信者・表現者が満たされたらどうなるのだ?何をしだすんだ・そういう問い。

花田
:社会が変わる、あるいはZ世代が立ち上がる。そして、自分たちのインタレストを認識し自覚して、社会を変えていく。でも、そうはならない。

佐藤:変わらないという逆・インパクトはあるから、今の社会を変えたくないということだから、投票率も56%ぐらい、18才、19才、若者たちは平均35%、変えたときに共鳴する人がたくさん増えたときに一体何が起こるのだろう?というのは、考えたり聞いてみたくなります。

花田:そしたらフライデー・フォー・フューチャー(未来のための金曜日)みたいなことが起こるわけですよ。人々が街頭に出て、何とかしようと訴える。今もグラスゴーでやっているじゃない。日本だけです、こんなにサイレントなのは。

佐藤:エラボも探査もそういう可能性を秘めてる。

花田:秘めているけれど、不発なの。

佐藤:あえて、くだらない事を聞いちゃったけど。市民が立ちあがって自分たちが自由とか表現とか基本的人権とかを保全できる社会空間を手に入れたほうがいいよと。自由を増すわけですよね。

中村:そうですね。

花田:みんなが表現者になって欲しい。


サイトへ  
■以下ウイキペディアより
フライデーズ・フォー・フューチャー、未来のための金曜日は、スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリが行った気候変動に関するリクスダーゲンでの呼びかけに、世界中の人々が賛同し創設された国際的な草の根運動。科学のもとに団結をキャッチフレーズに政策立案者に気候変動対策を求める活動を行っている。

環境活動家グレタ・トゥーンベリ、たったひとりのストライキが世界へ/
映画『グレタ ひとりぼっちの挑戦』予告編

佐藤
:皆さん自由な表現者になるために活動する、好き勝手する自由だと自民党の老人に倣うことになってしまう。倫理の保たれる自由、道徳が守られる自由を得て、個々が自由に表現活動をする社会を創出するんだと。そうなるように共鳴板は多くあった方がいいね。反応する人が一杯いる方がいいと。 

中村:本当にそうですね。

佐藤:坂巻さんはキンドルで本を刊行されました。共鳴板どんな感じですか、現れましたか。

坂巻:こういう活動は直ぐには出ないもので、いわゆるジャーナリズムというのは記者、とういうのは孤独な仕事で、この活動は一体何のためにやっているだ、というのは、ほとんどです。記事に対して反応してくれる人が出てくれば、それがまたやりがいになって来る。で、中村さんはご存知ないかもしれない、山づくりとか中山間地でどうやって人間が生きていけばいいんだ、という処に焦点を絞って、取材を細々と執筆活動もしているんですけれども。
さっきの話に戻ると、ジャーナリズムによって社会を動かすというもの一つだと思うんですけれども。教育、つまり投票率上げるだったら小学校の頃から模擬投票とかして自由に意見も述べて。山づくりもそうなんですけども、森林について子供の頃から興味を持ってもらって、大人になってそういうのが理想で。花田先生が仰ることもよく分かるですけども、共鳴板となるには教育、幼いころから社会に関心を持つとか、批判的精神を持つとか、そういう子供たちを育てていく、そこはジャーナリズムだけでは手に負えない。

花田:そこは時間の問題だよね。教育っていうのは仕込みだから、Z世代の年齢になるまで、どんな仕込みが行われてきたのか。どんな教育を受けてきたのか。そこにもしも仕込みが行われていなかったら、可能性ないじゃない。

中村:教育に焦点を当てるんだったら、そうですよね。

花田:そう、日本では昔から為政者が人民には物事を知らせない方がいいというのがあるよね。学校ではそのような主権者教育なんてやらないわけですよ。

坂巻:徐々に最近は、主権者教育があったりする。

花田:物事をよく知っている人間たちが増えたら、権力を持っている人間たちって恐いじゃない。だから、できるだけ教えない、できるだけ考えさせない。

中村:それは日本だけの話ではない。
花田:権威主義の国家はみんなそうだ。

佐藤:北朝鮮、ロシア、中国など、日本も似たようなのですから主権者教育しないでしょうね。

花田:私は、今日本は民主主義国家じゃないと思っている。権威主義国家だと思う。ロシアや中国の方に似ている。でしょう?

中村:本当にそうですね。

花田:自由民主党という名前の党が政権を握っているにも関わらず、ぜんぜん自由民主主義の国家じゃないよ、これは。権威主義国家。だから、虚構の上に成り立っているんだよね。フィクション。
坂巻:それは戦後からですか?

花田:何年にそれが始まったのかというのを指定するのはなかなか難しいけど、戦前と戦後は断絶していないんじゃないか。

坂巻:戦前の方が独裁的だし。

絵:ウィキペディアより

佐藤
:この10年でSNSを誰でも使う、SNSの数も増えた。盛んになったのは政党が雇って活動しだしてからだと思います。民主主義は情報宣伝で誘導しやすく悪くなったとは思います。20年前は新聞社もテレビ局も掲示板やSNSを運営していなかった。HPなども持って開設していなかったですよ。10年ぐらい前から、東日本大震災でTwitterが役立ったことで、多くの人が始めた。お金のある奴ほど人を雇って(Twitter プロ)WEBに多量に情報を流すようになってから、対策としてオンラインで今日のような語り合い、熟議がいいと思言われだしたがまだ安定した形がみつかっていない。

花田:一時そんなことを言っていたよね。

佐藤:新型コロナがパンデミックを起こして、超ヒートアップしていたインパウンド熱は消えました。人を同一の場に集められない。移動の自由ができなくなって、ホーム・ワークが増えて、同時にSNSのデジタル空間も荒れ易くなったように思います。新コロナを危険なものと見なされだし自粛警察もでてしまいました。他人こそ危険だという空気が出てしまい現実に社会も荒れました。新コロナを恐れさせ脅かしながら人の流れを支配しようと、政府が要請を発しただけで、隣の人はコロナ菌とみる・・かのような情報を公共放送も毎日、朝から晩まで流しました。そこで、人々は、移動の自由を捨て、自主的にコロナ予防に猛進していました。新コロナで明らかになったのはこの10年極端に民主化が弱まったと感じますけれど、どうですか。

花田:それは思いますね。

佐藤:坂巻さんのように自由と民主主義を守るために、山に入って観察しつづけて、こつこつキンドルで発表する。今日は皆さんにZOOMに参加していただけるようになりました。身の回りの状況を再確認することで、悪くなったと感じるのか?、豊かになったのか?私はこういう語り合いの往復運動が、いいと思っているんです。孤立しないということと、ZOOM対話やHP発信を続けていくことで、お互いに確認し合う。
だが、日々のサイトの手入れが要る、ネットを使うと交流も語り合いも簡単にできるようになりました。それまで物理的に目の前に居る人としか語り合うことはできなかったけど、今夜、福島と神奈川と東京の間で語り合っています。

中村:そうですね。

佐藤:ネット情報が過多になって善悪両面あります。いい面を見て活用して育てる、未来の世代のために自由と平等を伝えていく、そういう構えでネットとは付き合いたいです。お話を聞いて感じるのは、花田先生よりは私の方がネット関しても若者に関しても楽観的に捉えている、と。時代が狂気をはらだり、暴力的になったりしても逃げられないので、異なる他者と共に生き続けるって、あんがい困難に感じたり閉塞的で絶望しがちがけど、そこから脱するために自分と同質にしたくなりったり、同質を求めがちになるときは、本能的な対応かも知れないけど、自分も病んでいると思う事にしています。善悪が同時にあることが豊かな社会だと捉え、そこでどうやって生きていくのかを日々模索する、そのためにSNSやZOOMがあると思っています。
SNSを使って、政治家たちも企業も同質の人間を囲い込む、同質の人間にしてしまおうという使い方をする。多量のネット情報を浴びせて従順な均質を強化し人間を鸚鵡のような者にしてしまう。機械のような人間を育てたいのでしょうと。能動的に考え行動する人なんか欲しくなと。行為傾向は突然今に始まったことではない。

私が東京で働いていた20代でも会社に社訓があって、社会を明るく貢献とか書いて掲げてあったけど、社長の本心は銭儲けろ!配当増やせ、そこが本音だった。本音は銭儲けだなんたって教えられなくっても分かるわけで。そういう社会状況は変わってない。SNSで騙されたり、影響を受けすぎて、右左に分かれ同質の人たちが集まり易くはなった。
中道の人が投票しない、仕方ないから維新に投票したり、都民ファーストに投票したりして漂い続けている。それがこの20年の政治を支えた市民サイドの状況ですよね。

生きづらさ について 関係性の病 生きづらさケア

花田:もう一つ、中村さんに質問したいんだけど。エラボのコンテンツのことなんですが、エラボはZ世代をターゲットにしている。ターゲットにしているZ世代が、その人たちの生き方とか、心の持ち方とか、カルチャーとか、そういうものにエラボはアクセスしようとしているわけですよね。
私は偏見かも知れないけども、Z世代なり、今の20歳代とかを観ていて感じるのは、キーワードは「生きづらさ」じゃないかと思う。自分たちの生きづらさをシェアしていく、その語り、そのナラティブ、その物語、それが多いように思うですよ。

中村:それはご指摘の通りだと思います。「生きづらさ」を晒け出すことが一種のメインコンテンツになっていますね。

佐藤:生きづらさについて考える、とエラボの宣言に挙げていましたね。さらに環境問題について考える、身近なところから生活を考える。今花田先生が仰った生きづらさにいてはウェブサイトの最初に書いてありましたね。

花田:エラボはそこをちゃんと見据えて、やっているわけですね。じゃ、いっそのこと、生きづらさの正体って何なんですか?ね。

中村:生きづらさの正体は何か?いろいろあるんですけど、ただ「生きづらさ」といった言葉が生まれ、共有されたことは大きいかなと思っているんです。

花田:名付けたわけですよね。命名されたんですよ。

中村:それが、たまたま「Z世代」と呼ばれている人たちが世に登場した時と重なったのかもしれないですけども、おそらく上の世代も何らかの生きづらさと名付けられる前から、そういった感情を持ちながらも、ただ生きづらさに素直に向き合って生きてもいいという価値観を知らないまま、生きていた可能性は十分ある。私より上の世代ですけど、就職氷河期では多くの人が就職で苦労したわけですよね。本当にいかに自分が何とか狭き門だらけの中でプレーヤーとして戦っていかざるを得ない人たちは、多分生きづらさをどこかで抱えながらそれに打ち勝つしかない状態だったかもしれないですね。ただ、こんな競争からは外れて楽観的に生きてもいいんじゃないかという考え方が、もちろん当時からあったとは思います。それ以上に、何て言うだろうなー、気候変動とか、(日本に関しては)氷河期以上に国全体が貧乏になっていて、コロナ禍に突入して。就職氷河期的な生きづらさとは違う種類の生きづらさが今のZ世代の中に生まれ、 で拡散され、共有されている。とすると、その正体はで繋がることが当たり前になった子たちの中で、リアルな生き方がわからなくった、とかでしょうか。

佐藤:ネットで相互監視してて快適だったけど、過剰相互監視になっているからか?

中村:それもあると思いますし、それが原因でネット上で繋がることとリアルで人と繋がることのギャップが大きく生まれてしまう、ていうのがあるのかなーと思っていて。そうしたより複雑な構造の「生きづらさ」が現れてきたとすると、何ていうんですかね、いよいよこの生きづらさに向き合わないといけなくなったと思いますね。それまで無視されて来たものを。

花田:そのことに従事していて、忙しくてしょうがないんだよね。生きづらさを自分自身でケアしていくことにエネルギーのほとんどを使わざるを得ないほど忙しい。メインテーマが生きづらさのケアになっちゃっている。

中村:それは豊とは言えないですよね。
花田:そうですね。私は生きづらさの正体って、SNSの影響も今中村さんが言われたし、確かにそれもあるだろうけれど、関係の病だと思う。

中村:人間関係の病ですか。

花田:人間との関係を作る上で生じる病気。関係の病。関係病という病です。

佐藤:精神病の名もたくさん生まれましたけれど、現代に起きた精神病の一種、関係病。

花田:もっとはっきり言うと、他者との関係の病。他者と自分との関係に関わる病。他者との関係の作り方が分からなくなっていて、病膏肓に入りと言うか、出口が無くなってきている。その状態を一生懸命自分で救い出さないといけないので、ケアーすることに24時間従事する。忙しい。

佐藤:それはもう人間が終わっちゃうということじゃないんですか。もう人間が終わりだよと言っていると思う。

中村: 単純に人口が多かった時は、人の中で人との関係性に躓いたとしても、その一人二人なんか無視してしまって、他の人と関係性をまた作り直せばいいという可能性があると思うですけど。いよいよ少子化で、関係性を結ぶ他者が少なくなったときに、そこで人間関係において病が生じやすいと言えるんでしょうかね。

■ この環境から、逃走のすすめ

花田
:だけどね、この国、人口1億人ちょっといるんだよ。もっと小さい国、一杯あるじゃん。

中村:そうですね、あんまり少子化は関係ない?

花田:この関係性の病って、伝染性だと思う。伝染しちゃう。この病気になっている人を見ると、自分も罹っちゃう。

佐藤:精神病の統合失調症で言われていることだけど、親が統合失調症を発症していて、子供は病に罹ってない普通の子供なんだけど、病の親と一緒に生活していると統合失調症が感染しちゃう、で病だかどうだか分からない様になる。

花田:それと似ているね。

佐藤:それで統合失調症を発症している親と離して暮すようにすると、感染していたかのような子供たちは元に戻って普通の精神活動に戻ってしまう。それは知っているし、語られている。ということは大人が関係性の病に患っていて、子供が感染しちゃっているのか?も知れない。だから一度、日本を離れて暮らしてみると精神が人間性を回復する可能性があるということです。若者は毎年、数か月など出入りするようにして、外国でも暮らすのがいいんじゃない。

中村:いよいよですね。

花田:そう、そう、だから、私は逃走のすすめと言っている。

佐藤:笑)沖縄の離島で暮すよ!と時々言ってましたね。

花田:エスケープ、これ、今の至上のおすすめです。逃げ出す。

佐藤:周りは関係病の菌だらけ!だと思って仕事している。コロナ禍のサリーマンの方と会うたびに、仕事を辞めて逃げ出せばいいのに、と言いそうになります。

花田:だから、坂巻君は上手い。

坂巻:大笑いしている。
坂巻陽平さん健康的に山に入る
絵:WEBより

佐藤:坂巻さんは山に逃走した。

花田:エスケープ・フロム・マスコミ。そういう決断をして、アクションを起こすこと、これが健康なんですよ。だから、彼は自分でも言っていたけど、「僕はマスコミを健康状態で辞めました」と。

佐藤:笑)言っていた、最初のZOOM対面でいきなり言ってましたね。健康的に辞職。
中村:なるほどそういうことか。
花田:病気になって辞める人は案外いるわけだけど、坂巻さんはいいね。
中村:いいですね、健康のとき辞めるっていいですね。

佐藤:坂巻さんは健康的に退社した、マスコミを健康的に脱走した(笑)
花田:それは素晴らしい。
坂巻:がはははははと大笑する
佐藤:先生に褒められたよ!

坂巻:初めて褒められました。
佐藤:坂巻さんをZOOMに誘ってよかった。花田先生に純米酒を一升送った方がいいよ。
花田:は、は、は、は。今日もね、このセッションが始まる前に佐藤さんから送ってもらった一升瓶の「廣戸川」という福島の地酒を一合熱燗で呑んで。

佐藤:坂巻さんにも日本酒好きならマスコミ脱走祝いに「廣戸川」一升を送りますか。キンドル本と物々交換がいいね(笑)

坂巻:僕の方からも本を送りますよ。

花田:絶望の中のね、熱燗はいい。これは救いですね。
坂巻:大笑いしている
花田:辛うじて生きてく望みがあるね、この場には(笑)

佐藤:(笑)ZOOMの語り合いの後は、物々交換もする、例えば地酒を交換し合うのもいいかもね。今、面白かったのは就職氷河期、職場が無くって心を病んだね、その次は情報があり過ぎて心が病んでしまっている。でも 大人たちは今夜のようにZOOMで語り合いながら、一升瓶を交換し合って互いが暮す、地域の豊かな産物を交換して、又は坂巻さんのように健康的に逃走したのでお祝いする。で、人は一日のうちで、スマフォ情報から逃走してその時間はどこかに使うか。多地域居住に代わって、多拠点に逃げる時間を少し持つ。そう言えば私はサラリーマン時代はサボってプロ野球観戦したり、映画見たり、働く職場から脱走したような気がしてきました(笑)。心の健康を保つためために1日一回、生活から逃走のすすめですね。 経済状況が悪いと思い込んでいるので、若い人の生きづらい要因はまだ増えますよね。


花田:エラボのテーマとして、病からの回復して健康になろうと。

中村そうですね、生きづらいをなんとかしようという処の次のステップに行きたいですね。逃げる手段を持たないと。
花田:私は多くのZ世代は関係の病にあると思っているんだけど。たとえば欅坂46。

佐藤:お!花田先生、欅坂46を聞いてますか。
中村:びっくりした(笑)
花田:センターの平手友梨奈さん、辞めちゃったけど。
中村:今は女優です。

花田:平手さんがいた時代の欅坂46の、例えば「不協和音」。ああいう曲、ああいう歌詞。もちろんあれはヒットメーカーが作っているわけだけれど。AKB46以来の人物がプロデュースしているわけだけれど。ああいう歌詞、ああいう歌を歌う。平手さんだってZ世代じゃない?

中村:そうですね。

花田:そのギャップが私はなかなか理解できない。つまり、欅坂46を支持しているZ世代というのがいるわけでしょう、ファンとかで。じゃ、その人たちって、あの歌詞をどう聞くの? あの歌詞は非常にラディカルですよ。

中村:そうですね。
花田:歌詞をよく読んでみると。あんな歌詞がよくマスメディアで載るなーと。あの歌詞は、読み方によっては革命を扇動しているよ。
中村:確かに。
花田:戦前なら特高警察に捕まるよね。あれが今はマスメディアで流されているわけよね。いや、少し前まで流されていた。私はそのギャップが理解できない。あの歌詞の受け手の人たちってさ、どういうつもりであの曲を聞いているんだろうなーと。

中村:Z世代の感想はわかりませんけれど、枝野さんは物凄い元気をもらったという話をしていましたけど。安保法制の後です。立憲を立ち上げたときに欅坂46の不協和音という曲に物凄く元気をもらったと言っていて。そういう人が立憲民主党を立ち上げて、この曲をラディカルな歌詞を聞いて自分のエネルギーにしたっていうなら分るんですけど。確かに若い人が聞くと。

花田: 若い人では、私が知っている限りでは、例えば香港で民主化運動をしている周庭(アグネス・チョウ)さん。私は周さんのTwitterをフォローしているんですけれど、捕まった留置所の中で自分を支えていたのは欅坂46の「不協和音」だった、と。同じ世代の周庭さんはあの欅坂46の歌を聞きながら、香港で中国共産党と闘っているわけよね。


中村:革命を起こそうとしたわけですよね。

花田:周さんは24歳だけど、彼女と同じ世代であの歌を聞いてアクションに結びつけようとする人たちは日本にいるのかなー。あるいは聞いただけで終わりなのかなー。

中村:聞いて何らかの破壊力というか、エネルギーをもらった人たちは多いと思うんですね。それであれだけのヒット曲としてJポップの中で語られているわけなので。
花田:ただ消費しただけじゃないの?

中村:行動に移すか移さないかところとか、自分の中に取り入れてその後どうしたかという話をされると、本当に消費をされて終ったと言い方が正しい気がしています。


■花田達朗さん推し曲 Do You Hear the Hong Kong People Sing? 問誰未發聲  
日本記者クラブ動画
アグネス・チョウ(周庭)香港デモシストメンバー 会見 2019.6.10

花田
:それが今の日本のカルチャーですよ。消費カルチャー。アクションに結びつかない。消費するだけで非常に満足しちゃう。楽しくって。どんな凡庸な歌も消費し、よくよく見ればラディカルな歌も消費し、何でも消費していっちゃって。それで何事も起きない。

佐藤:鈍感になって、だんだん感情が劣化しだめになっている。
中村:どんどん悪くなっている、そういうカルチャー。
佐藤:加速主義者は喜び冷笑しているように、感情が劣化して社会の様子は悪くなりまたよね。

花田:私なんか、2018年に大学を去って本当によかったと思う。

佐藤:おめでとうございます!顔色がよくなりましたよ。以前のストレスが消えた感じですよ。
花田:若い人たちを教育したいという、情熱も可能性ももう信じられない。

坂巻:ははははは
中村:ああ、そんなに。
佐藤:長年見てきてるから、花田先生の気分は分かる。
坂巻:絶望してますね。
中村:そうなんですか。

花田:はっきり言って、教育できた、私に教育できた時代というのはとっくに終っていた。坂巻君の頃で終わっていたのかな。

佐藤:身軽になってよかったです。ご苦労様でした。

坂巻:学生の時に、大学1年生の時から、花田先生の授業で、たぶん語り口、批判的な語り口というのが、心地よかったというか。それで関心を抱いてゼミを2年入れてもらった。で、花田先生の授業というのは、どうしても頭でっかち、学術的なんで、僕も新聞社に入った時に、花田先生のゼミもちゃんと出ていなかったですけど、それなりに頭でっかちな感じで挑んで、そこで一回潰されるわけです。どうしても、そこで、現実の新聞社としての、会社員としての立ち位置とジャーナリズムの理想を求める、気持ち、そのせめぎ合いで、バランスを上手く取っていかなければならないのが会社員なですよね。
僕は花田先生の授業を受けていなかったら、絶対高知新聞社にも入っていなかったし、今のような選択もしていない。ので、全てが駄目だったというわけではない。で、そこまで悲観することはない。
中村さんも今日は花田先生の話をいろいろ聞いて、悲観的な気持ちも分かるですけども、それだけじゃないし。記事を読んで。取材というのは相手が居て、相手にどうやって話を聞くかと工夫して、話てくれた時、話を聞いた時というのが一番ドキドキする。それでなおかつ記事を書いて、その記事に対して、読者も共感してくれたりしたら嬉しいし、逆に批判的な意見だって、それはそれで嬉しいというか、そういう見方もあるかと、自分の視野を広げてくれるし、その繰り返しであって、そんなに悲観することもないのか、と。

ただ記事によって読者なり、動いたりアクションを起こすかと言ったら、そこまで期待はしない。その方がいいのかなーという、その期待も持ってやっていくしかないですけど。

佐藤:今日はエラボの中村さんと探査の花田先生を引き合わせることになりました。坂巻さんの感想とは違うんですけど。私は中村さんが悲観的に受け止めているとは全く思っていません。理由は花田先生にエラボに対する指摘、批評、問い、探査で得た体験、あるいは長い研究生活で得た知見で、照らし出して、花田先生からエールが送られているわけです。それを悲観的に受け取る必要はないので、認識が深まればいい。
あとは、中村さんがエラボに関わって考えてもみなかったこと、それを花田先生に指摘して新しい、今日の考えに至れば、中村さんの人生のチャンスが広がっていると、自画自賛的に聞いているです。
中村さんは自分たちがエラボでやっている、可能性が無いなーと思ったわけではないでしょう。自分たちが気付いていなかったことが一杯手に入れることが出来てよかったしゃないですか。

中村:はい、一杯ありましたし、

佐藤:花田先生が若い人たちに期待するように、特に女性のかた、若い人たちが行動して面白い社会に作り替えていく人が現れたんだなーと、思ってもらったらいい。だけど、まだ始まったばかりだから、結果が出るまでは至ってない。多いに期待しようとしますが、もしエラボの話を聞いて、悲観的になったとしたら、また福島の地酒を一升おくりますから、熱燗で一杯やりましょう。

中村:ちょっと違う話かもしれないですけど、メディアの可能性の一つとして、今日話をいただいたような、共鳴板が現れているのかどうか、そういう問いですとか。社会的インパクトを持っているのか。

佐藤:再度確認しますけれど、エラボも探査も、無料ウエブメディアで、その乗り物は紙より優れている、それは共有できたと思うんです。花田先生もそう思っていらっしゃいますよね。
花田:一長一短じゃないですかね。

佐藤:たとえば短の方は情報が使え回されて過多に見えてしまう、偏ったりしてしまって、本来の事実を見失いやすくなっている、正しい必要な情報に辿り着けないという話ですか?

花田:つまりメディアとしての構造が全然違うので、メディアを通じた経験の質が違う。紙媒体を通じて生まれる経験とそこに出来上がる認識、それからネットメディアでの経験とそこで出来上がる頭の中の認識、これ、別次元みたいに全然違うと思うんですよ。

佐藤:それはネットメディアには編集者が居ないということですか?


花田:それよりも読者の側の問題。受け手として本を読む、新聞を読む。読むという行為。そして脳の働き。身体の経験。読むというのは、トータルに身体全部を使って読んでいるわけです。

SNSも同じなんですね。身体も脳も手も肌も全部使ってやっている経験ですね。だけど、本とスマフォでは全く物質的に違う物なので、経験の質が全く違ってくるんですよ。
ということは、認識の仕方も違っているし、これも比較しようがないぐらい違う。共通分母が無いぐらい違うと思うんです。
こちらの読書経験には読書経験の質というものとか構造とかがあって、そこには独特の良さがある。おそらく独特の弱点もあるかも知れない。同じことはスマフォのSNSにも言えるわけで、独特の良さと独特の弱点がある。両者は異質なものだ。
ただしどちらもテクノロジーだから、浸透能力の強い方が弱い方を淘汰していくわけですよね。現在、SNSスマフォの方が浸透能力が高いから、本や新聞紙は徐々に駆逐されていくわけです。良貨が悪貨を駆逐するように、あるいは悪貨が良貨を駆逐するように。悪かろうが良かろうが、テクノロジーで浸透圧力が強い方が生き残っていく。このことは、佐藤さんのようにね、貨幣経済以前に戻ろうなんて話しではないからね、変えようがない話なんですよ。

坂巻:浸透圧力が強い、高いテクノロジーをただ受け入れていたら間違った情報が入ってくるので、さっきから佐藤さんも仰っているように、読み取る、読む側の能力が、こんなことは昔から10年前から言われている話ですけどね、受けて側がどの情報を選択して信頼するかというのを培っていく。

花田:それは坂巻さんが言うように、10年前、20年前ぐらいからね、メディアリテラシーという言葉で、そういうふうに名前を付けて、命名して、メディアとの付き合い方を、さらにはメディアと批判的に付き合うやり方とかを、教育の中に投入しましょうと、そういう掛け声はいろいろあった。やがてそういう批判的なクリティカルなアプローチは政府側によって情報リテラシー教育によって乗っ取られちゃって、結局学校で残っているのは情報教育ですよ。
情報教育という科目もある。あれは別にメディアリテラシー教育じゃない。メディアリテラシーというのはメディアをクリティカルに読み解く。メディアに騙されないように、そういう教育をしようという批判的なアプローチだった。神奈川のテレビと市民の会とか、市民運動がやろうとした。これはよくある事なんだけれど、そういう芽が危険だと思う時、権力側が直ぐスポイルするわけです。ダメにする。
どういうやり方でダメにするかと言うと、言葉を換骨奪胎していく。言葉の闘争ですから、メディアリテラシーという代わりに情報リテラシーという言葉を投入して、それで学校に実際に導入されるのは情報教育。で、今に至っている。結局メディアリテラシーは雲散霧消してしまう。
敗北の歴史なんですよ。

中村:エラボの展開ですが。
佐藤:夜更けてきまいたけれど家に帰れますか?
中村:大丈夫です。
佐藤:家に帰れるならいいけど、俺たちはそれぞれ家からZOOMだ、明日の朝まで語り合っていても問題ないけど。
中村ぜんぜん大丈夫です、帰れます。それにしてもコロナ禍でなかなか人と会うことがないですよね、それで私、人とのコミュニケーション仕方を忘れてしまったというか。最近本当に話していても質問の答えになっていないとよく言われます。会話能力が物凄い落ちてしまったかもしれない。

佐藤:今日は語り合いで高まったかな〜?
中村:久しぶりに喋った。話ました。

佐藤:それはよかったです。事前のワイワイでも1時間ぐらい話したよね。
中村:そうでしたね、うんうん。
佐藤;喋りに飢えてますね(笑)俺は、コロナだ!ZOOMで語ろうと、しているよ。花田先生も巻き込んじゃっているけど。坂巻さんも巻き込まれちゃったけど。




中村:最後にエラボの展望話していいですか 

その5へつづく 
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その5へつづく  4:29:18