2004年9月18日建築家堀井義博さんと建築あそび講演記録 HOME
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★★ 1999年 伽藍とバーザール ☆☆

1999年に もっと大変なことがあって、こういう書物論文が発表されました。
伽藍とバザール

佐藤 読んだことある

h:ある コレは大変有名ですよ
     
佐藤 ネットで・・

h:そうそう ネットでね・・たぶん僕と同世代のプログラマーのエリック・レノンというリナックスの世界で 当時フリー ソフト ウエーアでプログラマーをやっていた男が発表した論文です。いまでもネット上にあります・・1999年7月30日版が初版だから、

山形浩生というオッサンがオープンソース ソフト ウエアーとう世界のそういう連中の運動に荷担して 彼はお金も出しているし、英語も日本語も流ちょうに出来る人なので、こういう人達が出す論文で重要なものは 彼が・・今は色んな人が翻訳しているが・・当時は彼が片っ端から翻訳しては、インターネット上のここで 公開しています。

このページは何度か改訂されてはいるけど、当時から有るページです。この意味深な題名なんですけど・・これが何を意味しているかというと、文字通りなんですが・・

         ☆☆ 伽藍とバザール とは・・ ☆☆
          

伽藍とバザールの対比なんです。

直接的には「これ(伽藍)」は中央集権的で一枚岩的なマイクロソフトを意味している。もしくはアップルコンピュータと言ってもいいけど、あらゆる細部が ある全体性の一部になっている世界。ピラミッド的な世界のこと。堅牢で大きくて、巨大で権威主義的でそういうようなものを伽藍と一言で喩えている。

それに対してレジスタンスの連中・・要は大学の研究室にいる お宅のプログラマー・・そういう連中の細かいアクティビテーの集まりを「バザール」と言っていわけです。ここには全体構造というものは無い。その代わり個々に勇敢で頻繁でアクティブな活動が寄せ集まって居る。そいう世界がある。

「伽藍とバザール」が言おうとしたことは 全然 建築の話しでもなんでもなくて、読めばわかりますけど・・グーグル(検索用サイト)伽藍とバザールの、このキーワードを放り込めば、このページが出てきますからすぐ分かります。
 
この論文を読めばこの論文は全然 建築の話では無いことはすぐ分かります。コンピュータのプログラミングが今後どうあるべきかという話なんです。

それは喩えとして、デス・スターね・・スタウォーズのデスターね。巨大で権威主義的で高圧的で排他主義的で一枚岩的な・・そういう旧来のピラミッド的な構造をもった組織でプログラムを作るのか・

それとも世界中に散らばっている色んな才能を持った連中がワーッと寄せ集まって、みんなソレゾレにバラバラにやりながら、お互いに 良いところ取りして、みんなでワーッとやっている、その状態のことをやるのか・・

「どっちの開発形態がいいのか」ということを書いているのがこの論文。

だから建築とは何も関係が無い。そうなんだけど、僕らは建築屋さん・・全員じゃないけど、いまここに居る たいていの人が建築関係者という前提で、「注目して良いなー」と思うのは今写真に見るとおり、ここ(タイトルを指し)に建築的な比喩が使われていることを見逃してはいけないと思う。

1999年の段階で発表された・・、これは技術書じゃないです。だから技術について知らない人でも一応読めます・・この論文は・・文化評論みたいなものですね。それがたまたま軸足を たまたまコンピューターのプログラミングの現場に置いてあるだけでのことであって・・その種の用語が一杯出てくるけど・・一枚岩的で排他的で権威主義的ピラミッド的なそういう社会が今後も必要なのか? それとも個々のアクティビテーをランダムつなぎ合わせるような、バザールような社会形態が理想なのか? というようなことを問うた ような文章だと僕には読めます。

当然直接的には「マイクロソフト対お宅の反乱集団 」ですそれはそうです。

会場 笑い

それはそうです・・そうなんだけど、プラス 僕にとって重要だったのはメタファーとして建築的な言葉が使われていることが 個人的には 一寸ショックでしたねー

伽藍とは何か バザールとは何か とは一言も書いていない。僕が1988年に大学生の頃に読んだ「隠喩としての建築」という柄谷行人(カラタニ・コウジン)の本(ここ)がありますけど。あれにほぼ匹敵するほどですね。隠喩として建築を使っているわけです。・・考え方についての考え方・・

松田 内容的にはコンピュータの話

h:コンピュータの話ですよ。開発形態としてどうい状態が望ましいか・・具体的に突っ込 ポイントは 例 えばこうです・・一枚岩的な このやり方だと・・・この大伽藍のここにバグがあったときに、ここから順に壊して行くしかない、そうやってそこに辿り着くしかこのパーツを交換出来ない。ここだけスコント抜き取るわけに行かないんだから


この(バザール配列)やり方だったらこいつをだた交換すればいい

マイクロソフトの場合・・最近 大分神経質になっているけど・・システム自体に重要な 致命的なバグが有った時に、この人達は「常に隠す」んですよ。自分たちのネガティブなことは・・これはマイクロソフトだけじゃなくて 自民党がそうでしょう、ジャイアンツがそうでしょう、プロ野球機構がそうでしょう、民主党も同じですよね〜。ソビエト共産党も同じだ。

組織が大きくて一枚岩的に成ればなるほど、そう成って行くんです。マイクロソフトが無能だとか そういいう事じゃなくて、組織とはそいうもんだという話。

それに対して「今日は こっちで行けるジャン」と。要は言っているわけです。だから「組織を解体せよ」という話でもない。これも「一つ一つが組織でいい」。ただし「組織は2人だったり3人だったりする」わけです。

あれですは・・要はリゾームですよ。一言で言えば。80年代に流行った別の文脈における 言い方だと ツリーじゃなくてリゾームという言い方があったと思うんですよ。

それをコンピュータカルチャーの中で翻案した言い方が「伽藍とバザール」。

建築関係者は「ツリーとリゾーム」木と草根構造 根っこ構造。自然のメタファーを使った精神医学とか現代思想の言い方に 大夢中になったけど、その後でコンピュータの人達は建築のメタファーを使って大夢中になった。

これなかなか面白い皮肉ですよね。最先端の人達が建築という一番 ボロイ・テクノロジーを使っている・・


1999年の段階でコレ(伽藍とバザール)を読んだのは 僕にとって大ショックで、さっきからの一連の流で言うと、自分が持っている知識とか作った物とか 必ずしも全てが自分が作った物ではない。それは何処からか既にアイディア的にもリ・ソース・・・部品は勿論のこと・・知識もそうだし テクニックもそうだし、そういうモノの使い回しの上で自分が再び組み立ているに過ぎない・・そう思ったらそれは作品か・・という話なんですよ。それは作品か・・。

この人達の主張が面白かったのは、例えば コレを作ったのは 我が家の嫁だとしよう。そのプログラムは僕がダウンロードしてきて、「ここ間違っているじゃん」と書き直してもいい・・オープンソースの話で言うと・・書き直したヤツを「俺はここを書き直した」とタダで送り返す。 彼女は「今度はどう」・・「それはダサイし趣味に合わないから」 「俺はよく分かんないから 見てよ」「いや堀井さんね彼女はこういって居るんですよ」と書き直して 松田達の名前を書いて 出していいんですよ・・。

そいう一連の流が持続的な対話で成り立った 社会的な関係事態が一つ作品なんですよね。

さっき 松田達が一生懸命 物としての建築を作るのと、モノとか事とか言ったのは・・「建築を作るのと都市を作るのは違う」というのと かなり関係するんだ と思うけど・・この例に出したアクティビテーはあくまでコンピュータのプログラムの話だから、たぶんコレは都市なんですよ。こういう一連のアクティビテーは・・。

私はこうする、その悪い所は あなたが変える。悪い部分も良い部分も 誰にでも公開されていて、それは誰にでも所有できるし、同時にそれは誰の物でもない。誰にでも権利が有って。

たぶんそういう事なんだと思う。「プログラムというのは」彼らの思想がはっきりさせたことは「公共の所有物だ」と言い出した事なんです。

都市のこの部分を作ったのは俺だと言える。だってこのビルを造ったのは俺だと言えるじゃないですか・でも都市の全体は作っていない。その隣にもっとインパクトの「ある町の雰囲気を変えるデザインやっのは堀井さんじゃなくて僕ですよ」と自慢するのは・・その一個の作品に・・その部分についてはいい。でも都市は 僕が作ったわけでも松田が作ったモノでもない。その全体の構造を可能にするのが都市なんです

そこがさっきの・・さっき(講演前の松田さんの講演内容)松田が上げた 9角形の自己完結した都市があるじゃない・・
あれはまさにこれ(伽藍型思考)なんですよ・・あれは何処を取ってもダメで、そういう意味でいうと、「あんだけ美しく出来たな〜」と思うけど・・

これ(伽藍とバザール 論文)を 直接建築に置き換えてもそう上手く行くとは俺は思わないけど

佐藤 それはそうだ・・笑う

h:この一連の議論が喚起することを 俺たちには一考に値すると 俺は凄く思う・・

・・で 思わずフライングで出しちゃったんだけど・・若い時分の堀井写真を出してし まい照れる堀井・・


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